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『幸いな者として』詩編30:2−6

2014.01.05(21:39) 249

『幸いな者として』
(2014/1/1)
詩編 30編2〜6節/マタイによる福音書 5章3~12節

新しい歩み

 2014年が始まりました。早いなあ、という思いを誰もが感じているのでは無いでしょうか。そして、年齢を重ねれば重ねるほど、年をとれば取るほど、同じ時間の長さのはずなのに、時間の流れが早くなっているような気がする、ということ。誰もが思っていると思います。「光陰矢のごとし」という言葉がありますが、たしかに光の速さのように日々が過ぎ去っていくように、感じることがあります。先日、ある理由から実際に早く感じるように、人間はなっているのだ、という話を聞き、納得しました。それは、年をとれば取るほど、新しい経験をしなくなるので、時間がどんどん早くなっていくのだ、という話を聞きました。時の流れの早さを現すことわざとして「少年老いがたし学なりがたし」という言葉が知られていますが、その言葉の意味を捉えるのであれば、人間というものは、常に新しい事柄に出会い続けていれば、常に時の流れが早くなっているとは感じない、ということになります。
 そして、時の流れが遅くなっていると感じること、違う言い方をすれば、人間として成熟してきた証拠とも言えるかも知れません。様々な学びをし経験を経て、人間的に安定しているからこそ、時の流れの早さを感じることが出来る。成熟した徴ということが出来ます。しかし逆に評価するとすれば、時の流れを早く感じるということは、人間的に学んでいない証拠、成長していない証拠とも言うことが出来ます。

内面的な義と外面的な義

 マタイ福音書5章から7章の「山上の垂訓」は、キリスト教の歴史の中において、「たとえ」で書かれているだけに、その真意はどうなのか?ということが神学的に争われることが多い箇所であります。そして私たちのそれぞれの信仰の歩みの中においても、時と場合によって、捉え方が異なる箇所なのではないでしょうか。時に深い慰めを感じることもありますが、その逆に、自らの有り様を戒められる厳しさを感じる言葉として語りかけられるときもあります。
そして、そうした違いがありながらも、もっとも大きな捉え方の違いと言えば、これらの言葉を、主なる神によって義とされるため、神の国に至るための条件と取られるのか、またそれとは違う形、主なる神によって義とされるため、神の国に至るための道しるべとみるのか、という違いではないでしょうか。そして、そういう捉え方の違いというのは、キリスト教が語るところの「教え」や「信仰」というものが、内面的なもの、心の中の問題であるのか、また外面的なもの、なんらかの行動の是非であるのか、というところにも繋がっていきます。
 しかし、今日の箇所、5章の3節から12節、山上の垂訓においては、その多くが、人の内面の問題について触れられているところに特徴があります。そして、内面的な言葉であるからこそ、この言葉が主なる神、またイエス・キリストの言葉が語る「わたしたち」、キリスト者への言葉として、広く受け取られてきた、と言えます。しかし、その中に一つだけ、唯一、外面的な行動として繋がるのは、言葉があります。それは5章9節の言葉、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」であります。

沖縄〜平和を実現する者は幸い〜
 先日、NHK日曜日朝の番組「こころの時代~宗教・人生~」に沖縄で日本基督教団の牧師として活動しておられる平良修先生が登場しました。50年以上の牧師としての歩みの中で、先生の歩み自体が沖縄のキリスト教会の歩みそのものという思いを持ちながら鑑賞しました。その歩みの中で、ある平良牧師の行動が、キリスト教界ならず一般社会にも、議論を脇起こしたニュースが取り上げられていました。それは、1966年アメリカの支配下であった沖縄で新しいアメリカで、沖縄におけるアメリカの最高責任者である高等弁務官の就任式において、「新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります」と祈ったことが問題とされ、沖縄の人々からの多くの支持の声とアメリカ側からの問題視する発言が起こりました。当時、平良修さんは、沖縄キリスト教短期大学の学長で、アメリカ留学の経験もあったことからの依頼でした。しかし、このことが大きな話題を呼びました。
 アメリカの支配下という立場、そして戦争の跡に多くの人々の家屋を無理やりに接収して作られた米軍基地の存在、それにともなう不当な非人権的な状況…。そうした状況に対する怒り、また祈りがそうした平良先生の祈りの言葉に結びついた、と言えます。そして、その祈りから6年後の1972年、沖縄の施政権は、日本に返還されました。しかし、施政権は日本に返還され、パスポートを持たずに本土(ヤマト)に行くことが出来るようになりましたし、自動車も左側通行になりましたが、米軍基地の存在は残ったのです。
 2013年を振り返ったとき、日本の平和そしてアジアの平和を脅かすような2つの出来事が起こりました。一つは、「特定秘密保護法案」の可決、そしてもう一つは沖縄県知事が、名護市辺野古沖の米軍基地建設のために埋め立て申請を許可したことでした。どちらの事柄も、日本の「平和のため」「安全のため」に決められたこと、進められなければならないこととして語られます。しかし、本当にそうでしょうか?沖縄において、平和を考えるとき、また米軍基地の存在、武力の存在を考えるとき、基地と行ったものが、ただ「日本」という国家を守る役割を果たすだけでは無く、その周辺に住む人々を具体的に傷つけるということを考えなければなりません。また、基地が人を守るためだけでは無く、具体的に人を傷つける、ということを考えなければならない、ということを知らされます。
 戦争へとかり出される兵士たちによる様々な犯罪。戦争のストレスによるもの、また軍隊の本質的な姿かも知れません。訓練による事故。沖縄では、1959年に宮森小学校という小学校に戦闘機が墜落し、小学生11名と教師6名がなくなっています。また基地ですから、当然、軍隊が他の土地へ攻めていくと言うことが起こります。古くは朝鮮戦争やベトナム戦争、そしてイラク戦争、多くの戦艦や戦闘機が沖縄から出撃していきました。そして、もしものとき本当に戦争が起こったとき、相手の国か軍隊が最初に攻めていく場所はどこでしょうか?軍隊が滞在している場所、基地であります。沖縄は日本で一番、米軍基地が集中している県として第一の標的になるでしょう。ちなみに、その次は二番目に基地が多い県は神奈川県です。
 沖縄には、平和の問題を考えるとき、良く触れられるスローガンとして二つの言葉がよく語られます。一つは、「基地で平和は作れない」という言葉。そして、もう一つは、「ぬちどぅたから(いのちこそ宝)」という言葉であります。また沖縄における平和への願いは、ただ自分の住む場所が平和であれば良い、というものではありません。ただ単に、平和を願う、基地をいらない、というだけではありません。日本のどこにも基地はいらない。世界のどこにも基地はいらない、という祈りのような叫びがあります。

平和を実現する者は
 今日、与えられました聖書箇所、「心の貧しい人々は幸いである」から始まる5章3節から12節の中で唯一、5章9節の言葉、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」だけは、具体的な行動に繋がるものと言えます。しかし、その根底には、沖縄にある平和への祈りのように、「痛み」がある、ということを覚えたい、と思います。他の「心の貧しい人々」(3節)、「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)、「憐れみ深い人々」(7節)、「心の清い人々」(8節)、「平和を実現する人々」(9節)、「義のために迫害される人々」(10節)。どれも、心の痛みや渇きが根底にある言葉と言えるのではないでしょうか。そして、キリスト者であるならば、わたしたちの導き手である主イエス・キリストの思いであり、キリスト者が共有すべき思いであると言えます。そして、その痛みとは、ただ単に自分のことだけではなく、この地上に生きるすべての人々の思いに寄り添うことによってこそ、深まる思い、深まる人のあり方と言えます。
 主なる神が与えて下さる「神の国」また「平和」とは、どのようなものであるのでしょうか?私たちは完全にそれを理解し、実現すると言うことは出来ません。しかし、平和への歩みというものは、「平和」がない状態に存在する「痛み」を知ること、「痛み」に寄り添うこと、から始まるのでは無いでしょうか。過ぎ去った2013年は、今後の日本の歩みを考える上での曲がり角になるかもしれません。そういった意味では、夜の始まりかも知れない。

夜はよもすがら泣かしむとも

 しかし、今日お読みしました詩編42編6節にある言葉。「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」このような言葉が収められているように、主なる神への信仰を持つ者はどのような時であっても、どのような状況にあっても、朝が来ることを知っているということ。諦めないということ。そして、主なる神は必ず明るい「朝」を約束して下さっている、ということを心に刻みたい、と思います。
 式次第にも記させて頂きましたが、文語訳聖書ではこのような言葉でありました。「夜(よ)はよもすがら泣(なき)かなしむとも、朝(あした)にはよろこびうたはん。」わたしが生まれ育った牧師館には、この言葉「夜(よ)はよもすがら泣(なき)かなしむとも、朝(あした)にはよろこびうたはん。」が書かれた額縁が書かれており、良く目にしていました。未来に希望を持つこと、信仰を持つという行為において、とても基本的なことであるかもしれません。しかし、どこかで諦めしまっているようなところはないでしょうか。どこかで、自分が立たされている現実との間で、津妻を合わせてはいないでしょうか。また、最初に触れましたように、「光陰矢の如し」「少年老いがたし学なりがたし」という言葉のように、今まで積み重ねてきた自分の歩みの中で、自分の捉え方において、イエス・キリストの招き、また主なる神の約束を捉えてはいないでしょうか。
 主なる神の約束とは、そういったわたしたちの考えの枠にはとどまらないのでは無いでしょうか。夜の後には朝が来る、当たり前のことです。しかし、そうではないでのす。当たり前のことが当たり前に起こる、のではなく、人の力では解決しないような問題であっても、主なる神は、朝が当たり前に来るように、私たちに喜びをもたらして下さる、ということなのです。1年の始まりに、神をより強く信頼し、より強い祈り、思いを持って歩み出したい、と思います。神が、ただ強い希望を持つというのでもなく、私たちが思うよりも大きく恵みを与えて下さるのだ、平和を与えて下さるのだ、ということを新しい1年の初めに、今一度心に刻んで歩み出したい、と思います。

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  1. 『幸いな者として』詩編30:2−6(01/05)