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「ヨブの問いの根源性」ヨブ記3:1〜26

2013.03.04(16:25) 189

『ヨブの問いの根源性』
(2013/3/3)
ヨブ記 3章 1~26節

神は試すのか?
 ヨブ記は、旧約聖書の中において知恵文学の一つとして知られております。知恵文学とは、その主な視点が、イスラエルの歴史や神の計画などではなく、人間個人にあるものと言えることが出来ます。ヨブ記の他には、箴言とコヘレトの言葉が知恵文学と言われております。
 ヨブ記において、主と悪魔の対話によって、ヨブに不幸が訪れますが、神は私たちの正しさ、信仰のあり方を計るために、試すのだろうか?試みられるのだろうか?という問題が最初に浮かびます。そして、「試み」として、わたしたちが良く知っているアブラハムとイサクのエピソードがあります。
 あの逸話、創世記22章に納められておりますが、「神はアブラハムを試された。」という言葉によってはじまります(創世記22:1)。この物語。もしも、アブラハムもイサクの命を軽く考え、心も痛めず、ナイフを振り上げていたとしたら、どう感じるでしょうか。イサクを祭壇に挙げて、ナイフを振り上げた瞬間においても、心のどこも痛まないようなアブラハムであったら、どうでしょうか?立派な信仰者でしょうか?神さまに従った立派な人でしょうか?そんなことはないでしょう。とても尊敬出来るわけがありません。
 また、試みであるとすれば、聖書に記されている態度が本当の正解ではなかった、という理解も出来るように思います。神の立場としては、アブラハムが自分の息子までを手にかけようとするほど、神に対して全部をなげうつ信仰を持っていたとは思わなかった。本当の正解は、そんな理不尽な命令をする神に対して、「自分がそんなことは出来ない。いくら神さまの命令でも、神さまが与えてくださった子どもだとしても、犠牲にしろという命令は間違っている」と神に対して、食ってかかることだという理解もできます。
 また、大胆に想像して、もしかしてもアブラハムに対しても、ヨブ記に記されているように、主なる神とサタンの無神経な対話によって、イサクを献げなさい、という命令が下ったのかも知れない、と考えることもできます。こんな理不尽な要求をする神が本当に神といえるのか、と大胆に問題提起している思想家もいます。
「正しいはずの神が理不尽な試みを人間に対して行うのか」。このアブラハムに対するイサクを献げなさい、という神の試みにしても、ヨブ記にしても、キリスト教会、クリスチャンに限らず倫理の課題として大きな議論となっているのは、「苦しみ」そして、「良いことをしたら幸せになる、悪いことをしたら不幸になる」という因果応報に関わることだからでしょう。

ヨブの問い
 今日の箇所ヨブは、ヨブ記冒頭1章2節3節に
「1:2 七人の息子と三人の娘を持ち、 1:3 羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」
と記されているように、多くの子どもたちや財産を得ており、とても恵まれていた立場であったことが記されております。しかし、それが突然に奪われてしまう。そしてその災いは、主なる神とサタンとの対話によって引き起こされます。
ヨブ記1章8節から11節。
「1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
1:9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
1:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
1:11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」」

 このような神とサタンの対話を経て、ヨブの幸福が奪われる事柄、不幸がたたみかけるように訪れます。最初に、1章13節から17節において、すべての財産とも言える家畜や使用人たちが1匹残らず失われます。そして18節19節においては、ヨブの10人の子どもたちも一人残らず、死んでしまったという報告を聞きます。しかし、ヨブは神への信頼を守ります。1章20節から22節。
「1:20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」1:22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」
 文字どおりすべてを失ったヨブでしたが、不幸はそれだけでは終わりません。再び神とサタンの対話から、更なる不幸が襲います。2章3節から6節。
「 2:3 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」2:4 サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。2:5 手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」2:6 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」」
 このような対話から、ヨブは全身ひどい皮膚病にかかってしまいました。全身をかきむしったとありますが、全身が強いかゆみに覆われてしまったのでしょう(2:7-8)。痛みよりもかゆみの方が耐えられない、と聞いたことがありますが、まさにそのような状態に陥ったヨブ。連れ合いにも、「神を呪って、死んだ方がマシ」では、と言われてしまいます(2:9)。しかしヨブは、こう答えています。2章10節。
「2:10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」
 その後3人の友人たちがやってきますが、今日の箇所3章においてようやくヨブは口を開いて、自らの心の中の思いをはき出します。

知恵文学の意味と意義

 アブラハムの逸話にしてもヨブの立場にしてもそうですが、自分がこのような運命にあったら。神への信頼、信仰を失わずにいられるでしょうか。さらにそれがある意味で神とサタンの気まぐれのような「試み、テスト」として引き起こされたとしたら、どうでしょうか。今日の箇所。ヨブ記3章1節から26節ですが、「ヨブの嘆き」と小見出しが付けられていますが、ヨブは自らの生まれた日を呪い、母親の胎にいるうちに死ななかったのか、また生まれずにいたのなら闇の世界において「恵まれない」状況ながらも平穏な気持ちでいたのかもしれない、と嘆いています。そして更に、20節からにおいては、自らの死さえのぞんでこのように述べております。
3章20節から22節をお読みします。
「3:20 なぜ、労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
3:21 彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にもまさって/死を探し求めているのに。3:22 墓を見いだすことさえできれば/喜び躍り、歓喜するだろうに。」

 ヨブ記は、この後、4章から友人たちの対話を通じて、ひたすら神によって与えられた苦しみに関する議論が進められていきます。3人の友人たち、そして後からエリフという少しヨブよりは若い友人がやってくるのですが、4人の友人たちは一貫してヨブを責め続けます。神がヨブに対してこのような苦しみを与えたからには、何かしらの理由があるはずだ、ヨブに対して悪を行ったはずだから、それを告白して悔い改めなさい、と。しかしヨブは一歩も譲らず、自らの行動に過ちはなかったとして、反論し続けます。そしてその討論の最後に主なる神が現れて、ヨブを諭して、ヨブは悔い改める。そして、今まで以上の子どもたちや財産を得るという構造になっております。

ヨブの問いと思い

 ヨブ記におけるヨブは、旧約聖書の歴史を通じて、「義人、良い人」として知られています(エゼ14:14/20/ヤコ5:11)。そして、他に義人として知られていた人として、ノアとダニエルがいます。そしてヨブにしても、ノアにしても、ダニエルにしてもある共通点があることに気づきます。それは、「正しい」と言われていながらも、その正しさについて、他の人から責められている、疑いをもたれていたという点であります。
 たとえば、ノアは神が命じられた方舟の建造を多くの人の嘲笑を浴びながら、勧めました。またダニエルは、異国の地において、敵対者たちの陰謀にさらされながらも、その王の信頼を勝ち取り、成功していきます。そしてヨブ。様々な災いをもたらした原因はヨブにある、という友人たちの主張に反論し続けています。
 ヨブ記という文書が生まれた状況は、おそらく善人という人が不幸を得、また悪人と思われる人が幸いを得る、という価値観が崩壊してしまった時代だと思われます。同じく知恵文学に分類されるコヘレトの言葉1章3節にはこのような言葉があります。
「1:3 太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」
 ヨブ記の著者もコヘレトの言葉の著者も、一つの事柄も共有しています。それは義人は幸福になるべきであり、悪人は不幸な運命に陥るべきである。
しかし現実は不幸にも、そうはなっていない、むしろその逆になっている、義人が不幸になり、悪人が祝福を得ているという事柄です。何故なのか?
 ヨブ記が記された時代、イスラエルはバビロン捕囚の憂き目に遭っていた、という説があります。母国も滅ぼされて、今までの価値観が壊されてしまった時代。ダニエルが置かれていた状況に近いかもしれません。今までは、主なる神に従うことが幸いへ向かう道でしたが、そうはなっていないむしろ主なる神への信仰は自らの立場を危うくする危険さが伴っている。律法に間違ったことが重んじられてしまう状況。そのような状況の中でヨブ記は生まれてきたのでしょう。ですから、このヨブ記は、どのような苦難に遭ったとしても、ひたすら神に信頼し続けていれば、神は大きな恵みを与えてくださる、とも読むことは、おそらく適切ではないでしょう。そうではなく、主なる神が全能だとするのであれば、「苦しみ」は何故あるのか?また何故「義人」が苦しまなければならないのか、というテーマに記された作品でありましょう。

ヨブの問いの根源性

 誰でも出来ることならば、「不安」や「苦しみ」などに遭遇することなく心平穏に与えられた道を歩んでいきたい、と思っています。そして苦しみがあるとするならば、ヨブのようにその先には、それ以上の幸福、祝福が与えられたい、と願います。しかし一般論として「苦しみ」があったとしても、その先にヨブのような幸福が用意されているとしたら、一時の苦しみとして耐えることも出来ると言えます。しかし、本当に私たちが苦しむのは、こういった状態ではないでしょうか。2つのたとえ話をしてみたい、と思います。
 分かれ道に立たされています。一方に神さまに示された辛い道があり、もう一方に同じく神に示された楽な道があったとしたら、どうでしょうか?どちらも神に供えられた道です。その道を超えた後には、どちらも神さまから与えられる祝福には変わりが無い、としたら。誰もが、容易い道を歩むことを願うでしょう。少数派の人もいるでしょうが、これは性格ですね。あまり悩む必要も無いでしょう。
 しかし私たちが悩むこと、本当に苦しむのは、こんな状況で立たされた時ではないでしょう。状況としては同じです。一方には辛い道があり、もう一方には幸せな道があります。その先には、神の祝福が待っています。どちらかを選ばなければなりません。
 そして、その先にはしかしさっきとは状況が違います。自分だけではありません。2人います。わたしともう1人がいます。どちらか一方だけが楽な道を選ぶことが出来ます。自分が楽な道を歩いたら、もう1人の人は辛い道を歩まなければなりません。相手が楽な道を歩むのであれば、こちらが辛い道を歩まなければなりません。どちらを選ぶでしょうか。立ちつくしてしまうのではないでしょうか。譲り合うことになるかもしれませんが、結果的に、それが辛い道が長い道であればあるほど、どんなに良い関係であったとしても、その道を通り抜けた後の2人の関係は難しいのではないでしょうか。
 ヨブ記において、「苦しみ」のあり方は神対人という一対一の関係でした。さらに4人の友人たちは、その道に立たされてもいない、第三者です。ヨブは孤独な道を歩んでいます。さらに道を歩む中で不正を働いたのではないか、と友人たちが責め立てるのです。わたしたちも自分たちの歩みに対して、ずかずかと入り込んできて、理不尽に責められたら、怒りや違和感を覚えるでしょう。
 その分かれ道に立たされたのが自分とイエスだったら、どうするでしょうか。「苦しい道」と「楽な道」が供えられていたとき、自分がその分かれ道に立たされたとき、イエスが共にたってくださったとしたならば、どうなさるでしょうか?おそらくイエスさまは先に「辛い道」を歩んでくださるでしょう。ですが、信仰を持つ者として、イエスさまが辛い道を歩まれるのであれば、たとえ「辛い道」であったとしても、その後にしたがって共に歩みたい、と思う人もいるのではないでしょうか。
 おそらくそう感じさせるのは、イエスが苦しみの先に救いを示してくださったからでしょう。わたしたちはヨブと同じ問いを常にかかえています。しかしその問いに対して、イエスさまは共に歩む、という姿勢で答えようとしていると感じます。苦しみの先に救いを示してくださった主なる神を信じ、今週も歩み出したい、と思います。




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  1. 「ヨブの問いの根源性」ヨブ記3:1〜26(03/04)