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『沈黙の声に聴く』(列王記上 19:1〜12)

2018.08.06(21:15) 377

『沈黙の声に聴く』
(2018/8/5)
列王記上 19章 1~12節

預言者の問いに答えられない
 エリヤは、イスラエル民族の王国が南北に分裂していた時代、紀元前570年から550年頃、北側の北イスラエル王国において活動しました。今日の箇所の前の部分、列王記上の18章には、預言者エリヤとバアル神との預言者の対決の場面が記されています。首都サマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国全体のヤハウェ神への不信仰、異教崇拝によるものとして糾弾します。
 それにより、バアルの預言者たちとエリヤは、カルメル山において対決することになり、そのいきさつが今日の箇所の直前の18章に収められています。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、2つの神、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 最終的に、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより火はつき、バアルの預言者たちを皆殺しにした、というお話です。で、こんな「正義が勝つ」といった「勧善懲悪」なお話だけでしたら、神の力が証明されたお話として、あんまり面白くありません。しかし、ここにとても興味深いやり取りがひとつ含まれているのです。列王記上18章21節をお読みします。(P.563)
「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、違うでしょう。これは私の想像にすぎないかもしれませんが、彼らは、イスラエルの神とバアルの神が異なるということが理解出来なかったのでは無いでしょうか。おそらく宗教と宗教が混ざってしまっていた状態、宗教混こう状態であった。そうした状況において、「どちらかの神を選べ」ということが理解できなかったのでは無いでしょうか。

エリヤという預言者とその時代
 この時代の王アハブは、イスラエル国において、イスラエルの神と共に、異民族の神も信仰することを勧めました。そしてそれには、政治的背景、そしてアハブの王妃であったイゼベルの影響がありました。王妃イゼベルは、もともとフェニキアのティルスの王の娘であり、人の歴史の中でよくあることですが、王家同士の結婚は他国との政治的安定のために行われていました。そして同時に、それぞれの国や民族で信じられている神同士の結婚として捉えられることもありました。おそらく当時のイスラエルの人たちは、イスラエルの神ヤハウェもフェニキアの神バアルも自らの神と捉えていたのでしょう。ですから、先ほどのエリヤの問い、「もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」という質問に答えられなかったのでしょう。
 預言者エリヤが求めたのは、あくまでヤハウェ神のみ、主なる神のみへの信仰です。しかし当時のイスラエルの状況においては、そうした姿勢を理解できる状況も人もいなかった。誰も彼もヤハウェとバアルを信仰していた状況でありました。そして同時に、隣国との関係の安定にも繋がったでしょう。お互いの神、そして自らの神を近い関係として重んじる、信仰する、また文化などを重要視し、さらに信仰するというあり方、あり得る話では無いでしょうか。
 また、こんなことも言えるかもしれません。バアルは豊穣の神、確かに秋の恵みがなければ、食料がなければ生きていくことはできません。作物が豊かにとれることは誰もが当たり前に求めることです。雨季と乾季を繰り返すパレスチナ(レヴァント)において、雷は雨期の到来をもたらす神として信仰されていた、ということもヤハウェ神とバアル神の結びつきを示すことと捉えることも出来るのです。イスラエルの神には雷と雨を求め、バアル神には、実りを求め、穀物や果実などの豊作を求め、また子宝を求め、祭っていた。
 しかしエリヤがやってきて、バアルには祈るな、と批判する。エリヤがこの場にいて、明日からそんな祈りはダメだ、間違っている、と言われたらどうでしょうか。それは違う神への祈りだ、主なる神への祈りとしてふさわしくない、と言われたらどうでしょうか。エリヤの行動にはおそらく、そんなぐらいの過激さがあったのではないでしょうか。

静かにささやく声
 今日の箇所、列王記19章1節から12節は、エリヤは、王による迫害や民の無理解の中で、逃亡生活に陥っている状況を記しています。エリヤ自身、今日お読みした箇所は、逃げることに疲れ切って、神の山と呼ばれるホレブでの出来事を描いています。最後の箇所、列王記上19章11節12節をお読みします。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 主なる神がエリヤの前に現れた場面、顕現した場面です。しかし神は「山や岩を裂くような風、地震、火」の中にはいませんでした。これは私たちが神に求めるであろう現象の中、また一般に人を超えた存在としての神を感じるであろう力の中に、神はいなかったということを示しています。しかし、その後に訪れた「静かにささやく声」に、神が現れたのです。
 実は、この言葉、翻訳がとても難しい言葉なのです。ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、「沈黙の声」、英語では「Sound of Silence」となります。言葉として矛盾しています。新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。この箇所に続いて神の言葉が続くので、「沈黙の声」と訳せなかったのでしょう。また、ギリシャ語訳の旧約聖書(七十人訳LXX)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

全く希望が無い状況の中で
 今日は、日本基督教団において、「平和聖日」とされています。今年の終戦記念日は、戦後74年となります。終戦の年に生まれた方であったとしても73歳、戦争の記憶を持つ人はどんどん減っていきます。同時に日本国内の政治的状況においても、容易く戦争状態に入ってしまうような危うさを抱えています。また既に、違う角度から見れば、戦争状態である、また専守防衛が原則の自衛隊であっても、そうした原則を逸脱した状態に陥っているとも言えます。
 そしてそれには、様々な事情がある他国との関係、国際社会における立場など、様々な意見が出てきます。またそれは政治的な話だけでは無く、個人間、私たちの日常生活において空気のように伝わってきます。そうした状況の中において、平和への言説について語ることに困難さを覚えるような状況、誰も賛同してくれないような状況、また更にその平和を訴えることによって、自らの生命さえ脅かされるような状況があったとしたら、どうでしょうか。また、同じように主なる神への信仰が迫害される状況が合ったとしたら、どうでしょうか。自らの信ずるところの神への信仰を訴えることによって、また預言者として主の言葉を語ることによって、命の危機があるとしたら。逮捕されて、拷問でも受けざるを得ない状況が合ったとしたら…。しかし、神の言葉を語らざるを得ない。エリヤが陥っていたのは、このような状況でありました。

沈黙の声に聴く
 エリヤは、この箇所において、神の声を聴いたことによって、再び力強く神の預言者として歩み出しました。この「沈黙の声」を聞いた後、この箇所に続いて、聖書には、エリヤが神により具体的な導きを得たことを記しています。ということは、「沈黙の声を聞いた」ということなど記されなくても良いはずです。しかしエリヤにはとても重要な決断に至る何かがあったのでしょう。11節には、神の力がこの世における人知を超えた力に喩えられながれも、すべて否定される記述があります。神の力とは、山を裂くような、岩を砕くような風でもなく、地震でもなく、火でもない、と。では、沈黙の声とは何だったのでしょうか。
 エリヤは、後になって、いろいろな人に、この瞬間のことを聞かれたのではないかなあ、と思うのです。「なぜ、そのような極限状態でも預言者としての活動を続けられたのですか」「なぜ、絶望しなかったのですか」「逃げ出さなかったのですか」など、と。エリヤは答えに困ったのでは無いでしょうか。そうした状況の中において、何の説明できるような何かが無い中であったとして、実感として何かを得たのでは無いでしょうか。神の存在、主なる神の存在が共にあることを、はっきりと説明できない形で、人が持つ、聴覚とか、視覚とか、触覚とか、味覚とか、嗅覚とかいった五感においても、説明できないような形で、神さまが共にいてくださる、ということ、またこれからの道しるべ、何をなすべきかということを受け取ったのではないでしょうか。それがこのような表現「沈黙の声」になったのではないか、と感じます。

共にいる主なる神
 信仰の道において、何かの決断に至るとき、また心の動きに関して、言葉にならない瞬間、というもの、決定的な瞬間というものがあるでしょう。例えば、決定的な時という意味で言えば、ペトロがイエスを知らないと3度言ったときに、ペトロが聞いた鶏鳴、ニワトリの鳴き声。ペトロがあの鳴き声を聞かなかったとしたら、またあの瞬間、ニワトリが鳴かなかったとしたら。また、さらに聞いたとしても、その鳴き声にイエスの言葉を思い出さなかったとしたら、キリスト教の歴史が変わっていたどころか、始まってもいなかったかもしれません。
 私たちが、平和について語る瞬間、何か行動を起こす瞬間、未来から振り返って決定的な瞬間、決定的な割れ目を経験するときがあるかもしれません。その後の自らの歩み、また民族や国家の歩みの決定的な瞬間、決定的な分岐点に立つことがあるかもしれません。そのような時、何が判断を分けるのか、預言者エリヤが置かれたような極限状態かもしれません。また何事もない日常のある瞬間かもしれません。そのような時、主なる神の「沈黙の声」を聞くことが出来る自分でいることが重要なのでは無いでしょうか。


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『沈黙の声に聴く』(列王記上19:1-12)

2016.12.11(20:13) 332

『沈黙の声に聴く』
(2016/12/11)
列王記上 19章 1~12節

エリヤの問い
 エリヤは、イスラエル民族の王国が南北に分裂していた時代、紀元前570年から550年頃、北側の北イスラエル王国において活動しました。今日の箇所の前の部分、列王記上の18章には、預言者エリヤとバアル神との預言者の対決の場面が記されています。首都サマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国全体のヤハウェ神への不信仰、異教崇拝によるものとして糾弾します。
 それにより、バアルの預言者たちとエリヤは、カルメル山において対決することになります。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、2つの神、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 最終的に、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより火はつき、バアルの預言者たちを皆殺しにした、というお話です。で、こんな「正義が勝つ」といった「勧善懲悪」なお話だけでしたら、神の力が証明されたお話として、あんまり面白くありません。しかし、ここにとても興味深いやり取りがひとつ含まれているのです。列王記上18章21節をお読みします。
「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、とか。いろいろ考えてみましたが、わたしなりにたどり着いたのは、民衆はエリヤの質問の意味が分からなかったのではないか、ということです。

エリヤという預言者
 エリヤという預言者。新約聖書においては、イエス・キリスト自らの言葉を通して、バプテスマのヨハネこそ再臨したエリヤである、と語られる預言者であります。新約聖書、マタイによる福音書11章13節から14節にはこのようにあります。(P.20)
「11:13−14 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」
 イエス・キリストがこの世に誕生する準備を果たすため、「道を準備する」(Mt11:10/Ml3:23)ためにヨハネが現れ、そのヨハネはエリヤの再臨である、とあります。エリヤもヨハネも確かな預言者でありながらも、不幸な歩み、困難な歩みを歩んだ預言者であるという点で共通しています。エリヤは活動期に自らの国、民族の王から命を狙われる状況の中で、身を隠しながら預言者としての活動を行いました。その時代の王アハブは、イスラエルの神と共に、異民族の神も信仰し、イスラエルの民にも勧めました。そして、それには、アハブの王妃であったイゼベルの影響がありました。王妃イゼベルは、もともとフェニキアのティルスの王の娘であり、王家同士の結婚は、同時に神同士の結婚、お互いの神が同一視されること、夫婦神として捉える道を開きました。当時のユダヤ人たちは、イスラエルの神ヤハウェもフェミニアの神バアルも自らの神と捉えていたのでしょう。そしてエリヤを迫害した王アハブは、列王記においてもっとも低い評価をされている王でありました。列王記上21章25節26節にはこのように記されています(P.571)。
「21:25-26 アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。」

唯一神信仰の強さと弱さ
 冒頭に、バアルの預言者たちとエリヤの対決の場面、またその場面におけるエリヤの問いに触れました。なぜ、彼等は答えられなかったのでしょうか。おそらく答えられなかったのは、主(ヤハウェの神)とバアル神が、まったく一体化していた宗教的状況の中で、「主なる神か、バアルか」という問いの意味が理解されなかった、というのが原因と考えられます。預言者エリヤが求めたのは、あくまでヤハウェ神のみ、主なる神のみへの信仰です。しかし当時のイスラエルの状況においては、そうした姿勢を理解できる状況も人もいなかった。誰も彼もヤハウェとバアルを信仰していた状況であった。パンとスープを一緒に食べるのが当たり前かのように、ご飯と味噌汁を食べることが当たり前のように、パンとスープのどちらかを選べ、ご飯と味噌汁のどちらかを選べ、というのは、おかしな質問としか受け取られなかったのではないでしょうか。
 また、こんなことも言えるかもしれません。バアルは豊穣の神、確かに秋の恵みがなければ、食料がなければ生きていくことはできません。作物が豊かにとれることは誰もが当たり前に求めることです。雨季と乾季を繰り返すパレスチナ(レヴァント)において、雷は雨期の到来をもたらす神として信仰されていた、ということもヤハウェ神とバアル神の結びつきを示すことと捉えることも出来るのです。イスラエルの神には雷と雨を求め、バアル神には、実りを求め、穀物や果実などの豊作を求め、祈り、祭っていた。
 しかしエリヤがやってきて、バアルには祈るな、と批判する。時代が変わったとしても、私たちも主なる神に対して、健康や平和を求め、また生活の安定や豊かさを祈ります。バアル神への祈りは、そうした祈りと捉え方、価値観によっては、あまり違いが無いと言えるかもしれません。エリヤがこの場にいて、明日からそんな祈りはダメだ、間違っている、と言われたらどうでしょうか。それは違う神への祈りだ、主なる神への祈りとしてふさわしくない、と言われたらどうでしょうか。エリヤの行動にはおそらく、そんなぐらいの衝撃があったとのではないでしょうか。

静かにささやく声
 今日の箇所、列王記19章1節から12節は、エリヤは、王による迫害や民の無理解の中で、逃亡生活に陥っている状況を記しています。エリヤ自身、今日お読みした箇所は、逃げることに疲れ切って、神の山と呼ばれるホレブでの出来事を描いています。最後の箇所、列王記上19章11節12節をお読みします。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 主なる神がエリヤの前に現れた場面、顕現した場面です。しかし神は「山や岩を裂くような風、地震、火」の中にはいませんでした。これは私たちが神に求めるであろう現象の中、また一般に人を超えた存在としての神を感じるであろう力の中に、神はいなかったということを示しています。しかし、その後に訪れた「静かにささやく声」に、神が現れたのです。
 実は、この言葉、翻訳がとても難しい言葉なのです。ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、「沈黙の声」、英語では「Sound of Silence」となります。言葉として矛盾しています。新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。この箇所に続いて神の言葉が続くので、「沈黙の声」と訳せなかったのでしょう。また、ギリシャ語訳の旧約聖書(セプチェアギンタ)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、カトリック教会が最近だした校訂口語訳では「かすかにささやく声」、フランス語の聖書では「さざめきのようなかすかな音」となっているようです。そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

神の意志とは?
 神の意志とはどのような形で現れるのでしょうか?エリヤが受けた迫害状況はあらゆる形で神の存在を否定しようとする動きにも繋がっていたでしょう。遠藤周作が記した有名な『沈黙』という作品があります。つい最近、映画化され、日本では来年1月に封切られるということで、(恥ずかしながら)初めて読んでみました。江戸時代の長崎、切支丹禁制、キリスト教が迫害されていた時代、オランダから来た二人のポルトガル人宣教師の物語です。その中にこのような一節があります。

「その時、私は、ふとガルペと山にかくれていた頃、時として夜、耳にした海鳴りの音を心に甦らせました。闇のなかで聞こえたあの暗い太鼓のような波の音。一晩中、意味もなく打ち寄せては引き、引いては打ち寄せたあの音。
その海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼等の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。
 そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。
(しかし、万一…もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば…)
 これは恐ろしい想像でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったのか。多くの海をわたり、三カ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な行為を行っているのか。」(『沈黙』 P.85)

 命からがら、日本へやってきた二人の宣教師、その一人ロドリゴが江戸幕府の役人の手から逃れて、山中をさまよっている時の記述です。困難な状況の中で、ロドリゴは祈り続けていました。しかし神は沈黙している。その沈黙は、神の存在さえも疑ってしまう思いをも生みだしてしまう。この宣教師が陥った状況は、今日の箇所のエリヤの思いにも重なるのでは無いか、と思うのです。宗教や文化が多様な状況とは、様々な神が一緒に併存しているというだけではなく、一方の神、一部の神が否定される状況。ロドリゴと同じように、エリヤも、そんな極限状態の中で、神の存在、神の力を求めていました。そして、そんな苦しい状態の果てに、神の声を聴いたのです。

沈黙の声に聴く
 エリヤは、この箇所において、神の声を聴いたことによって、再び力強く神の預言者として歩み出すことが出来ました。しかし、どのような声、言葉だったのでしょうか。わたしは不信仰かもしれませんが、こんな想像をしています。この箇所に続いて、聖書には、エリヤが神により具体的な導きを得たことを記しています。しかし、これは後の時代の書き加えではないか、と思われます。なぜなら、ここまでしっかりとした言葉を語られたのであれば、「沈黙の声を聞いた」とは記されないはずだからです。
 どうでしょうか?自らがエリヤのような体験をしたと想像してみてください。そして時を経て、自らの預言者の歩みを振り返り、弟子たちや他の人たちに自分の経験を語ろうとした時、説明しようとして、みんな興味津々で、いろいろ聴かれるわけです。
「洞窟の中で神さまの言葉を聴いたんですよね。どんな声ですか?」「男性っぽい声ですか、それとも女性のような声?」「やさしい声ですか、怒ったような声ですか」「ヘブライ語でしたか?アラム語でしたか?」「日本語ですか?英語?」…。エリヤは答えに困ったのでは無いでしょうか。
 「沈黙の声」。エリヤは、音とも言えない何か、を受け取ったのではないか、と思うのです。違う言い方をすれば、神の存在、主なる神の存在が共にあることを、はっきりと説明できない形で、人が持つ、聴覚とか、視覚とか、触覚とか、味覚とか、嗅覚とかいった五感においても、説明できないような何かを受け取った。そしてそれは、神さまが共にいてくださる、ということ確信、また、これからの道しるべ、何をなすべきかということをはっきりと受け取ったのではないでしょうか。そして、そんな複雑な思いを込めて、エリヤは、「私は沈黙の声を聞いた」という言葉に繋がり、それが私たちが触れる聖書の記述に残ったのではないでしょうか。
 遠藤周作の「沈黙」の最後に近い場面で、司祭ロドリゴは、役人たちに捕らえられ、ついに踏絵を踏んでしまいます。しかし、その場面において、それまで沈黙し続けていた神なるイエスの声を聞くのです。

「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らか(きよらか)と信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、「踏むがいい」と銅版のあの人は司祭にむかって言った。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」(『沈黙』P.218)

共にいる主なる神
 「沈黙」において、ロドリゴはもっとも神から遠ざけられた瞬間、そして神に反しているという瞬間、これまで強く求め続けても、まったく与えられなかった神の声を聞きました。エリヤにしても、沈黙におけるロドリゴも、完全な孤独の中で、完全な絶望の中で、神の声を聞きました。主なる神は、彼らを「憐れむ」ため。「彼らを裁く」ために現れたのではありませんでした。主なる神、またイエス・キリストは、困難な状況にあった彼ら、苦しみのただ中にあった彼らと共に苦しむため、また、共に歩み出すために現れたのです。
 クリスマスを待つ時期を迎えています。クリスマスは、一年のもっとも暗い時期に祝われます。もっとも一日が短い時に祝われます。なぜこんな時期に祝うのでしょうか?こう考えることは出来ないでしょうか。もっとも一日が短い時期とは、これからは長くなることしかない時期、と考えることができます。共に喜びに向けて歩み出す時期、共に光に向けて歩み出す時期、と考えてみますと、これ以外の時期はないと言えるでしょう。主の誕生を祝うこの時期、あらためて主イエス・キリストが私たちと共にいてくださることを胸に刻んで、歩んでいきたい、と思います。


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『静かにささやく声』列王記上19:1-12

2015.03.16(09:30) 287

『静かにささやく声』
(2015/3/15)
列王記上 19章 1~12節

エリヤという預言者
 エリヤという預言者。新約聖書においては、イエス・キリスト自らの言葉を通して、バプテスマのヨハネこそ再臨したエリヤである、と語られる預言者であります。新約聖書、マタイによる福音書11章13節から14節にはこのようにあります。(P.20)
「11:13−14 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」
神の子イエス。イエス・キリストがこの世に誕生する準備を果たすため、「道を準備する」(Mt11:10/Ml3:23)ために現れたと新約聖書に証しされております。主イエスの前触れとして登場したバプテスマのヨハネ。主イエスはこのヨハネから洗礼を受けています。さらに一時期は、イエスは弟子としてヨハネに使えていたのではないか、と思われているような存在であります。主なる神の救いの象徴、しるしであった洗礼を特別な者だけのものではなく、誰にでも開かれた者として示した人であり、多くの人の尊敬を集めました。しかし、時の権力者によって厭われて、捉えられ、最後には処刑されるという不幸な道を歩みます。
 そして、エリヤも不幸な歩み、困難な歩みを歩んだ預言者でありました。エリヤが活躍した時代の王であったアハブに命を狙われ、隠れながらの預言者としての歩みでした。時のアハブ王は偶像礼拝に、バアル神やアシェラ神を信仰しました。それには、アハブの王妃であったイゼベルの影響があったと捉えられます。アハズの王妃イゼベルという人は、もともとフェニキアのティルス(シドン)の王の娘でありました。異なる国の王家の結婚は、同時に、お互いの神が同一視される道、異なる神と神が同時に崇拝される道を開いた、と言えるでしょう。

偶像崇拝とは?
 エリヤが活躍した時代、ソロモンの死後、イスラエル民族の王国は南北に分裂しており、その北側の北イスラエル王国においてでした。そして、7代目の王となったアハブが王位にいた時代、おおよそ紀元前570年から550年頃でした。北イスラエル王国と南ユダ王国は、もともと同じ国だったのですから、時代によって関係が良かったり悪かったりしたのですが、この時代は、関係がとても良い時代でした。当時アラムという国と北イスラエル王国は、戦争をしていたのですが、南ユダ王国と同盟関係を結んでおり、一緒に戦争をするような状況でありました。また、アハブ王の妻であるイゼベルはフェニキアのティルスの出身です。王家同士での結婚とは基本的に政略結婚ですが、とても良い関係を持っていました。そうした要素を全体的に眺めるとアハブ王は、国際政治的にも内政においても、非常に安定した関係を築いていた、と言えます。
 しかし、宗教的にいった時、非常に低い評価を受けております。列王記を記した人、もしくは集団は、その王が、この世的に成功したかどうかよりも、宗教的に主なる神により正しく従っていたか、で評価を下す人々でした。その評価の中においては、このアハブは、北イスラエルにおいて最も低い評価を与えられた王でありました。その評価に関する記述に触れてみます。列王記上21章25節26節(P.571)
「21:25-26 アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。」
 「その妻イゼベルに、そそのかされた」とあります。しかし、本当にそうでしょうか?アハブは、たしかにバアルを崇拝したでしょう。しかし、それは彼の信仰心の問題ではなく、政治的な駆け引きとして、イスラエルを安定させるための政略として捉えることは出来ないでしょうか。たしかに列王記や歴代誌においては、宗教混交状況を作り出した王として、宗教の乱れを生み出した王として、とても低い評価を受けているアハブですが、北イスラエルは南ユダが、ほぼユダ族単独の王国であったのに対し、内部に多くの民族を抱えていました。また周囲の多くの国々と国境線を接しており、常に戦争の危機も抱えていたと言えます。そうした状況の中において、隣国との政略結婚や隣国の神、宗教の導入は政治判断として行ったことと理解することができます。
 が、そうした彼の姿勢は、宗教的に言えば、宗教混淆(シンクレティズム)、宗教の混合を生み出す要素となります。それは、従来のイスラエルの宗教の中心であったヤハウェに対する唯一神信仰を否定することであります。そうした状況に対して、エリヤなどの預言者たちの反発し、王の側としては、彼らに対する弾圧、迫害を進めることとなります。そして、そうしたエリヤたちヤハウェ側の預言者たちの姿勢は、一般の大衆、人々からも理解が得られていなかったようです。そしてさらに、もしかしたらエリヤの指摘、または怒りが一般の人々や王たち、バアルの預言者たちには伝わっていなかったかもしれない、と思わせる要素があります。

無理解な人々
 列王記に18章に収められております。列王記18章18節19節をお読みします。(P.562)
「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。 18:19 今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」
 北イスラエルの首都であったサマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国の不信仰、異教崇拝によるものとして弾劾し、王妃イゼベルが使わしたバアルの預言者たちとカルメル山において対決することになります。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 結果は、バアルの預言者たちは朝から晩までバアルに祈り、また自らを傷つけたりもしました。これもバアル神への儀式のあり方です。しかし、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより、主なる神の力により火はつけられ、バアルの預言者たちはエリヤによって示された主なる神に従いバアルの預言者たちを殺した、という物語になっております。このお話だけでしたら、神の力が証明されたお話としてだけ、読めばいいと思います。しかし、ここにとても興味深いやり取りが含まれております。
 列王記上18章21節をお読みします。「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、とか。いろいろ考えてみましたが、わたしなりにたどり着いたのは、民衆はエリヤの質問の意味が分からなかったのではないか、ということです。

静かにささやく声
 今日、私が選ばせていただいた箇所は、列王記19章1節から12節です。国家による迫害や民の無理解の中で、エリヤは逃亡生活を継続します。列王記上19章11節12節をお読みしました。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 神がこの世に顕現した場面であります。「山や岩を裂くような風、地震、火」。私たちが神に求めるであろう力、また神を感じるであろう力の中に神はいない。その後に訪れる「静かにささやく声」その中に神がおられる、という記述です。
 しかし、この箇所、とても翻訳が難しい言葉であり、ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、英語では「Sound of Silence」「沈黙の声」となり、どの翻訳であっても、苦労していることが見えます。今およみしましたように新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。たしかに、13節以降、主なる神がエリヤに言葉を語りかけているので、「声」は声として発せられなければおかしいこととなりますので、「沈黙の声」と訳すわけにはいかなかったのでしょう。ギリシャ語訳の旧約聖書(七十人訳LXX)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、カトリック教会が最近だした校訂口語訳「かすかにささやく声」、フランス語の聖書では「さざめきのようなかすかな音」となっているようです。そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳では「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

内村鑑三の歩みから

 話は変わりますが、今日の聖書の箇所。日本の高名なキリスト者に、無教会を開いた内村鑑三という人がいます。彼はこの箇所をずいぶんと大切にしていた、ということを知りました。いわゆる不敬事件によって教師という立場を負われ、様々な形で迫害を受けた内村鑑三。彼の歩みに関する著作を読んでおりましたら、新しい発見がありました。それはただ単に、迫害にあったというだけではなく、キリスト教会に対する絶望も伴っていた、ということです。
 よく知られている不敬事件に至る前の学校において、内村鑑三は、きまじめすぎるということで他の教師たちから嫌われていた、ということでした。ご真影に対して頭を下げなければならないことを糾弾されたとき、そうしたもともと関係が悪かった人々からも糾弾され、さらに同じキリスト教徒だった人たちは、拝礼が求められる日はあえて休んだ、ということでした。真面目に足を運んだ内村鑑三のみが憂き目に遭ったわけです。
 教師としての職も負われ、職も負われた上、自宅まで迫害者が現れ、内村鑑三自身、体調を崩したのですが、その影響によって自分の妻が病に陥り、命を落としてしまうという状況。ただ単に、画一的な国家主義に痛めつけられた、というだけではなく、助けを求めた教会からも排斥され、同じキリスト者からも捨てられてしまった、という状況。まさにこの箇所のエリヤのような思いであったのではないでしょうか。同じ預言者たちも頼りにならない。同じ民族のものも頼りにならない、同じ信仰を持っている者も頼りにならない。まさに主なる神の「沈黙の声」のみを求めた日々であったのではないでしょうか。

神の意志とは?
 神の意志とはどのような形で訪れるのでしょうか?たとえば、神の恵みや裁きなど、どれが神の意志に現れであるのか、ということは、とても難しい課題と言えます。例えば、自然現象に求めるのでしょうか。「風」とあります。台風や突風や竜巻に神の力、意志を感じるでしょうか。また「地震」とあります。先週、東日本大震災から丸4年を迎えました。大きな地震によってもたらされた津波、多くの人々が地震や津波に突然に今までの生活や命を奪われ、また現在においても、福島原子力発電所の事故は収束しておらず、放射能汚染の被害は計り知れないものがあります。
 また、「火」とあります。バアルの預言者たちと主なる神であるヤハウェの戦いのことを思い出させる言葉(キーワード)であります。しかし、その火の中にも神はいなかった。何の形あるもの、また人の力の中にも、超自然的な現象の中にもない、ということを示している。そして、神の力は、「静かにささやく声」、関根正雄が訳出した「沈黙の声」として現れたというのです。
 ここに示されていることは、神の力とは「わたしたちの思い、想像、また希望を超えて」現れるということではないか、と感じます。イエスも同じようなことをいっていたのではないでしょうか。マルコ福音書8章28節から30節。(P.77)
「8:28-30 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
 最後にある「戒められた」とは、とても強い否定であったということが知られています。また、同じマルコ福音書13章21節から23節。(P.89)
「13:21-23 …「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」」
 今日の箇所に収められている「静かにささやく声」英語における「Sound of Silence」、関根正雄における「沈黙の声」。今という混乱の時代にこそ、耳を傾ける言葉、意志を差し向ける言葉ではないでしょうか。大きな声や衝撃の大きな事件によって、政治や意志が動かされてしまうことが多いように感じます。そして、キリスト教においても、教会においても、そこにこそ時代の流れや神の意志があると受け取る人がいるでしょう。しかし、そうではない、ということを「静かにささやく声」は示しているのではないでしょうか。どのような時代や状況において、主なる神の意志に思いを向けて、しっかりと神の道を目指して歩んでいきたい、と思います。

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周縁自体


列王記
  1. 『沈黙の声に聴く』(列王記上 19:1〜12)(08/06)
  2. 『沈黙の声に聴く』(列王記上19:1-12)(12/11)
  3. 『静かにささやく声』列王記上19:1-12(03/16)