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『招いていた客と招くべき客』(ルカ14:15〜24)

2020.09.13(21:21) 408

『招いていた客と招くべき客』
(2020/9/13)
ルカによる福音書 14章15~24節

神の国=宴会
 イエスさまは数多くの喩え話を語っておられますが、その中でももっとも多いテーマが「神の国」に関するものです。神の国は、ギリシャ語の直訳では、「神の支配」となりますが、神が支配する場所とは、どのような場所であるのか、神の意志に基づいた社会、世界とはどのような世界であるのか、といったことでしょう。そして、「神の国」のたとえは、かなりの確率で宴会の席の話として語られます。今日の物語では、多くの人が、その席に招かれているのですが、もともと招かれていた人々は様々な事情のために来られず、広場で時間をつぶしていた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(14:21)が招かれている。本来、招かれような人が神の国には招かれている、というお話です。広場で人が呼ばれる形の物語として、広く知られている喩えとして、ぶどう園の農夫のたとえがあります。マタイによる福音書20章1〜16節の物語です。
 ぶどう園の主人が、朝9時に広場に労働者を連れに行って働かせた、次に12時ぐらい、午後3時ぐらいそして5時頃にも広場に働き人を呼びに行って、働かせた、と。そして仕事が6時になって仕事が終わったので、賃金を渡したのですが、朝から働いた人も夕方から、たった1時間働いた人もまったく同じ賃金だった、と。今日の喩え話との共通点として、ごくごくシンプルに、単純化して言えば、世の中において、必要とされていない人々こそを大切にされるのが、神さまですよ、といったメッセージである、と言えます。そして、マタイにおいてはどのような人も神にとっては、同じ価値を持つ人です、ということです。
 時と場合による場合なのですが、この2つのあり方は、まったく違うようですが、1つの共通点があります。どちらも、人から見たときには、不公平、もしくは理屈にあわない、ということです。しかし、イエスは、それが神の国であり、神の支配であり、神さまの愛ですよ、という。イエスさまは、日常の中で、様々な形でそれらを喩えとして、自らの行動として、行ってきました。そして、そうしたイエスに魅力を感じた人が、彼の後を従って行き、イエスの教えに耳を傾けたり、弟子となったりしたのでしょう。そして、イエスはエルサレムへ昇っていき、神殿で問題を起こしたことによって、捕らえられ、処刑されてしまいます。

福音書記者が描いたイエス
 ところで、私たちは、イエス様のことを、聖書を通し、また、特にその中の福音書を通して知ります。また絵本や誰かの話を通して、このようなメッセージ(説教)を通して知ります。しかし直接にイエスの言葉を聞いた人々、イエスの姿を見た人々、そしてイエスの弟子だった人々は、そうしたことは必要なかった、と言えるでしょう。彼らにとって、イエスはどのような姿であったか、どのような人であったか、ということについて、あまり説明は必要なかったかもしれません。しかし、直接にイエスを知らない人々、直接の弟子ではない弟子たち、またキリスト教徒となった人々は違います。イエスの言葉にしても、姿にしても、聞いたことも見たこともない。
 では、イエスさまのことをどのようにして伝えるのか、といったことが問題となって、福音書が記されるようになったわけです。 どうでしょうか?イエスの姿を思い浮かべてください。それは姿、見た目、容姿のことでもあるでしょう。また、仕草や言葉や訛りもあったかもしれません。そして、極端に言ってしまえば、キリスト者1人1人によって、また牧師によっても異なり、キリスト者一人一人でも違うでしょう。神学者によっても、不思議なほどに異なります。とても、感情的に激しいイエス、まるで禅僧侶のようなイエス、反骨精神にあふれたイエス、涙もろいイエス、奇跡を起こすイエス、力強いイエス、山下清のようなイエスさま、さまざまなイエス様が描かれます。そしてどれもが正解と言えるでしょう。何かを説明するため、「〜のような」といった作業にも近いかもしれません。誰が説明したとしても、誰が肖像画を描いたとしても、まったく同じ物がないのと同じでしょう。そういった意味で言えば、誰もが違うイエスさまを心の中に持っているということです。しかし、これは絶対当たっていると思うのですが、絶対に「良い声」をしていただろうなーっとことです。

新しい律法と悔い改め 〜マタイ的理解とルカ的理解〜
 福音書を記した人々も同じだったと思うのです。例えば、さきほど紹介しましたマタイによる福音書を記した人、もしくは人々。イエスはどのような存在であったか、と聞かれたとしたら、律法の教師、一人のラビとして、全く新しい「律法」の教師としてイエスという存在を捉えていたでしょう。律法というキーワードでイエスを理解しようとした、説明しようとしたわけです。
 また、ルカ福音書にも、「悔い改め」というキーワードがあります。ルカ福音書5章32節。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」律法に従えているかどうか、でもなく、社会的な地位の善し悪しとかでもなく、神の前に従順であるか、神の前に対して謙遜であるか、ということ言えます。「悔い改め」とは、ギリシャ語を直訳的に訳しますと、「立ち返る」という言葉になります。つまり「悔い改め」とは、「神に立ち返る」ということです。

招かれていた客と招くべき客
 今日のテキストの話に入ります。イエスさまは、この話をファリサイ派の人々に向かって語っています。ファリサイ派の人々は、当時にユダヤ人たちの間では、知識人、裕福な階層で、社会的地位が高い人がその多数を占めていました。ですから、宴会の席では上座の方に座る。そして同じ食卓を囲むことに関しても、自分の親族や地位の高い人々、お金持ちと食事をすること、席を囲むことを選ぶでしょう。また、もう一つポイントがあります。最初に招かれていた人々が、すでに約束していた、ということです。突然、誘われていたわけではないのに、最初に声を掛けられた3名の人はことわっている、ということです。
 そして、その3名が断った理由は、それぞれ「畑を買ったから見に行かないといけない」「牛を買ったので、それを調べに行かなければならない」「結婚したばかりだからいけない」という理由でした。これらの理由には、共通点があります。それというのは、理想的なユダヤ人であれば、これらの態度は、とても理想的なあり方だ、ということです。前の二つ、畑を買った、牛を買った、ということは生活の中での当たり前の態度です。そして、三番目の『妻を迎えたばかり』という理由に関しては、律法にも記されるほどのことであります(Dt24:5)。しかし、イエスはこのたとえにおいて、そうしたユダヤ人として理想的なあり方を否定しているのです。

誰が招かれているのか 〜イエスの視座〜
 イエスという存在、イエスの教えを、理解する上でキーワードがある、という話をしました。マタイにとっての「律法」、ルカにとっての「悔い改め」そして、私たち自身もそうしたキーワード、フィルター、否定的に言ってしまえば色眼鏡でイエスを見ているかもしれません。ある種、自分なりの公平性、自分が持つルールで、イエスの言葉、行い、たとえを理解している、と言えます。そして自分なりに、「招くべき客」を選別してしまっている。そして常に、そのような自らのフィルターを意識することが大事かな、と思います。そして、イエスの教えや歩みに近づこうとし続けることこそ「イエスと共に歩む」ということではないでしょうか。
 実際のイエスは、誰が救われた、誰は救わない、などと言って回っただけでは無かったでしょう。誰か特定の人としか、食事を取らなかったということもなかったでしょう。そして誰であっても、対等な食事の相手であった。このことの方がすごいことかもしれません。おそらく神の前においては、誰も同じ価値ある存在だと考えていたのではないか、と私は感じています。そして、どのような人も等しく、神さまに愛される存在として、歩んで欲しい、と願っていたのではないでしょうか。そして、その先にある神の国を共に目ざして欲しい、と願っていたのではないでしょうか。


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「平和へのイエス的第一歩」(ルカ福音書12:49〜53)

2020.08.17(12:30) 407

「平和へのイエス的第一歩」
(2020/8/16)
ルカによる福音書 12章 49~53節

無言館について
 以前に、出身神学校の研修会で、長野県上田市にあります無言館という美術館に行ったことがありました。その美術館には、戦没した画学生たちの作品が展示してある美術館でした。コンクリート打ちっ放しの建物で、上から見ると、十字架の形なのでもまるで教会のようにも見えたりする建物ですが、その中には、戦没した画学生たちの絵が飾られ、遺品や、また小さなプレートには、出身地や、どこの学校であったか、そしてどこで亡くなったかが記されていました。また、無言館のことについて記されている本を買って来たので、読んで、いろいろなことに気づかされました。また、当たり前のことなのですが、「彼らは、平和祈念や戦争反対のために絵を描いていたわけではない」のです。戦場へと向かう5分前まで絵筆を握っていた人もいたそうです。そうした一つ一つのエピソードから一枚の絵でありながらも、何か人の生涯の結晶のような印象を持ちましたし、無言になってしまう重さを感じたのでしょう。
 そして、この間の日曜日、NHK教育で日曜美術館という番組で、「無言館」が取り上げられました。再放送は、今晩の午後8時から。また、9月6日まで、三重県四日市の四日市市立博物館でも展示されるそうです。私は、この美術館に、たしか2回は訪ねていますが、そのたびにいろいろなことを感じて、帰ってきています。今回、その番組を見て、改めて感じたことは、館の名前としても、「戦没画学生慰霊美術館」とありますように、たしかに、戦没者を慰霊するために美術館なのですが、それだけではない、ということです。ただ単に戦争犠牲者の作品が飾られているというだけではない、ということ。戦争が無かったら、戦争で亡くなっていなかったら、一人一人に、未来があり、可能性があった。それがうばわれてしまう、ということ。本来あるべき未来、本来あったであろう可能性が奪われてしまうということ、そしてそれはそれぞれの民族や国家の歴史をも変えてしまうことであろうということを感じました。今回放送された番組で語られていた無言館館長であられる窪島誠一郎さんの言葉が、とても印象に残っております。
「戦争ということを伝えると(同時に何を伝えているのか)、あの戦争の時代の中に今の彼らとまったく変わらない青春があったわけです。じゃあ、この画学生たちは本来、ただ単に戦争犠牲者という館に押し込めておいて、この絵描きたちそのものを、しっかりと遇されていると言えるのか、という疑問があったんです。彼らが一番、喜ぶのは、やっぱり自分が何を描こうとしていたのか、そしてその究極の時間、後一週間しか生きていられないとか、すぐに戦争(戦場)に行かなければならないというときに、絵を描くということに持っている幸福、これを伝えるとしたら、これは戦争を伝えるということにあまりこだわってはいけない。今、生きているサッカーやったり、野球やったりして、燃えている彼、彼女たちにこそ、見てもらうべきではないか、と。簡単に言えば、君の命は何のためにあるの?だって、明日も生きたい、絵を描きたい、と言っていながら、生きられなかった人たちの分も、君もオレも生きているんだ。その時間をどう使えば良いか、それがすべてではないか、と。」


視点を持つ、ということの落とし穴
 今日の箇所の冒頭、ルカ福音書12章49節において、イエスはこのように述べておられます。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
 ルカ福音書3章16節17節には、バプテスマのヨハネの言葉として、火について言葉を記されています。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
 このバプテスマのヨハネの言葉からしますと、火というのは、終末(世の終わり)の1つのイメージで、裁きについての記述とうえます。誰もが救いに至るわけではなく、裁かれてしまう民がいる、ということ。そして、自らの受難、十字架上の死を暗示させるような言葉をのべて、イエスに従うことの厳しさを述べます。

一括りにされる民と分断される民
 平和に関する言葉が出てきます。12章51節。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
 そして、その具体的なあり方として続く言葉があります。12章52節53節。
「12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる」
 戦時中、隣組といった制度がありました。また、お互いの行動を監視し合う関係がありました。現在、コロナ禍の中において、自衛警察といった言い方がされていますが、実家に帰った人を中傷するビラが入れられたりする。誰も、真実に眼をつぶり、誰もが右にならい嘘に従って、間違った道を歩み続け、アジア諸国に対する償い切れない加害、また日本国内においても多くの犠牲者を生み出してしまいました。
 なぜ、そのような間違った道を歩み続けてしまったか。日本においては、天皇を中心とした家族制国家といった幻想にだまされてしまった。誰もが、人質のような状態にされてしまっていたからと言えるのではないでしょうか。ユダヤ人社会においても、同じような状況があったのではないでしょう。当時の神殿の祭司たちや律法学者たちによって語られる律法によって、価値観ががんじがらめにされていました。罪と律法(括弧付きですが)という価値観にがんじがらめで、家族関係でさえもそうした価値観によって計られていたのでしょう。父として、子として、母として、娘として、しゅうとめとして、嫁として、あるべき姿。そして、それぞれの関係の中において、なすべき態度があり、そうした枠付けが、親戚、村社会、地域社会、ユダヤ人社会全体に広がって、誰も彼もが、がんじがらめだったのではないでしょうか。

分裂によってもたらされる平和
 イエスは、「平和ではなく、分裂をもたらすためにやってきた」と述べています。ここで述べられている「平和」とは、人々が持つ痛みや罪を「象牙の塔」の中に塗り込まれて、隠されてしまったことを指し示しているのではないでしょうか。イエスは、そうした象牙の塔、がんじがらめの人間社会から一人一人を解放することをさして「分裂」だと語ったのではないでしょうか。最初に、無言館のことに触れました。誰もが、戦没者であり、画学生であり、犠牲者であります。しかし、そうした言葉に括られてしまうことによって、見落としてしまうことがあるのではないか、と感じています。誰もが1人の人である、ということ、誰もが一人の個人である、ということです。
 しかし、戦争であれば、犠牲者ということで、律法、罪の論理の中では、罪人ということで、括られてしまう。しかし、誰もが一人の個人であります。誰かの父であるとか、子であるとか、母であるとか、娘であるとか、しゅうとめであるとか、嫁であるとか、そういった枠、社会的役割では括ることができない痛み、苦しみがあったのではないでしょうか。そして同時に、夢があり、希望もあったのではないでしょうか。今日の説教題は、「平和へのイエス的第一歩」としました。平和への至る道、また人を救いへともたらす道は、本当に様々でしょう。国家と国家、民族と民族、地域と地域といった大きな枠からめざす平和もあるかもしれません。しかし、イエスが目指した平和は、まず一人一人の自由、一人一人の救いから、平和を実現させようとしたのではないでしょうか。平和を考えるこの時期、大きな枠ではなく、一人一人が平和に至ることに思いを寄せて歩みたいです。


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『カラスの勝手でしょ』(ルカ福音書12:22〜34)

2020.05.17(14:57) 402

『カラスの勝手でしょ』
(2020/5/17)
ルカによる福音書 12:22~34

カラスのことを考えてみなさい
 今日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書12章22節から24節をお読みします。
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」
 「カラスのことを考えてみなさい」とイエスは呼びかけています。黒い羽根に覆われ、さらに植物であっても、肉であっても、食するカラスは、律法的には、とても汚れた鳥として考えられていました。そして、そのカラスであっても、主なる神は養って下さっている。カラスが思い悩んでいるように見えるか。ましてや、あなたがた皆、すべての人が神に創造された「神の子」なのだ、大切にされないはずがない、何を悩む必要があろうか、とイエスはおっしゃっているのです。

お笑いや映画をどう捉えるか
 今日の説教題、「カラスの勝手でしょ」としました。この言葉を言ったら、誰かのことを誰でも思い浮かべると思います。そう先日、コロナウイルスによって亡くなられたコメディアンの志村けんさんです。現在、放送されている朝ドラ『エール』に、ちょうど登場していて、本当に亡くなっているのだろうか、という思いにさせられます。その志村さんの全盛期(と言っていいのか?)、土曜日の夜8時にやっていた『全員集合!』という番組で、使われていたギャグです。
 そして当時は大きな批判になりました。「食べ物を粗末にするな」「いやらしい」「不謹慎」といった言葉で糾弾されていました。テレビですから、社会に対しても、子どもに対しても、たしかに大きな影響がある。現在では、テレビで、ずいぶんと規制が厳しくなっています。
 やはり、お笑いというのは、その時代時代の風潮、社会状況など、それぞれの時代を背景にして、お笑いというものは、生まれている、また流行る、人気が出ると言えます。たとえば、植木等さん。「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と歌いました。「ニッポン無責任野郎」と。当時は、高度経済成長時代、誰もが責任感を持って、仕事に向き合っていたのではないでしょうか。しかし、あのネタ、歌が受けたのは、誰の心にも、どこかで、植木等が描いた「無責任男」に心ひかれていたのではないでしょうか。
 また「ビートたけし」は、毒づくというか、社会の道徳とかを馬鹿にした、風刺したネタやコメントが多いように思います。特徴的なのは、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。たしかに、守らなければならないルールであったとしても、どんなに間違ったことであっても、みんながやっていれば、それが新しいルール、正しい行いになってしまうこともあります。志村けんに戻りますが、「カラスの勝手でしょ」とか、「変なオジサン」「バカ殿様」その他のキャラクターにしても、本来あり得ないこと、本当はしてはいけないこと、をあえてするというところに、ズレがあるところに、笑いが生まれるわけです。そして、いかりや長介の「だめだ、こりゃ」と。

「放蕩息子の喩え」から読み解いてみる
 しかし、それとは違う考えをイエスは持っていた、そうした喩えがルカ福音書の中に収められています。いわゆる放蕩息子の喩えです。その最後の箇所、15章29節から32節をお読みします。(P.139)
「15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。/15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』/ 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。/ 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」」
 要するに、律法の枠から離れた人間を切るだけではなく、神さまのところへ戻ってくることをそうした思いを喜ぼうというわけです。どのような宗教であれ、また人間の集団であっても、そうかもしれませんが、信仰や自らの働きというものを考えた時、わたしたちには一つの誘惑があります。それはよく働けば幸せになれる、と同じように、良く信仰すれば神の救いが得られる、より神に近づくことができる、という誘惑です。福音書の中の弟子たちでも、イエスに対して、私を王座の右に座らせてください、左に座らせてください、と願いました。また、律法学者にしても、普通のユダヤ人、若者など、多くの人々は、イエスに対して、神の教えを守るためにはどうしたらいいのか?そして、そうした行いは、報われるべきだ、と。そして、その逆もあるわけです、何もしなかった人、神の戒めを守ろうとしなかった人は、罰せられるべきだ、と。また、罰せられなかったとしても、自分と同じではあんまりだ。また更に、自分よりも大きな恵みを得るなんて…。要するに、放蕩息子のたとえにおける兄の姿なのです。

汚れた動物さえも
 また、12章27-28節では、「野原の花」を引用して、このような言葉が出てきます。
「12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。/12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」
 「野原の花」とは、紫色をしたアネモネと言われています。紫という色はその色素が非常に貴重で高価であったことから地位の高い人が着る服でした。イスラエルの歴史の中で、最も反映したソロモン王でさえ、これほど、美しい紫色の衣を着ることはなかった、と。
 そして、さらに語りかけます。ルカ福音書12章29-31節。
「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」
 イエスによって語られていることは、自分がどのように評価されるか、思い悩むことは意味が無いことだ。ただ「神の国を求めなさい」とありますが、もともとの原語であるギリシャ語を、直訳的に訳しますと「神の支配を求めなさい」となります。それは、わたしたちは、主なる神に相応しい者かどうか、悩む必要はない、ということです。どんな存在であっても神は守ろうとしている。そして、どんなに大きな不安を抱えていても、主なる神の支配を信じて歩むことが大事なのだ、と呼びかけているのです。

「カラスの勝手でしょ」と「ダメだこりゃ」
 コロナ禍の風潮の中で、営業している飲食店やライブハウスに対して、それぞれの行政区におけるルールを守って営業しているのに、営業しているのは好ましくないと攻撃する「自粛警察」なる集団が行動しています。また、少なからず、コロナウイルスに感染してしまったら、かかった本人が悪いと攻撃する風潮があり、さらに、その家族や子どもまでにも、企業や教育機関において自宅待機を求められたりすることがある、と。それは、はっきりとした差別なのですが、それがなかなか通じない人もいます。もしかしたら、があったら大変なことになる、と。
 ビートたけしさんは、北野武として、暴力的な映画をたくさん取っていますが、あるインタビューでこのようなやり取りがあったそうです。
「記者が、『暴力映画を撮り続けると世間に悪影響を与えるのではないか?』と尋ねられ、ビートたけしは以下のように答えた。
『感動的な映画はたくさんあるが、それで世界が平和になったかい?』」

 たしかに、その通りと言いようがありません。社会もそうです。教育もそうでしょう。イエスの時代であっても、旧約聖書、ユダヤ人にとっての律法、トーラーがありました。誰もがそのとおりに生きていれば、差別もなく、貧困もなく、戦争もなかったわけです。しかし、様々な差別や悲劇があり、平和ではなかったわけです。そして、ユダヤ人の間では、罪人と呼ばれる人たちがいて、様々な差別を受け、困難な状況に貶められていた。
 イエスは、あえてそういった人々のところへ行き、神の支配を語り、神の国への招き入れたと言えます。そういった意味で、慈愛に満ちた人であったと私たちは受け取ります。しかし、それだけではなく、もう一歩進んで、ただ罪人とされていただけではなく、「カラスの勝手でしょ」といって自己中心的な勝手なことをしていた人たちもいるかもしれない。そして、そういった人たちに対して、「ダメだこりゃ」と断罪することもできるけれども、そうした人も、同じように神の国に招かれるべきだ、神の支配に入るべきだ、と考えていたのではないでしょうか。そして、そんなイエスを受け入れられるでしょうか。放蕩息子の兄のように、疑問を唱えるのではないでしょうか。
 イエスは、「カラスの勝手でしょ」「変なオジサン」「無責任男」も受け入れるのではないでしょうか。社会は常に変化しています。聖書の翻訳が変わっていきます。言葉が変わるからです。またコロナ禍の影響によって、衛生に対する考え方、人との距離感の取り方が変化します。笑いが変化します。価値観の変化があるからです。また、倫理観も変化していく、キリスト教、教会も変化していくかも知れません。そのような時、常にイエスが、どのような存在であっても受け入れる人であったこと、主なる神が「カラス」であっても恵みを与えてくださる存在であること、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」存在であっても、守ってくださる神であることに思いを寄せて、歩みたいです。

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『神が全能であるということは?』(ルカによる福音書12:4〜12)

2020.04.19(13:04) 401

『神が全能であるということは?』

ルカによる福音書 12章 4〜12節

コロナウイルス渦の中で
 愛知県が、4月10日午後に、県として独自の緊急事態宣言を出し、さらに4月16日には、国がそれを追認するような話になったと思ったら4月17日夜には、国全体への緊急事態宣言の発令となる運びとなりました。この動き、企業への休業補償と各世帯への生活支援との絡みで出てきているというのが、私の捉え方です。そして動きとしては良いことなのですが、生活実態というよりも、政治の論理、官僚の論理で動いているのは、ちょっと引っかかるところであります。(原稿を書いているのは、4月17日夜)
 そして同時に、このコロナウイルスの影響で、どのように世界が変わるのか、ということを想像してしまいます。世界中に広がっているロックダウン(都市封鎖)や移動制限、いずれは解けるであろうと思いますが、それがどの段階でなのか、ということを予想するのは、かなり難しい状況で、アメリカのある専門家によれば、2022年まで継続する必要があるかもしれない、という予測が出されています。
(外出規制、22年まで継続も 新型コロナ、風邪参考に予測―抗体調査早急に・米大学:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2020041700172&g=int
 2022年までこの状態が続いたとしたらどうでしょうか。「非常事態」である現在が、「通常」となる未来に繋がっていくのかもしれません。そして、その時、どのような防疫や清潔感、社会観、世界観をもった自分たちでいるのか、ということに思いを向け、考えなければならないかもしれません。そしてそれは教会だけの話ではなく、自分自身の日常生活、社会生活、経済活動、子どもたちの学習環境、生育環境に至るまで、とても大きな影響を与えるでしょう。名古屋堀川伝道所も、集会場所に集っての礼拝を休止し、週報と原稿のメールと郵便での発信を行っていますが、それが状態となることもあり得るかもしれない、ということを頭の片隅においておきながら、役員会、協力牧師の方々と対応を進めております。

一人一人の中にいる「イエスさま」
 今日は、説教題にありますように、キリスト教の神さまは、「全能の神」という言い方がされますが、それは、神という存在の性質について、またキリスト教の信仰的に、どのような課題があるのか、ということを考えてみたい、と思います。しかし、一言で「神さま」といっても、様々な捉え方がなされると思います。たとえば、「イエスさま」という存在であっても、その捉え方は様々です。
 イエス・キリストとは何者か、ということを考えること、またイエスさまを語ることも、キリスト者1人1人によって、また牧師によっても異なり、また神学者によっても、不思議なほどに異なります。日本にも、新約聖書学の学者が多くいて、様々なイエス論、イエスとはどのような存在であるか、ということを書籍や論文、注解などで記しております。そして、立場上、様々な「イエスさま」に触れてきたように、思います。そして、私として感じることは、そこで描かれる「イエスさま」には、少なからず、その筆者の思いが投影される、ということです。とても、感情的に激しいイエス、まるで禅僧のようなイエス、反骨精神にあふれたイエス、涙もろいイエス、奇跡を起こすイエス、力強いイエス、山下清のようなイエスさま、さまざまなイエス様が描かれます。
 そして、そのようなことを話題にするとき、私が神学校でお世話になった教師の一人が、このように述べられたことを思い出します。田〇〇三さんのイエス論についてだったのですが、「あれは『イエスという男』ではなく、『〇川』という男なんですよ!」っと。そして、たしかにそうかもしれない、と感じさせられました。自分自身もイエスとは、こういう存在であった欲しい、という思いが確かにある、そうした思いは捨てられない、別に間違ったことではなく、そうした考えを巡らすこと、考えていくこと自体が、キリスト教信仰であるとも言えるでしょう。

誰の心にも存在する「イエス像」
 そして世界中に、「イエスさま」がいるように、「イエス像」もあります。私たちが知っている「イエスさま」は、どのような姿、「イエス像」をしているだろうか。日本のキリスト者の多くが持っているイエスさまのイメージとは、だいたい欧米系の髭ずらのイケメン男性ではないでしょうか。すべてを受け入れてくるような目とスラッと鼻の通った欧米人のような良い男。オリエントからヨーロッパ、そしてアメリカを渡ってやってきた「イエス像」がこのような姿であったからでしょう。そして、他にも絵本や歴史的な宗教画もありますが、だいたいこのようなイメージに落ち着いていきます。しかし、紀元後3世紀以前に描かれたイエスには、ほとんどのものに髭がなかったそうです。
 また現代においては、イエスの人間的な部分、弱い部分を描いた映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』で描かれたイエスなどは、線も細く、泣き叫び、感情的に怒ったりするイエスも描かれました。そこで描かれたイエスとその弟子たちの物語。イエスの思いをまったく理解しない弟子たち、そして、イエスの思いにもっとも近いからこそ、イエスの怒りを買い、イエスを裏切ってしまったユダがいました。しかし、このユダをアフリカ系の人に演じさせたのには、正統な白人対異端の黒人といった構図が込められていると言えます。
 そして、実際のイエスというのは、当時の平均的なユダヤ人の顔をしていたとすれば、このような顔だっただろう、という分析もなされています。
(参考記事:BBCニュース - 【寄稿】イエス・キリストの本当の姿は? 長髪にひげは本当か https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35173762
 そして、さらには、ローマ・カトリック教会が世界中に広がる中で、アフリカ社会において、「黒いマリア像」があり、南米なのでも、その地域がもつ民族性や文化をまとった「マリア像」があり、「イエス像」があります。そして、どれが本当の「イエス像」であるのか、また正統な「イエスさま」であるのか、ということは言えないのではないか、と思うのです。
すべてを知っておられるお方
 今日の聖書箇所の直前、12章1節にこのようにあります。
「「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。…」
 この「それは偽善である」という「ファリサイ派」についての説明は、ルカ福音書の著者が付け加えた注釈であります。ルカ福音書の著者とすれば、この12章全体で、そのことを述べたいのでしょう。「ファリサイ派のパン種」と記されている教え、考え方は「偽善」であり、本当の教えとは何なのか、本当の信仰とは何なのか、神さまとはどのような存在であるのか、を記そうとしています。
 12章4節、「体を殺しても…それ以上できない者もの」とは、迫害者やファリサイ派のような敵対者でありましょう。そして、そうしたこの世的な存在ではなく、「地獄に投げ込む権威」を持った神を信じなさい、ということです。12章5節「二アサリオン」とは、1日の賃金とされる1デナリオンの八分の一しかない価値であり、そんな小さな価値しか無い雀でさえ、神は大切にしているのに、ましてや人といった存在がないがしろにされることはない、ということです。そして、それだけ大切にされているのだから、どのような状況であろうとも自信を持って、勇気を持って歩みなさい、ということでしょう。
 そして、ここで言われている神の存在とは、この世には、他の民族の方が、他の国家の方が、そして、そうした民族が信じているような神の方が強くみえるかもしれないが、そんなことはない。「すべてを知っておられる方」(全能の神)は、この世において、私たちを「髪の毛までも一本残らず」興味を注ぎ、守っておられ、後の世までも守っている、ということです。

神が全能であるということとは?
 12章10節をお読みします。
「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」
 ルカにおいて、聖霊というのは、地上に奇跡を発現させる力みたいなもので、「聖霊を冒涜する」というのは、イエスの奇跡全般、イエスのこの世における歩み全体を否定する、ということです。12章1節において、敵対者であるファリサイ派に対して、「偽善」である、といった言葉がありました。ルカ福音書の著者としては、ファリサイ派の教えとキリスト教の教え、立場が似通っていたとしても、イエスの存在を神の子として捉えるかどうか。イエスの奇跡を神の業、聖霊の業として捉えることによって、神に救われるかどうか、が決まるのだ、ということであります。そして、全能の神というのは、すべてを知っておられるのだけれども、私たち、人に与えられている神の徴は、イエス・キリストの聖霊による業である。だから、それを神の業として受け入れられるかどうかが、人が神の救いにいたる惟一の道である、というわけです。
 最初に、それぞれに「イエスさま」がいる、様々な「イエス像」がある、という話をしました。そして、どこかで私たちは、自分が信じるような「イエスさま」「イエス像」を持ってしまっている、と。ということは、自分の「イエスさま」「イエス像」以外を信じている人は、今日の箇所においては、ファリサイ派のような偽善である、ということになるのでしょうか。そうではありません。「全能の神」というのは、そうした人の側の思いで作ってしまう、「イエスさま」「イエス像」を超えた者として存在している、と言えるのではないでしょうか。

人の意志を超えて存在するということ
 例えば、世界中に存在する「イエスさま」「イエス像」が統一できたら、どのような「イエスさま」「イエス像」となるでしょうか。とても私たちに想像できるわけがありません。不可能かもしれない、矛盾だらけの存在、論理的には成り立たない存在かも知れません。しかし、「全能の神」とは、そうした人の意志を超えて、存在するのではないでしょうか。例えば、今回のようなコロナウイルスのような危機を迎えたとき、誰もが自分自身、家族、友人、地域といったように同心円で心配を広げていく、意識を広げていくのではないでしょうか。テレビである解説者が、(東京における)「感染が、『知り合いの知り合い』から『知り合い』レベルに接近」と言っておられました。また、世界の友人の友人を6回拡げていくと世界中の人まで繋がる、という話もあります。私たちが持ってしまう近しい存在への愛は、時に他者への排除へと繋がってしまいます。そうしないように、もっとも遠い者を、自分自身のように心配できるだろうか、家族のように愛せるだろうか、といったことを「全能の神」はできる存在と考えることが出来ないでしょうか。
 イエスがいう「隣人愛」とは、まったくの敵、まったくの他者、を愛せよ、というメッセージを帯びています。そうした意味で言えば、自分中心の考え方とは、まったく逆の視点にこそ、本当のイエスの姿、全能の神の意志があるのかもしれません。そのような神を愛せるか、といえば、難しいかも知れません。しかし考えてみますと、神が、「全能」であるということは、人の思いのまったく入る余地のない存在ということを受け入れることである、ともいえます。そして、その上で神が絶対的な善であることを信じることを求められているとしたら、どうでしょうか。
 全能の神が、大いなる意志をもって、どのような状況、どのような時、場所であっても、私たちを救いに導こうとしていることに信頼を寄せること、それが信仰のあるべき姿勢なのかもしれません。これまでは、まったく予想もしなかった状況、困難が、私たち、そして世界中を覆っています。このような状況においても、神に信頼を寄せて、なすべき業を求めて、歩み続けたいと思います。

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周縁自体


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『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)

2019.09.03(18:53) 395

『マルタかマリアかを超えて』
(2019/9/1)
ルカによる福音書 10章38~42節

ラクに行こうぜ
 もう亡くなって10年にもなるが、忌野清志郎というロックミュージシャンがいた。彼の世界観や言葉のセンスが好きで、けっこう聴いていた。RCサクセションというバンドでも有名である。派手なパフォーマンスや化粧で目立っていたが、音楽的に何が優れていたか、と言えば、日本語が持つ、そのままのイントネーションで、いわゆるロックミュージックをやったところに新しさがあったらしい。彼の曲の中で、こんな曲があります。
「幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ
 幸せを探してる ずいぶん長い間 幸せを探してる でもまだ見つからない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ジタバタしたって 始まらないのさ
 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 幸せになりたいけど 頑張りたくない
 Oh Yeah ラクに行こうぜ グッグッグ ラクに行こうぜ グッグッグ
 ジタバタしたって 始まらないのさ 目の前にある 幸せに気づきたい Oh Yeah
 幸せになりたいけど 頑張りたくない 幸せになりたいけど 頑張りたくない Oh Yeah
 ラクに行こうぜ グッグッグ Oh Oh 頑張りたくない No No No 頑張りたくない
 幸せになりたいけど Yeah でも頑張りたくない 頑張りたくない 頑張りたくない 」

 確かに、私たちは幸せを求めて生きているが、なかなかそれがどこにあるのか、また幸せになろうとする努力で疲れ果てている、という人もいるかもしれません。また、どうでしょうか?クリスチャンという人種、キリスト者という人々は、幸せになるために、とは言わないが、この世の中、この世界、この国、また自分の身の回りをよくしようと努力する、ということが当たり前のこととして、またそうしなければならない、と自分に強いていないだろうか。今日の箇所においては、マルタのような態度かもしれません。

マルタとマリア
 マルタとマリアという2人の姉妹は、ルカのこの箇所以外にも、ヨハネ福音書で、イエスによって甦りを経験したラザロのきょうだいとして描かれています。ヨハネ福音書の中でも2人は対称的な存在として描かれています。マルタは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:17以下)とイエスから問われ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えた、つまり信仰告白を行った、などという記述から、行動と実践的生活の人としてとらえられる。
 一方、マリアはイエスの足下に座って静かに耳を傾ける姿や、食事の席で高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、といういわば「葬りの儀式」を黙って行ったエピソードから、黙想と理論的な人としてとらえられている。これは後の時代に、この2人の姉妹をめぐる解釈の中で、より明確にそれぞれの特徴が分けられ、イエスの言葉を根拠として、捉えられていき、ついには今日の箇所のイエスの言葉から、キリスト者としてはマリア的な姿勢、存在の方が優位であるという理解に発展していったと考えられるようになったと解釈できる。

マルタの思い、マリアの思い
 そんなことをベースにして、もう一度、今日の箇所を読み返してみたい。たくさんの客人が来て、マルタが給仕を行い、マリアはイエスの言葉に耳を傾けるために座っていた、とある。そして、マルタが、イエスに問う。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。
 これは明らかにイエスに問いを発した、というだけではなく、自分とマリアという対称的な2人を見て、何とも思わないのかという批判であったと言える。そして、こうしたマルタの姿は、ヨハネ福音書11章21節にも見られます。(P.189)
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。
 力強い信仰告白とも言えますが、同時に全能神であるはずのイエスに対する批判とも受け取れます。このように見てみますと、信仰的にみて、主なる神、イエスに対して、マルタは主体的、積極性を持った信仰のあり方を、マリアは受け身的、受容性とも言えるかもしれません。そして、一般的なキリスト者とすれば、今日の箇所では、マリアの方が良い、とされているわけです。

理想像の逆投影
 今日の箇所に戻って、マルタに対するイエスが返した言葉をお読みします。ルカ福音書10章41節42節。
「(10:41) 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(10:42) しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 イエスは、何を言っているのか。マルタさん、あなたがやっていることは大切だけど、ちょっと、てんぱってませんか。ゆっくりマリアさんのように、話に耳を傾けてみませんか?ということですよね。でも、これ実際の教会でも、よくあることです。教会総会や懇談会、講演会、映画会、誰がお茶やお菓子、食事の準備をするの?!って、だいたい議論になります。また、もめたりします。またまた、どうでしょうか?また、こうしたことは、原始教会、初代教会でもあったかもしれないんですよね。使徒言行録6章1節から4節をお読みします。(P.223)
「(6:1) そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 (6:2) そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。(6:3) それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。(6:4) わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」」
 食事の世話とは、ようするに給仕のこと、そして食事の量の話ですよね。何時の時代も、食べ物とお金の話は、揉め事になりやすいもので、初期の教会からそうだったのでしょう。そうしたことから、今日の箇所、マルタとマリアの議論に対するイエスの言葉は、そうした揉め事に対する戒めとして、記された、と考えられるだろう。

奉仕と御言葉
 今日の箇所、マルタの行いで使われている「もてなし」という単語、ギリシャ語では、「ディアドコイ」と言い、「もてなし」「仕える」「給仕する」とも訳せる言葉であります。先ほどの使徒言行録でも「食事の世話をする」という言葉がありましたら、これのギリシャ語も「ディアドコイ」であります。とても意味が広い言葉であり、人のために何かすること、ということ。それを日本語の聖書においては、文脈によって訳し分けているのでしょう。いわゆるキリスト教会で語られる「奉仕」は、ギリシャ語では、「ディアコニア」と言われます。そして、「奉仕」、「務め」、「援助」とも訳され、奉仕にしても、援助にしても、キリスト教精神に基づく他者への奉仕といった意味合いで用いられます。そして、キリスト教団体や施設でも、老人ホームや社会正義、社会福祉、いわゆるボランティア活動に関わる団体の名前に用いられたりしています。
 そうしたキリスト教精神に基づいた行動すべてがマルタであるとしたら、マリアの行動、姿勢はどういったことを指すのでしょうか。それは、聖書を読むこと、またその解き明かしに耳を傾けること、祈ることになるのではないでしょうか。そして、マルタ的なあり方にしても、マリア的なあり方にしても、どちらが良いというわけではなく、どちらも欠かせない両輪のようなものではないでしょうか。

「がんばり」を求められる時代、「がんばらければ」生きられないのか
 一番最初に紹介しました忌野清志郎、RCサクセションとして、人気が絶頂だった頃、音楽的にも変化を求めていたのか、突然、政治的に政治家批判や平和をテーマにした曲、そして反原発の曲を書き始めて、契約していたレコード会社からアルバムを禁じられたり(後の他の会社から発売)、メンバーも減っていき、後に解散してしまいます。
 彼の曲の中には、等身大の人のリアリティがあり、またいわゆる市井の人々への愛があるように思います。いわゆる売れているポップミュージックでは、努力とか奇跡とか、重んじる傾向があります。要するに、努力をしなければ幸せになれない、努力をしなければ、成功しないっというメッセージがあるように思います。そして、世の中の雰囲気として、がんばらなければ幸せにはなれない、がんばらなければ生き残れない、といった空気がある。それは、他国との関係についても、勝たなければならない、という意識が出てくる。それがついには、国内においては全体主義、国家間においては戦争へという話になっていくのではないでしょうか。今日紹介した曲はそうしたパターンを否定しており、とても呑気な曲のようですが、ある意味で革命的な曲と言えるのではないか、と。

マルタかマリアかを超えて
 最後に、イエスの言葉にかえって読んでみたいのですが、ギリシャ語から42節を読むと、実は日本語訳とニュアンスが異なるのを感じる。「必要なことはただ1つだけ」と日本語の字面でとらえると、真理が一つである、というように、何物にも左右されない、絶対的なただ1つの答えがそこに用意されている、その「正解」に気付くか気付かないか、それがポイントであるかのように受けとめられやすいことばになっている。
 しかし、その後「マリアは良い方を選んだ」という言葉について。直訳すると、「マリアにとってよりしっくりくる(fitting)分け前を彼女は選んだ」となるのだ。ようするに、その時、マリアに必要なことをしていた、ということである。すると、このような捉え方が出来るのではないだろうか。
 マリアにとってイエスの話に耳を傾けるのは、マリアにとって必要なことであった。そして、マルタに対して、そのように感じるのあれば、マリアと同じように耳を傾ければ良いんじゃないか?また、マリアも時に、マルタのように心砕かれることもあるのではないでしょうか。そして、私のいる場所とは、そうしたことをとがめる場所ではないのだよ、と伝えているのではないでしょうか。


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周縁自体


ルカ
  1. 『招いていた客と招くべき客』(ルカ14:15〜24)(09/13)
  2. 「平和へのイエス的第一歩」(ルカ福音書12:49〜53)(08/17)
  3. 『カラスの勝手でしょ』(ルカ福音書12:22〜34)(05/17)
  4. 『神が全能であるということは?』(ルカによる福音書12:4〜12)(04/19)
  5. 『マルタかマリアかを超えて』(ルカ福音書10:38〜42)(09/03)
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