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『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)

2019.06.06(20:34) 391

『カラスのことを考えてみなさい』
ルカによる福音書 12章 22~27節

人の歩み
 今日の箇所「思い悩むな」ともうしましても、そんなわけにはいかない、というのが、誰もが持つ率直な感想ではないでしょうか。たとえば、わたしたちは物心がついてから、様々な選択が求められて、それぞれの道を歩んできました。そういった視点で申しますと、誰でも道の選択をする上では、「思い悩んだ」瞬間もあったはずです。また、たとえすべての道が準備されていたとしても、その道に従うのかどうか、ということで「思い悩む」。そして、人としての歩みの中で、家族の中では、誰かの息子として娘として、兄弟として、また夫婦の間柄であったら、夫として妻として、そして父として母として、様々な形で思い悩むものであります。また、個人として家族としての悩みだけではなく、私たちは人間関係の中でも、悩むものです。誰もが多かれ少なかれ、人間関係の中で、思い悩んでいる。しかし、だからといって人は一人では生きることができない。そうした当たり前のことをジレンマと言うのであれば、人はそこから逃れることはできません。
 
契約の主
 わたしは以前より、主なる神の働き、イエスさまの活動は大きく三つの分けられるのではないか、と考えています。それは、「契約」「和解」「創造」という三つの働きであります。そして、それぞれ「契約の主」「和解の主」そして「創造の主」として、イエスさまがこの世において、行われた様々な業を、わけて考えられることが出来るのではないか。そして更に、それぞれにおいて、良い面と悪い面があり、良い面が他の働きの悪い面を補っている、というように考えていま。
 「律法」とは契約に徴に、モーセを通してイスラエルの民に与えられたものであります。そしてイスラエルの民、ユダヤ人たちは、契約をした人ですから当然守らなければならないものです。しかし、意地悪くいうと契約していない人が守っても意味がないものです。そういった意味で言えば、「契約の主」の要素である律法と旧約聖書に約束されたメシア、救い主という要素は、ユダヤ人それも律法を守ることが出来る人、ユダヤ人以外の人々、律法を守ることが出来ない人たちには関係がない、という話になってしまいます。

和解の主
 しかし、ご存じの通りイエスの活動はそうした「契約の主」としての働きに限りませんでした。「和解の主」である神としての働き、活動を進めました。和解の主というのは、いわゆる神学の世界では、人と神の和解を指すことが多いのですが、人と人の和解ということで考えてみたい、と思います。人と人の和解は、イエスの様々な教えの中において語られています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)、見失った羊のたとえ(マタイ18:12-14)など、様々な形で語られていることは、人と人の関係の回復の大切さではないでしょうか。本来は、捨てられても良いような存在であっても、大切にしなければならない、そしてその回復、和解が適ったときには、それを心の底から喜ぶべきなのだ、ということです。そして、人とは、そういった神の愛に対して、放蕩息子のたとえにおける兄にように、「えこひいきだ」とか「不当だ」と起こってしまう存在です。
 また、いわゆる様々な癒しの記事においても、同じだと思うのです。病やケガによって、一般社会や家族から卑下され、追い出されてしまった人々。また、律法も守れない人々も「罪人」とされていました。しかし、イエスはそうした「罪人」とされてしまった人々を訪ね求めて、神さまに立ち帰ることを促し、癒しを行いました。ここで重要なのは、ただ病気などを治した、治療したというのではなく、そうした人々を家族や地域共同体へと戻ることを促した、ということです。人と人の和解をもたらし、あらゆる人々に神の救いをもたらそうとしたということです。これが「和解の主」としての働きです。

創造の主として
 そして最後、創造の主です。今日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書12章22節から24節をお読みします。
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」
聖書の最初に納められている創世記1章の創造物語には、神さまが一週間でこの世を創造した物語、創り出した物語が記されております。その中で人間は、天と地、地上と海、様々な動植物が想像されるその最後、6日目(7日目はお休み)に創造された、と記されてあります。
 人は神の似姿として、今どきの言葉で言えば、人は神のコピーとして創造されました。この創造物語は、旧約聖書に記されたユダヤの民の創造物語でありますが、同時代の他の宗教の神話、創造物語と比べて、一つの大きな特徴があります。それは、あらゆる人が、すべて神の似姿として、ある意味神の子として描かれていることです。創世記におけるアダムとイブは最初の人間として描かれておりますが、そこから生まれた人はみな神によって創られた、という考え方、信仰が根底にあると言えます。

創造の主が来られる
 創造の主とは、創世記1章に記されておりますような形で、この世界が創造された、ということを信じるかどうか、ということではありません。わたしたち1人1人が確かに神自身によって創造された、ということを信じる、ということです。私たちは確かに肉体的には2人の両親の存在によって誕生した、といえるでしょう。しかし、その深いところで、人の力では分からない所で、主なる神が働いてわたしたちを生み出して下さった、ということを信じることであります。
 そして、こうした「創造の主」の働きに対して、重要だと思うことは、私たち1人1人が無条件に神さまに愛されている、と確信をもって信じるということです。たとえば、この信仰が強いのは、たった1人の立ち場になってしまったとしても、たった一人の迫害の状況、たとえば虐められるような状況におかれてしまったとしても、わたしは神さまに愛されているのだ、ということを根拠に、その歩みを始められるという強さがあるのではないでしょうか。
 そして、そんな思いを持つ孤独な人々、神との関係、他者との関係が壊れてしまった人々。そうした人々のところをイエスは訪ねて、「カラスのことを考えてみなさい」とイエスは呼びかけたのではないでしょうか。黒い羽根に覆われ、さらに植物であっても、肉であっても、食するカラスは、律法的には、とても汚れた鳥として考えられていました。そして、そのカラスであっても、主なる神は養って下さっており、カラスも思い悩むことは無い。
 ましてやあなたがた皆、すべての人が神に創造された「神の子」なのだ、大切にされないはずがない、何を思い悩む必要があろうか。どんなに何もできなくても、友人の一人さえいず、優しい言葉さえも受け入れられなかったとしても、神さまは愛して下さっているのだ。イエスが多くの人々に語った言葉を胸にまた歩み出したいと思います。

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(2019年6月5日/熱田まつりの花火)

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『あの旅路を再び』(マルコ福音書16:1〜8)

2019.04.28(19:29) 390

『あの旅路を再び』
(2019/4/21)
マルコによる福音書 16章 1~8節

イースター(復活祭)とは?
 今日は、イースターです。イースターとは日本語では、復活祭とも言い、イエス・キリストが十字架刑によって亡くなり、その三日後に、復活した、甦られたことを記念することであります。なぜ、イースターが重要なのか?もっとも解りやすい説明として、一般的な教会では大まかに、このような説明がなされるのではないかなあ、と思います。
「イエスは十字架上の死を遂げることで、私たちの罪を贖ってくれた、リセットしてくれたのです。そして、イエスが復活したことは、イエスが本当に神様だったこと、神の子であったことの証明です。」といった感じではないか、と思います。一般的に宗教とか奇跡というものが、人知が及ばない力の働きや知恵が働く場、時という徴があるものです。そして、そうした働きの根源として神という存在を信じるのが、信仰を持つ、ということであり、信者の姿勢である、と。しかし、これは正しいようで、少し実際のキリスト教会、キリスト教徒にとってはズレがあるのではないか、と思います。どうでしょうか?イースターによってイエスは復活しました。そしてマタイ福音書、また使徒言行録のみの記事でありますが、イエスはその後、天に昇った、と記されています。ということは、天に去って行って、この世にはおられないでしょうか。
 かというと、違いますよね。祈りでは、主が共に、イエスが共に、といったことが祈られますので、天に去ったわけですが、離れたわけではない。また天に去ったとしても、共にいるといった両義的な状況と言えます。イースターとはどのような時でしょうか。確かにイエスさまが復活されたことは、イエスさまが単なる人ではなく、神の子であること、父なる神に対する、子なる神の証明であります。が、同時に、イエスが共にいること、イエスが人ではない存在として、一人一人と共にいることが始まったとき、キリスト教としての時間の始まり、教会としての時間のはじまりと言えるかもしれません。

イエスを裏切った弟子たち
 イエスには、12人の男性の弟子たちがいました。そして、それ以外の弟子たち、そして女性たちの弟子たちもいた、というように考えられております。しかし、イエスが十字架刑にかけられる前の晩、12弟子とイエスは、ある宿で過越の食事をし、その食卓は結果的にイエスと弟子たちの最後の晩餐となりました。これは木曜日の夜か金曜日の夜にあたりますが、その食事の後、イエスと弟子たちはゲッセマネの園へ移動します。イエスは、1人祈っていますが、弟子たちは眠りこけてしまいます。そうした状況の中で、イスカリオテのユダに伴われてきた兵士や群衆によってイエスは逮捕され、弟子たちは1人残らず、逃げてしまいます。
 この間、ペトロはイエスに対して決して裏切ることはない、と誓います。しかし、イエスが予告したとおり、そのニワトリが朝になって二度鳴く前に、三度もイエスのことを知らない、とのべてしまいます。そして、他の弟子たちもイエスの逮捕の場面でその場から逃げて行ってしまいました。その後、イエスはユダヤ人の裁判、そしてローマ帝国の裁判にかけられ、十字架刑で処刑されてしまいます。そして、イエスの処刑の理由というか罪状は、ユダヤ人にとっては「神の子」と言いふらしたということで、神を冒涜した罪ということになりでしょうか。そしてローマ帝国にとっては、国家反乱罪といったことになると思います。
 当然、イエスがそのような罪で十字架刑にかかったとなると弟子たちも捕まってしまう可能性があった。ですから、福音書によりますと、弟子たちはエルサレムの町を離れたり、どこかに隠れたり、また生まれ故郷であったガリラヤへと帰って行っていたのではないか、と想像できます。そんな弟子たちの目の前に復活したイエスが現れたのです。

赦しとしての復活
 ルカ福音書24章13節から35節には、このような記述があります。ある弟子たちは、自分の故郷へ帰る途中でした。その途中の道でイエスに出会ったのに、その人がイエスだとは気づかなかった。しかし、ある宿に入って、食事の席において、その人がパンを裂いたときにイエスだと気がついた、とあります。(ルカ24:13-35)
 マタイ福音書28章8節から10節によれば、このような記述があります。そして、今日お読みしまし墓へ行った女性たちの前にも現れ、「おはよう」と挨拶をしたイエス。女性たちは驚きひれ伏してその足にしがみついた、とあります
 また、ヨハネ福音書20章19節から29節によれば、このような記述があります。弟子たちがどこかの家に隠れていたところ、鍵もキチッとかけられていた部屋の中に突然現れた。また、その場にたまたまいなかったトマスという弟子たちは、その人をあのイエスだとは信じられずに、釘によって十字架に貼り付けにされた時の手の傷、槍に刺されたわき腹の傷に障らなければ信じない、とものべています。
 そして、ガリラヤ湖に帰って行った後に、イエスが現れたという記事もあります。ヨハネ21章によれば、網を打って漁をしていた弟子たちは、岸を歩いていたイエスに気がついて、喜びのあまりに湖に飛び込んで近寄った、という記事。
これまで触れてきた記事における弟子たち、感情の動きはあまり記されてはいません。しかし、どちらかといえば喜んでいるように捉えることが出来ます。しかし、恐れた、という記事もあります。それは復活伝承とも言えないかも知れませんが、マルコ福音書6章45節から52節には、舟を出して漁をしていた弟子たちでしたが、そこへ湖の上を歩くイエスが現れ「幽霊だ」と恐れたという記事があります。

不可解な終わり方
 今日の箇所マルコによる福音書16章1〜8節は、マルコ福音書の最後の箇所であります。しかし、そのあまりに唐突な終わり方なので、後代の人々が2つの末尾を追加しています。これには、本来は違和感のない末尾があるはずなのに、失われてしまった、という考え方があったから書き加えられたのです。しかし、最近では、もともとこの終わり方だったのではないか、ということで読まれることが多くなってきました。ということは、あえてこのような違和感のある終わり方でマルコ福音書の著者は筆、ペンをおいたのではないか、そこにはどのような狙い、理由があったのでしょうか。
 いろいろな想像をすることが出来ます。復活したイエスに出会った弟子たち。それぞれにイエスとの再会を思い起こしたでしょう。ペトロさんはこうだったかもしれない。「わたしはエルサレムで出会い、こんな声を掛けてくれた、こんな顔をしていた、こんな服を着ていた。わたしには赦しの言葉を述べてくれた」。アンデレさんは、こうだったかもしれない。「わたしはガリラヤで出会った。やさしく声をかけてくれた」他にも、いろいろな記憶があったでしょう。そして、もう一つ大きな問題がありました。今日の最後の箇所、マルコ福音書16章8節にはこのように記されています。
「16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 女性たちは、「震え上がり、正気を失っていた」とあります。何故でしょうか?それは、言葉に出来ないほどの恐怖を覚えたからではないでしょうか。先ほど、触れましたように、弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行きました。よく裏切り者の代名詞としてイスカリオテのユダがいます。しかし、考えてみれば、ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネ、すべての弟子たち12人、そしてお墓に来た女性の弟子たちもイエスを見捨てて逃げてしまったわけです。この女性たちだけではなく、十二弟子たち、その他の男の弟子たちも同じだったのではないでしょうか。

復活に記すということ
 改めて考えてみたいとおもいます。なぜ、この福音書を記した人は、中途半端に「恐ろしかったからである」という一文のよって自分の救い主である主イエス・キリストの物語を締めくくったのでしょうか。それは人間にはイエスさまの復活を書きあらわすことが出来ない、という思いに立ったのではないでしょうか。これだけの著作です。何日もかかって書いたものと思います。机にペンとインクと紙をおいて、書き進めていったでしょう。夜になったら休んで、机に向かう。ご飯を食べて休んで、机に向かう。そんな作業を何日も続けたのかもしれません。筆を進めながらも、机を離れていながらも、イエスの話について聞いたことを整理しながら、書き進めたのではないか、と想像しています。
 そして、とうとう最後の場面、イエスの復活の場面にやってきました。キリスト教において最も重要な場面です。そして、また様々な人たちから復活したイエスとの出会いを聞いては、記そうとしていたかもしれません。しかし、いよいよと思い、書き始めようと思いました。しかし、書けなかった。何度も書こうと思った。何か記そうとしても、イエスの復活というできごとを書き記したとしても、自らの思いとはずれるばかりだった。そして、あんな結末になってしまった。また、もしかしたら、病気になってしまったとか、個人的な理由によって、書き進めることが出来なくなってしまったかもしれません。それは復活という出来事は、あまりに大きすぎたから起こったこととも言えるかもしれません。

あの旅路を再び
 弟子たちにとって、イエスの復活とは、イエスさまが神の子である証明という意味よりも、弟子たちにとって復活とは、イエスによるとてつもない深い赦しの体験であったという意味の方が大きかったのではないでしょうか。最後に、16章7節をもう一度、お読みします。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」
 「ガリラヤへ行かれる」そして「そこでお目にかかれる」とあります。この言葉に従い、弟子たちはガリラヤへ戻ったのかどうか、わかりません。歴史的に言えば、使徒たちはエルサレムにおいて、最初の教会としての歩みを始めております。ということは、この言葉は、ただ単に地域としてのガリラヤに戻るという意味として受け取らなかったということでしょう。
 ガリラヤへ行く、というイエスの言葉、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへの歩み、旅路を、次は弟子たちの一人一人が導き手として歩みなさい、ということではないでしょうか。イエスと弟子たちの歩み、様々な人々との出会い、癒やし、食卓、奇跡があり、弟子たちにしても、周囲にいた人々にしても、主なる神への信仰を深めたこともあったでしょうが、神への信頼を失うような辛いこともあったでしょう。
 様々なことがあっても、1つの共同体として、歩むこと、歩み続けること、「ガリラヤへ行ったイエスの背中は、そのような歩みを弟子たちに促したのではないでしょうか。そして、そうした弟子たちの歩み一つ一つが現在にも続く教会へと繋がっているのではないでしょうか。今日は、イースターです。イエスの復活は、イエスと弟子たちの再会であり、教会の歩みの始まりでありました。そのことを胸に、また新しい一週間、また新しい歩みを、新しい旅路を歩み出したい、と思います。

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『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)

2019.04.16(20:24) 389

『放り出された石の上に』
(2019/4/7)
ルカによる福音書 20:9〜19

仕事の中で感じること
 障がい者福祉の仕事をしていますが、その日々の中で、本当に様々な障がいのあり方があり、彼ら、彼女らを理解するには、それなりの知識や根気というものが必要かな、と言うことが出来ますが、もう一つ大事なことは、その人と共にいる、ということ、この人も自分の隣人なんだ、という思いであります。そして、もう一つ、考えさせられることは自分の生活というものが、以下にスムーズであるか、ということであります。
 自分たちの生活が以下に順調に進んでいて、障がいを持ったメンバーと共に生きる、ということは、否定的な言葉を使えば、とても「めんどくさい」こと、とても「じれったい」もので、自分自身がそのことにイライラしてしまうことがあります。しかし、そうした日々の中において、キリスト教風な言葉を使えば、人と「共に生きる」こと、人の「隣人になる」ことを、課題として与えられているように思います。,
 いかに自分1人の生活が、スムーズで簡単なことなのか。高齢者への介護でも同じですが、介護や介助の世界では、3大要素として、食事、トイレ、入浴が挙げられます。自分1人で済ませれば、それぞれ10分とか15分で済むことであっても、その2倍もしくは4倍もの時間がかかったりする。また、人間関係のめんどくささもある。人の多くの悩みは、人間関係だ、ということもできますが、まずメンバーとの人間関係があります。そして、それが一対一だったり、1日中、最高で連続24時間ということもあります。肉体的にも、なかなか辛いものがありますが、精神的に重くなってしまうこともあります。

分かち合い
 そういったことの対処というわけではないですが、たんぽぽでは、「わかちあい」という時間を持つようにしています。2人とかそれ以上の人で、皆で自分の悩みとか一日を振り返って、苦しかったこととか悲しかったこと、などを語り合う時間を持つことになっています。わたしたちの会社たんぽぽでも、会議の最初などに持つようにしています。だいたい、沈黙に始まって、沈黙に終わるのですが、団体によっては、キリスト教の祈りを文字通りする団体もありますが、たんぽぽでは時に何も定めていません。仏教徒や無宗教の人もいます。ですから、沈黙にはじまって沈黙に終わるというパターンになっています。
 「分かち合い」という時間、ただ単にお互いの日常の思いを言い合うというだけではなく、ただ単に報告というだけではなく、自分の気持ちを語る、ということを大事にしています。そうすると、どういうことが起こるか、と言えば、職員同士関係が悪かったこと、なんであんなことを?」と言ったことがあったとします。しかし実は、知らなかったけど、体のどこかが痛くて、とか、調子が悪くて、おろそかになってしまったことがある、とか、冷たい態度を取ってしまった、とか。また、そのように互いに、自らの痛みや悩みを聴き合うことによって癒やされ、また新しい力を得ていくことが出来ることもあります。「あー、自分だけではなかったんだ」「あー、そんな痛みを持っていたんだ」、と。「分かち合い」を契機にして、新しい人間関係を築くことになる、和解に至るとか、そんな場になっていくのです。ちょっと深い形で人を見つめることで、敵対関係ではなく、味方になっていく。そして、それでもダメであったら、さらに深くということかもしれません。
 この「分かち合い」、もともとは、ラルシュというフランスから始まった知的障がいや精神障がい者の方々と共に生きるコミュニティーから始まっています。障がいの影響か、コミュニケーションを取るのが、難しい人であっても、時間をかけて、じっくり耳を傾けること、目や表情、また体の他の部分で言葉、意志を読み取ろうとする。いわゆる健常者であっても、そうした時間によってだからこそ、伝えることができること、受け取ることができることがあるということでしょう。

「神の僕」と「神の息子」
 今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書20章9節から19節、「『ぶどう園と農夫』のたとえ」という小見出しがついている箇所です。ぶどう園の管理を主人が農夫たちに任せていた。そして、収穫期になったので、収穫物を得ようとして、ぶどう園の主人は、何度も僕を使わしたけれども、農夫たちは、その僕たちを、袋だたきにしたり、追いかえし、また放り出してしまったりした、と。
 そして最後には、主人の息子を送ったけれども、放り出して殺してしまった、と。一般的なたとえの読み解き方とすれば、ぶどう園のこの世のことであり、主人とは神さま、そして僕たちというのは神の使いや預言者たち、農夫たちは神さまに従わない人間たち、そして、主人の息子とはイエスさまのことであり、イエスの受難物語、十字架への道、ユダヤ人の支配者であった大祭司やローマ帝国、イエスを死刑にしろと叫んだユダヤ人たちが農夫である、と捉えるのが一般的な読み方ではないでしょうか。しかし本当に、そのような捉え方、読み方だけで良いのだろうか、という思いを最近、持つようになりました。

農夫は私たちかもしれない、という思い
 イエスは、こんな言葉を語っています。ルカ福音書25章45節。
「『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」(マタイ25:45/〔見失った羊のたとえ〕)
 また、「見失った羊のたとえ」においても、少数の者、望まれないような存在への思いやりを進めている、と言えるでしょう。「子供」にしても、「小さい者」にしても、いわゆる一人前には至らない存在ということができます。この世においても、それは代わらないでしょう。最近、よく感じることがあります。それは、ずいぶんと競争が重んじられる社会になってしまっているという思いです。
 ずいぶんとスピードや効率が求められてします。わたしは、名古屋市に住んでいますが、新幹線になって仕事へ行くことがあります。なかなか便利だなあ、と思う反面、こんなに忙しくしなくて良いか、っと思うことがあります。例えば、新幹線車内で、Wifiっていうインターネットの電波があるかどうか、コンセントがあるかどうか、で一喜一憂しました。また更に、リニアモーターカーもできる。とっても便利だ!っと。しかし、そんなに仕事しないと行けないか、と思い直したことがありました。それは、日曜日の朝一の新幹線、自由席で、ガーッと寝てるんですけど、新幹線の切符を手に握ってるんですよね。そして、それを当たり前のように、車掌さんが検札していきました。自分もどうだろうか、ずいぶんと余裕の無い生活しているなあ、っと思い直して、今は新幹線の中では、ぼーっとしたり、本を読んだり、仕事をしないようにしています。また、そういえば、「忙しい」という漢字は、心を亡くす、と書くよなぁっとか。
 そうした早さばかりを追い求める価値観の中で、障がいを持つ人たちの存在をどのように捉えるだろうか、ということ。自分の思いとを重ね合わせることで、自分もこの農夫たちのように、「小さくされた者」「弱き存在」を、邪魔だと思っていないだろうか。そして、さらに言えば、そうした障がい者の弱さとは、人であれば誰もが持つ「弱さ」のはずです。そうした弱さを否定すること、神の使いを否定することは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。

「神の子」と共に生きるために
 障がい者と共に生きること、聖書的には、「小さい者」「小さくされた者」でしょうか。そのような人々と共に生きてみる、生活してみると、自分自身の中にある強さに対する求めや弱さや小ささに対する恐れみたいなものが顔を出すように思うのです。しかし、考えてみますと、そうした「小さき者」や「子どもたち」を大切にできないことは、自分自身を大切にしていないことの徴、証拠かもしれない、と思うようになりました。
 例えば、私たちは誰でも年を取ります。いつか、ほとんどの人が、誰かの介護を受けることになるでしょう。そうなったとき、高齢者のペースに合わせてくれない介助者に当たったらどうでしょうか?けっこう辛いと思います。何かするにしても、現役時代と同じように評価されてしまう。そんな場、時があったとしたら、苦痛でしか無いでしょう。そうした意味でいえば、効率やスピードばかり求めるあり方は、人という存在、人の本質に関わる弱さを否定することにつながっているのではないでしょうか。
 農夫は、なぜ主人の僕そして息子を殺してしまったのでしょうか。それは、漠然とした不安感からでは無いか、と思います。そして自らを自らで支配しようとした、支配できると思ってしまった。自ら、ぶどう園を管理しているうちに、自分のものになったような錯覚に陥った。そして、ぶどう園をただ単純に奪われると感じてしまった。主人である存在に信頼を寄せることが出来なかった。そして、さらに神の僕という隣人も信頼できなくなってしまっていた。このたとえは、人が持つ漠然とした不安感が神への信頼を失わせてしまうこと。そして、そうした不安感が、さらには神の僕に限らない隣人、そして守られるべき、「小さき者」「子どもたち」をも殺してしまうかもしれない、さらには自分自身をも殺してしまうかもしれない人のありようを示しているのではないでしょうか。

放り出された石の上に
 今日の箇所ルカ福音書20章17節18節をお読みします。
「「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」」
 この石とは、イエス・キリストのことを指しています。イエスは、十字架への道を歩み、十字架上の死を遂げました。イエスの死は、人としての死であり、人としての弱さや痛みの象徴とも言えるでしょう。その人としての弱さや痛みの上に教会、キリスト教は立っている、と言えるのではないでしょうか。そして、そうした人の弱さに目を向けないことは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。
 主イエスは、私たちの罪のために十字架上の死を遂げました。人の罪とは何か、神に委ねると言うことを忘れて、神の使いを殺してしまうような弱さではないでしょうか。ぶどう園の農夫たちは、主なる神の支配に信頼を寄せることができず、神の僕、神の子をないがしろにしてしまいました。受難節というこの時期、イエスが弱さをもつ人として十字架屁の道を歩んだことに思いを寄せると同時に、自らの弱さに今一度、心を向けることが求められているのではないでしょうか。新しい一週間、イエスという犠牲の上に、十字架という象徴の上に、キリスト教が立っていることを覚えて、歩んでいきましょう。

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『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)

2019.03.17(22:16) 388

『ユダヤ人とサマリア人の境界線』
(2019/3/17)
ルカによる福音書  9:51~56

ユダヤ人にとってのサマリア人
 ユダヤ人にとってのサマリア人は、どのような存在だったのでしょうか。なぜ、新約聖書において知ることができますが、ユダヤ人たちから嫌われていたのか。それには、歴史的な背景があります。一つ目の要素としては、ダビデ王朝の終わり、ソロモン王が亡くなった後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。分裂したのが、紀元前922年です。その後、北王国と南王国で関係が良かった時代もあり、戦争状態の時代もありました。
 そして紀元前722年に、ちょうど200年後、北イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされます。アッシリア帝国は、支配した地域、民族に対して、まず強制的に移住させて、雑婚させるという強制移住雑婚政策を行いました。ようするにそれぞれの民族や地域が持つアイデンティティや宗教性を薄めることによって、支配しやすくするって政策です。ようするに、すべての人々をアッシリア帝国人にしようとする政策でした。そして、こうした政策の結果、ユダヤ人から見て、サマリア人とは、ユダヤ人からすれば、汚れた血統の民族という扱いを受けることになりました。

サマリア人にとってのユダヤ人
 そして、ユダヤ人の話に移ります。北イスラエル王国が滅びてから、およその150年後の紀元前586年、南ユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。バビロニア帝国はアッシリア帝国も滅ぼしてしまっているのですが、バビロニア帝国は支配した地域の支配階級を首都バビロンへ強制移住させる政策を行いました。いわゆるバビロン捕囚と言われるもので、おおよそ10,000人と考えられて、エルサレムのほとんどの人々が連れ去れてしまったと考えられます。そして、連れ去れた後のエルサレムは、神殿も破壊され、廃墟となってしまいました。
 そして、その後、オリエント世界の盟主は、アッシリア、バビロニアと変わってきましたが、ペルシア帝国という帝国が、全地域を支配することとなりました。そして、どのようなことが起こったか、バビロンに移住させられていた多くの民族に対して、紀元前538年、キョロスの勅令と言いますが、自らの故郷、地域に帰るように解放令が発令されます。そのことによって、バビロンに居住していた多くのユダヤ人がエルサレムへの帰還を目指すことになります。そのことによって、またエルサレムがユダヤ人の首都となり、解放令から、18年後の紀元前520年に神殿が再建されるのですが、道のりは大変なものでした。
 なぜ、大変だったのか?一つは、解放されたとはいえ、バビロンでの生活になれてしまい、エルサレムに帰ろうという気持ちになる人が少なかったということです。世界第一の都市での生活をすてて、わざわざ何百キロも離れた廃墟へ行き、町と神殿を再建しようという困難な計画に、ユダヤ人としてのアイデンティティに関わることとは言え、多くの人が挫折してしまったみたいなのです。そして、残ったユダヤ人たちによって、バビロニア・タルムードという優れたタルムードができあがります。
 そしてもう一方のエルサレムへ帰還し、神殿を再建しようとした人々には、思わぬ困難がもう一つありました。それは、サマリア人の存在でした。一つは、こんなことがありました。もともとは同じ民族、同じ神を信じている兄弟のような民族ですから、サマリア人は、神殿の再建の支援をしましょうか、とユダヤ人に呼びかけました。しかし、サマリア人は純粋なイスラエルの血統ではない、という理由でその支援を断ってしまいました。そして、もう一つ、政治的な事情がありました。ペルシア帝国は、領内を20ぐらいの行政区に分け、総督をおいて支配していました。そして当時、エルサレムがある地域の総督は北イスラエルにルーツをもつ人、つまりサマリア人だったわけです。その立場から考えてみますと、ユダヤ人のエルサレム帰還はペルシア王公認の事業です。ですから、ユダヤ人の帰還が上手くいった場合、自分の領地が減ってしまうということで、あまり協力しなかった、またむしろ邪魔をしたらしいのですね。
 そうしたことからユダヤ人はサマリア人を憎むようになった。そして、サマリア人の方としては、イエスの時代に至るまでに、ユダヤ人が強くなって、ユダヤ人がサマリア人を支配して、サマリア人の神殿を破壊してしまったりする、など。このように、歴史的にいろいろな事情があって、ユダヤ人とサマリア人は憎み合うようになってしまったのです。

キリスト教信仰にとってのエルサレム
 今日の聖書の箇所において、エルサレムに行く決意をもったイエスは、サマリア人の村へと立ち寄ります。エルサレムへ向かうにあたって、カファルナウムを中心としてガリラヤ地域からエルサレムへ向かうとなれば、ヨルダン川の西側を通りますので、サマリア地域を通るのは、自然なことです。しかし、サマリアの人は、イエスのことをないがしろにします。その理由については、何もしるされていませんが、弟子たちは憤慨して、言います。9章54節。
「9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。」
 これは、旧約聖書に記されているエリヤに関する物語に重なっています。ようするに、異教徒に対する裁きを重ねているわけです。しかし、イエスはその2人を戒めます。なぜかは記されていません。しかし、ルカの福音書の文脈でいえば、11章には、『善きサマリア人の例え』があり、宗教性や倫理性は民族によらない、という考え方をイエスはしていた、と言いたかったのでしょう。

『金子文子と朴烈』から
 先日、『金子文子と朴烈(パクヨル)』という映画を見てきました。大正時代、1923年に起こった関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の混乱によって戒厳令で出されました。時の政府は、この混乱時に反乱が起こってならないとして、多くの民主運動活動家やアナーキストが虐殺されました。そして、金子文子と朴烈もそうした人々と同列に扱われることが多いのですが、彼らは皇太子を暗殺しようとしたという嫌疑をかけられ、有罪判決を受け、金子文子が獄死、朴烈(パクヨル)は、無期懲役刑を言い渡されますが、戦後、釈放される、という運命を歩みました。
 その映画自体、とても興味深いものだったのですが、まず韓国映画であったということ。しかし、映画のほとんどは日本語での会話で締められています。そして描かれる内容として、厳しい天皇制批判もあり、日本での映画化は難しいだろうな、と感じました。また、全編において、非常に政治的な空気というものを感じず、とても明るいということでした。そこから政治的なテーマというのは、「生き方」の問題なのだ、ということを感じました。また、本筋から離れますが、政府要人たちの徹底した韓国名の日本語読み。また、政府の都合によって、様々な真実が隠されようとする動き…。
 また、そうした在日韓国朝鮮人、在日コリアンの気持ち、被支配民族の気持ちに支配している側は、よっぽどの想像力を持たなければ、寄り添うことが出来ないっていう事実を突きつけられました。終戦時、こんな逸話があったらしいです。敗戦を知らされた日本人たちは、誰もが落胆していたそうなのですが、在日コリアンたちは、万歳をしていました。「戦争が終わった!日本の支配が終わる!自由になれる!」っと。とても当たり前です。しかし、日本人たちは、その在日コリアンたちの姿を見て、憎悪したらしいのですね。それが現在にまで続いている、と。身勝手な考え方ですが、味方だと思っていた在日コリアンの人々に裏切られた、と感じたそうなのです。自分たちがその人たちを傷つけてきたこと、踏みつけてきたことなど、すべて、その憎しみによって消えてしまった。そして、恐怖という感情も持ち、過去をしらない世代になればなるほど、憎しみのみが残ってしまう、と。

ユダヤ人とサマリア人の境界線
 ユダヤ人とサマリア人の間、境界線もお互いにそんな感情だったのではないでしょうか。民族として、世代として、積み重なった無理解や憎悪、そして思い込み、そうしたことにイエスの弟子たちさえもとらわれていた。イエスはどうだったのか、少なくとも、『善きサマリア人の例え』のようなことを言ったのですから、イエスはそのような意識は持っておらず、民族性や宗教性といったその人の背景ではなく、その人自身との繋がりをもっていたのではないでしょうか。今日の箇所においても、神殿の場所が問題とされています。神殿、神に祈る場所は、エルサレムなのか、サマリア人の聖所ゲリジム山なのか。イエスはそうした発想に捕らわれていなかったのではないでしょうか。また、それならば、なぜエルサレムに向かったのか、それは神殿がそこにあるからではなく、主なる神への信仰の形を変えようと、エルサレムに向かったと考えられるのではないでしょうか。
 今日の説教題は、ユダヤ人とサマリア人の境界線としました。民族的にみれば、時代も違い、アジアの私たちからすれば、ほとんど同じ民と言えます。そしてアジアの民もオリエント社会の人々から同じと言えるでしょう。しかし、近いからこそ見えてくる違いというのは、実は兄弟ゲンカのようなものなのではないでしょうか。ルカ福音書は、キリスト教がローマ帝国内の広い地域へ、様々な民族へと広がっていくことを意識して描かれています。サマリア人の存在は、ユダヤ人イエス、ユダヤ人の宗教として生まれたキリスト教の最初の境界線(ボーダー)として捉えられたのかもしれません。宗教とは、どのようなものであっても、境界線を作る、と言えるのではないでしょうか。しかし、境界線を壊し続ける宗教として、キリスト教を捉えることは出来ないだろうか。ユダヤ人とサマリア人の関係から、そんな課題について考えさせられました。

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周縁自体


タイトル画像

『イエスが呪ったいちじくの木』(マルコ福音書11:12〜14/20〜25)

2019.03.04(21:24) 387

『イエスが呪ったいちじくの木』
(2019/3/3)
マルコ福音書11:12~14/20〜25

木と家系図
 木の絵を描いたことがあるでしょうか。わたしの高校時代の美術の先生はちょっと変わった方と言いますか、美術の先生なんですが、本当の芸術家でした。そんな先生の課題で木を描く、という課題がありました。何も教えもせずに、です。今から考えてみますと、その先生は何も教えずにいろいろなことをやらせてみて、生徒の書いた作品を見てからアドバイスをするというパターンをやっていました。他にも、円を描いて、それを64等分して、その点と点をすべて結ぶという課題などもありました。しかし今から考えてみますと、芸術家ですから、そんな高校生に絵などの講釈をたれるよりも、実際に色々と描かせること、というのをコンセプトとしてやっていたのかもなあ、と感じております。
 そんな木の絵を描く、という課題の時、最初に書き上げて、その先生に持って行きますと、ちらっと見て、一言言います。「葉っぱが足りない。やり直し」自分としては一生懸命、葉っぱを描いたつもりでしたが、「足りない」と言われて、もう一度描き始めました。そして、もう一度もっていきました。すると「また足りない」と言われます。そんなかんだの何度目か、で「これ以上、葉っぱを描くスペースがありません」と言いました。すると先生は「葉っぱの向こうにある葉っぱがこの絵には描いてない」と言ったんです。「そんな葉っぱの向こうにある葉っぱ」が見えるはず無いだろ、と思ってその場は適当に絵を仕上げて終わりましたが、その言葉は不思議でした。それに何故、木の絵などを描かせたのだろう、と思いましたが、いろいろと面白い教師で、人気がありました。
 マタイによる福音書の冒頭には、アブラハムからイエスに至る家系図が記されています。家系図は「木」のように描かれるものですが、興味がある部分しか書かれないわけです。アブラハムからダビデ、そしてダビデからヨセフ、そしてイエスに繋がる「一本の線のみ」が書かれてだけです。しかし、枝は書かれないわけです。が、興味深いこと、4名の女性が書かれていて、あまり望ましくないような義理の親子間での近親相姦やダビデの部下殺し、異教徒、異民族などの話に関係する人々です。あえて、見にくい人の姿を描いて、どれだけ立派な家系であったか、を知るそうとしたのではなく、どれだけ人は理想的ではなかったか、そして神はそんな罪深い人、家系であっても守ろうとした、ということを現したかったのでないか、と感じています。

ヨナのお話
 長々と木と家系図の話をしてしまいましたが、結論から言いますと、今日登場します「いちじくの木」は何かの比喩であると考えられるからです。そしてこの比喩は「人の共同体」を指しているからであります。それは「民族」や「イエスの共同体」そして「教会(キリスト教共同体)」を指すと考えられるからです。そして、今日の聖書箇所も飛んでいる二箇所を選ばせて頂きましたが、その間にある箇所は『宮清め』と言われている箇所であります。そして「木」と「人々」そんな中で思い出されるのは、旧約聖書のヨナのお話です。
 ヨナ書は、一人の預言者の物語ですが、おとぎ話として旧約聖書に収められている物語です(P.1445)。全体で4章という短い物語なので、全部を読んでみても良いのですが、短縮のために、まとめますと
『ヨナは預言者として召命を受けます。そしてその指令は「ニネベ」という町にいって、「神の裁き・意志を伝えよ」と命じられますが、ニネベに行くのがイヤで、ニネベへの途中の港で反対側の船に乗ります。しかし神の意志によって、船は嵐に遭い、その原因がヨナが神の意志に逆らったことが原因であることが解って、船から放り出されたら、魚に飲み込まれて、ニネベの近くの海岸に放り出されて、ニネベで「このままでは滅びる」という神の意志を伝える、といきなりニネベの人々は悔い改めて今までの生活を捨てて断食をし、神に赦された』というお話です。
 そして、4章にある「木」が出てきますので、その箇所を読んでみたいと思います。
『4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。 4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」』
 このお話は、裁きに対する人間の思いを的確に表現していると思います。例えば、『良いこと』をしたら救われて『悪いこと』をしたら滅ぼされる、としたら、何が『愛なのか解りません』だからと言って、『良いことをしてる人も悪いことをしている人も』すべての人が救われるとしたら、何が『神の意志』なのでしょうか。ヨナはニネベの人たちが滅ぼされれば良い、と思ったわけです。悪いことをしていたならそうでしょう。じゃあ、神に従っても従わなくても一緒じゃないか、という話になるわけです。だからヨナは神に怒ったわけです。そんなヨナに自分の意志を知らせようと神は「とうごまの木」を生えさせ、そしてすぐに枯らしてしまった。そしてヨナは怒っているわけです。が、神は「わたしも一緒だ」ということをニネベの人たちを大切にしてきたのだから、と。ヨナに対して、お前は怒っているけれども、滅ぼすことはとても悔やまれることだ、と言っているわけです。

救いと裁き
 しかし、旧約聖書そして新約聖書全体を通して、そうした滅びと救いの問題を考えてみますと、どちらもあるわけです。悪いことをしたら滅びる、また神の意志によって滅ぼされる民族がいる、神に従わなかったから滅びてしまった人々の話などがあります。今日のお話は、やはり間に挟まれた物語から考えますと、この「イチジクの木」の話は、神がエルサレムをたしかに滅ぼされるのだ、ということを示しているのでしょう。そのことから、マルコ福音書は、エルサレムがローマ帝国に滅ぼされた後に書かれている、と考えられています。
 そしてもう一つの要素ですが、22節~23節をお読みします。
『11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
 神の裁きの話ではないのか、という形ですが、ここには人の意志の問題が出て参ります。神に従うことは人の意志決定の問題です。この言葉の断片と、「いちじくの木を呪う」というエピソード、もともとはまったく違ったかたちで伝えられたものです。(マタイ17:20)
 この言葉をここに配置したのは、マルコでありましょう。マルコは「イチジクの木への呪い」を教訓として受け取ったのです。神への信仰を持たなければ滅びてしまう、と受け取ったのでしょう。イエスがイチジクの木を枯らしたように自分たちの教会も神への信仰をきちっとした形で持たなければ滅びてしまう、と思ってこのように配置したのでしょう。

イエスは正しかったのか
 しかし、どうでしょうか。イエスがこのようにイチジクの木を呪って枯らすようなことをするか、という問題があります。だいたいこの季節は春で、イチジクは6月と9月になるらしいので、イエスはとても無理があることを言っている、またイエスが空腹だったから、という理由で季節外れに実をつけていなかったら、枯らされたら木の立場としては、たまらないのではないでしょうか。
 現代におけるキリスト教においても、「良いことをしたら救われ」「悪いことをしたら滅びる」という構図から抜け出せないでいるなあ、と思います。しかし、こういうことを言いますと同じキリスト教でも立場の違う人は「救われる人と救われない人」がいるからこそ、キリスト教である、という人もおります。しかし、どうでしょうか。わたしはやっぱり、キリスト教の神さまというのは全ての人を救う、のではないでしょうか。
 最初に、高校時代における「木のスケッチのエピソード」を紹介しましたが、今になって思うことですが「葉っぱの向こうにある葉っぱ」を描け、という話ですが、たしかに絵を描くという作業は、前にあるモノから描いたら上手くいかなくて、遠くにあるモノ、後ろにあるモノから描くべきなんですよね。それを最初に教えてくれれば、と思うのですが、それを描くことで覚えろ、ってことだったと受け取っています。
 そんなことまで考えてみますと、人間の集団を木にたとえてみますと、その集団だからと言ってすべてが良いとも悪いとも言えないでしょう。また一面的に見えるものが良かったとしても、それだけでは判断できない、こういった考え方を相対主義とか懐疑論とも言ったりしますが、この逆の形は正統主義ではないかな、と思うのです。こういった形が正しい、間違いない、という価値観です。
 聖書には「正しい者が救われ、誤った者は救われない」というメッセージと「誰もが救われる」というメッセージが併存しております。そんな中で今日お読みした箇所は、イエスにおいては、珍しい「呪い」を語った箇所であります。また、他の人々が「呪われよ」「滅びろ」と言われた時、どのように私たちが感じるのでしょうか。ヨナのように、怒りを感じるだろうか否か。神のように、やっぱり助けたいと考えるだろうか。また、ヨブのように自らが辛いことにあったり裁きにあったりして、友人たちに「お前は前任だと言われているけど、絶対に悪いことをしたにちがいない」と言われたら、反論するだろうか否か。この喩えは、そうした人の有り様を問うているのでは無いでしょうか。

十字架への道の途上で
 最後に致します。今日の箇所の冒頭、「11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。」と記されています。その後、イエスは神殿で商人たちを追い出す「宮清め」と言われる事件を起こします。そのことをきっかけにして、イエスは逮捕されます。イエスは基本的に、従いきれない人でも受け入れていたのでしょう。
しかし,このときは、そうした気持ち、思いでもいられないほど、追い詰められていたのではないでしょうか。
 そして、イエスにとっては決定的な分岐点となる時であったでしょう。そうした時に、イエスの期待に応えることが出来るだろうか、キリスト者として、自分はできるかどうか、そんなことも問われているかもしれません。そして、そういった意味で言えば、弟子たちは誰も従いきれなかったわけです。いちじくの木は枯れてしまっていました。そして、その後イエスは、信仰についての話をしています。ぱっと読むと、信仰の力を持っているイエスが木を枯らすことが出来た、というように受け取りがちです。しかし、違うんですよね。信仰によって、イエスの期待、イエスの同労者になることができる可能性を誰もが持っている、という言葉ではないでしょうか。もうすぐ受難週です。従いきれない私たちであっても、受け入れて下さる主イエスの歩みに思いを寄せて、過ごしたいと思います。

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周縁自体


メッセージ/新約
  1. 『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)(06/06)
  2. 『あの旅路を再び』(マルコ福音書16:1〜8)(04/28)
  3. 『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)(04/16)
  4. 『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)(03/17)
  5. 『イエスが呪ったいちじくの木』(マルコ福音書11:12〜14/20〜25)(03/04)
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