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『主の正義を立てるため』エレミヤ書7:1-11

2013.07.13(11:02) 225

『主の正義を立てるため』
(2013/7/7)
エレミヤ書 7:1~11

エレミヤが生きた時代
 エレミヤの預言者としての活動のはじめ、ユダ王国においては、単一国家・単一の宗教を持つ民としての繋がりの基盤を保つために、当時の国王であったヨシヤが宗教改革を行い、エレミヤもそれに協力しました。異教の神々を排除し、カナンのバアル宗教の影響を受けていた各地の地方聖所を廃止します。そして、エルサレム神殿のみを礼拝の場所としました。多くの聖所において何百年にもわたって宗教的行事が行われていた場所を廃止することは大きな痛みが伴い、エレミヤ自身も家族から命を狙われるような立場に置かれました(エレ11:21-23)。が、主への信仰の精髄、異教の影響を排除するため、国家を守るための決断であるとすれば、誇るべき事かもしれません。
 ですが、その活動の後半期、ユダ王国は滅びへの道へとひたすら下り続けるような状況にありました。前半期に、そうした改革を断行したヨシヤ王の四代後の王であるゼデキヤのとき、紀元前586年、ユダ王国は、バビロニアという強国によって、滅ぼされてしまいます。エレミヤが主なる神の招きを受けたのは、紀元前627年頃、預言者として41年の歩みを歩んだとき、ユダ王国は滅んでしまったのです。エレミヤが証明を受けたのが、若輩ですから、と神の招きを拒んだエレミヤ、そのときが20代の前半であったとすると、おおよそ60代の頃にユダ王国は滅びてしまった計算になります。

この預言が語られた状況
 今日、私たちの与えられた御言葉は、そのエレミヤの活動期の後半の始まりを告げるものと言える箇所であります。エレミヤ書7章1節2節をお読みします。
「7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。7:2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。」
 エレミヤは、この言葉を神殿において語ります。そして痛烈に神殿に来る人々のみならず、王を含めて全てのイスラエルの民に対する厳しい言葉を投げかけます。
続く、3節4節。
「7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」
 エレミヤがこの預言を語ったのは、紀元前600年代、最後から数えて三番目の王であるヨヤキムの治世でした。エレミヤ自身は、預言者として証明を受けたのが、20代前半とすると、おおよそ20年から30年後、年齢は50代から60代ぐらいになっていました。そして、ここに記されているような預言を語ったことが原因になってか、当時の王であったヨヤキムは、エレミヤが神殿に立ち入ることを禁じてしまいました(エレ36章)。
 しかしエレミヤは、そんなことにもめげず、自らの言葉を弟子のバルクに書き取らせて、神殿の中で朗読させるということまで行います(エレ36:1-10)。この預言の内容を聞いていた王の書記官が役人たちがその巻物を取ってこさせて、ヨヤキム王自ら、預言の記された巻物を切り刻んで、燃やしてしまったことが記されています(エレ36:11-26)。

王たちの考え

エレミヤの活動の最後の時期の預言、王たちの外交政策に対する強い批判がありました(エレ26章/37章)。エレミヤは言うなれば、エジプトに支配されるにしても、バビロニアに支配されるにしても、ユダ王国の滅びは主なる神の計画であり、特にバビロニア帝国の力は、主なる神の力そのものであり、滅びに任せるべきだ、ということを述べています(7:14/21:9/27:12)。その中の一つの箇所、21章9節にはこのように記されています(P.1215)。
「21:9 この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。」
しかし、偉大な王ヨシヤを失った後のユダ王国の王たちはエレミヤの言葉に従う事はありませんでした。「命だけは助かる」バビロン捕囚の予告とも捉えられる言葉です。エジプトとバビロンという大国に挟まれている状況の中において、王たちは、エジプトについてバビロンに対抗することによって利益を得ようとするか、また逆にバビロンについてエジプトに対抗することによって利益を得ようとするか、そうした選択ばかり考えていたと言えます。
この言葉が語られた時代の王、最後から二番目の王であったヨヤキム、バビロニア帝国に従っていましたが、3年目に反旗を翻しますが、返り討ちに遭い、バビロニアの支配を強めて、余計に国力を落とす結果をもたらしてしまいます。(王下23:36-24:7)
 そして最後の王となったゼデキヤも同じでした。紀元前586年、ゼデキヤは、列王記25章1節から21節に詳しく記されておりますが、バビロニア帝国に反抗したところ返り討ちにあい、エルサレムを包囲され、遂には降伏しましたが、目の前で自分たちの跡取り、子どもたちを殺され、最後に目をつぶされて、鎖につながれてバビロンに連れて行かれてしまいました。そして、エレミヤはそのゼデキヤによって牢につながれておりました。そして国が滅びたことによって、解放され、エレミヤは失意の内にエジプトに下り、そこで最後を迎えた、と考えられています。

主の教えに聞く
今日の箇所に記されているエレミヤの預言に耳を傾けたいと思います。今日の箇所7章5節から8節。
「7:5-6 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。」
 ここで語られているエレミヤの言葉、大国の間で自らの国が滅びてしまうか否かの状況の中において感じることは、こんな悠長なことを言っていていいのか、ということではないでしょうか。国が滅ぼされるかも知れない、北にはバビロニア帝国、南にはエジプト、どちらもユダ王国のような小さな国など、いつ滅ぼしても構わない、むしろ本当の相手は、バビロニア帝国にとってはエジプトであり、エジプトにとってはバビロニア帝国である状況。自分たちがどのように生き残るか、ということしか考えられないのではないでしょうか。
 そんな状況の中において、エレミヤが語ることは、モーセによって与えられた律法に忠実であることです。自らの国を強くしよう、軍隊を強くしよう、といったことではありません。それとはむしろ逆とも言えることではないでしょうか。特に5節の言葉。
「お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さ」ないこと、と言った倫理的な教えを重んじなさい。そして、さらに異教の神々を従うことは、災いに至る道だ、というのです。

主の正義とは
 最初に触れましたが、エレミヤは、この預言を神殿において語っていました。時代的には、ヨシヤ王が亡くなってすぐの時期、新しい王が即位して新しい夢を見る時期とも言えます。そして神殿に来る人々、誰も彼も、自らの幸せな未来、またそれに連なる国の繁栄を夢見たのではないでしょうか。そのような状況の中において、エレミヤは、国の滅びを語る。誰もが、国の安定を望むのであれば、軍隊を強くして欲しいとか、今年の麦の収穫を上げて欲しいとか、隣国の不幸を願ったりもするかも知れない。
 しかし、エレミヤはそんなことは言わずにひたすら主なる神が、私たちに与えて下さった教え、律法の教え、特に5節6節に記されているような「お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」律法の教えに忠実であるべきだ、という忠告を行い、それが出来なければ、国は滅びる、と述べるのです。
 わたしたちはどのようにエレミヤの言葉を受け入れるべきなのでしょうか。自らが所属している国家なり民族が、その存亡の危機にあるとき、エレミヤが語る、隣人愛の教えや弱者を助けなさいという勧めを受け入れることが出来るでしょうか。そんな余裕があるだろうか、国を強くしなければならない、と考えるかも知れません。また、さらに国が滅びようとしているのであれば、むしろ自分自身だけでも、また家族だけでも助かる方法はないだろうか、と考えるのが現実的な私たちの行動ではないでしょうか。

王国に先行する神の義

 主なる神とイスラエルの民との歴史を振り返ったとき、「王国」という存在は絶対の存在ではない、ということが出来ます。最初、イスラエルの民の原点、ルーツは、アブラハムという族長であり、国家という存在からは疎外されたものであり、エジプトにおいても、奴隷として苦しんでいたのは、国家権力においてでした。更に、イスラエルの民、最初の王であるサウルを立てるときには、王という存在は、自分たちの娘たちを料理女、パン焼き女、息子たちは兵隊や農夫に徴用して、土地や収穫物も奪ってしまう存在だ、として王による支配を批判しています(サム上8章)。
 エレミヤに強く批判された王たち、王という立場において、国家を守るのは当然の責務であります。しかし、それは自らの立場を守るための行動とも言えます。また、5節で触れられているような「寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さ」ないといった倫理的な教え、また宗教的な「異教の神々に従う」ことや、9節にある「バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従」うということ。危機に陥ったユダ王国の中で、おそらくないがしろにされていたような戒めであると言えます。大国に滅ぼされるかもしれない危機の中において、大国の神々や文化を受け入れることは、融和的に大国と付き合うことは、イスラエルの民にとって必要なことであったかもしれません。しかし、主なる神はそうしたことではダメだ、というわけです。そうではなく、より小さな立場の人の立場にたって考えることこそ、私の教えの中心だ、と述べているのではないでしょうか。
 王という立場の中で、また一般の人々においても、国家というものを守ろうしたとき、倫理的な戒め、宗教的な戒めはないがしろになりやすいでしょう。しかしエレミヤは、王や一般の人々に向かって、国家を守ることよりも大事なのは何か、と問いかけたのではないでしょうか。そして、その問いかけが正当なものであり、根本的であり、本質的な問いかけだったからこそ、王たちの怒りを買うこととなったのではないでしょうか。

主の正義を立てるため
 イスラエルの民の歩みは、確かにこの後、国家という枠組みを超えて、歩み出します。バビロン捕囚以後、王を立てずに神殿中心の国家を築き、新たな歩みを歩み出します。ローマ帝国に支配されるなど、様々な帝国の支配を受けながら、最終的に国家という枠組みを失いながらも、ユダヤ人としての歩みを現在においても歩み続けているのは、神の導きと言えるかも知れません。また、イスラエル共和国という国家が存在しますが、国家としての形にこだわるあまりに、パレスチナ民族に対する不当な圧力を加える結果となっているのは、「国家」にこだわる弊害と言えるかも知れません。
 エレミヤはその生涯を通じて、主なる神の導きを語り続けました。そして、それは何のためであったか、と言えば、多くの預言者たちと等しく、ただ主なる神の義、正しさをこの世において、示すためでありました。7章10節11節をお読みします。
「7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」
 主なる神は、言うなればただお一人、まったき正しき存在であります。私たちがどんなに、その「正しさ」「正義」に憧れたとしても、わたしたちの正しさというものは不完全なものでしかありません。しかし、様々な形で、私たち自身が「正義である」こと「絶対である」ということを求めてしまいます。10節の「『救われた』と言うのか」も、11節の「強盗の巣窟と見える」というのも、わたしたちが得ること出来ない、正義、正しさを無理やりに実現した結果の言葉であります。
 わたしたちは不完全な存在であります。たとえ神の確かな真実の言葉であったとしても、確信を得ることが出来ないかもしれません。今日の言葉7章1節から11節の言葉が真実だったとしても、私たちはその不完全さから、「そんな馬鹿な」と受け入れることが出来ないかも知れない。イスラエルの民や王がそうであったように、特に危機にあるとき、国家が滅びるとする言葉を受け入れることが出来ないかもしれません。しかし、ただ私たちは、主なる神への信仰によってこそ、神の言葉に「正義」「正しさ」として受け入れることが出来るのではないでしょうか。
 どのような困難に思えるときでも、私たちを、良き道へと導こうとしている主なる神の導きを信じて、今週も歩み出したい、と思います。


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『子どもたちが帰ってくる』エレミヤ書31:10-17

2013.01.01(20:41) 180

『子どもたちが帰ってくる』
(2012/12/30)
エレミヤ書 31:10~17

エレミヤについて/回復の預言
 エレミヤはその活動の最後に、自らの民族の滅びを目の当たりにしました。エレミヤが預言者として活動を始めた頃、若者だったエレミヤは、ユダ王国では、単一国家・単一の宗教を持つ民としての繋がりの基盤を保つために、当時の国王であったヨシヤが宗教改革を行っており、エレミヤもそれに協力しました。異教の神々を排除し、カナンのバアル宗教の影響を受けていた各地の地方聖所を廃止します。そして、エルサレム神殿のみを礼拝の場所としました。多くの聖所において何百年にもわたって宗教的行事が行われていた場所を廃止することは大きな痛みが伴いました。が、主への信仰の精髄、異教の影響を排除するため、国家を守るための決断であるとすれば、誇るべき事かもしれません。
 しかし、そのような働きの故に、彼自身も祭司の出身でありましたら、出身地の親族から命を狙われるような状況がありました。また時の王に命を狙われるようなこともありました。そのような活動を重ねながら、年を重ねてきたエレミヤは、時代の変化を身に受け、晴れやかだった時代から国家の滅亡に陥るまで、ただ一心の神の意志に従って、預言者としての活動を続けた存在であった、ということが出来るでしょう。
 預言者と言えば、書いて字のごとく、神の言葉を預かり、語る役割を持つ者と言えます。しかし、預言者として働くことは、そのことだけではない。様々な事柄がつきまといます。神によって正しい事柄が知らされ、それを語ろうとする。その内容について、まず自らがどのように受け取るのか、という作業があります。エレミヤは、ある箇所で、神から与えられた託宣(言葉)を重荷である、と述べております。エレミヤが預言者として重ねてきた年月の中で、その思いはますます深まっていったのではないか、と感じます。なぜ、神が万能のであるのであれば、滅ぼされなければならないのか、しかし、それも主なる神を裏切り続けてきた民が受け入れなければならない運命なのか、という問いも抱いていたでしょう。
 今日の箇所が含んでいるエレミヤ書30章から31章は、そのエレミヤが語った、イスラエルの民の復興、神との関係の回復、神の民の復活の預言が集められた箇所であります。本当に、様々な言葉、表現によって、イスラエルの民が、主なる神の意志、力によって再び、エルサレム、シオンに丘を中心として、神の民としての繁栄を取り戻す、ということ。その繁栄は永遠に失われることはない、との内容のことが記されております。

回復の形

 エレミヤが予告した未来の姿、イスラエルの民が具体的に言えば、バビロン捕囚より解放されて、シオンの丘と呼ばれるエルサレムに神殿を再建し、再び主なる神に守られた民として永遠の繁栄をするというものです。しかし細かく考えてみますと「永遠の繁栄」と言いながらも、イスラエルの民が永遠に繁栄した、というにはとても考えられないような歴史を歩んでいるのがイスラエルの民ということも言えるでしょう。また、かといって永遠の繁栄を求め続けながらも、自らの繁栄、自分たちのみの繁栄を願い、その繁栄が、他者、多民族に対しての圧力として働くのだとしたら、「栄枯盛衰」、「おごれる者も久しからず」「やったらやりかえされる」といった形で、繁栄と苦難のときが循環してやってくるだけなのではないか、という疑問も出てきます。わたしたちの主なる神が与えてくださる栄光、祝福もそういった形のものなのでしょうか。そうではありません。
 聖書の中には、クリスマスにも読まれる箇所ですが、イザヤ書11章6節から8節に記されている言葉は、そうした対立関係を超えた形で、神の支配、神の民の繁栄がやってくる、ということを示しております。イザヤ書11章6節から8節をお読みします。(P.1078)
「11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」
 ここで猛獣の肉食獣と草食獣が仲良く暮らしているイメージが記されていますが、ここで猛獣は強い帝国や民族、小羊や小山羊は小さく弱いイスラエルの民のような国家や民族を指しています。そうした動物たちが争うことなく、和解し、一緒に暮らす、というのが平和であり、このような神の支配が実現する、という預言です。そして、さらにただ、動物たちが仲良くなるというだけではなく、「小さい子供」が、それらを導く、とあります。
ただ単に、無力な子供が、猛獣や他の動物たちを導く。たしかにそうしたことが実現したとしたら、それはとても平和な世界ということが出来るかも知れない。いざそれが実現するとなると、躊躇するのが大人たちでしょう。
ですが、この「子ども」が導く、というところこそ、聖書のメッセージの中心がある、とも考える理解があります

ラケルの涙

 今日お読みしましたエレミヤ書31章10節17節の言葉は、イスラエル民族の回復と永遠の繁栄が謳われる箇所であります。最初の10節には主なる神がまるで「羊飼い」が羊の群れを守るように、イスラエルの民を守ること、11節には主なる神自身が、民の罪を「贖い」、囚われた状況にある民を救い出すこと、支払わなければならない罪の代償を背負うこと、が語られます。
 さらに続く12節13節では、その繁栄の時、喜びの時には、詩的には、「おとめ」と喩えられるイスラエル全体、その民の中の「若者も老人」もどのような存在も喜び踊ることが歌われます。「祭司」が「髄」をもって潤される、とは「祭司」のみが食べられることが出来、貴重な部位であり、報酬として与えられている犠牲獣の取り分を食べきれないほどに得られる、ということです。
 が、次の箇所では雰囲気が変わります。31章15節をお読みします。
「31:15 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」
 ラマというのは、エルサレムの北にある10キロメートルほどの距離にある場所ですが、ここに登場するラケルとの関係は分かりません。そして、このラケルは、ヤコブの二人の妻の一人のことであります。ヤコブには二人の妻がおり、その二人は姉妹でした。姉のレアは、10名の子どもを産みましたが、なかなか妹のラケルはなかなか子供に恵まれませんでした。やっと生まれた子供が、ヨセフとベニヤミンであり、そのヨセフから生まれたのが、マナセとエフライムであり、それぞれマナセ族、エフライム族として、イスラエルの12部族の2部族を形成します。
 しかし、マナセ族にしてもエフライム族にしても、北イスラエル王国に属する、このエレミヤが預言した時代においては、滅びてしまった部族であり、北イスラエル王国に属していた民族は「失われた10部族」という言い方をするのですが、その滅びてしまった10部族の内の2つであります。そして、エレミヤが語る「回復」の希望、バビロン捕囚から解放されたとしても、回復する見込みのない民族であります。が、そのエフライム族。
ヤコブに愛されたヨセフの長男ということもあり、12部族の中でも、一番の高いくらいに考えられる部族です。その回復の見込みのない部族である、エフライム族。そして、その祖母、おばあさんに当たる人が泣き悲しんでいる。自分の孫に当たる部族が失われたこと、それ以外の部族が失われてしまった悲しみ、そんな悲しみです。
 15節の後半にあるように、まさに「慰めを拒む」ほどの悲しみでありましょう。どんな人であっても、身近な人を失った悲しみ、子どもを失った悲しみというのは、なかなか癒されるものではありません。

涙をぬぐいなさい/今という時代の中で

 しかし、16節において、主なる神が力強く宣言するわけです。
「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。」
 歴史的にいえば、ここで言われている息子というのは、エフライム族ではなく、ユダ族の人々です。しかし、ラケルに対して、言われていることは「息子」たちが帰って来るという言葉です。自分の息子ではないけども、イスラエル民族の子である、ユダ族が息子として、子どもが帰って来るのだ、だから「涙をぬぐいさない」という言葉なのです。
 ラケルの立場として、また一般的な母親の立場として、想像してみたいと思うのです。自分の子どもや孫を失ったとしたとします。しかし、その代わりにその子どもの兄弟や友人たちが与えられて、神さまに「涙をぬぐいなさい。自分の子どもとして育てなさい」と言われたらどうでしょうか。日本においては、養子というのはあまり文化として浸透していませんが、自分の子どもではない子の存在、帰還を喜びなさい、と主なる神が言う。

子どもたちがかえってくる

 こうした状況を受け入れられるでしょうか。母として、母に限らず、親として、自らの子どもではない存在が自分の子どもは帰ってこないけども、帰って来る。ある意味、代わりに帰って来る、その子の存在を喜びなさい、という神の言葉。
 この箇所、イエス誕生のときにも語られました。マタイ福音書においては、その箇所で、今日の箇所、31章16節がこのように触れられています。
マタイ福音書2章16節から18節。(P.2)
「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」」
 悲しみの先に、主イエスの誕生がある。しかし、考えてみたいのは、イエス様が誕生したときのことを預言して、この言葉はイエスの誕生物語にしるされているのではない、ということです。エレミヤ書における文脈を重んじるのであれば、赤子として誕生したイエスに注目すべきであるでしょう。そして、イエスの存在によって多くの人々が救われて、失われたはずであった神の民としての歩みを始めるのだ、というところを重んじるべき、と言えます。
 まだ、しばらくクリスマスを祝う時期が続きます。主イエスの誕生が、ただ主なる神の子、また神自身がわたしたちのところに来られた、という喜びの時であることは確かです。が、それだけではなく、同時のそれが「何のためであったのか」を考えたい、と思います。「失われた10部族」の悲しみに暮れていたラケル、その涙をぬぐおうとなさる主なる神は、辛い時代であったとしても、次の世代には幸いが与えられる、そのことを自らの子のことのように喜びなさい、と語りかけます。
 どのような辛い状況があったとしても、主なる言葉に信頼し、常に希望を持って、歩み続けたい、と願っています。


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『神だけに頼って』エレミヤ書28:1~17

2012.09.11(11:30) 160

『神だけに頼って』
(2012/9/9)
エレミヤ書 28章 1~17節

エレミヤと南ユダ王国の歩み
 今日の箇所、三大預言者の1人である預言者エレミヤと女性預言者のハナンヤの対決の記事であります。時代は南ユダ王国の末期、28章1節に「ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月」という時期が記されていますが、紀元前の593年、バビロニア帝国によって二度目のエルサレムの包囲があって、第2回の捕囚を受け、南ユダ帝国が亡んでしまう紀元前586年の7年前という時期です。
 エレミヤが預言者としての証明を受けたのは、この時期からおおよそ35年前、紀元前627年のことでした。そして、その当時の王はヨシヤと言い、南ユダ王国最後の繁栄を謳歌した時期です。エレミヤ自身の国内の宗教改革に関わりました。その時代、平和が維持され、多くの人が安定した生活を謳歌していました。エジプトやバビロニアといった強大な帝国の狭間にありながらも、直接的な武力攻撃などは起こらない安定した時代でした。
 しかし、時代の変化と共にその雲行きは怪しくなってきました。時代が動き出しました。北イスラエル帝国を滅ぼしたアッシリア帝国が新バビロニア帝国に攻め込まれて、滅ぼされそうな状況が訪れました。そして、そのアッシリアを支援しようとエジプト王が大群を伴ってユダ王国の領地を北上してきました。そのエジプトの北上に対抗した王ヨシヤは、戦死してしまいました。そして、ユダ王国は事実上エジプトの支配下に降り、戦死したヨシヤの息子であったヨアハズが王となりました。しかし、このヨアハズは、能力が高かったようで、エジプトによって1年も経たないうちに、このヨアハズを捕らえてエジプトに連れて行ってしまいました。そしてその後、エジプトの意志に従う王として、ヨアハズの兄であったヨヤキムが即位しました。そんな経緯によって王になったヨヤキムでしたから、事実上エジプトの傀儡政権であり、この時点で南ユダ王国はエジプトの支配に降ったと言える状態になったのです。

南ユダ王国の最後

 そして次に、バビロニア帝国の力が強くなり、そのヨヤキムの子ヨヤキンが新バビロニア帝国の意志によって王となりました。しかし、そのヨヤキンも新バビロニア帝国に反乱を起こして、遂にバビロニア帝国にエルサレムを包囲されて、ヨヤキンとその一族は、新バビロニア帝国に連行されてしまいます。これが紀元前597年に起こりました第1回のバビロン捕囚という事件、出来事です。
 そして、今日の箇所で現れる王ゼデキヤはそのヨヤキンの伯父に当たる人で、事実上最後の南ユダ王国の王となる人です。歴史を先取りしますが、これから11年後の紀元前586年、エレミヤの預言通りにユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされます。ユダ王家の多くの人々、ユダ王国の実力者たちのすべてがバビロニア帝国に連れて行かれてしまいます。帝国の軍勢にエルサレムが包囲され、さらに城壁の一部が崩されたとき(列王記下25:1-7)、最後の王となったゼデキヤは、都を捨てて逃げ出しましたが、エリコ周辺で捕らえられます。そして目の前で自分たちの跡取り、子どもたちを殺され、最後に目をつぶされて、鎖につながれてバビロンに連れて行かれました。そして、エルサレムの町も宮殿も神殿も焼き尽くされた、とのことです。ユダ王国が滅びる時、エレミヤはそのゼデキヤによって牢につながれておりました。そして国が滅びたことによって、解放され、エレミヤは失意の内にエジプトに下り、そこで最後を迎えた、と考えられています。
 南ユダ王国の最後の歴史を振り返りましたが、エレミヤはユダ王国末期の5人の王の時代を過ごしました。活動の初期には、ヨシヤによる安定した時代でありましたが、今や滅びようとしている時、ヨシヤの子であるゼデキヤ王に向き合い、王国のこれからの歩みをつかさどる責任ある人々の前に立って神の言葉を語ろうとしている、神の意志を伝えようとしているのです。

預言者ハナンヤと民の意識
 神殿において、エレミヤは預言者であるハナンヤと対決しました。預言者のみ記されていますが、名前から女性であることが推定されます。そして更にいえば、神殿に使える神殿預言者であった、と想像することが出来ます。今日のテキストの中にも出てきましたが、エレミヤは首に木の軛をつけて、神殿におけるこの場面に臨んでいます。
 エレミヤが首に付けていた軛とは、牛やロバが畑を起こすためや耕すために、大きな鋤などをつけるための道具です。木の棒に縄が突いたような形をしていたでしょうが、ちょうど人がつけるとなると木を肩に担いで、縄を首に回すような形になるでしょう。

 27章において、エレミヤがその軛をつけて、南ユダの王だけでは無く、周囲の諸国の王たちに対して、「バビロンの王ネブカドネツァルに支配される」という内容の預言を語りました。そして、他の箇所によれば、その支配によって多くの人は遠くバビロニアの都に連れて行かれ、そこに住むようになるということ(27:5-11)、また、その期間は70年もの長い時間になる(25:11-12)、という内容です。
 しかし、今日の箇所、エレミヤに対峙する預言者ハナンヤは、祭司や多くの民の前でこのように語りました。今日の箇所、28章2節から4節。
「28:2 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。
28:3 二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。
28:4 また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」」


ただ神だけを
 ハナンヤが語った内容は、エレミヤが語る預言の内容に比べて、まったく逆の幸福な預言の内容となっています。重い重税を課せられ、王族や貴族たちのほとんどがバビロンに連れ去れている状況、神殿における重要な祭具が持ち去られている状況があります。しかし、そうした状況が2年後には解決される、というのです。王や捕囚の民すべてが帰ってきて、バビロニアの支配から脱して、再び自由な時が来る、というのです。
 しかし、エレミヤはこの言葉に反論します。6節から9節。
「「28:6 預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。
28:7 だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。
28:8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。28:9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」」

 エレミヤは言うわけです。たしかにあなたの言葉が実現して、持って行かれた祭具や捕囚の民が戻ってくることは喜ばしい。しかし、これまでに現れた預言者たちは、そうではなかった、戦争や災害や疫病といった不幸を預言した。あなたが語る平和については、その平和が実現したそのとき、あなたが本当の預言者であるかどうかわかる、というのです。たしかに預言者たちの役割は基本的に、世の中の流れに対して、批判的なことを述べる役割があり、楽観的な王や地位の高い人々に対する警告であります。そして、だからこそ時に命を狙われるようなきびしい状況に陥ることもあったのです。
 そして、さらに言うのであれば、本当に平和が来るとしたら何もしなければ良いのではないか、それまで待っていてはどうか、というのがエレミヤの考え方でしょう。しかし、ここで語られている平和はそうではありません。2年後に自分たちは解放される、その実現のためにバビロニア帝国に反抗しようではないか、という内容なのです。そしてハナンヤはエレミヤが首につけていた軛をはずして打ち砕いて、神の預言として11節のように語るのです。「「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く。」」

木の軛ではなく鉄の軛に
 そこで、エレミヤは、その場を立ち去りました。ここで自らに与えられた預言とまったく異なる内容のことが預言として語られて、祭司やそこにいた民衆をあおったわけです。「偽の希望」によって安心させようとした、また主なる神の言葉を曲げて伝えた、とも言え、ハナンヤの末路を知っているわたしたちとしてはそれがどれほどの大きな罪であるかも知っています。そうするとエレミヤとすれば、その場で激怒して、反論してもおかしくはないのです。しかし、そうしないのがエレミヤらしさと言えます。
 エレミヤは、神から託宣を受け、神の意志を王や多くの人々に語っていました。しかし、誰もその言葉に耳を傾けようとはしませんでした。エレミヤは神の預言を語る立場でありながらも、人々から卑下され、不吉なことを言う奴だと嫌われ、時の王には政治的に邪魔な奴として、命をねらわれ、投獄もされる。さんざんな目に遭いました。しかし、彼は自分のためではなく、自らを迫害する迫害者のために泣き、涙しているのです。まるで十字架上のイエスのようとも言えます。

 そして、1人になったエレミヤは主なる神に新しい預言を与えられます。
「28:13 「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。
28:14 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」」

 木の軛ではなく鉄の軛で支配される、と言う預言。たやすく人の力では、バビロニアによる支配にあらがうことはできないということを示しています。歴史は、この言葉通りになります。「偽の希望」を語ったハナンヤは、この2ヶ月後に亡くなります。そして、南ユダ王国も、わずか7年後にバビロニア帝国に反乱を起こして、逆にエルサレムを包囲され、最初に触れましたように第2回の捕囚の憂き目に遭い、滅んでしまいます。
 わずか7年後のことです。しかし、わたしたちが考えなければならないのは、わずか7年後の事と言いながら、日本の政治状況を考えたとき、7年前の首相や政治状況をどれだけの人が思い出すことが出来るか、ということです。また、近いうちに選挙が行われますが、どれだけの人が確信を持って、確かな根拠によって、自信を持って政治家に対して未来を託すことが出来ているか、不安になることもあります。
 人の意志は、それほど移ろいやすいものである、と言えます。これは神学者ではないのですが、ある政治学者の人は「大衆は記憶力を鍛えなければならない」とおっしゃったことを思い出します。旧約聖書に登場する預言者たちは、主なる神の言葉を受け、神の導きに従って歩んでいました。その時々における政治的、社会的と言われる状況ではなく、常に神の意志に聞いていたこと、人の意志によるのではなく、神の意志に立ち帰ることによって、新しい指針を受けて、それを語っていました。
 それは人の意志を超えるものであり、時に捕囚のように苦しいものでもあったでしょう。しかし、神だけに頼って、歩む、という決断によって歴史を切り開いてきた、切り開かれてきたのが旧約聖書におけるイスラエルの民に歩みでした。わたしたちは主なる神を信じ、その祝福を求めています。それは人の意志、人の力によってはあらがうことが出来ない状況がやってこようとも諦めないことです。そして、そうした状況を無理にあらがおうとして、人は戦争や虐殺など、多くの過ちを犯してきた、と言えるのではないでしょうか。神だけに頼って、主なる神の導きを信じて、歩んでいきたいきましょう。


周縁自体


エレミヤ
  1. 『主の正義を立てるため』エレミヤ書7:1-11(07/13)
  2. 『子どもたちが帰ってくる』エレミヤ書31:10-17(01/01)
  3. 『神だけに頼って』エレミヤ書28:1~17(09/11)