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『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)

2019.09.03(18:53) 395

『マルタかマリアかを超えて』
(2019/9/1)
ルカによる福音書 10章38~42節

ラクに行こうぜ
 もう亡くなって10年にもなるが、忌野清志郎というロックミュージシャンがいた。彼の世界観や言葉のセンスが好きで、けっこう聴いていた。RCサクセションというバンドでも有名である。派手なパフォーマンスや化粧で目立っていたが、音楽的に何が優れていたか、と言えば、日本語が持つ、そのままのイントネーションで、いわゆるロックミュージックをやったところに新しさがあったらしい。彼の曲の中で、こんな曲があります。
「幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ
 幸せを探してる ずいぶん長い間 幸せを探してる でもまだ見つからない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ジタバタしたって 始まらないのさ
 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ラクに行こうぜ グッグッグ
 ジタバタしたって 始まらないのさ 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah
 幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない Oh Yeah
 ラクに行こうぜ グッグッグ Oh Oh 頑張りたくない No No No 頑張りたくない
 幸せになりたいけど Yeah でも頑張りたくない 頑張りたくない 頑張りたくない 」

 確かに、私たちは幸せを求めて生きているが、なかなかそれがどこにあるのか、また幸せになろうとする努力で疲れ果てている、という人もいるかもしれません。また、どうでしょうか?クリスチャンという人種、キリスト者という人々は、幸せになるために、とは言わないが、この世の中、この世界、この国、また自分の身の回りをよくしようと努力する、ということが当たり前のこととして、またそうしなければならない、と自分に強いていないだろうか。今日の箇所においては、マルタのような態度かもしれません。

マルタとマリア
 マルタとマリアという2人の姉妹は、ルカのこの箇所以外にも、ヨハネ福音書で、イエスによって甦りを経験したラザロのきょうだいとして描かれています。ヨハネ福音書の中でも2人は対称的な存在として描かれています。マルタは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:17以下)とイエスから問われ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えた、つまり信仰告白を行った、などという記述から、行動と実践的生活の人としてとらえられる。
 一方、マリアはイエスの足下に座って静かに耳を傾ける姿や、食事の席で高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、といういわば「葬りの儀式」を黙って行ったエピソードから、黙想と理論的な人としてとらえられている。これは後の時代に、この2人の姉妹をめぐる解釈の中で、より明確にそれぞれの特徴が分けられ、イエスの言葉を根拠として、捉えられていき、ついには今日の箇所のイエスの言葉から、キリスト者としてはマリア的な姿勢、存在の方が優位であるという理解に発展していったと考えられるようになったと解釈できる。

マルタの思い、マリアの思い
 そんなことをベースにして、もう一度、今日の箇所を読み返してみたい。たくさんの客人が来て、マルタが給仕を行い、マリアはイエスの言葉に耳を傾けるために座っていた、とある。そして、マルタが、イエスに問う。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。
 これは明らかにイエスに問いを発した、というだけではなく、自分とマリアという対称的な2人を見て、何とも思わないのかという批判であったと言える。そして、こうしたマルタの姿は、ヨハネ福音書11章21節にも見られます。(P.189)
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。
 力強い信仰告白とも言えますが、同時に全能神であるはずのイエスに対する批判とも受け取れます。このように見てみますと、信仰的にみて、主なる神、イエスに対して、マルタは主体的、積極性を持った信仰のあり方を、マリアは受け身的、受容性とも言えるかもしれません。そして、一般的なキリスト者とすれば、今日の箇所では、マリアの方が良い、とされているわけです。

理想像の逆投影
 今日の箇所に戻って、マルタに対するイエスが返した言葉をお読みします。ルカ福音書10章41節42節。
「(10:41) 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(10:42) しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 イエスは、何を言っているのか。マルタさん、あなたがやっていることは大切だけど、ちょっと、てんぱってませんか。ゆっくりマリアさんのように、話に耳を傾けてみませんか?ということですよね。でも、これ実際の教会でも、よくあることです。教会総会や懇談会、講演会、映画会、誰がお茶やお菓子、食事の準備をするの?!って、だいたい議論になります。また、もめたりします。またまた、どうでしょうか?また、こうしたことは、原始教会、初代教会でもあったかもしれないんですよね。使徒言行録6章1節から4節をお読みします。(P.223)
「(6:1) そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 (6:2) そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。(6:3) それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。(6:4) わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」」
 食事の世話とは、ようするに給仕のこと、そして食事の量の話ですよね。何時の時代も、食べ物とお金の話は、揉め事になりやすいもので、初期の教会からそうだったのでしょう。そうしたことから、今日の箇所、マルタとマリアの議論に対するイエスの言葉は、そうした揉め事に対する戒めとして、記された、と考えられるだろう。

奉仕と御言葉
 今日の箇所、マルタの行いで使われている「もてなし」という単語、ギリシャ語では、「ディアドコイ」と言い、「もてなし」「仕える」「給仕する」とも訳せる言葉であります。先ほどの使徒言行録でも「食事の世話をする」という言葉がありましたら、これのギリシャ語も「ディアドコイ」であります。とても意味が広い言葉であり、人のために何かすること、ということ。それを日本語の聖書においては、文脈によって訳し分けているのでしょう。いわゆるキリスト教会で語られる「奉仕」は、ギリシャ語では、「ディアコニア」と言われます。そして、「奉仕」、「務め」、「援助」とも訳され、奉仕にしても、援助にしても、キリスト教精神に基づく他者への奉仕といった意味合いで用いられます。そして、キリスト教団体や施設でも、老人ホームや社会正義、社会福祉、いわゆるボランティア活動に関わる団体の名前に用いられたりしています。
 そうしたキリスト教精神に基づいた行動すべてがマルタであるとしたら、マリアの行動、姿勢はどういったことを指すのでしょうか。それは、聖書を読むこと、またその解き明かしに耳を傾けること、祈ることになるのではないでしょうか。そして、マルタ的なあり方にしても、マリア的なあり方にしても、どちらが良いというわけではなく、どちらも欠かせない両輪のようなものではないでしょうか。

「がんばり」を求められる時代、「がんばらければ」生きられないのか
 一番最初に紹介しました忌野清志郎、RCサクセションとして、人気が絶頂だった頃、音楽的にも変化を求めていたのか、突然、政治的に政治家批判や平和をテーマにした曲、そして反原発の曲を書き始めて、契約していたレコード会社からアルバムを禁じられたり(後の他の会社から発売)、メンバーも減っていき、後に解散してしまいます。
 彼の曲の中には、等身大の人のリアリティがあり、またいわゆる市井の人々への愛があるように思います。いわゆる売れているポップミュージックでは、努力とか奇跡とか、重んじる傾向があります。要するに、努力をしなければ幸せになれない、努力をしなければ、成功しないっというメッセージがあるように思います。そして、世の中の雰囲気として、がんばらなければ幸せにはなれない、がんばらなければ生き残れない、といった空気がある。それは、他国との関係についても、勝たなければならない、という意識が出てくる。それがついには、国内においては全体主義、国家間においては戦争へという話になっていくのではないでしょうか。今日紹介した曲はそうしたパターンを否定しており、とても呑気な曲のようですが、ある意味で革命的な曲と言えるのではないか、と。

マルタかマリアかを超えて
 最後に、イエスの言葉にかえって読んでみたいのですが、ギリシャ語から42節を読むと、実は日本語訳とニュアンスが異なるのを感じる。「必要なことはただ1つだけ」と日本語の字面でとらえると、真理が一つである、というように、何物にも左右されない、絶対的なただ1つの答えがそこに用意されている、その「正解」に気付くか気付かないか、それがポイントであるかのように受けとめられやすいことばになっている。
 しかし、その後「マリアは良い方を選んだ」という言葉について。直訳すると、「マリアにとってよりしっくりくる(fitting)分け前を彼女は選んだ」となるのだ。ようするに、その時、マリアに必要なことをしていた、ということである。すると、このような捉え方が出来るのではないだろうか。
 マリアにとってイエスの話に耳を傾けるのは、マリアにとって必要なことであった。そして、マルタに対して、そのように感じるのあれば、マリアと同じように耳を傾ければ良いんじゃないか?また、マリアも時に、マルタのように心砕かれることもあるのではないでしょうか。そして、私のいる場所とは、そうしたことをとがめる場所ではないのだよ、と伝えているのではないでしょうか。


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『クローズ隣人愛批判』(ルカ福音書10:25〜37)

2019.08.19(20:50) 393

『クローズ隣人愛批判』
(2019/8/18)
ルカによる福音書 10:25~37

良きサマリア人のたとえのテーマ
 良きサマリア人のたとえ、誰も知っているたとえです。律法の専門家がイエスに永遠の命を受け継ぐにはどうしたら?と聴き、イエスは神への愛と隣人への愛を説きました。しかし、その専門家はイエスの答えに納得がいかなかったのか、イエスを試そうとしていたのか、ぼろをださせようとしたのか、さらに質問をして、その答えとして、イエスは強盗に襲われたユダヤ人とそこを通りかかった、祭司、レビ人、そしてサマリア人が登場するたとえ話を語り、最後にこのように言います。ルカ福音書10章36節。
「10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 大きく分けて、三種類ぐらいの捉え方ができるのではないか、と思います。一つは、優れた隣人愛の課題として捉えることです。要するに、どのような存在であっても、愛すべきなのだ、と。その延長として、その愛の実現として、たとえ憎み合った民族であるサマリア人であっても、自分のように愛すべきなのだ、心を配るべきなのだ、という捉え方です。
 そして、二つ目は、神さまへの愛と人への愛は対立することがあるという問いと言えるでしょう。祭司とレビ人、どちらも神殿祭儀に関わる人々です。このたとえを聞いていたユダヤ人は、さもありなん、と受け取ったことでしょう。祭司にしても、レビ人にしても、律法の遵守者であり、倫理的にもすぐれた人であります。しかし、いくら人助けであっても、異邦人に触れるとなると、話が違う、と。異邦人に触れることは、律法的に汚れてしまうことなので、祭司やレビ人は神殿祭儀に関わることが出来ない。だから、助けることはないだろう。イエスの例えを聴きながら、どちらも通り過ぎた、という場面を聴きながら、「ほら、やっぱり」と誰もが感じたでしょう。いわば、神への愛が人を大切にすること、いわば隣人愛と対立することがある、という結論です。
 そして、三つ目は、民族への批判、同族愛への批判と捉える捉え方でしょう。このサマリア人は、敵対者であるユダヤ人を助けました。そして、さらに宿の主人に、2日分の日当に当たると考えられる2デナリオンをもお金を預け、さらにさらに、余計にお金がかかったら責任を持つとまで言っている。この喩えを聞いた律法の専門家、また一般的なユダヤ人は、どう感じるでしょうか。それは、見下しているサマリア人がユダヤ人にそんなことをするはずがない、という思いではないか、と思います。
 そして、このようにも感じるのでは無いでしょうか。自分がサマリア人の立場だったら、傷ついたサマリア人を助けるだろうか?そして、もう一つ、自分が傷ついたユダヤ人だとしたら、サマリア人の行いをどう受け止めるだろうか、と。

クローズ隣人愛批判
 イエスは、なぜこのような喩えを語ったか、この律法の専門家に対して、また一般のユダヤ人に対して、閉じられた形での隣人愛の無意味さを伝えようとしていたのではないでしょうか。イエスは、隣人愛に関してもこのようなことを述べている箇所があります。マタイ福音書5章46節47節。(P.8)
「5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。/ 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
 「異邦人でさえ、同じことをしている」。この思いをイエス自身、強く持っていたと想像しています。ユダヤ人がユダヤ人同士で、愛を持って接したとして、思いやりをもって接したとしても、当たり前のことではないだろうか。おそらくイエスが青年期までを過ごした、ガリラヤ地方には、ユダヤ人だけではなく、異邦人と呼ばれる様々な民族の人々、そしてサマリア人も交易路があった関係で、日常的に触れ合っていたのではないか、と思うのです。また、隣人愛の元になっている旧約聖書のテキストに触れてみます。レビ記19章18節です。(P.192)
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 意味が分かりにくいので、岩波訳の翻訳を紹介します。
「あなたは決して、あなた自身の民の子らに復讐しようとしたり、怨恨を抱いてはならない。〔むしろ〕あなたは、あなたの隣人に対し、あなた自身と同じようなものとして友愛をもって接しなさい。わたしはヤハウェである。」
 旧約聖書、律法において語られている隣人愛とは、同じ民族、同じ血族の人々が過酷な環境の半遊牧民生活の中において、互いの民族を守るため、誰が味方で誰が敵かということから、自らの民族が絶滅しないため、死に絶えないための知恵として、「目には目を、歯には歯を」というオリエント的な倫理観、法的な規範に基づいたものと考えられます。そして、もう一つ、一民族一信教的な世界観、民族宗教が乱立する社会における倫理観と言えるでしょう。そして、閉じられた形での隣人愛、同族愛、民族愛ならば、どの民族であっても実践していた。イエスはそうした現実から、そうした隣人愛の実践を他の民族に誇ることが出来るか、主なる神の教えとして、受け入れるべきだろうか、という問いを持っていたのではないでしょうか。

隣人になったと思うか
 イエスさまは、良きサマリア人の例えの最後にこの律法学者に向かって、このような問いを投げかけています。ルカによる福音書10章36節。(P.127)
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えています。この答えには複雑な感情が伴ったのでは無いでしょうか。
 律法の専門家にとっての「隣人」とは、ユダヤ人であり、律法に従って正しく生きている人であって、あなたもそうした人の仲間になりなさい、そして仲間同士で助け合って生きて行きなさい、と言ったような言葉を期待していたはずです。
 しかし、イエスさまは、その問いに対して、例えで返した。ある意味、問いに対して、問いで答えました。そして、さらに、「わたしの隣人は誰なのか」という問いであったのに、「あなたは誰の隣人になるのか」と微妙に論点をずらしているのです。わかりやすく整理するならば、イエスさまが言いたかったことはこういうことではないか、と思います。
 あなたにとっての隣人が誰かということは問題ではない、多くの人がこの世には生きているが、あなたが誰にとって隣人と思われるのか、あなたが誰の隣人になるのか、それこそが問題だ、と。そして、そういったあり方は、民族や家族、そして国境や思想も超える可能性も持っているかもしれません。

現代におけるクローズ隣人愛
 今現在、日本は隣国韓国、北朝鮮や中国との関係が難しい状況になっています。日本人と韓国人、朝鮮人の関係、日本と中国の関係、とてもユダヤ人とサマリア人の関係と似通っているように感じます。互いに地域的には近接しているのに、また歴史的にも支配した、支配されていたという歴史的事実があるのに忘却してしまっていたり、支配していた過去を正当化したりするような言説、民族的な差別を正当化するような言説を繰り返したりする。
 しかし個人として、一対一の隣人として、出会ってみたら、たやすくそうした誤解や偏見を乗り越えられたりすることがあります。イエスが促した姿勢は、このような隣人との出会いではないでしょうか。平和の問題を考えるとき、国籍や民族性を超えて、1人の人として、1人の人と出会うことこそ大切なのではないでしょうか。そうした時、自らが持つ民族性や宗教性自体が、その隣人との関係を邪魔してしまうこともあるかもしれません。
 よきサマリア人の例えは、そのようについつい閉じてしまいがちになる、私たちがもつ「隣人愛」を常に広げる役割をもっているのではないでしょうか。イエスは、問います。その問いは、「あなたは、誰の隣人なのか」ではありません。あなたは「誰が隣人になったのか」という問いです。新しい人との出会いは、時に厳しさや辛さを伴うモノですがそのことを恐れずに、開かれた隣人愛、オープンな隣人愛に生きることを、イエスは求めているのではないでしょうか。

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『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)

2019.06.06(20:34) 391

『カラスのことを考えてみなさい』
ルカによる福音書 12章 22~27節

人の歩み
 今日の箇所「思い悩むな」ともうしましても、そんなわけにはいかない、というのが、誰もが持つ率直な感想ではないでしょうか。たとえば、わたしたちは物心がついてから、様々な選択が求められて、それぞれの道を歩んできました。そういった視点で申しますと、誰でも道の選択をする上では、「思い悩んだ」瞬間もあったはずです。また、たとえすべての道が準備されていたとしても、その道に従うのかどうか、ということで「思い悩む」。そして、人としての歩みの中で、家族の中では、誰かの息子として娘として、兄弟として、また夫婦の間柄であったら、夫として妻として、そして父として母として、様々な形で思い悩むものであります。また、個人として家族としての悩みだけではなく、私たちは人間関係の中でも、悩むものです。誰もが多かれ少なかれ、人間関係の中で、思い悩んでいる。しかし、だからといって人は一人では生きることができない。そうした当たり前のことをジレンマと言うのであれば、人はそこから逃れることはできません。
 
契約の主
 わたしは以前より、主なる神の働き、イエスさまの活動は大きく三つの分けられるのではないか、と考えています。それは、「契約」「和解」「創造」という三つの働きであります。そして、それぞれ「契約の主」「和解の主」そして「創造の主」として、イエスさまがこの世において、行われた様々な業を、わけて考えられることが出来るのではないか。そして更に、それぞれにおいて、良い面と悪い面があり、良い面が他の働きの悪い面を補っている、というように考えていま。
 「律法」とは契約に徴に、モーセを通してイスラエルの民に与えられたものであります。そしてイスラエルの民、ユダヤ人たちは、契約をした人ですから当然守らなければならないものです。しかし、意地悪くいうと契約していない人が守っても意味がないものです。そういった意味で言えば、「契約の主」の要素である律法と旧約聖書に約束されたメシア、救い主という要素は、ユダヤ人それも律法を守ることが出来る人、ユダヤ人以外の人々、律法を守ることが出来ない人たちには関係がない、という話になってしまいます。

和解の主
 しかし、ご存じの通りイエスの活動はそうした「契約の主」としての働きに限りませんでした。「和解の主」である神としての働き、活動を進めました。和解の主というのは、いわゆる神学の世界では、人と神の和解を指すことが多いのですが、人と人の和解ということで考えてみたい、と思います。人と人の和解は、イエスの様々な教えの中において語られています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)、見失った羊のたとえ(マタイ18:12-14)など、様々な形で語られていることは、人と人の関係の回復の大切さではないでしょうか。本来は、捨てられても良いような存在であっても、大切にしなければならない、そしてその回復、和解が適ったときには、それを心の底から喜ぶべきなのだ、ということです。そして、人とは、そういった神の愛に対して、放蕩息子のたとえにおける兄にように、「えこひいきだ」とか「不当だ」と起こってしまう存在です。
 また、いわゆる様々な癒しの記事においても、同じだと思うのです。病やケガによって、一般社会や家族から卑下され、追い出されてしまった人々。また、律法も守れない人々も「罪人」とされていました。しかし、イエスはそうした「罪人」とされてしまった人々を訪ね求めて、神さまに立ち帰ることを促し、癒しを行いました。ここで重要なのは、ただ病気などを治した、治療したというのではなく、そうした人々を家族や地域共同体へと戻ることを促した、ということです。人と人の和解をもたらし、あらゆる人々に神の救いをもたらそうとしたということです。これが「和解の主」としての働きです。

創造の主として
 そして最後、創造の主です。今日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書12章22節から24節をお読みします。
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」
聖書の最初に納められている創世記1章の創造物語には、神さまが一週間でこの世を創造した物語、創り出した物語が記されております。その中で人間は、天と地、地上と海、様々な動植物が想像されるその最後、6日目(7日目はお休み)に創造された、と記されてあります。
 人は神の似姿として、今どきの言葉で言えば、人は神のコピーとして創造されました。この創造物語は、旧約聖書に記されたユダヤの民の創造物語でありますが、同時代の他の宗教の神話、創造物語と比べて、一つの大きな特徴があります。それは、あらゆる人が、すべて神の似姿として、ある意味神の子として描かれていることです。創世記におけるアダムとイブは最初の人間として描かれておりますが、そこから生まれた人はみな神によって創られた、という考え方、信仰が根底にあると言えます。

創造の主が来られる
 創造の主とは、創世記1章に記されておりますような形で、この世界が創造された、ということを信じるかどうか、ということではありません。わたしたち1人1人が確かに神自身によって創造された、ということを信じる、ということです。私たちは確かに肉体的には2人の両親の存在によって誕生した、といえるでしょう。しかし、その深いところで、人の力では分からない所で、主なる神が働いてわたしたちを生み出して下さった、ということを信じることであります。
 そして、こうした「創造の主」の働きに対して、重要だと思うことは、私たち1人1人が無条件に神さまに愛されている、と確信をもって信じるということです。たとえば、この信仰が強いのは、たった1人の立ち場になってしまったとしても、たった一人の迫害の状況、たとえば虐められるような状況におかれてしまったとしても、わたしは神さまに愛されているのだ、ということを根拠に、その歩みを始められるという強さがあるのではないでしょうか。
 そして、そんな思いを持つ孤独な人々、神との関係、他者との関係が壊れてしまった人々。そうした人々のところをイエスは訪ねて、「カラスのことを考えてみなさい」とイエスは呼びかけたのではないでしょうか。黒い羽根に覆われ、さらに植物であっても、肉であっても、食するカラスは、律法的には、とても汚れた鳥として考えられていました。そして、そのカラスであっても、主なる神は養って下さっており、カラスも思い悩むことは無い。
 ましてやあなたがた皆、すべての人が神に創造された「神の子」なのだ、大切にされないはずがない、何を思い悩む必要があろうか。どんなに何もできなくても、友人の一人さえいず、優しい言葉さえも受け入れられなかったとしても、神さまは愛して下さっているのだ。イエスが多くの人々に語った言葉を胸にまた歩み出したいと思います。

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(2019年6月5日/熱田まつりの花火)


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『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)

2019.04.16(20:24) 389

『放り出された石の上に』
(2019/4/7)
ルカによる福音書 20:9〜19

仕事の中で感じること
 障がい者福祉の仕事をしていますが、その日々の中で、本当に様々な障がいのあり方があり、彼ら、彼女らを理解するには、それなりの知識や根気というものが必要かな、と言うことが出来ますが、もう一つ大事なことは、その人と共にいる、ということ、この人も自分の隣人なんだ、という思いであります。そして、もう一つ、考えさせられることは自分の生活というものが、以下にスムーズであるか、ということであります。
 自分たちの生活が以下に順調に進んでいて、障がいを持ったメンバーと共に生きる、ということは、否定的な言葉を使えば、とても「めんどくさい」こと、とても「じれったい」もので、自分自身がそのことにイライラしてしまうことがあります。しかし、そうした日々の中において、キリスト教風な言葉を使えば、人と「共に生きる」こと、人の「隣人になる」ことを、課題として与えられているように思います。,
 いかに自分1人の生活が、スムーズで簡単なことなのか。高齢者への介護でも同じですが、介護や介助の世界では、3大要素として、食事、トイレ、入浴が挙げられます。自分1人で済ませれば、それぞれ10分とか15分で済むことであっても、その2倍もしくは4倍もの時間がかかったりする。また、人間関係のめんどくささもある。人の多くの悩みは、人間関係だ、ということもできますが、まずメンバーとの人間関係があります。そして、それが一対一だったり、1日中、最高で連続24時間ということもあります。肉体的にも、なかなか辛いものがありますが、精神的に重くなってしまうこともあります。

分かち合い
 そういったことの対処というわけではないですが、たんぽぽでは、「わかちあい」という時間を持つようにしています。2人とかそれ以上の人で、皆で自分の悩みとか一日を振り返って、苦しかったこととか悲しかったこと、などを語り合う時間を持つことになっています。わたしたちの会社たんぽぽでも、会議の最初などに持つようにしています。だいたい、沈黙に始まって、沈黙に終わるのですが、団体によっては、キリスト教の祈りを文字通りする団体もありますが、たんぽぽでは時に何も定めていません。仏教徒や無宗教の人もいます。ですから、沈黙にはじまって沈黙に終わるというパターンになっています。
 「分かち合い」という時間、ただ単にお互いの日常の思いを言い合うというだけではなく、ただ単に報告というだけではなく、自分の気持ちを語る、ということを大事にしています。そうすると、どういうことが起こるか、と言えば、職員同士関係が悪かったこと、なんであんなことを?」と言ったことがあったとします。しかし実は、知らなかったけど、体のどこかが痛くて、とか、調子が悪くて、おろそかになってしまったことがある、とか、冷たい態度を取ってしまった、とか。また、そのように互いに、自らの痛みや悩みを聴き合うことによって癒やされ、また新しい力を得ていくことが出来ることもあります。「あー、自分だけではなかったんだ」「あー、そんな痛みを持っていたんだ」、と。「分かち合い」を契機にして、新しい人間関係を築くことになる、和解に至るとか、そんな場になっていくのです。ちょっと深い形で人を見つめることで、敵対関係ではなく、味方になっていく。そして、それでもダメであったら、さらに深くということかもしれません。
 この「分かち合い」、もともとは、ラルシュというフランスから始まった知的障がいや精神障がい者の方々と共に生きるコミュニティーから始まっています。障がいの影響か、コミュニケーションを取るのが、難しい人であっても、時間をかけて、じっくり耳を傾けること、目や表情、また体の他の部分で言葉、意志を読み取ろうとする。いわゆる健常者であっても、そうした時間によってだからこそ、伝えることができること、受け取ることができることがあるということでしょう。

「神の僕」と「神の息子」
 今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書20章9節から19節、「『ぶどう園と農夫』のたとえ」という小見出しがついている箇所です。ぶどう園の管理を主人が農夫たちに任せていた。そして、収穫期になったので、収穫物を得ようとして、ぶどう園の主人は、何度も僕を使わしたけれども、農夫たちは、その僕たちを、袋だたきにしたり、追いかえし、また放り出してしまったりした、と。
 そして最後には、主人の息子を送ったけれども、放り出して殺してしまった、と。一般的なたとえの読み解き方とすれば、ぶどう園のこの世のことであり、主人とは神さま、そして僕たちというのは神の使いや預言者たち、農夫たちは神さまに従わない人間たち、そして、主人の息子とはイエスさまのことであり、イエスの受難物語、十字架への道、ユダヤ人の支配者であった大祭司やローマ帝国、イエスを死刑にしろと叫んだユダヤ人たちが農夫である、と捉えるのが一般的な読み方ではないでしょうか。しかし本当に、そのような捉え方、読み方だけで良いのだろうか、という思いを最近、持つようになりました。

農夫は私たちかもしれない、という思い
 イエスは、こんな言葉を語っています。ルカ福音書25章45節。
「『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」(マタイ25:45/〔見失った羊のたとえ〕)
 また、「見失った羊のたとえ」においても、少数の者、望まれないような存在への思いやりを進めている、と言えるでしょう。「子供」にしても、「小さい者」にしても、いわゆる一人前には至らない存在ということができます。この世においても、それは代わらないでしょう。最近、よく感じることがあります。それは、ずいぶんと競争が重んじられる社会になってしまっているという思いです。
 ずいぶんとスピードや効率が求められてします。わたしは、名古屋市に住んでいますが、新幹線になって仕事へ行くことがあります。なかなか便利だなあ、と思う反面、こんなに忙しくしなくて良いか、っと思うことがあります。例えば、新幹線車内で、Wifiっていうインターネットの電波があるかどうか、コンセントがあるかどうか、で一喜一憂しました。また更に、リニアモーターカーもできる。とっても便利だ!っと。しかし、そんなに仕事しないと行けないか、と思い直したことがありました。それは、日曜日の朝一の新幹線、自由席で、ガーッと寝てるんですけど、新幹線の切符を手に握ってるんですよね。そして、それを当たり前のように、車掌さんが検札していきました。自分もどうだろうか、ずいぶんと余裕の無い生活しているなあ、っと思い直して、今は新幹線の中では、ぼーっとしたり、本を読んだり、仕事をしないようにしています。また、そういえば、「忙しい」という漢字は、心を亡くす、と書くよなぁっとか。
 そうした早さばかりを追い求める価値観の中で、障がいを持つ人たちの存在をどのように捉えるだろうか、ということ。自分の思いとを重ね合わせることで、自分もこの農夫たちのように、「小さくされた者」「弱き存在」を、邪魔だと思っていないだろうか。そして、さらに言えば、そうした障がい者の弱さとは、人であれば誰もが持つ「弱さ」のはずです。そうした弱さを否定すること、神の使いを否定することは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。

「神の子」と共に生きるために
 障がい者と共に生きること、聖書的には、「小さい者」「小さくされた者」でしょうか。そのような人々と共に生きてみる、生活してみると、自分自身の中にある強さに対する求めや弱さや小ささに対する恐れみたいなものが顔を出すように思うのです。しかし、考えてみますと、そうした「小さき者」や「子どもたち」を大切にできないことは、自分自身を大切にしていないことの徴、証拠かもしれない、と思うようになりました。
 例えば、私たちは誰でも年を取ります。いつか、ほとんどの人が、誰かの介護を受けることになるでしょう。そうなったとき、高齢者のペースに合わせてくれない介助者に当たったらどうでしょうか?けっこう辛いと思います。何かするにしても、現役時代と同じように評価されてしまう。そんな場、時があったとしたら、苦痛でしか無いでしょう。そうした意味でいえば、効率やスピードばかり求めるあり方は、人という存在、人の本質に関わる弱さを否定することにつながっているのではないでしょうか。
 農夫は、なぜ主人の僕そして息子を殺してしまったのでしょうか。それは、漠然とした不安感からでは無いか、と思います。そして自らを自らで支配しようとした、支配できると思ってしまった。自ら、ぶどう園を管理しているうちに、自分のものになったような錯覚に陥った。そして、ぶどう園をただ単純に奪われると感じてしまった。主人である存在に信頼を寄せることが出来なかった。そして、さらに神の僕という隣人も信頼できなくなってしまっていた。このたとえは、人が持つ漠然とした不安感が神への信頼を失わせてしまうこと。そして、そうした不安感が、さらには神の僕に限らない隣人、そして守られるべき、「小さき者」「子どもたち」をも殺してしまうかもしれない、さらには自分自身をも殺してしまうかもしれない人のありようを示しているのではないでしょうか。

放り出された石の上に
 今日の箇所ルカ福音書20章17節18節をお読みします。
「「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」」
 この石とは、イエス・キリストのことを指しています。イエスは、十字架への道を歩み、十字架上の死を遂げました。イエスの死は、人としての死であり、人としての弱さや痛みの象徴とも言えるでしょう。その人としての弱さや痛みの上に教会、キリスト教は立っている、と言えるのではないでしょうか。そして、そうした人の弱さに目を向けないことは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。
 主イエスは、私たちの罪のために十字架上の死を遂げました。人の罪とは何か、神に委ねると言うことを忘れて、神の使いを殺してしまうような弱さではないでしょうか。ぶどう園の農夫たちは、主なる神の支配に信頼を寄せることができず、神の僕、神の子をないがしろにしてしまいました。受難節というこの時期、イエスが弱さをもつ人として十字架屁の道を歩んだことに思いを寄せると同時に、自らの弱さに今一度、心を向けることが求められているのではないでしょうか。新しい一週間、イエスという犠牲の上に、十字架という象徴の上に、キリスト教が立っていることを覚えて、歩んでいきましょう。

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周縁自体


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『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)

2019.03.17(22:16) 388

『ユダヤ人とサマリア人の境界線』
(2019/3/17)
ルカによる福音書  9:51~56

ユダヤ人にとってのサマリア人
 ユダヤ人にとってのサマリア人は、どのような存在だったのでしょうか。なぜ、新約聖書において知ることができますが、ユダヤ人たちから嫌われていたのか。それには、歴史的な背景があります。一つ目の要素としては、ダビデ王朝の終わり、ソロモン王が亡くなった後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。分裂したのが、紀元前922年です。その後、北王国と南王国で関係が良かった時代もあり、戦争状態の時代もありました。
 そして紀元前722年に、ちょうど200年後、北イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされます。アッシリア帝国は、支配した地域、民族に対して、まず強制的に移住させて、雑婚させるという強制移住雑婚政策を行いました。ようするにそれぞれの民族や地域が持つアイデンティティや宗教性を薄めることによって、支配しやすくするって政策です。ようするに、すべての人々をアッシリア帝国人にしようとする政策でした。そして、こうした政策の結果、ユダヤ人から見て、サマリア人とは、ユダヤ人からすれば、汚れた血統の民族という扱いを受けることになりました。

サマリア人にとってのユダヤ人
 そして、ユダヤ人の話に移ります。北イスラエル王国が滅びてから、およその150年後の紀元前586年、南ユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。バビロニア帝国はアッシリア帝国も滅ぼしてしまっているのですが、バビロニア帝国は支配した地域の支配階級を首都バビロンへ強制移住させる政策を行いました。いわゆるバビロン捕囚と言われるもので、おおよそ10,000人と考えられて、エルサレムのほとんどの人々が連れ去れてしまったと考えられます。そして、連れ去れた後のエルサレムは、神殿も破壊され、廃墟となってしまいました。
 そして、その後、オリエント世界の盟主は、アッシリア、バビロニアと変わってきましたが、ペルシア帝国という帝国が、全地域を支配することとなりました。そして、どのようなことが起こったか、バビロンに移住させられていた多くの民族に対して、紀元前538年、キョロスの勅令と言いますが、自らの故郷、地域に帰るように解放令が発令されます。そのことによって、バビロンに居住していた多くのユダヤ人がエルサレムへの帰還を目指すことになります。そのことによって、またエルサレムがユダヤ人の首都となり、解放令から、18年後の紀元前520年に神殿が再建されるのですが、道のりは大変なものでした。
 なぜ、大変だったのか?一つは、解放されたとはいえ、バビロンでの生活になれてしまい、エルサレムに帰ろうという気持ちになる人が少なかったということです。世界第一の都市での生活をすてて、わざわざ何百キロも離れた廃墟へ行き、町と神殿を再建しようという困難な計画に、ユダヤ人としてのアイデンティティに関わることとは言え、多くの人が挫折してしまったみたいなのです。そして、残ったユダヤ人たちによって、バビロニア・タルムードという優れたタルムードができあがります。
 そしてもう一方のエルサレムへ帰還し、神殿を再建しようとした人々には、思わぬ困難がもう一つありました。それは、サマリア人の存在でした。一つは、こんなことがありました。もともとは同じ民族、同じ神を信じている兄弟のような民族ですから、サマリア人は、神殿の再建の支援をしましょうか、とユダヤ人に呼びかけました。しかし、サマリア人は純粋なイスラエルの血統ではない、という理由でその支援を断ってしまいました。そして、もう一つ、政治的な事情がありました。ペルシア帝国は、領内を20ぐらいの行政区に分け、総督をおいて支配していました。そして当時、エルサレムがある地域の総督は北イスラエルにルーツをもつ人、つまりサマリア人だったわけです。その立場から考えてみますと、ユダヤ人のエルサレム帰還はペルシア王公認の事業です。ですから、ユダヤ人の帰還が上手くいった場合、自分の領地が減ってしまうということで、あまり協力しなかった、またむしろ邪魔をしたらしいのですね。
 そうしたことからユダヤ人はサマリア人を憎むようになった。そして、サマリア人の方としては、イエスの時代に至るまでに、ユダヤ人が強くなって、ユダヤ人がサマリア人を支配して、サマリア人の神殿を破壊してしまったりする、など。このように、歴史的にいろいろな事情があって、ユダヤ人とサマリア人は憎み合うようになってしまったのです。

キリスト教信仰にとってのエルサレム
 今日の聖書の箇所において、エルサレムに行く決意をもったイエスは、サマリア人の村へと立ち寄ります。エルサレムへ向かうにあたって、カファルナウムを中心としてガリラヤ地域からエルサレムへ向かうとなれば、ヨルダン川の西側を通りますので、サマリア地域を通るのは、自然なことです。しかし、サマリアの人は、イエスのことをないがしろにします。その理由については、何もしるされていませんが、弟子たちは憤慨して、言います。9章54節。
「9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。」
 これは、旧約聖書に記されているエリヤに関する物語に重なっています。ようするに、異教徒に対する裁きを重ねているわけです。しかし、イエスはその2人を戒めます。なぜかは記されていません。しかし、ルカの福音書の文脈でいえば、11章には、『善きサマリア人の例え』があり、宗教性や倫理性は民族によらない、という考え方をイエスはしていた、と言いたかったのでしょう。

『金子文子と朴烈』から
 先日、『金子文子と朴烈(パクヨル)』という映画を見てきました。大正時代、1923年に起こった関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の混乱によって戒厳令で出されました。時の政府は、この混乱時に反乱が起こってならないとして、多くの民主運動活動家やアナーキストが虐殺されました。そして、金子文子と朴烈もそうした人々と同列に扱われることが多いのですが、彼らは皇太子を暗殺しようとしたという嫌疑をかけられ、有罪判決を受け、金子文子が獄死、朴烈(パクヨル)は、無期懲役刑を言い渡されますが、戦後、釈放される、という運命を歩みました。
 その映画自体、とても興味深いものだったのですが、まず韓国映画であったということ。しかし、映画のほとんどは日本語での会話で締められています。そして描かれる内容として、厳しい天皇制批判もあり、日本での映画化は難しいだろうな、と感じました。また、全編において、非常に政治的な空気というものを感じず、とても明るいということでした。そこから政治的なテーマというのは、「生き方」の問題なのだ、ということを感じました。また、本筋から離れますが、政府要人たちの徹底した韓国名の日本語読み。また、政府の都合によって、様々な真実が隠されようとする動き…。
 また、そうした在日韓国朝鮮人、在日コリアンの気持ち、被支配民族の気持ちに支配している側は、よっぽどの想像力を持たなければ、寄り添うことが出来ないっていう事実を突きつけられました。終戦時、こんな逸話があったらしいです。敗戦を知らされた日本人たちは、誰もが落胆していたそうなのですが、在日コリアンたちは、万歳をしていました。「戦争が終わった!日本の支配が終わる!自由になれる!」っと。とても当たり前です。しかし、日本人たちは、その在日コリアンたちの姿を見て、憎悪したらしいのですね。それが現在にまで続いている、と。身勝手な考え方ですが、味方だと思っていた在日コリアンの人々に裏切られた、と感じたそうなのです。自分たちがその人たちを傷つけてきたこと、踏みつけてきたことなど、すべて、その憎しみによって消えてしまった。そして、恐怖という感情も持ち、過去をしらない世代になればなるほど、憎しみのみが残ってしまう、と。

ユダヤ人とサマリア人の境界線
 ユダヤ人とサマリア人の間、境界線もお互いにそんな感情だったのではないでしょうか。民族として、世代として、積み重なった無理解や憎悪、そして思い込み、そうしたことにイエスの弟子たちさえもとらわれていた。イエスはどうだったのか、少なくとも、『善きサマリア人の例え』のようなことを言ったのですから、イエスはそのような意識は持っておらず、民族性や宗教性といったその人の背景ではなく、その人自身との繋がりをもっていたのではないでしょうか。今日の箇所においても、神殿の場所が問題とされています。神殿、神に祈る場所は、エルサレムなのか、サマリア人の聖所ゲリジム山なのか。イエスはそうした発想に捕らわれていなかったのではないでしょうか。また、それならば、なぜエルサレムに向かったのか、それは神殿がそこにあるからではなく、主なる神への信仰の形を変えようと、エルサレムに向かったと考えられるのではないでしょうか。
 今日の説教題は、ユダヤ人とサマリア人の境界線としました。民族的にみれば、時代も違い、アジアの私たちからすれば、ほとんど同じ民と言えます。そしてアジアの民もオリエント社会の人々から同じと言えるでしょう。しかし、近いからこそ見えてくる違いというのは、実は兄弟ゲンカのようなものなのではないでしょうか。ルカ福音書は、キリスト教がローマ帝国内の広い地域へ、様々な民族へと広がっていくことを意識して描かれています。サマリア人の存在は、ユダヤ人イエス、ユダヤ人の宗教として生まれたキリスト教の最初の境界線(ボーダー)として捉えられたのかもしれません。宗教とは、どのようなものであっても、境界線を作る、と言えるのではないでしょうか。しかし、境界線を壊し続ける宗教として、キリスト教を捉えることは出来ないだろうか。ユダヤ人とサマリア人の関係から、そんな課題について考えさせられました。

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周縁自体


ルカ
  1. 『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)(09/03)
  2. 『クローズ隣人愛批判』(ルカ福音書10:25〜37)(08/19)
  3. 『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)(06/06)
  4. 『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)(04/16)
  5. 『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)(03/17)
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