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『共感共苦共同体』(コリントの信徒への手紙一 12:21〜26)

2016.09.13(20:20) 321

『共感共苦共同体』
(2016/9/11)
コリント人の信徒への手紙 一  12章21~26節

あるロボットのエピソード
  『プルートウ』(浦沢直樹著)というマンガがあります。誰もが知っている漫画家の手塚治虫さんの作品「鉄腕アトム」を元にしたマンガです。マンガの舞台は近未来、その世界ではアトムのように、ロボットがたくさん人間と一緒に生活をしております。ロボットらしいロボットもいますが、人間とは変わらない外見を持つロボットが生活をしています。登場するロボットたちは、仕事を持ち、夫や妻といった家族を持ち、感情があり、どうやら疲れもたまる、そして過去の経験の痛みを持ち、悩んだりもしている。悩みが深まると体の調子が悪くなり、お医者さんではなく、技師さんのところへ行き、治療ではなく、メンテナンスや修理をしてもらっている。心の悩みなどもお医者さんではなくエンジニア(技師)さんのところへ相談に行ったりします。
 そんな中で、ある夫婦のロボットの夫の側が不慮の事故で亡くなって(壊れて)しまいました。遺体(部品)はバラバラに処理されてしまいました。仕事の同僚であったロボットがその死(破壊)をその妻のロボットに知らせに行きました。夫を亡くした妻の側のロボットが悲しみに暮れていました。そんなとき、その妻のロボットに夫の同僚だったロボットがこんな提案をしました。「(だんなさんのロボットの)記憶、データを消去しましょうか」。

「感情」の様々な連鎖
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、ちょうど5年半の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。しかし、身近な人、家族を亡くした人などにとっては、なかなかその記憶が薄れる、ということはないでしょう。またその中で、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。津波によって陸に打ち上げられた船や避難ビルといった震災遺構を、残すべきか、それとも消し去るべきだろうか。このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。また、こんな言葉もあります。 「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。
 また、9月11日といえば、2001年にニューヨークの世界貿易センタービルへ航空機が突っ込んだことで知られる同時多発テロが起こった日でもあります。イスラム原理主義集団「アルカイーダ」と、その指導者ウサマ・ビン・ラディンによってなされたとされました。その直後10月7日に、そのアルカイーダを倒すという名目でアメリカ軍はアフガニスタンへと進行しました。さらに2003年、アメリカ軍はイラクへと侵攻し、イラク戦争として知られる戦争が始まりまってしまいました。そして現在、イラク戦争の結果生まれた「イスラム国」という集団によって世界中が混乱状態に陥ってしまっています。

コリントという都市の中における教会
 今日の箇所は、パウロの教会の理想について、語っている箇所です。パウロは、教会、信仰を持って集う人々は、主なるイエス・キリストの体として一体である、という思いをもっていました。この箇所、「一つの体、多くの部分」と小見出しがついております。この手紙の受取手であるコリントの教会では、人種や文化など多くの違いなどから、教会内において、様々な争いがありました。パウロはそのような状況に関して、この手紙により、様々な状況に対して、具体的なアドバイスを送っており、様々な違いがありながらも、一致すべきだ、という強い思いを持っていました。コリントという都市は大都市であり、様々な文化、宗教が乱立する国際都市であり、様々な文化が入り交じっていました。
 そうした人々は、ユダヤ教やキリスト教が持つある種の生真面目さから改宗したということがあった、と言われています。ですが、そうした生真面目さ、信仰的な強さというものは、時に他者、隣人に対する厳しさへとも繋がります。コリントという都市様々な文化や宗教を背景とした人々が生活する都市でした。そしてそうした有り様はある立場の人々から文化的宗教的な乱れと捉えられる人もいたでしょう。また、そうした乱れを嫌って、キリスト教会が持っていた生真面目さから教会に足を運び、信仰を深め、強い信仰者となった人もいたでしょう。しかし、そうした「強さ」が時に、自分とは同じようには出来ない「弱さ」を持つ人々への厳しさへと繋がるということが起こっていた。そして時に、これは現代の教会の課題であると思います。そして、一般社会においても、自分とは違う存在とどのように共に生きるのか、ということ。また何か、争いが起こったとき、戦争が起こったとき、自らの家族に殺されたときなど、どのように和解すべきか、どのように共に生きるか、ということにも繋がるのではないでしょうか。

「弱さ」からつながりへ
 アメリカで起こった911同時多発テロ事件の犠牲となった方の遺族たちから、「ピースフルトゥモローズ」という活動が生まれました。テロという出来事に対して、加害者対犠牲者という枠組ではなく、同じ子どもを失った遺族として繋がっています。また、フランスのパリで昨年11月13日に起こった劇場やサッカー場、店舗などで同時に起こった銃撃や爆弾によって起こったテロ事件。被害者の遺族の方々の怒りも聞かれましたが、同時にある遺族のこのような言葉があることを報道で知りました。
「金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。([私という]プレーヤーはまだここにいる。)」


「弱さ」に基づいて共に
 今日の箇所、パウロは教会のあるべき姿を記しています。パウロが言いたいことを一言でいえば、こうです。人間の体は、部分部分によって、違いがありながらも、一つに結びついて、それぞれの役割を果たして、互いに重んじられている。「強さ」を持つ場所もあり、「弱さ」も持つ場所もあり、それと同じで教会にも強い人もいれば弱い人もいる、そうし違いがあっても、互いに重んじ合うべき、互いに支え合うべきである、と。
 様々な災害やテロ事件、そしてそれに続く報復の連鎖について、例を上げさせて頂きましたが、報復の連鎖とは、「強さ」に対して、「強さ」で対抗しようとすることと言えるのではないでしょうか。そして、それに対して、「強さ」という形でテロ事件が頻発する。それに対して、「弱さ」で繋がることは出来ないのだろうか、ということを感じます。「強さ」とは、違う角度から見れば、私たちに与えられている様々な能力と言えると思います。キリスト教的にいえば、それは「賜物(タラント)」と呼ばれるものでありましょう。そして、この世的に言えば、それらは家族の中での役割であったり、社会の中における役割であったり、職業に結びついたり、立場に結びつくこともありましょう。ですが、そうした職業や立場というものは、同じ仕事や近い分野であれば、繋がることもあるでしょうが、まったく違う立場や世代、人種や文化的な背景などでは、そうした繋がりを作ることが困難であり、逆に、敵対してしまうこともあったりします。
 しかし、「弱さ」においては、どうでしょうか?社会的立場や職業、国籍、人種や文化、そうしたものを超えて、繋がる可能性を持っているのではないでしょうか。先ほど、紹介しましたアメリカの同時多発テロから生まれた「ピースフルトゥモローズ」は、国籍も宗教も超えて、テロや戦争の犠牲者の母の「悲しみ」という感情によって、つながりました。また、さまざまな災害における悲しみからの回復においても、本当に必要な視点というのは、「強さ」によって解決するという姿勢ではなく、「弱さ」に基づく態度、また支援ではないでしょうか。

「弱さ」=人
 冒頭に触れたロボットは「あの人の思い出…消さないで…」と、同僚のロボットに答えました。悲しみが癒されること、長い道のりが必要であると感じます。しかし、人は医療が進歩して、たとえ技術が発展して親しかった人との別れを消し去る、ということが出来るようになったとしても、そのような選択をすることはないのではないでしょうか。また、そうした洗濯が出来るようになったとしたら、それは人間と言えるのか、という課題が出てくるように思います。
 心の傷が癒やされるためには時間が必要であり、「弱さ」に対して、「弱さ」を寄せることが、時間がかかるかもしれませんが、本当の癒しが始まるのではないでしょうか。また、そうした「弱さ」にこそ、私たちの本質があり、「弱さ」を捨てることは自分自身を捨てることにも等しい行為なのかもしれません。

共感共苦共同体
 聖書の話に戻ります。パウロは元ファリサイ派でありましたが、キリスト者となり、使徒と呼ばれるほどの宣教者となりました。パウロの活動がとても積極的なものであり、新約聖書に記されております数多くの手紙、イスラエルから小アジア全域までに至った宣教の旅、そしてそれに伴う先ほど触れましたエルサレム教会への献金を集める活動を進めておりました。そうした意味で言えば、大きな「強さ」をもった人でありました。しかし、実は彼自身は、「弱さ」に基づく信仰、力を持って、宣教者として使徒としての歩みを歩んだと言えるのではないでしょうか。
 パウロ自身も、キリストの十字架の前において、自らの強さではなく、弱さを誇るようになりました。パウロは第二コリント書12章9節でこのように記しています。
「…「…だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(P.339)
 今日の最後の箇所、第一コリント書12章26節をお読みします。
「12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 日々の生活の中において、私たちは常に「強さ」というものを重んじてしまう癖をもってしまってはいないでしょうか。そして、そうした私たちが求める「強さ」によって、隣人と敵対してしまってはいないでしょうか。しかし「弱さ」は違います。「弱さ」にこそ、あらゆる人と人をつなげる可能性を持っているのではないでしょうか。
 今日の説教題は、共感共苦共同体としました。そして、これこそ教会のあるべき姿ではないか、と考えております。私たちは時に、苦しいときにこそ、「強さ」に頼ろうとしてしまいます。コリント教会も混乱の中において、誰もが来るしさを感じていたでしょう。しかし、そうした時にこそ、「弱さ」に立ち返ること、自分たちの本当の姿に立ち返ることが必要なのではないでしょうか。私たちはどのように強さを誇っても、キリストの前においては、か弱き羊でしかありません。そして同時に、教会の枝であり、キリストの身体である教会を形作る1人1人であります。パウロが自らの「弱さ」を誇ったように、私たちも自らの本当の姿、「弱さ」を持ち寄って、キリストの身体としての歩みを進めることが、主なる神より求められている、と感じます。

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『一つの体としての教会』 第一コリント 12:21-26

2015.01.04(15:34) 283

『一つの体としての教会』
(2015/1/4)
コリント人の信徒への手紙 一  12章21~26節

コリントという都市の中における教会
 今日の箇所は、教会がキリストの体であるというパウロの教会の理想について、述べている箇所であります。「一つの体、多くの部分」と小見出しがついております。この手紙の受取手であるコリントの教会では、人種や文化など多くの違いなどから、教会内において、様々な争いがありました。パウロはそのような状況に関して、この手紙により、様々な状況に対して、具体的なアドバイスを送っておりました。コリントという都市は大都市であり、様々な文化、宗教が乱立する国際都市であり、様々な文化が入り交じっている。そうした点はあらゆる宗教から見て、不純であると見られても仕方がない、ということが想像できます。また、コリントの教会も、ユダヤ教のシナゴーグからはじまっています。ユダヤ人ではない異邦人もいたであろうと思います。そうした人々は、ユダヤ教やキリスト教が持つある種の生真面目さから改宗した人もいたでしょう。
 しかし、ある種のきまじめさは、日常的な生活の中で、不自由を得ることもあります。例えば、ちょうどお正月ですけども、まあ日本の風習と習俗ともいうべき食卓の席や儀式に参加せざるを得ないときがある。そんなときにどうすれば、良いだろうか。十戒の第一戒には、「(わたしの)ほかに神があってはならない」と書いてある。またそれを偶像崇拝とするならば、第二戒の「いかなる像をつくってはならない」にも抵触するかもしれない。では、どうしたら良いのか。しかし、この課題に、日本という場所では、少数派であるキリスト教徒では誰でもぶつかる課題ではないでしょうか。そして、パウロがそんな疑問に答えている箇所があります。第一コリントの8章1節から13節。〔P.309〕
「8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。/ 8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。/ 8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。/8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。/8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、/
8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」」

 ここまでで何がテーマとされているかがわかりますでしょうか。
 要するに、違う神様や宗教の儀式に出会うときがある。そうしたとき、コリントという町において生活していくときには、そうしたものに触れざるを得ないときがある。そうした時にどうするべきか、コリントの教会の人が誰かに聞いたのでしょう。で、次の部分からパウロなりの答えが記されています
「 8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。/8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。/ 8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。/ 8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。/ 8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。/ 8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。/ 8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」
 要するに、個人的にそれを食することや参加することは、かまわない。なぜなら、キリスト教信仰に立つのであれば、その肉(食べ物)は、違う神様に捧げられていたとしても、それは偶像であって神様ではない、第一戒には違反しない。また心で「崇拝」していなければ、第二戒の「偶像崇拝」にも違反しない、という理屈でしょう。
 しかし、「弱い人」と記されていますが、自分が信仰に導いている人がいるのであれば、その人が見ている場所であれば、そうしたことはするべきではない、ということでしょう。言い方を変えれば、パウロはそうした事柄を、清浄規定からではなく、宣教的視点というのでしょうか。内心の問題として、また隣人への視点から、異教の文化との交流のあり方を捉えているのです。

パウロの理想と現実
 今日の箇所、パウロは教会のあるべき姿を記しています。パウロが言いたいことを一言でいえば、こうです。人間の体は、部分部分によって、違いがありながらも、一つに結びついて、それぞれの役割を果たして、互いに重んじられている。それと同じように、教会に集う者は、互いに違いがありながらも、互いに重んじるべきだ、ということです。
 しかし、なかなか実際には、それが出来るものではありません。たとえば、コリント教会の人々と私たちの教会の状況はまったく違うように、パウロが述べているこれらのような教会のあり方も捉え方によってずいぶん異なります。また同じ時代であったとしても違うでしょう。コリント教会の人々は、おそらく私たちのように1週間に一度か二度ぐらいの頻度で、だれかの家の一区画にあった教会に集っていたであろうと想像することが出来ます。形やあり方は違うとしても、私たちの教会生活のあり方に違いと言えます。しかし、エルサレムにある教会は、ほとんど共同生活に近い生活を営んでいたと思われます。ある学者は、エルサレム教会のありようを「原始共産制」という言葉で表現していますが、衣食住を共にするような生活であったと思います。
 そして、パウロはそのどちらも知っていたと思われます。そして、パウロの理想としては、エルサレム教会のような気持ちを持って、教会の人々が、まるで生活(衣食住)を共有するように、思いやりやって欲しかった、と思っていたのではないか、と考えられます。しかし、コリント教会に人々は違っていた。たしかにイエス・キリストの福音に触れ、救いの道を知って、神の意志に基づいて、神の教えを道しるべに歩みたい、と願っていた。しかし、それの具体的な形はパウロの思いとは違っていたかもしれない。キリストに従いたい、と考えていても、1週間に一度、教会に集うだけで精一杯であり、それで充分であった。パウロが食事は一緒に取るべきだ、と問題にしているテーマがありました。さきに食べてしまっていて、後から来て、空腹に悩んでいる人がいる、と(1k11:17-22)。が、お金持ちであったとしても、時間はなかったかもしれない。食事は一緒にとるものだと思っていた。さらに貧しい人が来るまで、待っているべきだ、と思っていたのに、それが出来なかった、ということもあるかもしれない。

教会とは?
 そんなことを考えてみますと、教会の現実というのは、どうでしょうか。今日のパウロの言葉から考えてみますと、ずいぶんと現実は違うと言わざるをえない、かもしれない。たとえば、キリスト教は「愛の宗教」と言われることがあります。しかし、教会に集まっている人たちが、自分の家族や恋人よりも、教会の人々を愛する、とか言うようになったら大変です。そんなことから考えてみますと、生活と教会というのでしょうか、どこかで聖書どおりではなく、教会の理想と言っても、どこかで離れているところがあるというのが現実ではないでしょうか。
 そして、パウロとしては、こうした言葉を通じて、分裂にしないことが理想的だ、ということを伝えようとしています。しかしパウロの時代から2000年近く経ってみて、どうでしょうか。現在の教会は、分裂ばっかりしていると言えます。カトリックと東方教会と聖公会とプロテスタントと福音派と呼ばれる諸派。そしてプロテスタントと福音派と呼ばれる教派などは、本当に数多くの教会があり、数え上げられないほどにあります。そして、私たち自身も、いろいろな形はあると思いますが、自分の信仰や教会生活に馴染んだ教会に通っていると言えるでしょう。
 しかし、改めてどうでしょうか。「なぜ、あなたはこの教会に通っているのですか」と聞かれてみたら、どうでしょうか。誰かに紹介された、とか、たまたま、最初に来た教会がここだった、とかが大多数ではないでしょうか。また、「あなたの通っている教会は、どんな教会ですか?」と聞かれて、どう答えるでしょうか。その教会の持つ伝統、それは集っている人々の共通理解とも言えます。また雰囲気とか、音楽とか、礼拝堂とか、牧師の人柄とか、そういったもので通う教会というのは、変わるでしょう。が、本当の意味で、長続きする教会のあり方で問われるのは、こういった部分だと思うのです。自分たちの教会のあり方は、なかなか見えにくいものです。

本音と建て前
 パウロは元ファリサイ派でありましたが、キリスト者となり、使徒と呼ばれるほどの宣教者となりました。パウロの活動がとても直接的であったと思われます。新約聖書に記されております数多くの手紙、イスラエルから小アジア全域までに至った宣教の旅、そしてそれに伴う先ほど触れましたエルサレム教会への献金を集める活動を進めておりました。パウロは、その最後エルサレムへ献金を届けたことによって、エルサレムにおいて逮捕され、ローマへと護送され、ローマにて最後を遂げた、と考えられております。パウロの信仰のあり方とは、とても実践的であったということが出来ると思います。そして、その歩みの根本には、今日の箇所にあるような、自分の一人の歩みでありながらも、一人の歩みではない、そのような信仰、思いがあったからでしょう。
 今日の最後の箇所、第一コリント書12章26節。
「12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 パウロとしては、一つ一つの教会においても、また一つ一つの教会の枠を超えた形においても、12章26節のあり方、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」を実現させたかった、と考えていた、と言えます。そして、そのために各教会においても、各教会を超えた形で考えられるイエスさまの歩みに基づいたすべての教会においても、それらを一つの群れとして、使徒として活動していた、と考えられます。
 これらのパウロの活動の源泉にある信仰は、今日お読みしました箇所にあらわれております「教会はキリストの体」であるという信仰です。その立場が違いながらも、つながるという姿勢は、イエスが「十字架」という痛み、苦しみによって、私たちの罪を贖ってくださった、また愛を示してくださった、ということからでしょう。パウロの信仰も、イエス・キリストが十字架上の死というもっとも望まれない死を遂げたからこそ、様々な違いがありながらも、互いの「弱さ」によってつながることが出来たのではないかなあ、と思います。わたしの日常生活でも教会でも、やっぱり「強さ」を中心にしていると「争い」や「勘違い」「すれ違い」が多いように感じます。教会の強さは「弱さ」によってつながることではないでしょうか。もっとも弱き者としてわたしたちの罪を背負って、十字架への道を歩んでくださった主イエスを思い、また新しい週の歩みをはじめたい、と思います。

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『イエスに招かれる資格』一コリント11:27-34

2014.12.07(12:58) 280

『イエスに招かれる資格』
(2014/12/7)
コリントの信徒への手紙 一 11:27~34

パウロの宣教
 今日の箇所は、パウロにおける教会の理想像の一側面が現れている箇所であります。パウロは、当時のローマ帝国の領土内における各都市を訪ね、イエスによって示された主なる神の福音を宣べ伝え、各地に教会を建てました。そうした彼でありましたから、各地の教会が地域や民族の差を超えて、一つの教会となることを目指し、求めていました。そうしたことの一つのあり方として、エルサレム教会への献金運動がありました。また、わたしたちが手にしている手紙もそうしたパウロの思いの表れかもしれません。例えばコリントに教会を建てて、他の場所、エフェソやローマに行って、またそこでも新しい教会を建てていく、伝道する、ということをパウロはしていたわけです。そこで新しい都市、新しい教会に移動したら、そこで前にいた教会との関係は終わるのか、と思いますが、パウロはそうはしてはいない。弟子を通して教会の状況を聞き、また具体的に手紙を書いて、導きを示している。パウロが記した手紙は、新約聖書に収められている27文書の半分ぐらいの数を締めています。そして、その内容としては、具体的な導きや牧会的な配慮、勧告、自己紹介といったものとなりますが、それら一つ一つがパウロの使徒としての活動の一環であり、教会とパウロ、そして地域を隔てた教会と教会を繋げる営みでもあったとも言えるでしょう。

コリント教会に起きていた課題
 今日、パウロが問題としているのは、教会の中における食事のことでした。今日の箇所、第一コリント11章27節28節をお読みします。
「11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」
 この箇所で、コリント教会の中で行われていた食事の席、現在でいう聖餐式もしくは愛餐会に関して注意した、と考えられます。
 そして、この記事が聖餐式を受けられるかどうかに関する基準としてあげられる箇所でもあります。しかし問題は、ちょっと複雑です。まず「ふさわしくないままで」と記されていますが、何が相応しくない行いであるのか、今日お読みした記事からはわかりません。それを知るために、ちょっと前の記事をお読みしたい、と思います。まず第一コリント11章17節から20節をお読みします。〔P.314〕
「11:17 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。 11:18 まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。11:19 あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」
 具体的なこととして「仲間割れがあること」と記されていますが、それもしかたがない、とあります。しかし、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」とあります。仲違いがある中で、食事をしても、主の晩餐にはならない、ということです。さらに21節22節をお読みします。
「11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。11:22 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」
 ここで言われていることは、ちゃんとみんなが集まってから一緒に食事を始めなさい、ということでしょうか。誰かが時間に遅れると言われて、先に来た人だけで食事を初めて、遅れてきた人がついたときには、酔っ払ってしまっている、といった状態が注意されている、ということでしょうか。その通りではあるのですが、そう物事は単純ではないと言えます。22節の冒頭、このようにありました。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」パウロが問題としているのは、貧しい人々が恥じをかいている状態、推論するに貧しい人々は、奴隷の身分であったり、仕事が遅くまでかかるといった状況によって、教会における晩餐に遅れることがあったのでしょう。
 そして、教会に着いたときには、みんな食事を終えてしまって満腹して、へたをしたら酔っ払ってしまっている人もいる。これはおかしいじゃないか、と言っている。そして、どうしたあり方が理想的であったのでしょうか。そこで、今日のお読みしました11章最後の部分、33節34節にパウロとしての具体的な提案が記されています。
「11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。」
 言われていることは、こうです。ちゃんと人がそろうまで待っていなさい。時間をキチンと決めなさい。さらに「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」とありますが、これは食事を待っていられない人ということです。そしてむしろお金持ちのことでしょう。生活に余裕があって時間にも余裕がある人は教会にも早く来られて、早く食事を食べることができる。しかし、他の人が集まること、全員が集まることが待っていられないぐらいだったら、前もって家で食事を済ませてから教会に来なさい、ということです。

富んでいる者と貧しい者
 とっても簡単な話かもしれません。しかしパウロにとっては重大な問題でした。第一コリントの12章12節から26節には、有名な教会をキリストの身体(からだ)に例える箇所があります。その中の12節から16節までを読んでみます。「12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」
 パウロは、先ほどの11章22節で、「教会をみくびること」になる、と言っています。
 食卓の席というのは、現在の教会や家族でも同じだと思いますが、単に空腹を満たす行為、栄養を補給する行為ではなく、その家族や集団の親しさや和解の象徴でもあるでしょう。さらにパウロは、異民族とは食事をしないという教えを持っていたユダヤ人です。教会においてもたれる食事には、人一倍のこだわりがあったのではないでしょうか。そして、さらに奴隷であったからか生活のためだったのか、教会に来ることが遅くなってしまった人が食事にありつけないこと、「恥をかかせる」(11:22)とありますが、「疎外感」を与えてしまうことはおかしい、と述べているのです。

聖餐と愛餐
 当然この箇所、聖餐式との関係で触れられることが多い箇所です。今日の聖書の箇所に収められている状況は、単純に現在の聖餐式と同じものと捉えることはできません。主の晩餐という言葉で表されていますが、これは、いわゆる聖餐式と愛餐会とが別れる以前のものであったと言われています。教会で晩ご飯?と思われるのですが、皆が一日の仕事や作業を終えて集まってくる。そして、おそらく食事は持ち寄りです。そしてその食卓において、23節から25節に記されているようにパンを割くこと、杯を交わすことを行っていた。
「11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」
 イメージで言えば、イエスと12弟子たちが、イエスが逮捕される前に守った食事、過ぎ越しの祭りの食事でありました。が、それを真似て行っていたということです。しかし毎回毎回、教会に集まるたびに食事を持つということも時代の流れの中で難しくなってきた。食事と離れた形の礼拝(ミサ)というものが形づけられるようになってきた。ある種の合理化です。また、洗礼を受けた人のみが聖餐に預かれるようになってきた。教会の組織化です。教会が長い歴史の中で、組織化と合理化が進む中で、今のような形になってきたのです。(話はかなり複雑ですが、とっても単純に言って)

誰と食卓を囲むのか
 洗礼を受けて、聖餐に預かれるようになる。いわゆる伝統的な教会の教義のあり方です。(すでに1世紀頃にはそのようになっていた)洗礼は教会の会員、メンバーとなることであって、そうでなければ聖餐に与ることが出来ない。洗礼は神さまとの契約で、聖餐は神さまの食卓だから、そこに座るには洗礼を受けてから。非常にわかりやすい理屈です。しかし、ここでパウロが言っていることは、私たちにとっての教会の教義とは違うことです。パウロが言っていることは、洗礼を受けていたとしても、どんなに儀礼に従ったに正しい聖餐式を行ったとしても、教会として誰かをないがしろにしていては、聖餐式を守ったことにはならない、というのです。
 また、こういうことも言えるのではないでしょうか。イエスさまだったら、どうするだろうか。福音書の中には、イエスさまがいろいろなところに行き、また誰かの家に行って、食卓の席についている記事があります。そうした人々は罪人と呼ばれている人たちです。揚げ足取りのようなことになりますが、そうした人々は洗礼を受けていただろうか。当然、受けていないわけです。
 パウロとコリント教会の話に戻ります。コリント教会の人々は、信仰というもの、教会生活というものを個人の事柄として捉えていました。一方のパウロは「教会はキリストの体」という言葉にも表れているように、集団の問題として、教会全体の課題として捉えていました。ふりかえって私たちの信仰のあり方はどうでしょうか。コリント教会の人々が陥ったような誘惑に陥ってはいないでしょうか。アドヴェントの時、自らの信仰を振り返って考えてみたい、と思います。

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   早朝の酒匂川より富士(左端にちょこっと)

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周縁自体


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『使徒の権利、信仰者の権利』コリントの信徒への手紙 一 9:1-12a

2014.11.16(15:18) 278

『使徒の権利、信仰者の権利』
(2014/11/16)
コリントの信徒への手紙 一 9:1~12a

ジェンダー(性役割)という視点
 最初に、ちょっとしたなぞなぞを出してみますので、みなさん、考えて見て下さい。
「ドクターA氏は有能な外科医。午前中からのオペは大成功だった。教授室の椅子にもたれかかってふと見ると、時計は5時をさしている。着替えをすますと電話が鳴った。『先生、急患患者です。出血多量で血圧が降下しています。患者は18歳の男性』。指示を与えて手術室へ。カルテに目を通した瞬間、目の前が真っ暗になった。…彼とは今朝、元気な姿でいっしょに朝食をとって別れたばかりだったのだ。」
さて、問題です。この外科医(ドクターA)と患者は、どういう関係でしょうか?
参考:『ジェンダーとセクシュアリティー〈性〉と〈生〉を考えるー』(P.28)

 これは、「ジェンダー(性役割)とセクシュアリティー」というワークショップの質問なのですが、おそらくほとんどの人が父親と答えるのでは無いでしょうか?では、なぜ「父親」と考えるのでしょうか。まあ、このなぞなぞが狙っているのは、私たちの中にあるジェンダー意識(性役割)を明らかにすることです。「ドクターA」は、交通事故にあった18歳の男性とは朝ご飯を食べる関係です。まず家族であるだろう、という予測が立ちます。また、「有能な外科医」「ドクター」、医者である、という描写からある程度の年齢であることがわかります。そうした要素から「父親」であろうという予測が立ちます。しかし、他の可能性は無いのでしょうか?
 高い可能性として成り立つこととして、母親である、という選択枝は無かったのでしょうか?かなりの少数派と言わざるを得ないでしょう。そして、そういうふうに考えてしまう社会状況があり、私たちの意識の表れ、わたしたちの何となく共有している「あたり前」「常識」の現れであると言えます。が、一方で、こうした意識は、受け手にとっては、差別である、と受け取られること、またとてつもない傷を与える事、ダメージを与えることもあり得るのです。政治の世界では「女性が輝く社会」「男女差別の撤廃」などが叫ばれていますが、こうした意識に対する啓発や社会状況の変革など、女性が働きやすい状況を造っていくことが重要ではないでしょうか。

コリント教会とパウロ
 今日、選ばせていただきましたコリントの信徒への手紙は、使徒パウロが記したものであります。手紙の受取り手であるコリント教会は、パウロが立てた教会でした。しかし、この第一コリント書とその後に記された第二コリント書の内容から示されていることなのですが、コリント教会とパウロの関係が余り良い関係ではありませんでした。そうしたことの一端、またもしかすると一番の問題であったことが今日の箇所に納められております。
 第一コリント書9章1節2節をお読みします。
「9:1-2 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。」
 パウロは、コリントの教会の人々の一部の人々から、「使徒では無い」と考えられていました。そして更に、そうした考え方が、パウロやイエスの兄弟ヤコブなどたちとは違う扱いを受けるようになっていたのです。続く3節から7節をお読みします。
「9:3-7 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」
 コリント教会を作ったのは、別に建物を建てたというわけではなく、イエスさまが神さまの子であり、主なる神が救いの神であることを伝え、その福音を受け入れた人々の群れとして、コリント教会があったわけです。パウロはコリント教会の創立者であったわけです。更にパウロは、教会からお金を受け取ることもしてなかった。パウロは自らの寝食、収入はテントを作ることによって、まあ動物の皮をなめして、それを売ることによって生活し、その上で教会のため、キリスト教のために働いていたわけです。そして、コリント教会も上手くいっていたわけです。が、おそらくペトロたちやイエスさまの弟であるヤコブたち、またそうした人々に近い人たちがコリント教会にやってきたことことがもとになって問題が起きてしまった。

ペトロとパウロ、その違い
 ある意味で、当然なことと言えます。イエスさまは神の子です。そして、イエスさまのお話、イエスさまの死、十字架刑について、復活について、聞きたい。それらの事柄に現れている神の御旨(ご意志)、意味について聞きたい。そんなとき、イエスが旅したガリラヤからエルサレムへの道行きを共に歩いたペトロと、もともとはキリスト教の迫害者で地上において人として生きていた頃のイエスさまを知らないパウロとどちらの話を聞きたい、と思うでしょうか。あたり前のことですが、ペトロの言葉を求めるでしょう。しかし、そうした意識、パウロにとっては差別によって、パウロは心を痛め、感情を害していました。
 パウロは、私たちにとって聖書に収められているような書簡を記し、私たちに連なる教会の礎を築いた人として広くイエスの直接の弟子である使徒として、イエスが伝えた福音の伝達者として、特別な存在として受け入れられています。そして、ペトロに対しても、あまり変わらない意識をもっている。しかし、それも一つのとらえ方といえます。マタイ福音書には、イエスの一番弟子であったペトロの特別性を示す箇所が納められています。マタイ福音書16章18節19節。(新約聖書 32ページ)
「16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。/16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」」
 読んだままで言えば、ペトロの特別性を示している箇所です。たとえば、ローマ・カトリック教会における法王、教皇という存在は、ペトロの権威を引き継ぐ存在であり、教皇を示すシンボル、マークは、2つの鍵を組み合わせたものです。そして時代時代における教皇は、ペトロの代理人である、と考えられています。が、今日の箇所におけるパウロの言葉は、そうしたペトロの特別性を真っ向から否定していると言えます。
 パウロとしては、直接のイエスの弟子で一番弟子でもあったペトロであっても、キリスト教を伝道する使徒としては、わたしと同じなのだ、と主張です。コリント教会の人々も当然のようにペトロを特別扱いしたのでしょう。ペトロは、妻を連れ、各地の教会を訪ねていた。そしてコリント教会にもやってきた。コリント教会の人々は、衣食住も用意して、歓待した。イエスさまの直接の弟子です。聖書(旧約聖書)に記されているメシアの一番弟子、話だけは聞いたことはあるけど、どんな人だったのだろう。
イエス様はどんな顔だったのか、どんなしゃべり方だったのか、聞きたいことは山ほどあったかもしれません。そして「そのイエスさまと旅をした弟子、それも一番弟子のペトロがやってくる」当たり前のことです。

パウロの問いかけと私たちの権利
 パウロはコリント教会を作った人です。どこか他の教会からやってきたわけでもない。創立者です。でも教会のための一生懸命に働いているけれども、やっぱり私たちと一緒でペトロさんたちだけが特別。だって、パウロはイエス様のお話もしているけど、テントを自分で作って収入を得ているから使徒ではない。さらに、ある意味でここにある言葉、差別的な言葉を言われていたかもしれませんよね。9章5節をお読みします。「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」パウロは独身者であったことは広く知られています。しかし、こんなことも考えられるのではないでしょうか。もしかしたらパウロ自身、宣教のため、伝道のため、教会のために結婚を諦めたかもしれない、そのために別れた恋人もいたのかもしれない。彼が記した手紙の内容から考えますと、そんなこともありそうです。
 また、いきなり手紙の中で、このようなことを言葉で書くというのは、具体的にコリント教会の人の誰かに結婚について、何かを言われたことがあったのかもしれないと想像できるのではないでしょうか。「あなたは使徒じゃないから、完全な伝道者じゃないから、結婚できないんだよ」と。ペトロは立派に家族を持っているけれども、パウロは独り身だから使徒ではない。現代で言えば、これは完全な差別発言ですよね。パウロも怒りますよ。また時々「牧師だとすれば、能力がないから、小さな教会で、アルバイトをしなければ生活できないんですよ」とかいうことを、平気で言う人がいますが、どうでしょうか。でも、考えてみてください。教会の始まりとはほとんどの場合、伝道者、牧師の開拓伝道です。そうした場合、ほとんどの牧師たちが自分たちで生活費を稼ぎながら、教会を立ち上げています。そうした人たちの働きをどのように捉えるのでしょうか。
 コリント教会が生み出されようとしているとき、教会としての規模も小さく、場所自体も定まっていなかった。おそらくこの手紙が記された頃には、どちらかの家の一角でしょうが、固定した場所を得て、固定した出席者を得ていたでしょう。そして、あたり前のこととして、パウロの献身的な活動をそのまま受け入れていた。教会を作り出したような功労者でありながら、使徒でありながら、経済的な支援をすることも無かった。またパウロ自身も教会のためと思い、求めることもしなかったのでしょう。こうしたパウロのあり方も、もしかしてコリント教会の人々から、半人前の使徒である、と見られる要因になっていたのかもしれません。

イエスさまだったら
 今日の説教題は「使徒の権利、信仰者の権利」としました。聖書の中には、紹介しましたように、ペトロを特別な存在として、天国への入り口の鍵を管理する存在として考える箇所があります。また同時に、パウロのようにペトロと自分の間に違いはない、と考えもあります。こうしたパウロの考えの先には、どのような人であっても、主なる神の前には、同じように大切で価値ある存在である、というところへ行き着くのではないでしょうか。
 またイエスさまであったら、どのように答えられるか、ということを想像してみます。イエスさまだったら、どうだろうか?わたしは使徒であろうと、一般の信徒であろうと、また教会に集わない人であろうとも同じであるべき、主なる神の前に同じ権利を持っている、と答えられるのではないでしょうか。最初にジェンダーに関するなぞなぞをしました。またパウロとペトロの違いについてのお話をしました。改めて、使徒とはどのような存在でしょうか?信仰者とはどのような存在であるべきでしょうか?改めて、捉えなおす中で、日々の信仰生活を歩んでいきたいと思います。

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  富士山を探せ!!

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『ただ十字架のキリストを誇って』一コリント1:18-31

2014.10.06(20:00) 275

『ただ十字架のキリストを誇って』

(2014/10/5)
コリントの信徒への手紙 一 1:18~31

コリント教会について(集団と個人)
 大都市コリントの状況は、コスモポリタニズム、また現在でいえば、国際化、グローバル化という言葉が当てはまるでしょうか。交通網の発展や高度に発達した情報化社会の中で、人々はどのような生活を営むのか、どのような変化を感じるのか、またどのような人々と関係を深めていくのか。そうした変化というものは、好むか好まざるかを越えて、起こってきています。そして時に、そのような変化は従来の価値観と対立してしまうこともある。そのような時に、人はどのような行動を起こすのであろうか。
 現在、世界で進んでいる国際化について、社会の変化と個人の関係について、最近、考えさせられる二つのニュースがありました。一つはこんなニュースです。国連におけるある決議の報道です。
「イラクとシリアで勢力を伸ばす過激派組織「イスラム国」に欧米などから若者らが合流していることから、国連安全保障理事会は24日、これらの若者らが自分の国に戻ってテロを起こさないように移動などを制限する決議を採択した。
国連加盟国に対し、渡航を制限したり資金源を断ったりするための法整備をするよう義務づけた。/米仏や中東5カ国が空爆して壊滅を目指す「イスラム国」には、中東や欧米、中国などから若者がシリアに渡り、テロリスト予備軍である「外国人戦闘員」と して訓練を受けている実態がある。米政府はこうした戦闘員が1万5千人以上いると推計。多くは「イスラム国」などに合流したという。オバマ米大統領は、こうした戦闘員が帰国すれば欧米でのテロの脅威になるとし、国連安保理の首脳級会合で対策を講じることにした。
(議長国の米国によると、安保理が首脳級で開催されるのは約70年の国連史上で6回目。決議案は全会一致で採択され、「イスラム国」の過激思想に感化された者がシリアなどに渡航したり、外国人戦闘員として訓練を受けた後に自国に戻ったりするのを取り締まることを要求。資金の移動も制限できるよう、国連加盟国に法整備を義務づけた。/オバマ氏は採択後の演説で、「歴史的な決議だ。決議には法的拘束力があり、加盟国に新しい義務事項を設けた」と評価した。過激派組織に勧誘する行為や渡航のためのお金を工面することも防がなければならないとし、違反した者を刑事訴追できるよう国内法の整備も求めている。)〔ニューヨーク=金成隆一、奥寺 淳〕」

(9/25朝日デジタル http://www.asahi.com/articles/ASG9T2CSFG9TUHBI005.html)
 このニュースから、一つの想像の物語が思い浮かびました。アメリカの片田舎に住む友達同士だった2人の若者トムとアリの想像の物語です。若者の1人は、仮にトムさんとしましょうか。トムさんは大学に行きましたが、家もあまり裕福では無く、大学入学を果たしましたが、多大な借金をすることになりました。卒業後に働けば返せるだろう、と。しかし、思った通りの就職先が見当たらず、返すことができない。そしてその返済が免除される制度があり、兵役につく、という選択をしました。
 そんなトムさんの隣に住んでいたアリくん。アリくんの家は、中東系にルーツがありましたが、家族みんなでキリスト教徒でした。トムとアリはとても仲の良い友達でしたが、成長していく中で、疎遠になっていきました。アリも成長して、大学を目指そうという年になっていったとき、彼の名前や肌の色で、嫌なことに出会うことが多くなりました。9.11同時多発テロの影響です。父親も失業してしまいました。自らも大学を目指すこともあきらめ、自暴自棄になり、悩み始めた。そんなときイスラムの教えに導かれ、ムスリムになりました。そしてある日、過激な考え方を持つ「イスラム国」の人に声をかけられました。何年かたって、この2人がアメリカから遠く離れた中東の地で銃口を向け合っている、そんな想像の物語です。
 またもう一つは、東京都内の公園で発生したデング熱に関するニュースです。代々木公園で蚊に刺された人から感染が確認されました。今までも、日本に滞在していた外国の方や外国へ旅行などに行った日本人が感染したことはありましたが、日本国内で感染したということで大きく報道されました。また、感染者も想像以上に多く、代々木公園のみならずいくつかの公園が閉鎖されることになりました。しかし、どうでしょうか。社会が国際化していく、ということは、こうしたリスク、ある種の弊害、危険性も引き受けなければならない責任も負うことではないか、と思うのです。現在、かつて無い規模で感染が広がっているエボラ出血熱という伝染病。その強い感染力と致死率の高さから恐れられています。つい先日もアフリカから帰国したアメリカ人が発症したというニュースがありました。
 日本は現在、どうでしょうか。東京オリンピックを控え、また製造業ではなく、観光立国として、多くの外国人を呼び込もうとしている。しかし、国際化、グローバル化の一方の側面として、こうしたことも起こってくる。そうしたときに、どうするだろうか。代々木公園などで行われたように、感染の媒介となる蚊を全部駆除すれば良いのでしょうか、外国の方が行く可能性がある観光地や商業地の蚊を全部駆除すれば良いのでしょうか。また、国内に入ってくる人はすべて何から何まで感染している恐れがある人は隔離して、検査し、大丈夫だったら、入国してもらうのでしょうか。それでは誰も日本に来たがらなくなるでしょう。
 そして「イスラム国への若者の合流と国内への流入」「デング熱」のニュース、この二つのニュースから、私自身が強く感じたことは、国際化とかグローバル化というものは、異国と国境線を接している場所からジワジワと広がってくるものではない、ということです。今、NHKの朝ドラで「マッサン」という新しいドラマが始まりましたが、主人公は初めての外国人。そしてちょうどそのヒロインと夫の結婚が家族に反対されている場面が放送されています。2人が結婚したのは、1920年、大正時代です。それも酒蔵をもつ旧家の跡取りの結婚。反対されるのも当たり前といえば、当たり前です。しかし、ここで起こっているぶつかり合い、国際化というもの、グローバル化というものが私たちの生活に入ってくる非常に現実的な事柄ではないでしょうか。価値観の違い、あるべき姿、理想像の違い、ぶつかり合いが生まれてしまう。

変化の中において
 今日私たちに与えられたのは、コリントの信徒への手紙であります。この書簡は、パウロにおける具体的な牧会活動の一つの目的を持って書かれています。それは、教会全体に対する強い勧告であります。そして、その目的はただ一つ、仲違いせずに一致してほしい、一つになってほしい、ということでした。たとえば、1章の最初にこのような記述があります。1章12から13節。
「1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」さらに「1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」
 「パウロ」「アポロ」「ケファ」「キリスト」。みんな立派な使徒であり、宣教者であり、キリストは文字通りの救い主です。しかし、そうした人の立場、違いを豊かなものとして、認め合うのでは無く、お互いを否定し合うことに進んでしまう。こうしたことは、世の中にも数多くありますし、今、現実の教会の中にも、同じような争いがあるように思います。
 たとえば、日本基督教団においては、聖餐の理解の違い、教職制度のとらえ方の違いがあります。K牧師の裁判も控訴棄却が決まり、裁判という形においては、一応の決着がついてしまいました。が、聖餐に関する課題が終わったわけではありません。しかし、日本基督教団という集団において現在の執行部は、聖餐についての義論をするつもりは、まったく無いようです。一方がひたすら無視する形で、また数にものを言わせる形で進んでいってしまうのでしょう。要するに一方が一方の存在(教会・信仰)を無視した形が続いていく。「理解し合いましょう」「受け入れあいましょう」と美しく述べることもたやすいことです。しかし、一方の信仰的事柄を否定するような相手と仲良くしましょうということは出来るだろうか、という課題があると思います。一方の我慢、忍耐力によって続いている関係もあるでしょう。どのような違いであっても、意見の違いはいつでも起こりうるわけです。しかし努力を重ねて、理解を求めても、相手がまったく変わらないのであれば、あきらめた方が良いのではないか。また、こちらの存在を否定するような相手を受け入れる必要は無いと思いますし、限界以上を求めて「受け入れましょう」「許しましょう」というのであれば、その言葉自体が暴力になってしまいます。
 同じように、国際化の流れの中で、日本の中では、これが当たり前だから、としていたら、と一方的に自らの価値観を押しつけていたら、外国の人たちは見向きもしなくなるでしょう。また最近、イスラムの方々への祈祷所が出来たこと、またハラルというイスラムの食物規定に基づいた食事を出す施設などが話題になりますが、内面的なところ、本質的なところで国際化が実現しなければ、何の意味もないのではないか、と感じます。

ただ十字架のキリストを誇って
 こうした課題にある現在の社会、教会に向けて、今日与えられたコリント書は書かれている、と読むことが出来ます。今日お読みした箇所の冒頭、1章18節で、パウロはこのように記しています。
「1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
そしてさらに、今日の箇所において、パウロは「知恵」「印」「賢さ」「家柄」を重んじる姿勢を否定しています。そうしたものは神の前において、無に等しいもの、そして同時に、神の意志はそうしたもの(「知恵」「印」「賢さ」「家柄」)を越えて働いている、ということを述べます。要するに、十字架の言葉と「知恵」「印」「賢さ」「家柄」は相容れるものではなく、反対のもの、対立するものと語っているのです。
 そして、その最期29節から31節において、そうしたことの理由、根拠を記しています。
「1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」
 神の前で誇ることが無いように…キリスト・イエスに結ばれ…(ただ)「誇る者は主を誇れ」となるため…。パウロはそのような思いで宣教していたでしょう。また、どこも生まれたばかりの教会です。それぞれの成り立ちへのこだわり、宣教者、創立者へのプライド、思い入れもあったでしょう。しかし、そのような互いの思いによって一致できずにいる。そうした違いによって争いや混乱や思いの違いがある。そうした状況を、十字架の言葉によって乗り越えていきましょう。また、もし誇りを持つのであれば、主のみを誇って、一致しなさい、と述べているわけです。
 パウロにとってのイエスが歩んだ十字架への道は、すべての誇りを捨てた道であり、同時に、あらゆる人からも捨てられた道でした。パウロはコリント教会の人々へ、そうしたイエスのあり方、十字架への道を歩んだ姿勢に学びなさい、と促しています。わたしたちはどうでしょうか?わたしたちにとって唯一の道しるべは、「キリスト」であります。あるはずです。教会であるならば、そうあるべきです。しかし、その「キリスト」を、十字架への歩みを忘れて、自らの正当化のために用いてはいないでしょうか。実質的には「キリスト」ではなく「パウロ」や「ペトロ」、または違う何か、誰かをキリストとしてはいないか。今日のパウロの言葉は、私たちのそのような問いを投げかけている、と感じます。


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   夕刻の小田原教会の十字架


〜〜〜〜〜〜
久々の更新でした。

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周縁自体


1コリント
  1. 『共感共苦共同体』(コリントの信徒への手紙一 12:21〜26)(09/13)
  2. 『一つの体としての教会』 第一コリント 12:21-26(01/04)
  3. 『イエスに招かれる資格』一コリント11:27-34(12/07)
  4. 『使徒の権利、信仰者の権利』コリントの信徒への手紙 一 9:1-12a(11/16)
  5. 『ただ十字架のキリストを誇って』一コリント1:18-31(10/06)
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