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切り株から新しい芽が/イザヤ11:1-5

2015.06.22(20:57) 291

切り株から新しい芽が(イザヤ11:1-5)
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」(イザヤ11:1-2)
 「エッサイの株」というのは、大木が切り倒された後に、再び若枝が育ってくるというのですが、過去のつながりはどの程度、あるのだろうか。同じ株から出たのだから、同じ血脈からという受け取り方が自然であろう。
 先日、NTV特集の「小さな命のバトン」という番組を見た。熊本県にある慈恵病院という病院のお話でした。全国的には、「赤ちゃんポスト」を始めた病院として知られている。赤ちゃんポストを始めたことからか、数多くの望まれない妊娠をしてしまった女性たちの相談を受けるようになり、そのことを扱っていた。若すぎる妊娠や経済的な理由から育てることが出来ないという妊娠、そして生まれてくる子どもたちの生活の相談。
 そうした流れから、出産直後に新しい家族への子どもを預けるという活動が始まったのか、そうした活動から、「新生児特別養子縁組み」「赤ちゃん縁組」という働きが始まり、そのドキュメントであった。そして、これまで200組ほどの実績があるという話であった。
 新しく里親になる夫婦の多くは、それまで子どもを望みながらも与えられなかったカップル。病院が開く学習会などに通います。そして、あらかじめ組み合わせが決められた妊婦の陣痛が始まると連絡があり、病院へ駆けつけ、新しい生命の誕生を待ちます。ちなみに妊婦さんと、新しい生命の両親となる人は顔を合わせることがありません。
 番組の中である子どもの誕生が追いかけられていた。おぎゃーと赤ちゃんが誕生し、すぐに新しいお母さんのところへ、赤ちゃんが運ばれてきた。新しいお母さんも自らの子ども(養子)となる子どもの誕生ですから、妊婦さんが着るような服を着ています。そして子どもの誕生を喜び、涙します。そして、その子を産んだ母親は、その話を聞き、また涙したそうです。その2つの涙の意味は、同じでは無い。しかし、涙によって繋がることがあるのではないか、ということを考えさせられた。そして、この聖書の箇所における若枝のことを考えさせられた。断ち切られた木から若枝が育つ、というが、キリスト教の土壌でいえば信仰的につながること、ユダヤ民族的にいえば、血脈などを超えて繋がることを示しているのではなかろうか、と思わされた。更に言えば、民族も宗教も、「記憶」を共有するという点においては、共通するのでは無かろうか。

「11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」
 先の例で、「産んだ」母親と「育てる」母親が「涙」で繋がるように、思いが違ったとしても、人の持つ「弱さ」によってこそのみ、民族や宗教を超えることができるのではなかろうか。申命記7章7節には、このような言葉がある。
「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」
 「エッサイの株」から出てくる「若枝」に示されていることは、ただ断ち切られたものが繋がる、ということではなく、切り落とされた「痛み」によって神は救いを示すということではないだろうか。「強さ」ばかりが求められる時代である。その「強さ」に乗っていけなければ、疎外が起こり、分裂となる。そんな疎外や分裂を乗り越える働きとして「弱さ」があると感じる。

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預言者の言葉と平和について(イザヤ2:4など)

2015.05.18(14:20) 290

○先週の集団的自衛権に関する閣議決定から平和についてずいぶん考えさせらながら、説教を綴りました。

・イザヤ書2章4節の平和を考える上ではずせない箇所。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
・よく知られている言葉であり、預言者ミカ4章5節にも同じ言葉が収められております。(また更に、その逆の言葉が聖書には収められております。ヨエル書4章10節「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え。」)

・エレミヤ書6章13節から15節。
「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/わたしが彼らを罰するとき/彼らはつまずく」と主は言われる。

・エゼキエル書13章10節11節。
平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。

などが三大預言者の中における、はずせない箇所かな。そして重要なことと思うのは、旧約聖書における「平和」という言葉(ヘブライ語では「シャローム」)、実は、ただ戦争ではない状態を指すのではないということ。全人的な「平安」のことを指し、「貧しさ」や「飢え」が無い状態を指す言葉でもあったということ。
 預言者たちの多くが、単に戦争に対して、反対していただけでは無く、小さくされた者たち(寡婦、孤児、流浪の民)を代表される貧しい人々の飢えがあることに対して、主なる神の怒りの言葉を述べていました。
また現代社会においても、戦争を起こす国というのは、ほとんどの場合、「飢え」があったり、「貧富の差」が激しい国家であることが多い。遠い過去の預言者たちの言葉ですが、現代社会においても、聞くべき指針が込められているでしょうね。

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『救いの約束を語られて』イザヤ書51:4-11

2013.12.02(17:14) 243

『救いの約束を語られて』
(2013/12/1)
イザヤ書 51章 4~11節

救いとは何でしょうか?
 救いとは、なんでしょうか? またどのくらいの長さで、いつやってくるのでしょうか?預言者イザヤは、紀元前740年頃に預言者としての召命を受けて、預言者として活動しました。しかし、その活動における大半の時期は苦難に満ちたものであったと考えられます。また、その後、そのイザヤの預言活動を引き継ぐ形で活動した預言者がいました。その人物は名前も知られていませんが、旧約聖書学では、一般に第二イザヤ、(二番目のイザヤ)と呼ばれ、イザヤ書の40章から55章にあたる部分が彼によって語られた預言である、と考えられています。また、第三イザヤ(三番目のイザヤ)と呼ばれる人もいます。彼と言っても、個人ではなく集団であったかも知れない、とも言われていますが、彼らも預言者として歩みを歩みました。
 時代もそれぞれ異なります。最初にイザヤは、紀元前700年代南ユダ王国において活動し、いわゆるインマニエル預言、イエス・キリストの誕生の予告を語りました。第二イザヤと呼ばれる「二番目のイザヤさん」は、おおよそ紀元前500年前後、南ユダ王国の末期もしくは滅びた後に活動していた、と考えられています。彼は、苦難の僕の歌と呼ばれるいくつかの歌を記しました。ここにはイエス・キリストの受難の姿が予告されている、と考えられています。
 その一節をお読みします。イザヤ書53章1節から4節。(P.1149)
「53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」
 この後も12節まで、この詩(詩)は続きますが、ここにはイエス・キリストの贖罪の死。神の子イエスの死によって、人々の罪が赦された、神の子の命が献げられることによって、本来、人が負わなければならない罪が赦された、贖われた、という贖罪論が語られています。 そして、第三イザヤも同じように、神の救いについて語っていますが、それは遠い将来のこととして語られています。

とてつもなく長い時間の流れの中で
 イエスの誕生は、おおよそ紀元0年、三人のイザヤが活躍した時代からして少なくとも、500年ぐらいの時が過ぎています。どうでしょうか?わたしたちは日々、神に平和と自らの救いを祈りますが、それが500年以上先に与えられます、と言われたとして、どうでしょうか?たとえ、それが確実に与えられると確信を得たとしても、何らかの失望や疎外感を感じるのでは無いでしょうか。
 少し前に『10万年後の安全』という映画を見る事がありました。映画の内容は、世界で初めて立てられている核廃棄物の最終処分場オンカロに関するドキュメンタリー映画です。その最終処分場、フィンランドのオルキルオト島という島にあり地下500メートルの地下に分厚いコンクリートによって何重もの防御を施して建造されています。10万年という途方も無い間、誰も近づかないように、外に漏れ出さないように保存しなければならない、として建造されて施設です。ちなみに10万年さかのぼれば、人類としてではなく、ネヤンデールタール人とかクロマニヨン人とかという時代にさかのぼってしまいます。
 そんな途方も無い10万年という時間の話の中において、一つの議論が行われていたことが印象的でした。それは、途方もない時間の流れの中で、人類が既に滅亡していて、さらにまったく人類の歴史を受け継いでいない生命体が、その場所を掘り起こさないようにはどうしたら良いだろうか?という議論がなされていたことでした。どうでしょうか?さまざまな議論が為されていました。たとえば、針などのとがった建造物で覆って如何にも危なそうにしてみたらどうだろうか?また、ここを開けたら様々な被害が出る、ということを壁画に書いてみたら、どうだろうか?ムンクの「叫び」の絵をはる、「絶対に開けてはならない」と記す…。しかし人類のように、好奇心がある生命体であれば、どんなことが書かれていたとしても、開けたくなる物ではないでしょうか。そんな議論の中で、忘れることが大事、という意見もありましたが、そんなことが可能でしょうか。
そして一つ絶望的なことと言えば、フィンランドの原子力発電所は4基のみです。それに比べて、日本には54基もあります。そして、地震国で火山や温泉も出て来る。10万年も安定している地層、場所などあるのでしょうか…。
 聖書の話に戻りますが、神の恵みは、どのくらいまで与えられるのか、ということが記されている箇所もあります。とてつもなく長いという比喩ですが、こんな箇所があります。出エジプト記20章4節から6節。(P. 126)
「20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」
 「幾千代」というのは、何千世代も、ということですが、たとえば5000世代として、1世代を30年とすると、15万年となります。これはあくまで比喩的な表現ですが、神さまは15万年にも渡って、人類を助けてくれる、とすれば、核廃棄物が無害化されるまで、わたしたちは守られる、という話になる。しかし、わたしたちは主なる神に、救いや平和を求めるとき、それはどの位の時間のことで、どの位の面積や人の幅でのことでしょうか。700年後また500年後のことを考えられるでしょうか。人類全ての人の救いや平和を願っているでしょうか。おそらく、もっと短い範囲や狭い範囲で物事を考えてはいないでしょうか。

私たちが求める救いと平和
 今日の箇所に記されている言葉は、主なる神が第二イザヤを通して語られた救いの約束であります。51章4節をお読みします。
「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」
 51章の1節2節には、アブラハムとサラの名前が登場し、さらに3節には「エデンの園」という言葉が登場します。3節において「わたしの民よ」と語りかけられている民に対して、自己紹介のように神との関係を示しています。そして、6節において「51:5 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ」とありますが、「正義」というのは、ヘブライ語で、ツェデクという言葉で、「神の義」(神が示す正しきあり方・生き方)を示しており、それに従ってあゆみなさい、それが救いに至る道ですよ、というが語られています。そして、6節か8節において、その救いが単なる一個人や民族の救いや裁きに留まらず、神の救いは、空間的な形で現れる、と宣言します。続く9節をお読みします。
「51:9 奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに/遠い昔の日々のように。ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは/あなたではなかったか。」
 「奮い立て」という言葉は、荒野の時代、族長時代(アブラハム・イサク・ヤコブ)のイスラエルの民に源流(ルーツ)がある言葉だと考えられています。「起きよ」と訳されている翻訳もあります。荒野における心細いような状況の中で、例えば家畜を襲う猛獣や他の部族の襲撃を受けたときに、自らを奮い立たせるような言葉と言えるでしょう。
 そして、「ラハブ」というのは、神話の上での怪物で、いわゆる天地創造の前の状態のこの世、天と地が別れる以前、地上が地上として、空が空として形づけられる以前の状態。混沌の中に存在する怪物と考えられています。主なる神は創造の主、この世の形作られた存在、秩序を創造した存在であります。このラハブは、その逆の働きをするもの、破壊する存在、混沌を生み出す怪物であります。そうした怪物を打ち破るのは主であるということ。そして10節には、「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ/深い海の底に道を開いて/贖われた人々を通らせたのは/あなたではなかったか。」と記されていますが、モーセによって導かれた出エジプト。その中において、荒野を行くイスラエルの民を追いかけてきたエジプト軍から逃れるために、海が割れて歩むことが出来た、という過去における主なる神の働き、神の力がこの世に現れた事件について記します。そして最後、11節において、すべての「嘆きと悲しみは消え去」り、「主に贖われた人々は帰って来て」「とこしえの喜び…と楽しみ」を得ることが出来る、と救いの約束が語られます。

イザヤが語った救いとは?

 今日の箇所に記された言葉。未来に関する救いを述べられています。そうした救いの様々な形で語られるのですが、この箇所の特徴を挙げるとすれば、単に、「イスラエルの民が戦争に勝つ」とか「自分たちの国を得る」とか「とっても強い敵国を倒す」とかではなく、その救いが時間的にも遠い過去から、さらにこの世の創造にまでさかのぼり、天地創造という空間的な次元にまで至る広い形で語られている点が特徴的なことです。それは言うなれば、これから来るであろう「救い」の大きさを語るための基盤、礎となっています。そして、その救いがたとえ遠い未来であろうとも、その大きさの故に待ち続ける、という気持ちを生み出している、と言えないでしょうか。
 旧約聖書に記されたイスラエルの民、主なる神に導かれた民の歩みは、神と共にありながらも困難な歩み、歴史でありました。エジプトでの奴隷状態、アッシリア帝国における支配と北イスラエル王国の滅亡、そして南ユダ王国もバビロニア帝国によって滅ぼされ、バビロン捕囚という憂き目に遭います。しかし、そんな困難がありながらも、ひたすらに主なる神の救いを、約束を待ち続けられました。そして、ある意味で言って、現在あるイスラエル共和国のユダヤ教徒たちは今なお、その救いの約束を待ち続けています。またキリスト教徒も同じであります。わたしたちが生きている内に「神の救い」はやってくるのだろうか、主なる神によって「永遠の平和」はやってくるのだろうか。とても、自分がこの世にいる限りは無理ではないか、また実際に天に帰っていった人々もいるだろう、という思いを持っています。しかし、そんなことを思ったとしても、絶望しない、というのが信仰というものではないでしょうか。
 主イエス・キリストの歩みによって、示されたことは、神が私たちの苦しみを共に背負い、共に歩んで下さっている、ということです。そして、わたしたちが平和を望むのであれば、その根底にあるのは、聖書に記されているような苦しみが癒されること、二度と多くの苦難の状態を生み出さないために祈ること、それが自分だけ、自分たちだけで無く、すべての人に至るまで拡がることを望むということにつながっていくのではないでしょうか。
 例えば、それは日本における平和主義でも同じでは無いでしょうか。現在の憲法に刻まれた不戦の誓い、平和への願い。その根底には、アジア各国また日本国内においても多大な被害をもたらした大きな戦争、過ちがあり、だからこそ不戦の誓い、平和の誓いを立てました。しかし、それは孫までのこと、ひ孫までのこととして限定されるものなのでしょうか。だったら、最初から誓わなければ良い。また、50年限定とか80年限定とか記しても良かったのではないか。戦後68年が過ぎ、過去の戦争の記憶が薄れ行く中で、再び同じ過ちを犯す危険性を高めている今の時代、今一度考えなおさなければならない課題でしょう。

救いの約束を語られて
 今日からアドベントです。クリスマスを待つ時、ロウソクに一本の火が灯りました。これから、一本ずつ、炎のついたロウソクが増えていき、クリスマスに近づいていきます。 今日の箇所イザヤ書51章11節をもう一度お読みしたい、と思います。
「主に贖われた人々は帰って来て/喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき/喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る。」
 「喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る」とはどういう状態、又最初にもうかがいましたが、「救い」とはどういう状態でしょうか。これは聖書はこう語っているということではなくて、私のこうであって欲しい、という思いですが、その状態が「永遠に続く」ということではないか、と捉えたいのです。限られた時間の平和や安定ではなく、自分の世代や子どもの世代だけでは無く、まさしく「幾千代にまで」及ぶような平和と秩序が現れた時こそが、「喜びと楽しみを得/嘆きと悲しみは消え去る」ときと言えるのでは無いでしょうか。厳しい時代になればなるほど、人というのは、刹那主義的に「戦争と平和は繰り返す」とか、今のことに精一杯になってしまい、未来のことを考えることが出来なくなってしまうかもしれません。そうしたあり方は、わたしたちが様々な経験を重ねる中で、毎日続く日常の中で陥ってしまう現実的な考え方かも知れませんが、同時に、ある種のニヒリズム、神を忘れてしまったような思いとも言えないでしょうか。
 クリスマスにおいては、イエスさまがもっとも小さな赤子として、人知れず誕生しました。その姿に、私たちは感動を覚えます。何故か?私たちのはじまりを見るからでは無いでしょうか。親や他の人の助けが無ければ、生きられなかった私たちです。そんな私たちが、何かを諦めてしまったり、決め込んでしまったり、あまりにも安易であり、くだらないことと言えないでしょうか。主なる神は、わたしたちが想像もつかないような時の流れの中において、救いを実現されると約束して下さいました。その神の「救い」の大きさを信じ、大きな希望を持って、今日から始まるアドベントの日々を歩みたい、と思います。

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「切り株から一つの芽が」(イザヤ書11:1-10)

2012.12.08(07:01) 177

『切り株から一つの芽が』
(2012/12/2)
イザヤ書 11章 1~10節

クリスマスについて
 アドベントに入りました。イエス・キリストの人としての誕生を祝う期間に入りました。今、「誕生を祝う期間」という話をしましたが、クリスマス・イブ自体も、イエス・キリストの誕生日を祝う日では実はありません。イエスさまの誕生日がいつかというのを、キリスト教的には、プロテスタント教会も、カトリック教会も、12月24日の夜にイエス様が誕生したんだ、と信じている、考えているわけではなく、いつが誕生した日であるか、分からないけれども、この日にお祝いしましょう、ということに祝っているわけであります。
 3世紀頃に12月25日に祝うようになりましたが、それ以前には、年を超してから1月6日に祝うという考え方もあったそうですが、最終的に、この日は決定されました。なぜこの日になったか、と言えば、もともと12月25日は、ローマ帝国における太陽神のお祭りの日であったから、その日になったと言われております。主イエスは、この世の希望であり、光である、という考え方からしますと、一年で一番の一日の短いこの時期、より光を求める気持ちが大きい、この時期をイエスの誕生を祝う日としたのは、非常に的を得た考え方であったと言えるでしょう。
 また、こんなお話しもあります。日本におけるプロテスタント教会の多くが、12月24日の夜、クリスマス・イブに礼拝を行い、クリスマス礼拝としては直前の聖日(日曜日)をクリスマス礼拝として行われます。しかし、なぜ12月25日に行わないのでしょうか。カトリック教会では、例えば12月25日の午前0時より、クリスマスのミサが行われるところもあるそうです。夜中の0時からです。ちょっと大変だなあ、と思いますが、さらに12月25日に朝にミサを行う、という話も聞きました。しかし、プロテスタント教会においては、12月25日は礼拝を行うという話はほとんど聞いたことがありませんが、これには言われがあります。それは、大正時代までは、プロテスタント教会も12月25日に祝っていたそうです。しかし昭和の時代に入るとしなくなったと聞きました。なぜか?実は大正天皇が亡くなったのが、12月25日だったということが理由だそうです。いろいろパターンがあるそうですが、調べてみました。
強制的に祝うことを辞めさせられたと思いましたが、調べてみると、そうではないそうです。あくまで自粛したというのが事実のようです。おそらく天皇が亡くなった日にお祝い事をするとは何事だ、という視線を気にして、キリスト教会が自分たちの意志で、自粛したというのが、実際でしょう。しかし同時に12月25日は、1947年まで休日となって、クリスマスが日本に広がることに貢献したという評価もあるとのことでした。

預言者イザヤが活躍した時代
 今日わたしたちに与えられましたテキスト、聖書の箇所は、イザヤ書11章1〜10節。いわゆる「メシア預言」「メシア予告」と言われる箇所の一つであります。イザヤ書は、三つの部分に分れており、それぞれの「第一イザヤ」「第二イザヤ」「第三イザヤ」と呼ばれ、それぞれ書かれた時代、人物が異なることが前提として広く読まれている預言書であります。今日の箇所11章は、最初のイザヤ、第二、第三イザヤは別の名前があったとして、イザヤ本人による預言であります。
 今日の箇所、時代的には紀元前700年頃。ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル王国が分裂し、北イスラエル王国も南ユダ王国も北の大国として君臨していたアッシリアが、その歴史上最大の繁栄期を迎えていた時代の預言であります。最初の箇所11章1節2節をお読みします。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」
 「エッサイの株」とありますが、二つのことをここから読み取ることができます。エッサイとはダビデの父親のことで、ダビデ王家を指しております。ダビデ王家は、主なる神の恵みに代弁者であり、ダビデ王家を通して、主なる神の恵み、力がイスラエルの民に降っていました。しかし今、その大木であったダビデ王家が切り倒されてしまい、切り株しか残っていない状態である、ということです。
 そして、その株から「ひとつの芽が萌えいで」る。「その根からひとつの若枝が育」って、神の民をメシアとして導くということです。そのメシアには、神の霊がとどまる、知恵と識別、思慮と勇気、主を知り、畏れ敬う霊がとどまるのだ、そうした神の力を持って、主なる神の民を導くのだ、という約束が語られているのです。

メシア信仰(ダビデ王家)
 ここで語られているメシア、救い主は、キリスト教にとって、イエスさま、イエス・キリストのことであります。「キリスト」とはギリシャ語における救い主という言葉、「メシア」はヘブライ語における救い主を意味します。さらにメシアといえば、イザヤが活躍した時代においては、ダビデ王家から生まれてくる、と信じられておりました。そうした信仰、考え方が大きく表れているのが、マタイ福音書冒頭の家系図であります。アブラハムから始まり、14人目にダビデ、更に14人目にダビデ王家最後の王エコンヤ、がおり、そこから14人目にイエスが生まれる、という系図ですが、ここにはダビデ的なメシア信仰が現れている、と言えます。
 ここで言えることですが、一方には、ダビデの子孫、「ダビデの子」というメシア信仰によるイエスの誕生という側面、ここには、神の約束の子、まさに今日お読みしましたメシアが「エッサイの株」であるダビデの血統であるヨセフの家に生まれた、という信仰が現れています。しかし、一方で神の霊によってマリアは身ごもりイエスは誕生している。言ってしまえば、ヨセフの家であることは関係ない、とも言えてしまう。ここには神の力が人間の力であるとか思いであるかを超えて働いている、という信仰が見られる。そうした意味で言えば、イエスの誕生は、主なる神と民との何百年もの約束の実現という部分と、主なる神の一方的なまさに人間の想像を超えた業という二つの側面を持っている、ということが言えます。
 さらに読み進めますと、3節から5節において記されているのは、王としての役割です。裁きと記されていますが、裁判や政治をつかさどることについての描写と言えます。

メシア信仰(創造論的)
 しかし、6節からの箇所には、王としての役割とは言えないような描写が記されています。6節から8節をお読みします。
「11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」

 ここに記されていることは、争い合う国家同士が和解する平和のイメージ、そしてもう一つの読み方としては、神の業によって表現するとしたら、7日間でこの世を創造したときのような楽園のような場所が来る、ということです。
 神が七日間で、この世を創造したとき、まさに理想郷がそこにありました。そして、その場においては、6節から8節にありますように「狼と小羊」「豹と小山羊」「子牛と若獅子」が仲良くしている状態であり、子供であっても、平和に肉食獣と戯れるときをもつことができた、と言えます。それは、人が神の戒めを破る以前、人が知恵の実を食べる以前において、人は耕すこともなく、出産の痛みもなく、死ぬこともなかった。そして皆、その中に生えている木の実を食べて暮らしていたそうなのです。そして、そこにはここに記されているような肉食獣も含まれていたと考えられるのです。
 そうすると、この言葉、主なる神がこの世を創造したときのような理想的な世界が再びこの世に現れるのだ、という予告と捉えられます。そして更に加えて言うのであれば、先ほど、ダビデ王の子孫としてのメシアというのが、人間社会におけるメシア信仰、メシア期待というのであれば、ここにおいては、自然すべてにおける神の支配を成すメシアが到来する信仰、メシア期待である、と言うこと出来るのです。

700年間という時を超えて
 イザヤは紀元前700年頃を生き、この預言を語りました。その後、イスラエルの民の歩みは、どのようなものだったでしょうか。この100年後ぐらい、586年に、北イスラエル王国に続いて、イザヤが活動した南ユダ王国も、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。その後、イスラエルの民の主だった人々がバビロンに連れ去れたバビロン捕囚という時代が50年ほど続きます。バビロニア帝国がペルシア帝国によって滅ぼされたことによって、ユダヤ人たちはカナンの地に戻って、再びバビロニアに壊されてしまった神殿を建てて、歴史を繋げるかと思えば、アレクサンドロス大王のマケドニア帝国の支配、アレクサンドロス大王の死後は、その部下がつくった王朝の支配を受けます。その支配が200年ほど続いた後、一時期、独立を勝ち取りますが、紀元前の64年、ローマ帝国によって支配されて、イエスの生きた時代へ至ります。
 イエスが生まれた時代、ローマ帝国に支配されてから60年ぐらいの時期です。イスラエルの民、あの時代においては、ユダヤ人と呼ばれた人々はどんな思いをもっていたでしょうか。王は、ヘロデという王様でしたが、もともとはこの人、ユダヤ人ではない王様で、ローマ皇帝に愛されて王になった人です。ユダヤ人のことを考えて政治をつかさどると言うよりは、ローマ皇帝の方ばかり見ていて、自分の立ち場を守ることばかり考える人です。
 ユダヤ人の大切にしている文化ではなく、ローマ的な価値観を組み入れようとしていました。また、イエス様の誕生物語には、救い主メシアの誕生を畏れて、何人もの赤ん坊を殺した、という逸話が記されておりますが、自分の地位を守るためであったら、息子や兄弟であっても、殺してしまうような人です。優れた王、理想的な王というにはほど遠い人物でした。そんな王に希望を抱くことはできないでしょう。
 主なる神に祈る場所である神殿、そこに使えている祭司、その頂点の大祭司はどうでしょうか。大祭司でさえも、ユダヤ人の悲しみを受け取る存在、希望をかける存在とはいえませんでした。ローマ帝国の支配下になってからは、ローマ帝国やヘロデ王の意志に従わない大祭司はすぐに追放されたり、命を奪われたりします。そんな状態ですから、祭司にしても、その頂点の大祭司にしても、希望をかける存在とはいえなかったでしょう。

イエスの予告として

 そんな時、時代にイエスは生まれたのです。今日からアドベントです。クリスマスを待つ時、ロウソクに一本の火が灯りました。これから、一本ずつ、炎のついたロウソクが増えていきます。明かりの数は、希望が近づいていくことを示しております。
 11章1節2節をもう一度お読みします。
「11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」

 どんなに希望がないと感じるときであっても、小さな希望があるはずです。取るに足りない小さな芽かもしれませんが、そこにこそ、神の救いがあると信じ、この週を歩みたいと思います。


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イザヤ
  1. 切り株から新しい芽が/イザヤ11:1-5(06/22)
  2. 預言者の言葉と平和について(イザヤ2:4など)(05/18)
  3. 『救いの約束を語られて』イザヤ書51:4-11(12/02)
  4. 「切り株から一つの芽が」(イザヤ書11:1-10)(12/08)