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『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)

2019.09.03(18:53) 395

『マルタかマリアかを超えて』
(2019/9/1)
ルカによる福音書 10章38~42節

ラクに行こうぜ
 もう亡くなって10年にもなるが、忌野清志郎というロックミュージシャンがいた。彼の世界観や言葉のセンスが好きで、けっこう聴いていた。RCサクセションというバンドでも有名である。派手なパフォーマンスや化粧で目立っていたが、音楽的に何が優れていたか、と言えば、日本語が持つ、そのままのイントネーションで、いわゆるロックミュージックをやったところに新しさがあったらしい。彼の曲の中で、こんな曲があります。
「幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ
 幸せを探してる ずいぶん長い間 幸せを探してる でもまだ見つからない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ジタバタしたって 始まらないのさ
 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ラクに行こうぜ グッグッグ
 ジタバタしたって 始まらないのさ 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah
 幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない Oh Yeah
 ラクに行こうぜ グッグッグ Oh Oh 頑張りたくない No No No 頑張りたくない
 幸せになりたいけど Yeah でも頑張りたくない 頑張りたくない 頑張りたくない 」

 確かに、私たちは幸せを求めて生きているが、なかなかそれがどこにあるのか、また幸せになろうとする努力で疲れ果てている、という人もいるかもしれません。また、どうでしょうか?クリスチャンという人種、キリスト者という人々は、幸せになるために、とは言わないが、この世の中、この世界、この国、また自分の身の回りをよくしようと努力する、ということが当たり前のこととして、またそうしなければならない、と自分に強いていないだろうか。今日の箇所においては、マルタのような態度かもしれません。

マルタとマリア
 マルタとマリアという2人の姉妹は、ルカのこの箇所以外にも、ヨハネ福音書で、イエスによって甦りを経験したラザロのきょうだいとして描かれています。ヨハネ福音書の中でも2人は対称的な存在として描かれています。マルタは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:17以下)とイエスから問われ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えた、つまり信仰告白を行った、などという記述から、行動と実践的生活の人としてとらえられる。
 一方、マリアはイエスの足下に座って静かに耳を傾ける姿や、食事の席で高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、といういわば「葬りの儀式」を黙って行ったエピソードから、黙想と理論的な人としてとらえられている。これは後の時代に、この2人の姉妹をめぐる解釈の中で、より明確にそれぞれの特徴が分けられ、イエスの言葉を根拠として、捉えられていき、ついには今日の箇所のイエスの言葉から、キリスト者としてはマリア的な姿勢、存在の方が優位であるという理解に発展していったと考えられるようになったと解釈できる。

マルタの思い、マリアの思い
 そんなことをベースにして、もう一度、今日の箇所を読み返してみたい。たくさんの客人が来て、マルタが給仕を行い、マリアはイエスの言葉に耳を傾けるために座っていた、とある。そして、マルタが、イエスに問う。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。
 これは明らかにイエスに問いを発した、というだけではなく、自分とマリアという対称的な2人を見て、何とも思わないのかという批判であったと言える。そして、こうしたマルタの姿は、ヨハネ福音書11章21節にも見られます。(P.189)
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。
 力強い信仰告白とも言えますが、同時に全能神であるはずのイエスに対する批判とも受け取れます。このように見てみますと、信仰的にみて、主なる神、イエスに対して、マルタは主体的、積極性を持った信仰のあり方を、マリアは受け身的、受容性とも言えるかもしれません。そして、一般的なキリスト者とすれば、今日の箇所では、マリアの方が良い、とされているわけです。

理想像の逆投影
 今日の箇所に戻って、マルタに対するイエスが返した言葉をお読みします。ルカ福音書10章41節42節。
「(10:41) 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(10:42) しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 イエスは、何を言っているのか。マルタさん、あなたがやっていることは大切だけど、ちょっと、てんぱってませんか。ゆっくりマリアさんのように、話に耳を傾けてみませんか?ということですよね。でも、これ実際の教会でも、よくあることです。教会総会や懇談会、講演会、映画会、誰がお茶やお菓子、食事の準備をするの?!って、だいたい議論になります。また、もめたりします。またまた、どうでしょうか?また、こうしたことは、原始教会、初代教会でもあったかもしれないんですよね。使徒言行録6章1節から4節をお読みします。(P.223)
「(6:1) そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 (6:2) そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。(6:3) それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。(6:4) わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」」
 食事の世話とは、ようするに給仕のこと、そして食事の量の話ですよね。何時の時代も、食べ物とお金の話は、揉め事になりやすいもので、初期の教会からそうだったのでしょう。そうしたことから、今日の箇所、マルタとマリアの議論に対するイエスの言葉は、そうした揉め事に対する戒めとして、記された、と考えられるだろう。

奉仕と御言葉
 今日の箇所、マルタの行いで使われている「もてなし」という単語、ギリシャ語では、「ディアドコイ」と言い、「もてなし」「仕える」「給仕する」とも訳せる言葉であります。先ほどの使徒言行録でも「食事の世話をする」という言葉がありましたら、これのギリシャ語も「ディアドコイ」であります。とても意味が広い言葉であり、人のために何かすること、ということ。それを日本語の聖書においては、文脈によって訳し分けているのでしょう。いわゆるキリスト教会で語られる「奉仕」は、ギリシャ語では、「ディアコニア」と言われます。そして、「奉仕」、「務め」、「援助」とも訳され、奉仕にしても、援助にしても、キリスト教精神に基づく他者への奉仕といった意味合いで用いられます。そして、キリスト教団体や施設でも、老人ホームや社会正義、社会福祉、いわゆるボランティア活動に関わる団体の名前に用いられたりしています。
 そうしたキリスト教精神に基づいた行動すべてがマルタであるとしたら、マリアの行動、姿勢はどういったことを指すのでしょうか。それは、聖書を読むこと、またその解き明かしに耳を傾けること、祈ることになるのではないでしょうか。そして、マルタ的なあり方にしても、マリア的なあり方にしても、どちらが良いというわけではなく、どちらも欠かせない両輪のようなものではないでしょうか。

「がんばり」を求められる時代、「がんばらければ」生きられないのか
 一番最初に紹介しました忌野清志郎、RCサクセションとして、人気が絶頂だった頃、音楽的にも変化を求めていたのか、突然、政治的に政治家批判や平和をテーマにした曲、そして反原発の曲を書き始めて、契約していたレコード会社からアルバムを禁じられたり(後の他の会社から発売)、メンバーも減っていき、後に解散してしまいます。
 彼の曲の中には、等身大の人のリアリティがあり、またいわゆる市井の人々への愛があるように思います。いわゆる売れているポップミュージックでは、努力とか奇跡とか、重んじる傾向があります。要するに、努力をしなければ幸せになれない、努力をしなければ、成功しないっというメッセージがあるように思います。そして、世の中の雰囲気として、がんばらなければ幸せにはなれない、がんばらなければ生き残れない、といった空気がある。それは、他国との関係についても、勝たなければならない、という意識が出てくる。それがついには、国内においては全体主義、国家間においては戦争へという話になっていくのではないでしょうか。今日紹介した曲はそうしたパターンを否定しており、とても呑気な曲のようですが、ある意味で革命的な曲と言えるのではないか、と。

マルタかマリアかを超えて
 最後に、イエスの言葉にかえって読んでみたいのですが、ギリシャ語から42節を読むと、実は日本語訳とニュアンスが異なるのを感じる。「必要なことはただ1つだけ」と日本語の字面でとらえると、真理が一つである、というように、何物にも左右されない、絶対的なただ1つの答えがそこに用意されている、その「正解」に気付くか気付かないか、それがポイントであるかのように受けとめられやすいことばになっている。
 しかし、その後「マリアは良い方を選んだ」という言葉について。直訳すると、「マリアにとってよりしっくりくる(fitting)分け前を彼女は選んだ」となるのだ。ようするに、その時、マリアに必要なことをしていた、ということである。すると、このような捉え方が出来るのではないだろうか。
 マリアにとってイエスの話に耳を傾けるのは、マリアにとって必要なことであった。そして、マルタに対して、そのように感じるのあれば、マリアと同じように耳を傾ければ良いんじゃないか?また、マリアも時に、マルタのように心砕かれることもあるのではないでしょうか。そして、私のいる場所とは、そうしたことをとがめる場所ではないのだよ、と伝えているのではないでしょうか。


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『神殿権威批判』(マルコ福音書11:27〜33)

2019.08.26(20:56) 394

『神殿権威批判』
(2019/8/25)
マルコ福音書11:27~33

神殿の権威を守るため
彼らの「何の権威でこのようなことをするのか?」という問いに対し、イエスは逆に「ヨハネの洗礼は、天からのものだったのか。それとも、人からのものだったのか?」と問います。祭司と律法学者たちはその場で論じ合います。この論争の中でおもしろいことに彼らの一番の関心が自分たちの立場を守ることに集中していることがその相談から、明らかにされているところです。彼らにとって一番重要なのは興味を示しているのは彼らが直接被害を受けるかどうかだったのです。彼らは「ヨハネの洗礼が神のものか人のものであるか」という問いに対して、答えることができませんでした。福音書の記述によれば、神のものと答えても、人のものと答えても、自分たちの立場を無くすので、答えることが出来なかった、と記されています。
 しかし、もう一つ理由があったのではないか、と感じます。それは、神殿とローマ帝国の権威の関係についてが頭にあったのではないか、ということです。ヨハネ、バプテスマのヨハネの権威は、ヘロデによって処刑されてしまっていたとはいえ、民衆にとっては疑う余地のないものでした。その権威について、神のついてのものであるとすれば、なぜローマ帝国の権威に抵抗して、戦わなかったのか、ということになるでしょう。そして、人の権威、つまり何の力もない、ということになれば、民衆に対する自らの権威をも否定することになり、民衆の反発を買うことになるでしょう。
 要するに、神殿に使える祭司たちとしては、自分たちの権威がどういった性格のものか、どういった強さのものか、なるべくならば触れたくなかった。どこを叩いても、埃がでてくるような状況だったわけです。そして、どうしてそのような状況であったのか、と言えば、神殿のトップである大祭司の任命権はローマ帝国が持っているような状況だった。そして、様々な派閥、ファリサイ派やエッセネ派などもいて、別に神殿がなくても、ヤハウェへの信仰、祭儀、律法を守る形があって、絶対でなく、相対化されていた、ということでしょう。

神信仰の課題として
 権威が絶対ではなく、相対化されている、ということは、どういったことになるのか。それは、その存在によって、立場が変わってしまうということです。例えば、よく日本は多神教信仰心があって、キリスト教は、唯一神信仰だということを言われます。しかし、考えてみますと、たった1人、一つの存在の神さまを信じるという信仰のあり方も二つあって、唯一神信仰というのは、基本的には、他の神の存在を認めない形の信仰、宗教の形です。そして、拝一神信仰というのもあって、これは多神教を認めるけれども、自分が信じる神さまは、ただ1人、一つだ、というあり方なのです。
 キリスト教的に言えば、唯一神信仰が強く、全面に出ているようですが、基本的に現代社会においては、拝一神信仰である、と言えるでしょう。話を戻して、神殿祭司たちはどういった考え方をしていたのでしょうか。
旧約聖書、そして律法(モーセ五書)によって解き明かされている神信仰の形は、拝一神信仰です。それは、様々な民族が当たり前のようにもっている神信仰の一つと言えるでしょう。民族にとっての神であってその神は他の民族には関係ない、という姿勢です。しかし、それが異民族との関係によって変化することがあります。それは、民族同士の戦争によって、一方の民族が、もう一方の民族に勝利して、支配した、というときです。古代オリエント社会において、民族同士の戦争は同時に、その民族の神同士の戦争でもあるわけです。すると、勝った側の神は、負けた神の上位に位置されるとか、神自身が死ぬこと、神の存在が否定されるということも出てくるわけです。

イエスが従った権威とは
 神殿の祭司たちは、どのように彼ら自身が抱えていた状況をどのように考えていたのでしょうか。おそらくダブルスタンダード(二重基準)的な状況であったのでしょう。神殿を信仰の支えとするユダヤ人に対しては、ヤハウェの神の権威は絶対として、しかし、ローマ帝国に対しては、多神教の神の一つである、またはローマの神々の下に位置している、と。おそらくイエスは、そうした彼らの姿勢をよく知っていて、このような鋭い、彼らが答えられない問いをはっしたのでしょう。
 一方のイエスはどんな立場に立って宮清めを行ない、祭司や律法学者と論争を繰り広げたのでしょうか?権威について、イエスはまったく権威に対する姿勢については、一貫していました。例えば、弟子たちとペトロがイエスに問うた問いがありました。ペトロの信仰告白、マルコ福音書8章27節から30節。(P.77)
「8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
 イエスは、自らの権威に対して、一貫していました。自分がどのような存在であるのか、「〇〇である」とか、「そうだ」とか「そうではない」と肯定も否定もしませんでした。
ただ、これはマルコ福音書の一つのテクニックとも言えますが、最後の最後に肯定とも受け取れるエピソードがあります。マルコ福音書14章61節62節。(P.94)
「14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。 14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」
ここでは、はっきりと自らが、メシア、神の子つまり神であると宣言しています。まったく、これまで否定も肯定もしなかったことについて、はっきりと宣言している。そして、十字架への道を歩む。それらが一貫している、ということです。まったく肯定も否定もしなかった、イエスがメシアであるかどうか、ついに神の子であるという宣言がある。そして、さらにそのメシア、キリスト、神の子が歩むべき道として、福音書には、十字架への道行きが記されていると言えるでしょう。

神殿権威批判
 イエスは神殿したのは、神殿の祭司たちが持っていた右往左往する権威、揺るぎってしまう権威でありました。それは、ローマ帝国の前では弱く、民衆の前で強く出る権威。そして、自分たちの立場だけを守ろうとする権威です。そして、そうした姿勢は、いつか自らを滅ぼします。
 最近のニュースに触れるとき、アメリカの前ではヨイショをして、韓国や中国に対しては、まったく強く出ようとする日本政府の姿勢にめまいがします。なぜ、そういうことをするのか、と言えば、自分たちが間違っていたこと、間違っていた理解をしていたのに、それらのことを認めることが出来ないからでしょう。そして、右を向いては、頭をさげ、左を向いては、尊大な態度を取る。そして、自らの立ち場を無くしていく。その被害を受けるのは誰だろうか、ということにとてもいらだっております。

イエスが示した権威
 権威とは、何か具体的な力を持っているわけではありません。それよりも、異なった存在、人同士が共有する価値観、大事にしているものとも言えるのでは無いでしょうか。それらを守るが故に信頼関係が生まれ、また壊れることもある。また、こうとも言えるかもしれません。権威とは、正しいこと、真実を求め続ける姿勢である、と。人間は弱い存在であり、完全ではありません。しかし、何かに頭を垂れること、謙虚に間違ったときは間違ったことを受け入れること。また絶対なる存在、神を信仰したり、自ら研鑽を重ねたり、知恵を重んじようとする作業を続けることで、正しい道を歩むことが出来ます。
 それらは、ただ単に自らの立場を守ろうとすることではありません。イエスと敵対した神殿は、自らが持っていた権威を、ただ自分を守ろうとするために用いようとしました。だから間違えてしまった。人という存在は誰もが完全ではない、ということを強く胸に刻まなければ、絶対に過ちを置かすということでしょう。イエスは本当の権威のあり方を、自らが歩んだ十字架への道によって示したといえます。そのことを胸に、本当に混乱ばかりの今の世の中において、本当の正義とは何か、真実とは何か、権威とは何か、ということを求め続けていたいと思っています。


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『クローズ隣人愛批判』(ルカ福音書10:25〜37)

2019.08.19(20:50) 393

『クローズ隣人愛批判』
(2019/8/18)
ルカによる福音書 10:25~37

良きサマリア人のたとえのテーマ
 良きサマリア人のたとえ、誰も知っているたとえです。律法の専門家がイエスに永遠の命を受け継ぐにはどうしたら?と聴き、イエスは神への愛と隣人への愛を説きました。しかし、その専門家はイエスの答えに納得がいかなかったのか、イエスを試そうとしていたのか、ぼろをださせようとしたのか、さらに質問をして、その答えとして、イエスは強盗に襲われたユダヤ人とそこを通りかかった、祭司、レビ人、そしてサマリア人が登場するたとえ話を語り、最後にこのように言います。ルカ福音書10章36節。
「10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 大きく分けて、三種類ぐらいの捉え方ができるのではないか、と思います。一つは、優れた隣人愛の課題として捉えることです。要するに、どのような存在であっても、愛すべきなのだ、と。その延長として、その愛の実現として、たとえ憎み合った民族であるサマリア人であっても、自分のように愛すべきなのだ、心を配るべきなのだ、という捉え方です。
 そして、二つ目は、神さまへの愛と人への愛は対立することがあるという問いと言えるでしょう。祭司とレビ人、どちらも神殿祭儀に関わる人々です。このたとえを聞いていたユダヤ人は、さもありなん、と受け取ったことでしょう。祭司にしても、レビ人にしても、律法の遵守者であり、倫理的にもすぐれた人であります。しかし、いくら人助けであっても、異邦人に触れるとなると、話が違う、と。異邦人に触れることは、律法的に汚れてしまうことなので、祭司やレビ人は神殿祭儀に関わることが出来ない。だから、助けることはないだろう。イエスの例えを聴きながら、どちらも通り過ぎた、という場面を聴きながら、「ほら、やっぱり」と誰もが感じたでしょう。いわば、神への愛が人を大切にすること、いわば隣人愛と対立することがある、という結論です。
 そして、三つ目は、民族への批判、同族愛への批判と捉える捉え方でしょう。このサマリア人は、敵対者であるユダヤ人を助けました。そして、さらに宿の主人に、2日分の日当に当たると考えられる2デナリオンをもお金を預け、さらにさらに、余計にお金がかかったら責任を持つとまで言っている。この喩えを聞いた律法の専門家、また一般的なユダヤ人は、どう感じるでしょうか。それは、見下しているサマリア人がユダヤ人にそんなことをするはずがない、という思いではないか、と思います。
 そして、このようにも感じるのでは無いでしょうか。自分がサマリア人の立場だったら、傷ついたサマリア人を助けるだろうか?そして、もう一つ、自分が傷ついたユダヤ人だとしたら、サマリア人の行いをどう受け止めるだろうか、と。

クローズ隣人愛批判
 イエスは、なぜこのような喩えを語ったか、この律法の専門家に対して、また一般のユダヤ人に対して、閉じられた形での隣人愛の無意味さを伝えようとしていたのではないでしょうか。イエスは、隣人愛に関してもこのようなことを述べている箇所があります。マタイ福音書5章46節47節。(P.8)
「5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。/ 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
 「異邦人でさえ、同じことをしている」。この思いをイエス自身、強く持っていたと想像しています。ユダヤ人がユダヤ人同士で、愛を持って接したとして、思いやりをもって接したとしても、当たり前のことではないだろうか。おそらくイエスが青年期までを過ごした、ガリラヤ地方には、ユダヤ人だけではなく、異邦人と呼ばれる様々な民族の人々、そしてサマリア人も交易路があった関係で、日常的に触れ合っていたのではないか、と思うのです。また、隣人愛の元になっている旧約聖書のテキストに触れてみます。レビ記19章18節です。(P.192)
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 意味が分かりにくいので、岩波訳の翻訳を紹介します。
「あなたは決して、あなた自身の民の子らに復讐しようとしたり、怨恨を抱いてはならない。〔むしろ〕あなたは、あなたの隣人に対し、あなた自身と同じようなものとして友愛をもって接しなさい。わたしはヤハウェである。」
 旧約聖書、律法において語られている隣人愛とは、同じ民族、同じ血族の人々が過酷な環境の半遊牧民生活の中において、互いの民族を守るため、誰が味方で誰が敵かということから、自らの民族が絶滅しないため、死に絶えないための知恵として、「目には目を、歯には歯を」というオリエント的な倫理観、法的な規範に基づいたものと考えられます。そして、もう一つ、一民族一信教的な世界観、民族宗教が乱立する社会における倫理観と言えるでしょう。そして、閉じられた形での隣人愛、同族愛、民族愛ならば、どの民族であっても実践していた。イエスはそうした現実から、そうした隣人愛の実践を他の民族に誇ることが出来るか、主なる神の教えとして、受け入れるべきだろうか、という問いを持っていたのではないでしょうか。

隣人になったと思うか
 イエスさまは、良きサマリア人の例えの最後にこの律法学者に向かって、このような問いを投げかけています。ルカによる福音書10章36節。(P.127)
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えています。この答えには複雑な感情が伴ったのでは無いでしょうか。
 律法の専門家にとっての「隣人」とは、ユダヤ人であり、律法に従って正しく生きている人であって、あなたもそうした人の仲間になりなさい、そして仲間同士で助け合って生きて行きなさい、と言ったような言葉を期待していたはずです。
 しかし、イエスさまは、その問いに対して、例えで返した。ある意味、問いに対して、問いで答えました。そして、さらに、「わたしの隣人は誰なのか」という問いであったのに、「あなたは誰の隣人になるのか」と微妙に論点をずらしているのです。わかりやすく整理するならば、イエスさまが言いたかったことはこういうことではないか、と思います。
 あなたにとっての隣人が誰かということは問題ではない、多くの人がこの世には生きているが、あなたが誰にとって隣人と思われるのか、あなたが誰の隣人になるのか、それこそが問題だ、と。そして、そういったあり方は、民族や家族、そして国境や思想も超える可能性も持っているかもしれません。

現代におけるクローズ隣人愛
 今現在、日本は隣国韓国、北朝鮮や中国との関係が難しい状況になっています。日本人と韓国人、朝鮮人の関係、日本と中国の関係、とてもユダヤ人とサマリア人の関係と似通っているように感じます。互いに地域的には近接しているのに、また歴史的にも支配した、支配されていたという歴史的事実があるのに忘却してしまっていたり、支配していた過去を正当化したりするような言説、民族的な差別を正当化するような言説を繰り返したりする。
 しかし個人として、一対一の隣人として、出会ってみたら、たやすくそうした誤解や偏見を乗り越えられたりすることがあります。イエスが促した姿勢は、このような隣人との出会いではないでしょうか。平和の問題を考えるとき、国籍や民族性を超えて、1人の人として、1人の人と出会うことこそ大切なのではないでしょうか。そうした時、自らが持つ民族性や宗教性自体が、その隣人との関係を邪魔してしまうこともあるかもしれません。
 よきサマリア人の例えは、そのようについつい閉じてしまいがちになる、私たちがもつ「隣人愛」を常に広げる役割をもっているのではないでしょうか。イエスは、問います。その問いは、「あなたは、誰の隣人なのか」ではありません。あなたは「誰が隣人になったのか」という問いです。新しい人との出会いは、時に厳しさや辛さを伴うモノですがそのことを恐れずに、開かれた隣人愛、オープンな隣人愛に生きることを、イエスは求めているのではないでしょうか。

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『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)

2019.06.06(20:34) 391

『カラスのことを考えてみなさい』
ルカによる福音書 12章 22~27節

人の歩み
 今日の箇所「思い悩むな」ともうしましても、そんなわけにはいかない、というのが、誰もが持つ率直な感想ではないでしょうか。たとえば、わたしたちは物心がついてから、様々な選択が求められて、それぞれの道を歩んできました。そういった視点で申しますと、誰でも道の選択をする上では、「思い悩んだ」瞬間もあったはずです。また、たとえすべての道が準備されていたとしても、その道に従うのかどうか、ということで「思い悩む」。そして、人としての歩みの中で、家族の中では、誰かの息子として娘として、兄弟として、また夫婦の間柄であったら、夫として妻として、そして父として母として、様々な形で思い悩むものであります。また、個人として家族としての悩みだけではなく、私たちは人間関係の中でも、悩むものです。誰もが多かれ少なかれ、人間関係の中で、思い悩んでいる。しかし、だからといって人は一人では生きることができない。そうした当たり前のことをジレンマと言うのであれば、人はそこから逃れることはできません。
 
契約の主
 わたしは以前より、主なる神の働き、イエスさまの活動は大きく三つの分けられるのではないか、と考えています。それは、「契約」「和解」「創造」という三つの働きであります。そして、それぞれ「契約の主」「和解の主」そして「創造の主」として、イエスさまがこの世において、行われた様々な業を、わけて考えられることが出来るのではないか。そして更に、それぞれにおいて、良い面と悪い面があり、良い面が他の働きの悪い面を補っている、というように考えていま。
 「律法」とは契約に徴に、モーセを通してイスラエルの民に与えられたものであります。そしてイスラエルの民、ユダヤ人たちは、契約をした人ですから当然守らなければならないものです。しかし、意地悪くいうと契約していない人が守っても意味がないものです。そういった意味で言えば、「契約の主」の要素である律法と旧約聖書に約束されたメシア、救い主という要素は、ユダヤ人それも律法を守ることが出来る人、ユダヤ人以外の人々、律法を守ることが出来ない人たちには関係がない、という話になってしまいます。

和解の主
 しかし、ご存じの通りイエスの活動はそうした「契約の主」としての働きに限りませんでした。「和解の主」である神としての働き、活動を進めました。和解の主というのは、いわゆる神学の世界では、人と神の和解を指すことが多いのですが、人と人の和解ということで考えてみたい、と思います。人と人の和解は、イエスの様々な教えの中において語られています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)、見失った羊のたとえ(マタイ18:12-14)など、様々な形で語られていることは、人と人の関係の回復の大切さではないでしょうか。本来は、捨てられても良いような存在であっても、大切にしなければならない、そしてその回復、和解が適ったときには、それを心の底から喜ぶべきなのだ、ということです。そして、人とは、そういった神の愛に対して、放蕩息子のたとえにおける兄にように、「えこひいきだ」とか「不当だ」と起こってしまう存在です。
 また、いわゆる様々な癒しの記事においても、同じだと思うのです。病やケガによって、一般社会や家族から卑下され、追い出されてしまった人々。また、律法も守れない人々も「罪人」とされていました。しかし、イエスはそうした「罪人」とされてしまった人々を訪ね求めて、神さまに立ち帰ることを促し、癒しを行いました。ここで重要なのは、ただ病気などを治した、治療したというのではなく、そうした人々を家族や地域共同体へと戻ることを促した、ということです。人と人の和解をもたらし、あらゆる人々に神の救いをもたらそうとしたということです。これが「和解の主」としての働きです。

創造の主として
 そして最後、創造の主です。今日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書12章22節から24節をお読みします。
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」
聖書の最初に納められている創世記1章の創造物語には、神さまが一週間でこの世を創造した物語、創り出した物語が記されております。その中で人間は、天と地、地上と海、様々な動植物が想像されるその最後、6日目(7日目はお休み)に創造された、と記されてあります。
 人は神の似姿として、今どきの言葉で言えば、人は神のコピーとして創造されました。この創造物語は、旧約聖書に記されたユダヤの民の創造物語でありますが、同時代の他の宗教の神話、創造物語と比べて、一つの大きな特徴があります。それは、あらゆる人が、すべて神の似姿として、ある意味神の子として描かれていることです。創世記におけるアダムとイブは最初の人間として描かれておりますが、そこから生まれた人はみな神によって創られた、という考え方、信仰が根底にあると言えます。

創造の主が来られる
 創造の主とは、創世記1章に記されておりますような形で、この世界が創造された、ということを信じるかどうか、ということではありません。わたしたち1人1人が確かに神自身によって創造された、ということを信じる、ということです。私たちは確かに肉体的には2人の両親の存在によって誕生した、といえるでしょう。しかし、その深いところで、人の力では分からない所で、主なる神が働いてわたしたちを生み出して下さった、ということを信じることであります。
 そして、こうした「創造の主」の働きに対して、重要だと思うことは、私たち1人1人が無条件に神さまに愛されている、と確信をもって信じるということです。たとえば、この信仰が強いのは、たった1人の立ち場になってしまったとしても、たった一人の迫害の状況、たとえば虐められるような状況におかれてしまったとしても、わたしは神さまに愛されているのだ、ということを根拠に、その歩みを始められるという強さがあるのではないでしょうか。
 そして、そんな思いを持つ孤独な人々、神との関係、他者との関係が壊れてしまった人々。そうした人々のところをイエスは訪ねて、「カラスのことを考えてみなさい」とイエスは呼びかけたのではないでしょうか。黒い羽根に覆われ、さらに植物であっても、肉であっても、食するカラスは、律法的には、とても汚れた鳥として考えられていました。そして、そのカラスであっても、主なる神は養って下さっており、カラスも思い悩むことは無い。
 ましてやあなたがた皆、すべての人が神に創造された「神の子」なのだ、大切にされないはずがない、何を思い悩む必要があろうか。どんなに何もできなくても、友人の一人さえいず、優しい言葉さえも受け入れられなかったとしても、神さまは愛して下さっているのだ。イエスが多くの人々に語った言葉を胸にまた歩み出したいと思います。

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(2019年6月5日/熱田まつりの花火)


周縁自体


タイトル画像

『あの旅路を再び』(マルコ福音書16:1〜8)

2019.04.28(19:29) 390

『あの旅路を再び』
(2019/4/21)
マルコによる福音書 16章 1~8節

イースター(復活祭)とは?
 今日は、イースターです。イースターとは日本語では、復活祭とも言い、イエス・キリストが十字架刑によって亡くなり、その三日後に、復活した、甦られたことを記念することであります。なぜ、イースターが重要なのか?もっとも解りやすい説明として、一般的な教会では大まかに、このような説明がなされるのではないかなあ、と思います。
「イエスは十字架上の死を遂げることで、私たちの罪を贖ってくれた、リセットしてくれたのです。そして、イエスが復活したことは、イエスが本当に神様だったこと、神の子であったことの証明です。」といった感じではないか、と思います。一般的に宗教とか奇跡というものが、人知が及ばない力の働きや知恵が働く場、時という徴があるものです。そして、そうした働きの根源として神という存在を信じるのが、信仰を持つ、ということであり、信者の姿勢である、と。しかし、これは正しいようで、少し実際のキリスト教会、キリスト教徒にとってはズレがあるのではないか、と思います。どうでしょうか?イースターによってイエスは復活しました。そしてマタイ福音書、また使徒言行録のみの記事でありますが、イエスはその後、天に昇った、と記されています。ということは、天に去って行って、この世にはおられないでしょうか。
 かというと、違いますよね。祈りでは、主が共に、イエスが共に、といったことが祈られますので、天に去ったわけですが、離れたわけではない。また天に去ったとしても、共にいるといった両義的な状況と言えます。イースターとはどのような時でしょうか。確かにイエスさまが復活されたことは、イエスさまが単なる人ではなく、神の子であること、父なる神に対する、子なる神の証明であります。が、同時に、イエスが共にいること、イエスが人ではない存在として、一人一人と共にいることが始まったとき、キリスト教としての時間の始まり、教会としての時間のはじまりと言えるかもしれません。

イエスを裏切った弟子たち
 イエスには、12人の男性の弟子たちがいました。そして、それ以外の弟子たち、そして女性たちの弟子たちもいた、というように考えられております。しかし、イエスが十字架刑にかけられる前の晩、12弟子とイエスは、ある宿で過越の食事をし、その食卓は結果的にイエスと弟子たちの最後の晩餐となりました。これは木曜日の夜か金曜日の夜にあたりますが、その食事の後、イエスと弟子たちはゲッセマネの園へ移動します。イエスは、1人祈っていますが、弟子たちは眠りこけてしまいます。そうした状況の中で、イスカリオテのユダに伴われてきた兵士や群衆によってイエスは逮捕され、弟子たちは1人残らず、逃げてしまいます。
 この間、ペトロはイエスに対して決して裏切ることはない、と誓います。しかし、イエスが予告したとおり、そのニワトリが朝になって二度鳴く前に、三度もイエスのことを知らない、とのべてしまいます。そして、他の弟子たちもイエスの逮捕の場面でその場から逃げて行ってしまいました。その後、イエスはユダヤ人の裁判、そしてローマ帝国の裁判にかけられ、十字架刑で処刑されてしまいます。そして、イエスの処刑の理由というか罪状は、ユダヤ人にとっては「神の子」と言いふらしたということで、神を冒涜した罪ということになりでしょうか。そしてローマ帝国にとっては、国家反乱罪といったことになると思います。
 当然、イエスがそのような罪で十字架刑にかかったとなると弟子たちも捕まってしまう可能性があった。ですから、福音書によりますと、弟子たちはエルサレムの町を離れたり、どこかに隠れたり、また生まれ故郷であったガリラヤへと帰って行っていたのではないか、と想像できます。そんな弟子たちの目の前に復活したイエスが現れたのです。

赦しとしての復活
 ルカ福音書24章13節から35節には、このような記述があります。ある弟子たちは、自分の故郷へ帰る途中でした。その途中の道でイエスに出会ったのに、その人がイエスだとは気づかなかった。しかし、ある宿に入って、食事の席において、その人がパンを裂いたときにイエスだと気がついた、とあります。(ルカ24:13-35)
 マタイ福音書28章8節から10節によれば、このような記述があります。そして、今日お読みしまし墓へ行った女性たちの前にも現れ、「おはよう」と挨拶をしたイエス。女性たちは驚きひれ伏してその足にしがみついた、とあります
 また、ヨハネ福音書20章19節から29節によれば、このような記述があります。弟子たちがどこかの家に隠れていたところ、鍵もキチッとかけられていた部屋の中に突然現れた。また、その場にたまたまいなかったトマスという弟子たちは、その人をあのイエスだとは信じられずに、釘によって十字架に貼り付けにされた時の手の傷、槍に刺されたわき腹の傷に障らなければ信じない、とものべています。
 そして、ガリラヤ湖に帰って行った後に、イエスが現れたという記事もあります。ヨハネ21章によれば、網を打って漁をしていた弟子たちは、岸を歩いていたイエスに気がついて、喜びのあまりに湖に飛び込んで近寄った、という記事。
これまで触れてきた記事における弟子たち、感情の動きはあまり記されてはいません。しかし、どちらかといえば喜んでいるように捉えることが出来ます。しかし、恐れた、という記事もあります。それは復活伝承とも言えないかも知れませんが、マルコ福音書6章45節から52節には、舟を出して漁をしていた弟子たちでしたが、そこへ湖の上を歩くイエスが現れ「幽霊だ」と恐れたという記事があります。

不可解な終わり方
 今日の箇所マルコによる福音書16章1〜8節は、マルコ福音書の最後の箇所であります。しかし、そのあまりに唐突な終わり方なので、後代の人々が2つの末尾を追加しています。これには、本来は違和感のない末尾があるはずなのに、失われてしまった、という考え方があったから書き加えられたのです。しかし、最近では、もともとこの終わり方だったのではないか、ということで読まれることが多くなってきました。ということは、あえてこのような違和感のある終わり方でマルコ福音書の著者は筆、ペンをおいたのではないか、そこにはどのような狙い、理由があったのでしょうか。
 いろいろな想像をすることが出来ます。復活したイエスに出会った弟子たち。それぞれにイエスとの再会を思い起こしたでしょう。ペトロさんはこうだったかもしれない。「わたしはエルサレムで出会い、こんな声を掛けてくれた、こんな顔をしていた、こんな服を着ていた。わたしには赦しの言葉を述べてくれた」。アンデレさんは、こうだったかもしれない。「わたしはガリラヤで出会った。やさしく声をかけてくれた」他にも、いろいろな記憶があったでしょう。そして、もう一つ大きな問題がありました。今日の最後の箇所、マルコ福音書16章8節にはこのように記されています。
「16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 女性たちは、「震え上がり、正気を失っていた」とあります。何故でしょうか?それは、言葉に出来ないほどの恐怖を覚えたからではないでしょうか。先ほど、触れましたように、弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行きました。よく裏切り者の代名詞としてイスカリオテのユダがいます。しかし、考えてみれば、ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネ、すべての弟子たち12人、そしてお墓に来た女性の弟子たちもイエスを見捨てて逃げてしまったわけです。この女性たちだけではなく、十二弟子たち、その他の男の弟子たちも同じだったのではないでしょうか。

復活に記すということ
 改めて考えてみたいとおもいます。なぜ、この福音書を記した人は、中途半端に「恐ろしかったからである」という一文のよって自分の救い主である主イエス・キリストの物語を締めくくったのでしょうか。それは人間にはイエスさまの復活を書きあらわすことが出来ない、という思いに立ったのではないでしょうか。これだけの著作です。何日もかかって書いたものと思います。机にペンとインクと紙をおいて、書き進めていったでしょう。夜になったら休んで、机に向かう。ご飯を食べて休んで、机に向かう。そんな作業を何日も続けたのかもしれません。筆を進めながらも、机を離れていながらも、イエスの話について聞いたことを整理しながら、書き進めたのではないか、と想像しています。
 そして、とうとう最後の場面、イエスの復活の場面にやってきました。キリスト教において最も重要な場面です。そして、また様々な人たちから復活したイエスとの出会いを聞いては、記そうとしていたかもしれません。しかし、いよいよと思い、書き始めようと思いました。しかし、書けなかった。何度も書こうと思った。何か記そうとしても、イエスの復活というできごとを書き記したとしても、自らの思いとはずれるばかりだった。そして、あんな結末になってしまった。また、もしかしたら、病気になってしまったとか、個人的な理由によって、書き進めることが出来なくなってしまったかもしれません。それは復活という出来事は、あまりに大きすぎたから起こったこととも言えるかもしれません。

あの旅路を再び
 弟子たちにとって、イエスの復活とは、イエスさまが神の子である証明という意味よりも、弟子たちにとって復活とは、イエスによるとてつもない深い赦しの体験であったという意味の方が大きかったのではないでしょうか。最後に、16章7節をもう一度、お読みします。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」
 「ガリラヤへ行かれる」そして「そこでお目にかかれる」とあります。この言葉に従い、弟子たちはガリラヤへ戻ったのかどうか、わかりません。歴史的に言えば、使徒たちはエルサレムにおいて、最初の教会としての歩みを始めております。ということは、この言葉は、ただ単に地域としてのガリラヤに戻るという意味として受け取らなかったということでしょう。
 ガリラヤへ行く、というイエスの言葉、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへの歩み、旅路を、次は弟子たちの一人一人が導き手として歩みなさい、ということではないでしょうか。イエスと弟子たちの歩み、様々な人々との出会い、癒やし、食卓、奇跡があり、弟子たちにしても、周囲にいた人々にしても、主なる神への信仰を深めたこともあったでしょうが、神への信頼を失うような辛いこともあったでしょう。
 様々なことがあっても、1つの共同体として、歩むこと、歩み続けること、「ガリラヤへ行ったイエスの背中は、そのような歩みを弟子たちに促したのではないでしょうか。そして、そうした弟子たちの歩み一つ一つが現在にも続く教会へと繋がっているのではないでしょうか。今日は、イースターです。イエスの復活は、イエスと弟子たちの再会であり、教会の歩みの始まりでありました。そのことを胸に、また新しい一週間、また新しい歩みを、新しい旅路を歩み出したい、と思います。

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周縁自体


メッセージ/新約
  1. 『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)(09/03)
  2. 『神殿権威批判』(マルコ福音書11:27〜33)(08/26)
  3. 『クローズ隣人愛批判』(ルカ福音書10:25〜37)(08/19)
  4. 『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)(06/06)
  5. 『あの旅路を再び』(マルコ福音書16:1〜8)(04/28)
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