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『預言者の問いかけ』 アモス書 3:1~8

2012.05.08(18:24) 131

『預言者の問いかけ』
(2012/5/6)
アモス書 3章 1~8節

預言者という存在
 預言者という存在。旧約聖書の中には、文書の名としては、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルという三大預言者、そして12人の小預言者たち、あわせて15名の人が名を冠せられた存在として、預言者として知られております。そして、これらの預言者のことをユダヤ教における伝統的な呼び方では「後の預言者」と呼びます。そして、ヨシュア記や士師記、サムエル記そして列王記などに登場する預言者たち、ヨシュアや士師たち、サムエル、エリヤ、エリシャなどが挙げられ、彼らのことを「前の預言者」という言い方をします。
 キリスト教の捉え方において、預言者とは、先ほど触れました「後の預言者」たち、文書として名前が付けられている人々、そしてはっきりと預言者であると記されているエリヤやエリシャが預言者であるという風に、広く捉えられていると思います。また時代状況において、預言者という存在の役割や捉え方も代わっていきます。例えば、サムエルという人は預言者でしょうか。ユダヤ教の伝統の中においては、確実に預言者の1人として数え上げられる人であります。しかし、キリスト教の捉え方で言いますと、預言者であるかどうか、半々というべき存在であります。というのは、預言者の一つの判断基準として、イエス以前に現れた神の意志を伝える者たちという言い方が出来ます。そして、ある種のカリスマ的な力を持って、神の言葉を伝えた人々ということが出来るでしょう。そして、もう一つの判断基準があります。それは王や祭司たちといったその時代における本来ならば主なる神の民であるイスラエルの民を正しく導くべき役割をもった人々を批判するため、過ちを戒めるため、に現れた存在である、という判断基準に、サムエルという人は合わない、適合しないからです。
 私も感覚的にいって預言者と言えば、その批判的な姿勢が思い浮かびます。イスラエルの民は、主なる神とシナイ山において契約を結び、カナンの地へと定住しました。その後、ヨシュアや士師と呼ばれるリーダーたち、そして数々の王がイスラエルの民を導きました。しかし、どうしても、人の意思の弱さの故か、時代が流れる中において神の存在が薄れてしまったのか、神との契約、約束から離れてしまう王や民が登場してくる。そうした時代に登場したのが、預言者でした。民を誤った歩みから糺すため、神の招き、召しによって、預言者は立たされ、その時代時代において、なすべき役割を果たし、語るべき神の言葉を語り、活躍しました。そして、その言葉が聖書に収められ、その聖書を通じて、私たちは時代を超えて、預言者の言葉を神の言葉として今も聞いているのです。

アモスの預言

 今日わたしたちの与えられましたテキストの預言者アモス。アモスは、時代的に言えば、紀元前8世紀、紀元前750年前後の時代に活動しました。
当時のイスラエルは国家が二つの分裂した状態の2王国時代と呼ばれる時代。その状況の中で、アモスは南ユダ王国出身でありながら、北イスラエル王国において活躍しました。アモス書の最初。1章から2章において、アモスはイスラエルの民の周囲の諸民族に対する裁きの言葉を順番に語っていきます。
 1章の3節から5節においては、アラム人の国家と、その首都ダマスコについて。イスラエルの北に位置するアラムという国家。後のシリアです。6節から8節においては、ペリシテ人の住む都市について。そして、9節10節においては、ティルス。北イスラエルの北方の港町、貿易で栄えていました。そして11節12節においてはエドム。イスラエルの民の南方に位置します。そして13節から15節においてはアンモン。ヨルダン川の東側の北方に居住する民族です。そして、2章1節から3節においては、モアブ。ヨルダン川の東岸の南方の居住する民族。聖書の物語として知られている民族では、ルツ記のルツがこのモアブ民族出身です。一つ一つ、丁寧に見ていきましたが、これらの民族はイスラエルと国境を接する民族で、日常的にも繋がりが深かった民族です。それらの民族に対する裁きを述べた後、南ユダ王国、北イスラエル王国、イスラエルの民の2つの国家に対する裁きを語ります。

選びの逆説
 今日与えられたテキスト。アモス書3章1節から2節をお読みします。
「3:1 イスラエルの人々よ/主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った/全部族に対して――3:2 地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。」
 アモス書1章から2章において、イスラエルの民の周囲の民族、国家に対する裁きが述べられた後、2章4節から18節において、南ユダ王国と北イスラエル王国への裁きが述べられます。南ユダに対する裁き、北イスラエルに対する裁きは内容も、単純の言葉の長さも長くなっています。「地上の全部族の中から」ただ一つ選んだ民であったのに、神の戒めを忘れてしまった。神の戒めに「選び」に応えて相応しく歩むべき存在だったのに、離れてしまった。だから厳しい裁きがもたらされる、というのです。
 旧約聖書の様々な箇所において、律法においても、信仰、神への信頼に対する恵みも大きいが、裏切ったとき、神への信仰を忘れてしまったときに裁きも厳しいものになる、という言葉があります。それにも通じる内容です。裁きがイスラエルの民の行いの結果責任である、ということです。戒めに対して、破れば罰がある。当然のことと言えます。しかし、ただ戒めを破ったために罰がもたらされたというだけではありません。神と特別な関係となったイスラエルの民、その民が主なる神の戒めを忘れてしまった。そのときの裁きは厳しいものになる、という宣告なのです。
 旧約聖書の内容全体を一言でいうのであれば、主なる神と「選ばれた民」の歩み、ということが出来るでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった族長たち、そしてモーセによって導かれた民は、民全体として主なる神と契約を結び、その徴として、カナンの地と律法を与えられました。
しかし、長い歴史の中で何度もその契約と戒めから離れてしまう。そんな民を神の様々な形で立ち帰らせようとする、良き方向へと導こうとする。そんなことの繰り返しと言えます。

アモスという預言者

 神に召された預言者たち。預言者たちの活動の内容は時代の流れと共に変化していきました。ダビデによって始まった王国が築かれてから、様々な形で活動を続けてきました。最初は、王に油注ぐ存在、王を任命するような存在でした。これにはサムエルが当たるでしょう。そして、王の相談役となっていきました。しかし時代の変化の中で、王も預言者の言葉に耳を傾けなくなっていった。そしてむしろその存在が邪魔になっていった。アモスと同時代に活躍したイザヤにしても、同じですが、王と会談するような機会は持っていた。しかし、王にとっては耳の痛いことを語るようになった。それは預言者の語る内容が変化したのではなくて、王のあり方、王の進むべき方向は変化した結果と言えます。
 アモスが北イスラエルの滅びを預言してからおおよそ30年後。実際に北イスラエル王国もアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます(722年)。アモスが預言した時代、北と南に分裂して200年余りある北イスラエル王国の歴史の中でも、もっとも繁栄していたと言っても良い時代でした。そのときに、アモスは厳しい審判預言を語っています。そんな繁栄の時代だからこそ、誰も彼の預言に耳を傾けず、アモスは自らの預言の言葉を書き記すようになった、と言われています。このように預言を書き記した預言者を「記述預言者」と言いますが、同じ動機で自分の預言を書き記した預言者や弟子たちがその言葉を書き記した預言者の言葉をわたしたちは読んでいるのです。そして、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった3大預言者と12小預言者は、その記述預言者に当てはまりますが、彼らの言葉はその当時に聞き入れられなかった。だからこそ、わたしたちはその預言の内容預言者の生の声を知ることが出来ます。
 3章3節から6節をお読みします。
「3:3 打ち合わせもしないのに/二人の者が共に行くだろうか。3:4 獲物もないのに/獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに/若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。 3:5 餌が仕掛けられてもいないのに/鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに/罠が地面から跳ね上がるだろうか。
3:6 町で角笛が吹き鳴らされたなら/人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら/それは主がなされたことではないか。」

 この箇所でアモスは、世の中の様々な事柄から、神がもたらす災いについて、語ります。人と人の繋がりから、動物の有り様から、鳥の有り様から、何かが起こる前触れに存在する必然があることを語ります。アモスは何を見ていたのか?そして、神はアモスを通じて何を伝えようとしていたのか?アモスが同時代の人が見ても、破綻の兆しとは感じないような何気ないこと、普通と思うようなこと、人によっては良いことだと思うようなことに滅びを見たのでしょう。

立ち帰ること/創造された世の中で
 そうした神が示して下さる小さいかも知れないけれども、たしかな徴。それが見えていないのか?今は小さなことかもしれませんが、それがやがて大きなものとなる。そうした流れは、いずれイスラエルの民全体を滅びに至らすことになるだろう。とても大まかに言ってそのような内容です。ある一つの存在の有り様に焦点を当てて、そうした状態がいずれその存在だけに縛られず、多くの人に広がっていく、そして将来いずれの日にか、その状態が国全体に広がっていく。民族全体に広がっていく、という警告であります。
 アモスが見たのは、何だったのか?アモス書の他の箇所から考えますと、弱い立ち場に置かれている農民や孤児などと言った社会的弱者に起こっていた飢饉や貧困、そしてそうした存在へは律法の規定に従えば、支援の手が差し伸べられるべき状況でした。しかし、それがなされていなかった。そして、それはあなたがた、イスラエルの民と神の関係が始まったときの姿ではないか。その人々の存在を見捨てること、無視することはいずれ自分たちの存在をおとしめること、また滅ぼす道に繋がっている、ということです。申命記の一節にこのような言葉があります。申命記7章6節から8節です。(P.292)
「7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
 小さく弱かった奴隷とされていたイスラエルの民。その民を多かったからではなく、「貧弱であった」からと神は語っています。アモスたち預言者が語る託宣、指針の根底には、この精神があります。そして、これが神の愛のあり方とも言えます。わたしたちの選びはどうでしょうか。強い者を求め、安定したものを求めるものであります。しかし、神の選びはまったく逆なのです。元々はとても小さく弱かったイスラエルの民でした。が、時代を過ぎる中で強く大きな民となっていきました。そうした中で自分たちがなぜ選ばれたのか、また自分たちが最初どういった存在であったかを忘れてしまった。最初はバビロンから遠くカナンの地にやってきた一家族、アブラハム一族でした。それがエジプトに下って数を増やしましたが奴隷でしたが、神に導かれカナンの地に定住するようになった。そんな自分たちの始まりを忘れてしまったのか、という思いがあるのです。
 預言者は常に神の側に立って、力強く、命を狙われようとも、その歩みを続けました。預言者が神から受けた預言の内容。旧約聖書においては、託宣と訳され、ヘブライ語では「マッサ」という言葉です。この「マッサ」には託宣以外にもう一つ「重荷」という意味があります。神の言葉を語ること、役割としても大きな負担があるでしょう。その内容から、周囲の人々や王に怒りを買うことも見えてことでしょう。今日の最後の箇所、7節8節においてアモスは語ります。「3:7 まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない。3:8 獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる/誰が預言せずにいられようか。」
主なる神が語られる。アモスはその言葉を言葉だけではなく、その精神、心、神の意志の根底にある愛を聴いたのではないでしょうか。アモスは言います。「誰が預言せずにいられようか」アモスたち預言者は、ただ単に神の言葉を機械的に語るロボットではありません。神の愛、神が民を思う気持ち、情熱に動かされている、と言えるのではないでしょうか。
 今の時代において、主なる神は、何に心を痛め、何に怒りを覚えているでしょうか。主なる神に招かれた民として、共に神の指針を求め続けたいと思います。


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  1. 『預言者の問いかけ』 アモス書 3:1~8(05/08)