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『神に倣う者として』エフェソ4:25-5:5

2013.09.15(22:34) 233

『神に倣う者として』
(2013/9/15)
エフェソの信徒への手紙 4:25~5:5

私に倣う者となりなさい
 今日の箇所、エフェソの信徒への手紙5章1節にはこのように記されています。
「5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」
 パウロは、幾つかの手紙の中において、「自分に倣いなさい」という言い方によって、信仰者としての歩みを述べている箇所があります。
フィリピの信徒への手紙3章17節。(P.365)
「3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」
また、第一テサロニケ書1章6節7節。(P.374)
「1:6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
1:7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」
そして、第一コリント11章1節。(P.313)
「11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
 他にも挙げられるのですが、パウロは自らに倣いなさい、と延べながらも、根本的に私たちが従うべき存在は、イエス・キリストであるのだ、ということを述べています。また、イエスさまご自身もこのようなことを述べています。ルカ福音書6章40節。(P.114)
「6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」
 しかし、本当にそうでしょうか?弟子たちは、イエスさまのようになれるだろうか。人によって捉え方は異なるのではないか、と思います。たとえば、ヨハネ福音書15章20節には、今お読みした言葉と同じようなとして『僕は主人にまさりはしない』という言葉が収められております。しかし、それに続く言葉は、迫害や受難を感じさせるような言葉が続いています。
 また、どうでしょうか?イエス・キリストに倣いなさい、ということで、弟子たちに捨てられ、裏切られること。エルサレムに入城するとき、「ホサナ」と自らに喚声を上げていた人々の叫びが、「十字架につけろ」という叫びに変わること。そうした歩みをも倣いなさい、ということになるのでしょうか。素直に言って、誰一人として、そんな歩みは歩みたくないものでしょう。

教会はキリストの体
 エフェソ書は、信仰生活を営む人々、クリスチャン、キリスト者と呼ばれる人々に向けて、記された文書です。パウロの時代はエフェソ書が生まれた時代、いわゆる新約聖書が誕生する前であったという違いがありますが、主イエス・キリストを神の子として、信じる、ということにおいては、同じです。そして、わたしたちと同じように、教会に集い、聖書に聞き、礼拝を守り、信仰生活を営んでいました。そうした人々に向けて、この文書は記されており、その一番の勧めとして言われていることを、「一致すること」「和解すること」であります。
 人と人、また教会と教会を分断するものとはなんでしょうか?エフェソ書の中でも、具体的な課題について、内容から、どのような問題が起こっていたか、を知ることが出来ます。まず空間的な距離があります。それぞれの生活の場によって、人は成長し、考え方も決められますから、そうした違いによって違いが生まれ、状況によっては人と人の争いの基となることがあります。また、それぞれの人の背景となる人種や文化によって、分断されることもあるでしょう。(エフェソ2:14-22)
 また経済的な状況もあります。これはエフェソ書では触れられていませんが、第一コリント書では、教会において自らの食事を準備できる人と出来ない人、また労働に時間が取られて、のんびりと教会で時間を過ごすことが出来る人と出来ない人がいる、ということが課題とされていたことが知ることが出来ます。(1コリント11:17-22)
 また、信仰のあり方自体によって、分断される要素があります。一言で、キリスト教また教会と言っても、様々な教会があるでしょう。礼拝の持ち方、聖書の読み方、歴史、教師の役割、信徒の役割などなど、挙げれば挙げるほど切りが無いでしょうが、数多くあるでしょう。そして、それらが分裂の要素となってしまう。多少違っていても、同じキリスト教で良いじゃないか、と思う人もいれば、そうじゃない人もいる。
そんな「同じキリスト教で良いじゃないか」という言葉にも違和感を持つ人がいるかもしれない。その「多少」ってどのぐらい?信仰告白は?使徒信条は?などいろいろあるでしょう。

聖なる者に相応しく
 今日の箇所において、言われていることは、キリスト者として、一致に向けて、また和解に向けて、あるべき姿を日常生活の中で、あるべき姿を述べたものです。
 エフェソ書4章25節をお読みします。
「4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」
 「だから」という接続詞によってはじまりますが、直前の4章17節から24節には、「古い生き方を捨てる」という小見出しがつけられており、信仰を持って、キリストに従った生き方を営む「新しい生き方」をこの箇所において、具体的に述べられます。26節。「4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」山上の垂訓に含まれているマタイ福音書5章22節における、イエスの言葉「5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:22)を思い出します。
 また、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」というのは、ユダヤ暦における日暮れは、一日の区切りでありますので、そうした争いごとや怒りを、日を超えてひっぱってはいけない、長い時間争っていたままではいけない、ということでしょう。そして、そうしたあり方は、続く27節によれば、「悪魔にすきを与え」ることになる、というのです。
 さらに、28節では、「盗む」のではなく、労苦して「正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(4:28)とあります。具体的に言えば、どのようなことでしょうか。不正な収入、まさしく犯罪というような仕事ではなく、まともな仕事につけ、ということとも捉えられます。が、どちらかと言えば、ユダヤ的な価値観でいえば、地に足の着いた形における仕事。福音書で言えば、徴税人や商人といった仕事ということでしょう。次に29節では、「悪い言葉」ではなく「聞く人に恵みが与えられるよう」、「その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(4:29)と記されています。日常の人との触れ合いの中における勧めですが、これらの言葉の背景には、おそらくユダヤ教的な規則の伝統があると思われます。
 そして、そうした勧めは、具体的には、どうしたら良いの?ということで、今日の箇所に記されているような「してはいけないこと」としての悪徳表になり、またその逆として「なるべくした方が良いこと」としての善行のリストとして形になっています。しかし、そうした捉え方とは別にして、これらの言葉を読み進める中で見いだされること、それは、あくまで対等な関係でいなさい、ということではないでしょうか。キリスト者同士の関係において、また教会の中の関係において、そして、それ以外の人々との関係においても、そうした対等な関係というのは、隣人愛の一つの実践とも言えます。
 そして、イエス様の言葉によって、考えるのであれば、マタイ福音書7章12節に記されている黄金律と言われる言葉。(P.11)「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」に根拠を求めること、基本を求めることが出来ますし、またエフェソ書の5章1節に見いだされる表現「あなたがたは神に愛されている子供」だ、ということ。互いに神に愛されている大切にされている存在、同じように導きを必要とする子供なのだ、ということ。またその後の2節に見いだされる言葉。「5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」という言葉。互いのために、己を捧げなさい、という勧めをお互いに果たすこととも言えます。

自らをいけにえとして
 しかし、この「いけにえ」という言葉。すごく怖い言葉ではないでしょうか。最初にパウロの言葉を引用して、イエス様を倣う者として、またパウロを倣う者として記されている箇所を紹介しました。そして、そうした存在を目標とするとき、まさに献身的に、また自己犠牲的に、神の意志に従おうとするとき、パウロのように生活の全てを捨てて、キリスト教宣教のために生きるべきなのか、ということ。また、キリストが歩まれたように、十字架の死に至るまで歩みきるべきなのでしょうか。
 私たちもイエスのように歩むべきなのでしょうか。また、多くの人との関係において、自らを犠牲として、キリスト者は人一倍大きな重荷を背負うべき、自分ではない隣人の重荷も背負っていくべきなのでしょうか。キリスト教会においても、一般社会においても犠牲の課題は、本当に大きな問題であるとわたしは思っています。たとえば、靖国神社の問題。たしかに平和のために犠牲となってくださった存在には感謝しなければならない、と思います。しかし、そうした存在がより多くの犠牲を生み出す可能性を内包している、としたら、どうでしょうか。
 また福島県の原発事故の問題。事故を起こした原子力発電所には、東京電力福島第一原子力発電所と名前が付いています。もともとは東京電力のための電力を作っていた原子力発電所です。それが事故を起こしてしまった。たしかにこの世の中は、オカネで動いていますから、たとえ事故が起こってしまったとしても、あらゆる地方にある原子力発電所は過疎や高齢化に悩む地域経済、復興のために役立っていたのだから、自ら望んで建てたのだから、福島県の問題だ、と言えるでしょうか。しかし、その電力で動いていたのは東京でした。
 また、沖縄における基地の問題も同じことが言えるかも知れません。基地があることの負担。オスプレイの配備で話題にはなりましたが、常に基地と隣り合わせの状態が強いられている。危ないものだから、危険なものだから、人が余り住んでいないところに、また重要な場所に、という言葉で強いられてしまいますが、どうでしょうか?
 そしてそれらのことを国の問題でなく、人の体の問題として考えてみたとしたら…。パウロの言葉を引用してみます。第1コリント書12章14節から17節。(P.316)「12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」
 目には、目の役割がある、耳には耳の役割がある、たしかにそうかもしれません。しかし、目が突然、明日から手になりたい、と言ったときにどうするか。耳が目になりたい、といったときにどうするか。また、足が突然、いつも体全体を支えて、重い思いをしている。もう嫌になったから、明日からは、頭になりたい、目になりたいなあ、耳になりたいなあ、と言われたときにどうするか?そうした願いは叶わないのでしょうか。キリスト者が考えなければならない課題は、こうした「叫び」があったときに、どのように考えるべきか、ということではないでしょうか。

神に倣う者として
 キリスト教は、その始まりに、その崇拝している信仰している神の子、神の犠牲によって始まった不思議な集団とも言えます。そして、「神に倣う者」とは、自らを犠牲にしてでも、人のために尽くしなさい、と勧めます。また、それは「隣人を自分のように愛しなさい」という隣人愛の究極的な実現ともいえるかもしれません。
 5章2節には神さまが私たちを愛して下さるように、「あなたがたも愛によって歩みなさい。」と勧められています。同じ教会の友、それ以外の隣人にも愛を注ぎなさいということでしょう。イエスさまは、主なる神への愛を「十字架の死」によって示されました。それは「神の愛を知ること」それはとても喜ぶべきこと、感謝すべきことであります。しかし同時に、同じような犠牲を生み出す悲しみ、生み出してしまった過ちにも思いを寄せる必要があるのではないでしょうか。
 「神に倣う者」になりなさい、という勧めは、互いにそう愛し合いなさい、思いやり合いなさい、という勧めである、ということを心に刻みたい、と思います。そして、互いに支え合うことの先にこそ、誰も犠牲にならないような関係の先にこそ、私たちの1人1人の意志を超えた、神の国の実現があるのではないでしょうか。今週も1人1人が、神の喜ばれる道を歩むことが出来るように、主の助けを求めて祈りたい、と思います。

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  御幸の浜近辺                 根府川地域よりのぞむ海


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『キリストは私たちの平和』エフェソの信徒への手紙2:11-22

2013.05.19(21:13) 207

『キリストは私たちの平和』
(2013/5/19)
エフェソの信徒への手紙 2:11~22

エフェソ書における教会
 今日お読みしましたエフェソの信徒への手紙において、語られている教会とは、どこかに立つ具体的な教会というよりも、世界中に立つ教会すべてへの呼びかけとして語られている言葉ということが出来ます。エフェソ書1章15節16節をお読みします。
「1:15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、1:16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」
 「こういうわけで」とは、手紙の先の部分において、記されておりますエフェソの教会での活動がキリストの体として相応しい歩みであることを喜び、そして同時に、このことを主なる神に感謝している、と述べております。
 実は、エフェソ書というのは、パウロが書いたと記されてはおりますが、パウロの弟子の筆によるものではないか、という説があります。というのは、手紙に記されている言葉の多くが、具体的なエフェソにあるキリスト者の群れである教会宛というよりも、多くの教会で朗読されることを目指して書かれているような内容であること。そして、パウロが記した手紙は、宛先の教会にいる身近な人やリーダーと思われる人への挨拶が必ず含まれているのですが、この手紙にはそうした挨拶が見られないことなどからです。

ペンテコステという出来事
 今日は、教会の始まり、誕生日と言われるペンテコステを祝う日であります。ペンテコステとは、言葉としては、数字の「50」を意味し、イエス・キリストが復活したことを祝うイースターから7週目、7かける7の49日目に祝われております。
 そして、その時、使徒言行録によりますと、イエス・キリストが天に昇った後、聖霊が降臨することによってはじまった、と記されております。その箇所、使徒言行録2章1〜3節をお読みします。(P.214)
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」
 「激しい風」とは主なる神の力がこの世に現れたこと、そしてその力としての霊が降りてきたことを感じさせます。ヘブライ語における「風」をさす言葉「ルーアッハ」は霊と共に「風」をさす言葉で霊が降りてきたようですが、これは神の力の働きがここに起こった印と読んでも良いでしょう。神の力が現れ、「炎のような舌」がここに降りてくるのです。そして、続く4節をお読みします。「2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」「ほかの国々の言葉で話しだした」。聖書の中には、この出来事とまったく同じ事柄でありながら、全く逆の評価を得ている出来事があります。「バベルの塔の物語」です。バベルの塔の物語においては、言葉が通じなくなって、同じ価値観、同じ目的を持つことが出来なくなってしまった、と言えるのではないでしょうか。が、使徒言行録において、まったく同じことが起こっているのに、まったく逆の動きをしています。一人一人、違う言葉をしゃべりながらも、同じ事を宣べ伝えている、ということです。それは主なる神の存在を知らしめるためにイエス・キリストがこの世に現れた、ということ。そして今日の聖書の箇所のテーマになりますが、イエス・キリストはただ単に、信じる人を主なる神に近づく道へ招く、という役割だけで無く、あらゆる違いを乗り越える「平和」を示す存在、そしてキリストを救い主として信じる人々が「一致する」ことが求められている、ということです。

2つのものを1つに
 今日の箇所において、その一致する主体としてあげられているのは、ユダヤ人と異邦人であります。エフェソ書2章11節から13節をお読みします。
「2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」

 ここで言及されているのは異邦人のことです。ユダヤ人の伝統的な風習も知らず、ユダヤ人が大切にしていた教えも知らずに、主なる神という存在をまったく知らなかった。しかし、「キリスト・イエス」の存在によって、「キリストの血」イエスの十字架刑によって、神に招かれる存在、「神に近い者」となったというのです。
 そして、続く14節から16節をお読みします。
「2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 「キリストは私たちの平和」という言葉ですが、ここにおいては、いわゆる戦争がない状態を指す平和ではないことが示されています。「2つのものを1つに」し、「敵意という隔ての壁」を壊し、「律法を廃棄」し、2つの存在を1つにして、神と和解させた。そうした働きが「平和」にはある、ギリシャ語でいうところの「エイレネー」にあると言っている。ここで用いられている「平和」とは何らかの状態を指す言葉ではなく、「関係」を指す言葉と言えます。
 ユダヤ人と異邦人というまったく違う存在、価値観を持つ存在を、キリストは「1つにする」と言っているのです。そして、それはユダヤ人が異邦人に近づくとか、逆に異邦人がユダヤ人に近づくという形ではなく、まったく新しい存在として、現れる。それが教会という人の群れである、と述べているのです。そして、19節から22節にあるように、「外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」(2:19)として、さらにキリスト・イエスを「かなめ石」(2:20)とする、建物に汲み上げられる、「主における聖なる神殿」(2:21)となる、というのです。

平和とは?

 「キリストは私たちの平和」という説教題を付けましたが、平和とは何でしょうか?一言で「平和」と言っても、多様な使われ方がされています。たとえばヘブライ語における「シャローム」は挨拶として用いられ、中国でも「ピンアーン」という言葉も挨拶で、日本風にいえば「ごきげんよう」といった形になるでしょうか。
そして、戦争がない状態としての平和があります、そして聖書において「平和」という言葉は、今日の箇所にあるように「状態」というよりも「関係」の概念でとらえられるようなことが多いように感じます。また更に進んで、「平和」とは、戦争や争いが無いだけでなく、飢えや悲しみ、絶望などが無い、人間が生き生きと生きられる状態である、という説明もされます。
 今日の箇所で、異邦人とユダヤ人が平和に一致して、ひとつの「聖なる神殿、神の住まい」になると記されています。しかし、一致するということ、単純に喜ぶことが出来るだろうか、ということを感じます。エフェソ書の考え方によれば、それぞれの存在がそれぞれの存在でありながらも、もっと大きな次元で一致することが出来る、ということです。しかし教会がずっと理想的な状態であったかといえば、そうではないですし、何もキリスト教会の長い歴史をふりかえらなくとも、身近な関係の中で「平和」というのは、とても移ろいやすいものではないか、という思いです。
 たとえば、イエスの言葉にこのような言葉があります。マタイによる福音書23章27節(P.46)。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」
 「象牙の塔」という言葉があります。「象牙の塔」とは、体裁や見た目などに、あまりにも気を遣うばかりに、現実とはかけ離れてしまうこと、などを指します。外側は立派でも、中は空洞であるとか、どんなに理想的に見えたとしても、どこかに悪い部分が隠れている、と。いつの時代においても、厳しい時代、貧しい時に、もっとも強い痛みを被るのは、立場の弱い人々であります。現在の世界を見てみても、わたしたちの日常生活の中においては、とりあえず明日の食事を心配する必要や命を落とす心配もせずに生きることが出来ます。しかし、そうした生活の陰で、辛い状況に追い込まれている人もいる。現代社会において、先進諸国においては、食料を大量に捨てている状況がある中で貧しい諸国においては「飢え」がある。そうした格差は、グローバリゼーションで世界の距離が縮まれば縮まるほど、ひどくなっていくという指摘もあります。
 また家族においても、友人たちや会社そして教会においても、多くの人は平和で幸せかも知れない。けれども、そうした「平和」の代償として誰かが犠牲となっているとしたら、それは平和と言えるのだろうか。また、日本においても、ある政治家の発言で話題になっていますが、沖縄に集中する米軍基地の問題。小さい存在に対して、多くの負担を強いる状態で保たれている平和は本当に平和と言えるのでしょうか。

キリストは私たちの平和
 教会とは、ギリシャ語では、「集められた者」という意味の言葉で、建物のことではなく、そこに集う1人1人のことを指しています。イエス・キリストの歩みを通じて示された神の意志に答えて、聖書に示されている主なる神の導きを信じて歩んでいこう、という者の群れであります。そして同時に、教会から常に出ていく存在ではないか、と思うのです。私たちは1週間の始めに、礼拝を通じて、神の導きを得ます。そしてそれ以後は、建物としての教会を出て、一週間の歩みを歩むわけです。
 そのとき、信仰的にいうのであれば、イエス様が共にいる、と表現します。そして、どのような厳しい時にも、主なる神が共にいるという信仰です。しかし、もう一つあるのではないか、と思うのです。先ほど、「平和」にもジレンマがあるということ、またこの世に完全な平和などあるのか、という疑問にも通じます。家族においても、友人たちにおいても、企業や学校、そして教会においても、世界の国家間においても、平和があるか、と思えば、どこかに負担がかかっている、どこかで犠牲が強いられているかもしれない。そんな状況をどのようにすれば、乗り越えられるのか?
 それは、1人1人がイエスになる、ということではないか、と思います。当たり前のことですが、イエス様は、キリスト教徒であったでしょうか?それは違う、と言わざるを得ない。キリスト教はイエスを主なる神の子として信じる信仰を持つもので、イエス自身が自分自身を信仰するというのはあり得ないことです。そしてイエスさまのように十字架にかかれ、ということではなく、常にイエス様がその公生涯において、歩まれたように、多くの人の隣人(となりびと)となり、共に笑い、共に泣くことが求められているのではないか、と感じています。
 わたしたちはどこかでキリスト者であるという枠組みの中で、また家族における役割や、会社や教会における役割を背負って生きています。しかし、それを一度捨ててみること、捨てて考えてみることによって、新しい「平和」と「一致」が見えてくるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、十字架上の死によって、わたしたちの罪を贖って下さいました。私たちの代わりに支払うべき代償をかぶって下さいました。その罪というのは、それぞれの人が自分たちの枠組みの中で、理想的な「平和」を諦めてしまっていることを指しているのではないでしょうか。「キリストは私たちの平和」であります。それは常に、隣人との間に、イエスがたって、異なる者と異なる者を結びつけようとしています。「平和」とは、何かの状態ではなく、人と仲良くなろうとする気持ちではないでしょうか。主イエスが常に「平和」を求めて、歩まれたこと、そしてイエス・キリストが、私たちの平和を求める力の根拠であることを覚えて、今週も歩み出したい、と思います。

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『十字架による和解』 エフェソの信徒への手紙3:14-21

2013.01.09(20:31) 183

『十字架による和解』
(2013/1/6)
エフェソの信徒への手紙 3:14~21

エフェソ書における教会
 今日お読みしましたエフェソの信徒への手紙において、語られている教会とは、具体的などこかの教会、たとえば小田原教会や湯河原教会、二宮教会といった具体的などこかの地域に立つ教会というよりも、世界中に立つ教会すべてへの呼びかけとして語られている言葉ということが出来ます。エフェソ書1章15節16節をお読みします。
「1:15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、1:16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」
 「こういうわけで」とは、手紙の先の部分において、記されておりますエフェソの教会での活動がキリストの体として相応しい歩みであることを喜び、そして同時に、このことを主なる神に感謝している、と述べております。
 実は、エフェソ書というのは、パウロが書いたと記されてはおりますが、パウロの弟子の筆によるものではないか、という説があります。というのは、手紙に記されている言葉の多くが、具体的なエフェソにあるキリスト者の群れである教会宛というよりも、多くの教会で朗読されることを目指して書かれているような内容。そして、パウロが記した手紙は、宛先の教会にいる身近な人やリーダーと思われる人への挨拶が必ず含まれているのですが、この手紙にはそうした挨拶が見られないことなどからです。
 今日の箇所最初の14節15節においても、「3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」と記されておりますが、受取手は誰でも捉えられるような言葉で記されており、そして、そうした特徴は全文書にわたっています。

近くの隣人、遠くの隣人
 今日、わたしたちは今年最初の聖日の礼拝に、集っているわけですが、年末年始といえば、様々な形で、過去を振り返る時であると同時に、未来をも見据えるときと言えるでしょう。
例えば、行く年を振り返る新聞記事やテレビ番組、そして来たる新しい年を予想する内容のもの、そうした記事や内容は、相関関係に基づいて、企画されているものです。またそうした内容のものを家族で分かち合うことによって、普段とは違う、日常生活の中では、触れられないような事柄について、分かち合う時を持つ、など、過去、現在、未来について考えるときとなるでしょう。
 そして、そうした時系列的な広がりだけではなく、空間的にも人と人の関係においても、広がりを持つ時です。実家に帰り、日常的には顔を合わせない懐かしい家族や友人に出会う。そして、クリスマスカードや年賀状で、挨拶を交わし合う。また、小田原教会においても、カードを送り、クリスマス献金を送っている。これは、その送り先は教会であったり、キリスト教関係の団体であったり、身近な団体であったりします。毎年、役員会において送り先や金額を話し合い、決定して、送っております。そうしたことも外部との関係、繋がりを意識する機会であります。
 そして、そうした機会に年に一度のことかもしれませんが、そうした関係の団体のために祈ってみる。日常が近い隣人とのためにあるとするならば、年末年始などは、遠い隣人との交流のためにあると言えるのではないか、と感じます。

神の愛の実践者として
 今日の箇所においては、信仰者に対して、個人としてのクリスチャン、個人としてのキリスト者に対する言葉と教会としての言葉という2つの視点からキリスト教信仰のあるべき姿が示されている、と感じます。
エフェソ書3章16節17節をお読みします。
「3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
 「心の内にキリストを住まわせ」と、あります。何か自然宗教的な神との同一化を謳っているというよりは、1人1人が神との結びつきを強めた、という理解で良いと思います。パウロ的に言えば、キリストが「喜ぶことを喜び、悲しむことを悲しむ」ことを示しているでしょう。そしてまた、その冒頭に「信仰によって」とありますが、「信仰」に当たるギリシャ語はピスティスという単語ですが、「信頼」とも訳せる言葉です。
 ですから、「主なる神への信頼によって」、キリストと共にある生き方を生き、さらに後半にありますように、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」として、生きていくことが示されております。ただ1人で、「愛の実践者」として生きることは出来ないかもしれない。しかし、神が共にいるという信頼、信仰によって「愛」の実践者として生きることが出来るだろう、という勧めです。

人知を超える神の愛
 そして、もう一つの角度から、キリストの愛について語られております。こちらでは、共同性、教会としての愛のあり方を示しております。3章18節と19節です。
「3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
 キリストの愛について「広さ、長さ、高さ、深さ」と4つの表現によって、その偉大さが示されております。この表現のおもしろさ、ユニークさから歴史的に様々な捉え方がされました。天国の広さ、を言っている。神から与えられる「嗣業」「財産」について述べられている。という捉え方などが歴史的になされてきました。ただ素直に、キリストの愛、主なる神の愛の偉大さが示されている、として受け取るべきでしょう。続く19節には「人の知識をはるかに超えるこの愛」とあり、人間の創造を超えて、働く神の愛に信頼しなさい、ということでしょう。
 しかし、自分の創造を超えて働く神の愛など必要だろうか、と感じることがあります。愛というものがあるのであれば、わかりやすい形で示して欲しい、と思わないでしょうか。自分が誰かに愛とまで言わなくても、思いやりをかけるとしたら、相手の感じる形で与えることが、一番わかりやすいものです。CMなどでも、「あなたのためだから」と言って、理不尽な仕事や作業を押しつけるものなどを見る事がありますが、そうした愛の形にならないだろうか。また、全体のための愛といっても、わたしたちは、全体にとって良いことだと言っても、1人にとっては、少なからず良いこととは限らないことがある。そんなように愛にはジレンマ、矛盾がつきものであります。

聖なる者との和解
 また、今の箇所には、そうしたジレンマ、矛盾が古代教会にも存在していたことを示す言葉があります。それは18節に現れる「すべての聖なる者たち」という存在であります。「聖なる者」とは、パウロが記した手紙、初代教会の文書においては、エルサレム教会の人々と理解することが出来ます。そして、そうした人々がいるということは、それ以外の人々もいる。エルサレム教会の人々とは、イエス様と直接に出会った人々、そしてそうした人々の身近にいた人々、ユダヤ人と理解することが出来ます。そして、エルサレム以外のユダヤ地方にいたユダヤ人たち、そしてそれ以外の異邦人たち、ユダヤ地方以外に住むユダヤ人たち、それ以外の異邦人たち。キリスト教が広がっていく中で、様々な地域、民族、文化を持つ人々に、福音が広がっていく中で、そうした違いを乗り越えていくためには、どうしたら良いだろうか、という疑問が出てくる。
 わたしが台湾に行ったとき、面白いなあ、と思ったのは、昔からヘビを自分たちの民族の神さまとしている先住民族のパイワン族の教会にいったのですが、創世記におけるアダムとイブの物語とヘビが誘惑する物語が礼拝堂の中央の回廊に、石のレリーフで描かれていました。そして、わたしたち民族の神は、この創世記にあらわれるヘビだったのだ、という考え方で、創造神話を受け入れている、ということだったのです。しかし、いわゆる正統的な神学、考え方でいえば、「ヘビ」とは、旧約聖書、新約聖書を通じて、好ましいとは考えることができない存在です。
 また、どうでしょうか?カトリック教会におけるマリア信仰をどのように捉えるでしょうか。更に東方正教会における祭儀、聖公会における祭儀、様々な違いがあります。同じ日本基督教団の中においても、それぞれの教派的伝統の中で、考え方の違い、教会観、教会への考え方が違うということはあります。おそらく、エフェソ書が記された時代、今あげたような違いなどより遙かに大きな違いがあったはずなのです。そして、そうした違いを、エフェソ書は主なる神への信仰と愛によって乗り越えなさい、とおっしゃっている。

教会の一致とは?

 今日の聖書の箇所において、語られている主なる神の愛が、わたしたちの想像を超えて、「広く、長く、高く、深い」ことが記されているのは、わたしたちの違いを超えて、神の愛が働いていることを示すため、と言えます。
わたしたちは、多かれ少なかれ、私たちの信仰には違いがありますが、それらすべての存在を神は愛しておられる。だから、あなたがたも違いがあったとしても、同じく神の愛されている存在なのだから、一つの群れ、として歩みなさい、と語られているのです。
 今日の箇所、エフェソ書3章14〜21節に続く、4章には「キリストの体は一つ」という小見出しがつけられており、4章2節3節には、キリスト者のあり方、教会のあるべき姿として「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と、愛によって一致することが求められております。

十字架による和解
 教会とは、建物のことではなく、そこに集う1人1人のことを指しています。イエス・キリストの歩みを通じて示された神に意志に答えて、聖霊の導きを信じて歩んでいこう、という者の群れであります。いうなれば、人の側の意志に頼るところが多い存在です。
 が、同時に、もう一つ、人の意志だけではなく、教会の歩みには、神の意志の働きがあることをエフェソ書は多くの箇所で示されています。エフェソ書1章23節には、このような言葉があります。
「1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
 「教会がキリストの体であり、そこには、神の力が満ちている、というのです。ただ単に人の力ではなく、同時に神の力が満ちているというのです。ルカ福音書に記されているイエスの言葉を思い出します。ルカによる福音書17章20節21節。(P.143)
「17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 わたしたち1人1人は不完全な存在であります。しかし、1人1人、主と共にあることによって、キリストに相応しい者とされています。そして、教会において、主なる神の信じる群れが共に神を信じることによって、わたしたちと共にあり、間に立つ「キリスト」と共に、神の国の前触れである教会において力強く歩むことが出来るのではないでしょうか。
 イエスは、主なる神への愛を「十字架」によって示しました。なぜ十字架だったのでしょうか?それはあらゆる文化や民族を超えて、弱い存在として、十字架への道への歩むことによって、すべての違いを乗り越える道を示すためだったと言えないでしょうか。イエス様は、すべてを捨てることによって、全てを得ようとした。すべての人を招いているのです。
 十字架上の死によって、わたしたちの罪を贖って下さった、とも言われています。1人ではなく、わたしたちの罪が一緒に贖われたのです。1人1人にイエスの十字架があるのではなく、イエスの十字架の贖いが一つなのです。同じ一つの十字架、一つの出来事を共有しているのです。教会の親石は主イエスであります。そして、イエスがキリストとされたのは十字架への道を歩んだからです。その十字架を道しるべに、主なる神に従う群れとして、また1人として、イエスさまに喜ばれる存在として歩みたいものです。


周縁自体


エフェソ
  1. 『神に倣う者として』エフェソ4:25-5:5(09/15)
  2. 『キリストは私たちの平和』エフェソの信徒への手紙2:11-22(05/19)
  3. 『十字架による和解』 エフェソの信徒への手紙3:14-21(01/09)