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『約束におけるシンパシーとエンパシー』(申命記6:4〜15)

2020.06.14(21:18) 404

『約束におけるシンパシーとエンパシー』
(2020/6/14)
申命記 6章 4~15節

シンパシーとエンパシー
 今日の説教題に2つの言葉を引用しました。シンパシーとエンパシーです。最近、知った作家さんで、ブレイディみかこという方がおられます。日本で生まれ育ったのですが、イギリスに渡り、新聞や雑誌の連載をしており、最近、昨年『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という著作が、本屋大賞2019の「ノンフィクション本大賞」という賞を取って、話題になり、ちょくちょくテレビなどでもの著者の姿を見るようになりました。その著作には、イギリス人の夫との間に生まれた男の子の中学時代のお話なのですが、イギリスの貧しい地域において、雑多な民族性や経済的格差の中において生まれたエピソードが記されており、興味深く読んでおります。その中にこんなエピソードがありましたので、紹介します。

『「試験って、どんな問題が出るの?」
と息子に聞いてみると、彼は答えた。
「めっちゃ簡単。期末試験の最初の問題が『エンパシーとは何か』だった。で、次が『子どもの権利を三つ挙げよ』っていうやつ。全部そんな感じで楽勝だったから、余裕で満点とれたもん」
得意そうに言っている息子の脇で、配偶者が言った。
「ええっ。いきなり『エンパシーとは何か』とか言われても俺はわからねえぞ。それ、めっちゃディープっていうか、難しくね?で、お前、何て答えを書いたんだ?」
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathyは、「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。   
/つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。』

(参考ページ→https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/

人と人を繋げるシンパシーとエンパシー
 アメリカで、白人警官による黒人男性の殺人事件から、アメリカ全土において、大きなうねりとなって、革新運動が拡がっています。そして、それがヨーロッパへも飛び火して、過去において、奴隷制度を率いた歴史上の人物の銅像を倒すような活動へと拡がっています。SNSのfacebookでやたらとつぶやいている先輩牧師が、このことに触れて、以下のように記しておられました。
「アメリカの指導的黒人神学者の一人であるジェームズ・コーンは、次のように言っている。『白人たちが自らの白人性を憎みはじめ、自らの存在の奥底から「どうすれば私たちは黒人になることができるのか」と問わない限り、アメリカには平和はないだろう』と(D・ゼレ『神を考える 現代神学入門』149ページ)。
 白人の立場において、「自らの白人性を憎む」とはどういうことか?わたしにとっては、ただの文章ですが、様々な差別問題、社会問題に向き合うときにおいて、深く突き刺さった言葉でありました。日本においても、様々な差別問題、韓国や中国との関係、また部落差別などの問題がありますが、自らの日本人性を憎む、という辛い作業まで深めているだろうか、という新しい視点を与えられました。アメリカにおいても、テレビを見ていますと、黒人のみならず、否を唱える活動が白人や他のルーツを持つであろう人々にまで拡がっていますが、そうした不当性に対する怒りを共有しているからでしょう。
 先ほど、『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』において、シンパシーとエンパシーの違いについて、触れました。どちらにも、「共感」という意味があります。が、単純に分けてみますと、シンパシーは「感情や行為や理解」であり、エンパシーはそうした「能力」、そして、シンパシーが「同情とか共感」だが、エンパシーには、つまり、相手の立場に立って考えること、相手の立場に立って想像すること、「自分で誰かの靴を履いてみること」だと言えるわけです。
 様々な差別に出会うときに、ただ可哀想というだけでは、やはり第三者の立場で物を言っている、ということを思わされます。本当に不当な状況の人の立場に立って、怒りを持っているのか、悲しんでいるのか、その人の靴を履いて考え、受け止めているのか、そんなことを考えさせられました。そして、もう一つはその経験が、出来事が、また繰り返されるとしたら、どうだろうか?当然、自分自身が不当な扱いを受けたら、叫びを上げる、ということもあります。しかしそれだけではないのですよね。しかし同時に、次の世代を、自分の友人たちを、自分の子どもたちを、自分の孫たちを、未来の世代の誰であっても、そんな目に合わせたくない、そんな状況に陥らせたくない、という思いだからこそ、つながれるのではないか。今、様々な動きが世界に拡がる力になっているのは、シンパシー(同情)ではなく、エンパシー(自分ではない誰かの靴を履く想像力)ではないでしょうか。

十戒と律法の受け取り方
 今日のテキストの話に戻ります。私たちが、よく知っている十戒は、「〜してはならない」と、日本語においては、否定の命令形、禁止命令の形で知られています。そして、律法に記されている多くの規定も、ほとんどが、その形で記されています。それが最近、現代の聖書学、キリスト教学の世界で言われていることは、実は、そうした受け取り方、理解が間違っているのではないか、という考え方が拡がっています。
 それは、「あなたは〜ことがあってはならない」または「あなたは〜するはずがない」という未来への希望、期待を含めた意味であり、あくまで単なるルールとして、多くの禁止命令をしたわけではなく、イスラエル民族、イスラエルの民、主なる神を信じる者、群れに対して、わたしがこれほどに愛し、守っているのだから、あなたも、他者に対して、隣人に対して、「殺したり、盗んだり、盗みを働いたり」といったことはできないはずだ、という期待が込められている、という理解です。
 エジプトからカナンの地までの距離は、おおよそ400Km、いくら遠いといっても歩き続けて40年間もかかるわけではありません。これには、イスラエルの民が神を裏切ったことが原因となり40年という長さになりました。エジプトを出たとき「大人だった人はカナンの地に入ることが出来ない」ということから、1世代が変わる年数として、40年間を荒れ野で過ごし、まったく新しい世代になったとき、イスラエルの民はカナンの地に入ることが出来ました。そして、その期間は、ただ罰としてあっただけではなく、40年間、主なる神も民を守り続けた期間であったとも言えます。まるで、子どもを育てるように、40年間も共に民と歩み続けるほど、神は民を愛し続けたのです。

約束におけるシンパシーとエンパシー
 申命記の最後の箇所は、モーセがイスラエルの12部族へそれぞれに祝福の言葉を述べ、ヨシュアを後継者として指名します。そしてモーセは、自分が40年以上の間、導いたイスラエルの民が入っていく約束の地、カナンの地を見渡すピスガの山頂にて見渡して、その生涯を終えます。そして、ヨシュアとリーダーとして、イスラエルの民は希望に胸にカナンの地へと入っていきます。
 十戒、律法とは、そんな神と民の出エジプトという出来事、荒野での40年間の経験を経て、ついにたどり着いた約束の地において、守られるべき教えとして語られています。どうでしょうか?神の立場に立ってみたら、わたしはこれほどまでに、愛し、守り続け、ついに約束の地に入ったのだから、これらの教えを「守らないはずはないだろう」といった思いであったのではないでしょうか。そして、更に今の世代ではなく、未来の世代のために、「わたしを裏切るはずがないだろう」といった思いだったと考えられないでしょうか。
 主なる神は、イスラエルの民に対して、シンパシーを持ったのでしょうか。それとも、エンパシーでしょうか。またキリスト者に対しては、どうでしょうか。同情、シンパシーではなく、「自分ではない誰か、イスラエルの民の靴を履こう」という気持ち、エンパシーだったのではないでしょうか。


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『喜びの礎である導き』申命記26:1-11

2013.06.16(14:36) 212

『喜びの礎である導き』
(2013/6/16)
申命記 26章 1~11節

申命記について

 今日の個所は、イスラエルの民の信仰告白と言われている箇所です。キリスト教徒にとっては、イエス・キリストの歩みとその後の教会の歩みが記されている新約聖書が、信仰の中心であり、旧約聖書はそれを補うもの、またまさしく「旧い」契約の書であるとか、一歩引いた形で受け取られることが多いと思います。しかし、ユダヤ人、ユダヤ教徒にとって、旧約聖書ですから「旧い契約」ではなく、それのみが聖書であり、唯一の契約の言葉であります。
 申命記という文書、ヘブライ語では「デバーリーム」と呼び、「これらは…言葉」という意味です。しかし、ギリシャ語ではこの文書には「Deuterouomion」と名が付けられており、翻訳しますと「第二の律法」と言います。また日本語聖書の書名となっている申命記の「申」という字には、日本語の聖書表記に大きな影響を与え、源流ともいえる中国語において「二度目」という意味があり、「二度目に語られた律法」が記されているという意味の書名なのです。
 わたしたちは律法の中心的戒めとして、十戒が知っています。そして十戒は出エジプト記20章に記されておりますが、実は、申命記にも記されています。申命記5章です(P.289)。6節から改めて、読むことはいたしませんが、ほぼ同じ言葉が記されております。また、申命記において重要な記述に触れますが、たとえば申命記6章4節から9節。(P.291)
『聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』という言葉があります。
 「聞け」という言葉は、ヘブライ語で、「シェマー」と言い、この言葉はシェマーの祈りとして過去においても、現在においても、ユダヤ教徒にとっては、とても重要な戒めとして受け取られおり、また神殿や聖所において祭司やレビ人たちは、「聞け/シェマー」という言葉によって、律法の言葉を神の言葉、戒めとして朗読し、続いて戒めに関する説明を行っていました。

信仰告白
 今日わたしたちに与えられました聖書箇所、申命記26章は信仰告白の言葉であります。全体の形として、大枠としては、いわゆる礼拝の中において、主なる神を賛美し、信仰告白するとしては、神殿なり祭壇に献げ物をして、祈る言葉となっているのですが、内容においては、主なる神とイスラエルの民と歴史を振り返った内容であります。
 5節後半の言葉「「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。」
一アラム人とはアブラハムのことです。そして、自分たちの父祖、ルーツである存在が「寄留者」頼るべきものや場所を持たない存在であった、と告白しています。そしてエジプトでも立場の弱い寄留者、さらに奴隷であった、と。そして、モーセを通して主なる神によって導かれ、9節の言葉をお読みしますが、「26:9 この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。」と続きます。出エジプトの後、初めて自分たちの土地を得たこと、そしてその自分たちの土地となった土地から収穫された実りを神に献げて祈る。そして、その直後にこのような言葉があるのです。最後の箇所、26章11節をお読みします。「26:11 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。」
 レビ人は、神に祈る役割を与えられている人々で祭司を指します。その人たちは、他の民族の収穫物から食物を得る決まりになっていますので、当然ですが、「寄留者」は違います。別にどうでもよい存在といえる人々、異民族であり、他人です。しかしその知らない人、「よそ者」と呼ばれるような人々と一緒に喜びなさい、と言われている。そして、それには自己経験として、自分たちも寄留者であったときがあった、そのとき、いろいろなことで苦労した、奴隷として辛い経験もした、そうした経験を大切にしよう、忘れないようにしよう、という思いから「寄留者と共に喜び祝いなさい」と言われているのです。
 そして、そのことは、申命記10章18節19節には、もっとはっきりと記されています。(P.298)
「10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。 10:19 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」

一アラム人から始まった歩み
 イスラエル人のルーツ、祖先、源流といえば、先ほども触れましたように、アブラハムであります。アブラハムは、もともとは、メソポタミア文明の都市ハランからカナンの地へと主なる神の導きにより、やってきました。わたしたちのイメージ、思いの中では、「カナンへ上ってきた」とか「乳と密の流れる豊かな地」(出エ3:8/申6:3/26:9)にやってきたアブラハム、貧しい土地から豊かな土地にやってきたというように考えがちであります。
 しかし、事実は全く逆であります。当時のメソポタミア、世界史の歴史を思い出してみれば、わかるように4大文明と一つとして栄えた時代です。聖書にバベルの塔の物語が記されておりますが、よっぽど水も土地もカナンの地に比べて、豊かな土地です。
 さらに、アブラハムと主なる神の間には、その子孫を「天に散らばる星のように増やす」(創15:5)という約束がありましたが、最終的にはイサクというひとり子を与えられましたが、奴隷の女性に子どもを産ませる、ということがありましたし、さらにそのイサクでさえも、献げ物として献げなさい(創22章)、と命ずる神でありました。そして確かに星の数ほどに、アブラハムの子孫、イスラエルの民は、数を増しましたが、エジプトにおいて奴隷という立場の中でありました。
 また、寄留者、寄留の民という立場、聖書の価値観においては、都市よりは農村、農耕民よりは寄留の民、遊牧民を重んじるような価値観が込められているように思われます。良く知られている創世記4章に記されている人類最初の殺人事件とも言えるお話、カインとアベルの兄弟の間で起こった殺人事件の物語です。あの物語を振り返ってみます。
 農耕を営んでいたカインと羊や山羊などを飼っていた弟のアベルが、それぞれ自らの収穫物、カインは農作物、アベルは羊の初子を主なる神にささげました。が、農民のカインが献げた農作物の献げ物は神さまに喜ばれず、羊を献げたアベルの献げ物は喜ばれた。そのことを兄のカインは恨みにおもって、弟のアベルのことを殺してしまう、という物語です。この物語の読み方として、人の文明の進化の姿と神の選びを描いている、という読み方があります。
 人の文明というものは、ただ植物の実など採取するだけの生活、そして狩りなどによって動物などを捕獲する狩猟生活。次に、羊や山羊などを飼うことによって生活を営む遊牧生活、そして地面を耕し、種を植え、収穫するという農耕生活という形で発展してきました。そして農耕を行うことによって、起こったことは革命的なことが起こりました。それは「収穫物、農産物の穀物を保管する」という行為です。
 このことによって、収穫物を他の民族に捕らえないようにするために、塀で囲まれた都市、襲われないような武器、軍隊、そしてその軍隊を導く王が必要になったというのが、人間の文明の発展の大まかな流れであります。そうした中において、カインとアベルのお話に戻りますが、農耕民のカインがアベルを殺してしまう、というお話の形は、そうした歴史の趨勢を描いているのではないか、そして主なる神とは、文明の発展した農耕民の生き方ではなく、より不安定な立場である遊牧民としての歩みを好んでおられる、という読み方であります。

イスラエルの民の記憶
 申命記が成立した時代、ユダヤの国家は、とても不安定な状態にありました。ダビデの子、ソロモンの死後、イスラエルの民の王国は、北と南に分裂してしまいました。その後、先に北イスラエル王国が滅びてしまいます。その時、残った南ユダ王国に、同じイスラエルの民である人々が、大量に難民としてやってきたと言われています。そのような状況のとき、同じ民族である北イスラエルの人々をどう扱って良いのかわからなかったのではないか、と思われます。しかし、今日のような言葉にあるように、「土地も財産も持たない寄留の民」となってしまっていた北イスラエルの人々を救う宣言とも言える言葉と言えます。また、後に南ユダ王国もバビロンという大国に滅ぼされてしまいます。そして自分たちもある意味で国を持たない者、寄留者となってしまう。
 そして、権利を持たない者、寄留者とはイエスが活躍した時代において、イエスが訪ね歩き、共に触れ合い、食卓を囲んだ、多くの罪人と呼ばれる人々でありました。イエスが活動した当時の観念においては、一番理想的な国民とは、大祭司であり、一切の汚れがない存在でした。そして普通の祭司たち、次に律法を守ることが出来る一般の人々、そして血液を扱ったりする汚れた職業の人々、律法を守ることが出来ない人々であります。
 そして、イエスがこうした罪深い人とされた人に向かう姿勢の一つの根拠として、申命記に記されております「寄留者と共に喜び祝いなさい」があったと考えられないでしょうか。

喜びの礎として
 そして、このことは聖書の中の出来事、テーマとしてではなく、今を生きる私たちにも同じ課題があるのではないでしょうか。人という存在は、本当に弱く脆い存在であります。そうした現実を忘れる中において、現在の日本社会に生きる私たちはまさしく命を削って社会を営もうとしているように感じることがあります。誰もが、順調に、安心して生きるため、という目的のために、命を削っているような現実はないでしょうか。
 そして誰もが、寄留者のように弱い立場に陥らないようにがんばっている。しかし、これは逆説的に言えば、今の世の中の恐ろしさとは、誰もがそうした弱い立場に陥る可能性がある、ということではないでしょうか。申命記には、主なる神の選びの精神に関してこのような言葉があります。申命記7章7節8節をお読みします(P.292)
「7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

 主なる神は、奴隷としての苦しみの中にあったからこそ、また民族的の臨まれるような強さがあったから、イスラエルの民を選んだわけではなく、「どの民よりも貧弱であった」からこそ選んだ、といいます。また、カインとアベルの物語からは、安定した生活基盤をもつ農耕民よりは不安定な存在であり遊牧民を選ぶという姿勢が見られました。
 そして今日の箇所申命記26章の最後11節においては、
「26:11 あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。」
と命じています。興味深いのは、寄留者としてはじまった民に対して、自分たちの間にいる「寄留者を助けろ」ではなく「共に喜び祝いなさい」と言っている。共に喜ぶ、という姿勢、多くの小さきものを訪ね歩いたイエスの歩みにも示されていることと言えます。また、パウロの言葉にも「共に喜びなさい」(ロマ12:15)という導きを見いだすことが出来ます。そして、わたしたちも「共に喜ぶ」こと、それが主なる神が旧約聖書から新約聖書に通底している導きである、ということを受け入れることが出来るのではないでしょうか。
 律法というのは、わたしたちのイメージからしますと、どこか杓子定規な硬い法律というイメージがあります。しかし、一方でイスラエルの民が「寄留の民」として歩んできた歩みの中でおいて、より弱き者である視点をもって、自らの寄留者であった立場を忘れずにいることを主なる神が強く求めていたのではないでしょうか。しかし時代の様々な局面において、その精神を忘れてしまった。だからこそ、その時代における王や祭司たちに対抗して正しい道に導こうとして預言者たちが表れたのではないでしょうか。そして、究極の存在として、民を正しい道に導くための主なる神のひとり子であるイエス・キリストは私たちのところにやってきたのではないでしょうか。今の時代を生きる私たちも主なる神の教え、導きを道しるべとして、神の意志に相応しい民として、その戒めを礎として受けとめて、主の導きに従って歩んでいきましょう。

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  1. 『約束におけるシンパシーとエンパシー』(申命記6:4〜15)(06/14)
  2. 『喜びの礎である導き』申命記26:1-11(06/16)