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『ヨナが欲しかったもの』(ヨナ4:1~11)

2012.07.06(08:56) 146

『ヨナが欲しかったもの』
(2012/7/1)
ヨナ書 4章1~11節

ヨナという存在
 預言者という存在は、旧約聖書において、大預言者として3名、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そして12人の小預言者として、ホセア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼファニヤ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキが知られておりますが、今日与えられた文書、聖書箇所の主人公のヨナ。実際に活躍した預言者と思われるでしょうか。どちからかと言えば、おとぎ話、何かを伝えようとして、物語られた物語として、捉えられることが主流であります。
 理由は二つほど、あげられます。一つは、ヨナが使わされた都市の問題です。ヨナが主なる神に預言者として招かれ、使わされた都市はニネベであります。ヨナ書には、ただ「ニネベ」とのみ記されておりますが、歴史的に言えば、イスラエル民族を苦しめた国家アッシリアの首都であり、ヨナが預言者として使わされ、記述にあるような事件が起こった、とはとても考えられないからです。そして、もう一つは、この預言書の終わり方であります。今日、与えられたヨナ書4章1節から11節。ヨナ書の最後の部分に当たりますが、なぜこのような終わり方をしているのでしょうか。預言者の歩みを記すためであるならば、その預言者の最後を記すなり、ニネベが救われて良かった、ということだけで終わるべきでしょう。しかし、ニネベが救われたことではなく、トウゴマの木に関する、主なる神とヨナの対話で終わっている。しかも別に、ヨナが神さまの言葉によって、考えを改めたとか、悔い改めた、ということも記されず、ただ神さまが投げかけられる言葉で終わっている。ある意味不思議です。しかしこう考えることはできないでしょうか。実は、このヨナ書は、ヨナの預言者としての歩みよりも、ニネベの町の人々が悔い改めた、神さまに立ち返ったということよりも、主なる神が、たとえ自分の愛すべき民族、大切であったイスラエル民族を苦しめた民であったアッシリアの民を赦したということを伝えようとしているのではない。そんなことではなく、自分を主として愛し、信仰する人々へ、この言葉をこそ、わたしたちに投げかけてたかったのだ、といえるのではないでしょうか。


ヨナの評価

 ヨナ書は、キリスト教の歴史においても、この物語自身が抱いているテーマの大きさゆえか多様性ゆえか、様々な読まれ方がされたものです。まずわたしたちが良く知っていることでいえば、無教会主義の先鋒であった内村鑑三は、ヨナ書を指して「旧約聖書の中の新約聖書」と言いました。その理由は様々な捉え方がされるでしょうが、やはり抑圧者であるニネベを赦すという神の姿に心打たれ、そして、その赦しに苦しむ人間の姿に自分を重ねたのではないでしょうか。これはわたしなりの捉え方がでありますが、明治初期の下級武士たちの少なくない人々がリスト教にこころ惹かれ、また献身したこととも関係するでしょう。江戸から明治にかけて、日本国内の価値観も変わる、その変化の中でもっとも苦しんだのは、下級武士たちがではないか、とも思われます。単なる「先の者が後になり、後の者が先になる」という革命では無い形の革命、未来を見たいのではないか。そうしたキリスト教のメッセージに日本のあるべき未来の姿、そして希望を見、自分たちが歩むべき地平を見たのではないでしょうか。
 そして、福音書においても、引用がありますが、イエス・キリストの死と復活の予告、モデルとして、捉える捉え方があります。ヨナは神さまの命令に受け入れることができず、反対側の船に乗ってしまいます。しかし、神さまの力によって、嵐が引き起こされ、クジ引きの結果、ヨナに原因があるとされ、海に投げ込まれてしまいます。このクジ引きで示されていることは、どの神様でもなく、ヨナの神さまこそがもっとも力ある神である示しているとも捉えられます。そしてヨナ自身の視点に立ってみます。ヨナ自身としては自分が納得できる方向、船を選んだはずです。しかし嵐とクジ引きの結果、要するに神さまに逆らったゆえに混沌とした海に落とされてしまう。人の意思の不完全性と神の意思の絶対性を示す事件ということができるでしょう。
 その後、ヨナは大きな魚に丸呑みされて、3日3晩の間をお腹の中で過ごし、ニネベの町近くに吐き出されます。この三日の間、ヨナは祈りを捧げており、ヨナ書の2章まるごとが当てはまります。その言葉の中では、詩篇のような響きがありますが、自分が命の危機にあったが、神の力によって救い出されたこと、そして再び神の御前、神殿に立つことが許されたことを謳い、神への救いを求めます。その結果か、ヨナは陸地に吐き出されて、ニネベへと向かいます。こうした箇所は、キリスト教の歴史において、3日間という時間から、キリストの死と復活と同時に、人の悔い改めのモデルと捉えました。三日三晩という時間、祈る、瞑想する、断食する、と。これはわたしの経験則ですが、たしかに三日三晩、断食すると、空腹感を乗り越えて、違う段階にいきます。人間というのは、意思を変える、悔い改めることについても、そのぐらいの時間がいるものかもしれません。

主に近づくこと
 そして、聖書の箇所としては、ヨナ書の3章に当たる箇所。ヨナは、観念してニネベに向かい、主なる神の言葉を与えられ、ニネベへ行き、悔い改めなければ滅びる、という言葉を、街中を歩いて伝えました。すると、その言葉を聞いた人々も、国の王は、その裁きの言葉を真実なこととして受け入れ、率先して悔い改めを示すための断食を行い、神に祈ったというのです。そして、その姿を見て、神はニネベの町を滅ぼすことをやめてしまいました。
 ヨナは、その主なる神の決定に対して、猛烈に怒っています。今日の箇所、4章の2節3節をお読みします。
「彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
 この文章、細かく読んでみますと、2つのおかしな点があります。一つは、ヨナの言葉の中で「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか」と言っておりますが、何もヨナ書の最初、召命においては、主の命令については、何も具体的なことが触れられていないのです。
1章2節をお読みします。
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
 ここで興味深いのは、神は何も具体的なことを言っていない、ということです。「悪はわたしの前に届いている」とはありますが、ニネベの人々を「裁く」とも「赦す」とも述べられていないのです。内容として整合性がないのです。一つの想像として成り立つのは、神は、このとき何も決めていなかった。しかし、ヨナの側で、主なる神はニネベの人々を助けるだろう、と決めてしまっているということです。
 ヨナの心はどのような思いでありましょうか。わたしたちの主なる神は憐れみ深い神であり、アッシリアの首都であるニネベの町であっても、悔い改めて、主なる神に憐れみを求めるならば、きっと赦す、と考えている。しかし、その赦しを容認できない自分、ニネベの町に対して裁きが降ることこそが、相応しいと考えているヨナがいるわけです。
 しかしヨナ自身も許されているのです。自らは神の命令に逆らって他の船に乗ったヨナでした。しかし魚のお腹の中において、赦しを求めている。しかし他人、さらに自分たちイスラエルの民に対して、苦しみをもたらしたニネベ、痛みをもたらしたアッシリア帝国を赦すことは、自分が赦しを求めることとは違う。当たり前のことかもしれません。しかし、人が神の前においては平等であるということを基本とするならば、人の側に必ず、ある種の不平等がある、神と人の愛の形に非対称性がある、ということになるかもしれません。ただ人には人の論理があります。あの人は罪深い人だ、不完全な人だ、という意識。誰もが持っています。しかし、このヨナの逸話は、そうした考え方を否定するもの、といえるかもしれません。

ヨナの立たされた地平 ~神の意思を受け入れる~

 キリスト者という存在は、信仰を持って、主なる神、イエス・キリストを主として救い主として、赦しを求め、そして聞きたいと思い、歩むとの決心をして、礼拝に集う、洗礼を受ける、という証があるわけです。これは神様への愛と言える事柄です。そしてもう一つの戒めと言うべき事柄。聖書にも、イエスさまのみ言葉にも、他者への愛、赦しが示されている。これはどちらも神様からの教えではあります。愛すべき事柄としては同じでありますが、感情の方向としては、まるっきり逆と言える事柄ではないか、と言えます。そして、わたしたちはイエスさまの様々なたとえを通して、心揺さぶられ、自分の信仰の姿、独りよがりな愛の形を問われ続けているわけです。
 いわゆる民族主義的宗教、またはセクト主義、カルト主義的な信仰であれば、自分たちのみが救われるべきである、ということで良いと思うのです。しかし、キリスト教の教え、指針としては、神さまの救い、主イエスはどのような存在であっても、救うべき存在として招いており、そして私たちにとって、それ自体が大きな問いとも言える事態なのです。
 こういう風に、この事態を説明できないか、と思います。ヨナは預言者として立たされ始めて、主なる神の意思の側に立って、その憐れみの深さを思い知った。そして、そんなところに自分は立てない、と考えたのではないでしょうか。
今日の箇所において、ヨナは一晩で出来て、一日で枯れてしまった「とうごまの木」に対することで、神に対して、「生きているより死んだ方がましです」とまで述べている。単なる植物、日よけの問題ということも出来ますが、ここには、自分を守る存在である自民族への視点がこめられており、他民族に対する救いを良しとしない、不完全なヨナへの導きとなっており、読み手のわたしたちすべての人への問い、招きと言える言葉なのです。
 ここで一つの想像をしてみたいのです。ヨナは、最初からニネベの人々は救われるべきではない、と考えていたのでしょうか。これは絶対にそんなことはない、と言えます。なぜなら始めて、自分がニネベの人々が救われるか、それとも救われないのかに関して、主なる神の招き、預言者として働きを求められたことによって始めて、問われたわけです。ある意味、神の招きを受けて、その判断をすべき地平に立たされたわけです。
 そして、わたしたちは誰もが、そうではないでしょうか。一般の生活の中で、日常の生活の中において、神への愛、隣人への愛というものを言葉にすることは出来ます。しかしそれを実際に、実現することは、とても困難なことです。そして、このヨナ書で問われていることは、理念的な「愛」、自分にとって都合の良い「愛」についての話では無くて、神の民として立てられた存在、神の招きを具体的な受けたとき、どうあるべきか?究極の選択に立たされたとき、あなたはどうするのか?それは自分自身の命、家族の命にも関わる問いかも知れません。また、自分を絶対的に迫害する者を神が許すとしたら、それを受け入れられるのか?そんな問いが投げかけられているのです。
 これはとても厳しい問いです。誰もが、神への愛、隣人への愛を、主イエスを通して、知らされております。しかし、自分の敵とも言える存在を許せ、と言われたら、どうでしょうか?またヨナのように積極的に、その敵のために働いて、その人々を救いなさい、と言われたらどうでしょうか。わたしたちは常にこうしたある種の不完全性を持っています。であっても、神はわたしたちを招いてくださっています。そして、その問いに正解があるわけでは無いでしょう。そして、だからこそこのヨナ書は、わたしたちの信仰に対して大きな問いとして立ちはだかるわけです。信仰を持つというのは、非常に観念的な事柄、個人的な事柄であります。しかし、わたしたちの主は、そんなわたしたちに対して、ヨナが問われた問いと問い、ヨナが立たされた地平にわたしたちを立たせられます。
 今週、どのような場面で、それぞれがそのような問いに私たちが立たされるかも知れません。しかし、その問いに立たされるかもしれない私たちは孤独ではありません。その問いにさえ、共に立とうとして下さるがわたしたちの主なる神であります。どうか、わたしたちが主と共に、主に従い、主の御旨を基盤にして、それぞれが良き道を歩むことが出来ることを祈りたい、と思います。


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ヨナ
  1. 『ヨナが欲しかったもの』(ヨナ4:1~11)(07/06)