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『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)

2019.06.06(20:34) 391

『カラスのことを考えてみなさい』
ルカによる福音書 12章 22~27節

人の歩み
 今日の箇所「思い悩むな」ともうしましても、そんなわけにはいかない、というのが、誰もが持つ率直な感想ではないでしょうか。たとえば、わたしたちは物心がついてから、様々な選択が求められて、それぞれの道を歩んできました。そういった視点で申しますと、誰でも道の選択をする上では、「思い悩んだ」瞬間もあったはずです。また、たとえすべての道が準備されていたとしても、その道に従うのかどうか、ということで「思い悩む」。そして、人としての歩みの中で、家族の中では、誰かの息子として娘として、兄弟として、また夫婦の間柄であったら、夫として妻として、そして父として母として、様々な形で思い悩むものであります。また、個人として家族としての悩みだけではなく、私たちは人間関係の中でも、悩むものです。誰もが多かれ少なかれ、人間関係の中で、思い悩んでいる。しかし、だからといって人は一人では生きることができない。そうした当たり前のことをジレンマと言うのであれば、人はそこから逃れることはできません。
 
契約の主
 わたしは以前より、主なる神の働き、イエスさまの活動は大きく三つの分けられるのではないか、と考えています。それは、「契約」「和解」「創造」という三つの働きであります。そして、それぞれ「契約の主」「和解の主」そして「創造の主」として、イエスさまがこの世において、行われた様々な業を、わけて考えられることが出来るのではないか。そして更に、それぞれにおいて、良い面と悪い面があり、良い面が他の働きの悪い面を補っている、というように考えていま。
 「律法」とは契約に徴に、モーセを通してイスラエルの民に与えられたものであります。そしてイスラエルの民、ユダヤ人たちは、契約をした人ですから当然守らなければならないものです。しかし、意地悪くいうと契約していない人が守っても意味がないものです。そういった意味で言えば、「契約の主」の要素である律法と旧約聖書に約束されたメシア、救い主という要素は、ユダヤ人それも律法を守ることが出来る人、ユダヤ人以外の人々、律法を守ることが出来ない人たちには関係がない、という話になってしまいます。

和解の主
 しかし、ご存じの通りイエスの活動はそうした「契約の主」としての働きに限りませんでした。「和解の主」である神としての働き、活動を進めました。和解の主というのは、いわゆる神学の世界では、人と神の和解を指すことが多いのですが、人と人の和解ということで考えてみたい、と思います。人と人の和解は、イエスの様々な教えの中において語られています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)、見失った羊のたとえ(マタイ18:12-14)など、様々な形で語られていることは、人と人の関係の回復の大切さではないでしょうか。本来は、捨てられても良いような存在であっても、大切にしなければならない、そしてその回復、和解が適ったときには、それを心の底から喜ぶべきなのだ、ということです。そして、人とは、そういった神の愛に対して、放蕩息子のたとえにおける兄にように、「えこひいきだ」とか「不当だ」と起こってしまう存在です。
 また、いわゆる様々な癒しの記事においても、同じだと思うのです。病やケガによって、一般社会や家族から卑下され、追い出されてしまった人々。また、律法も守れない人々も「罪人」とされていました。しかし、イエスはそうした「罪人」とされてしまった人々を訪ね求めて、神さまに立ち帰ることを促し、癒しを行いました。ここで重要なのは、ただ病気などを治した、治療したというのではなく、そうした人々を家族や地域共同体へと戻ることを促した、ということです。人と人の和解をもたらし、あらゆる人々に神の救いをもたらそうとしたということです。これが「和解の主」としての働きです。

創造の主として
 そして最後、創造の主です。今日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書12章22節から24節をお読みします。
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」
聖書の最初に納められている創世記1章の創造物語には、神さまが一週間でこの世を創造した物語、創り出した物語が記されております。その中で人間は、天と地、地上と海、様々な動植物が想像されるその最後、6日目(7日目はお休み)に創造された、と記されてあります。
 人は神の似姿として、今どきの言葉で言えば、人は神のコピーとして創造されました。この創造物語は、旧約聖書に記されたユダヤの民の創造物語でありますが、同時代の他の宗教の神話、創造物語と比べて、一つの大きな特徴があります。それは、あらゆる人が、すべて神の似姿として、ある意味神の子として描かれていることです。創世記におけるアダムとイブは最初の人間として描かれておりますが、そこから生まれた人はみな神によって創られた、という考え方、信仰が根底にあると言えます。

創造の主が来られる
 創造の主とは、創世記1章に記されておりますような形で、この世界が創造された、ということを信じるかどうか、ということではありません。わたしたち1人1人が確かに神自身によって創造された、ということを信じる、ということです。私たちは確かに肉体的には2人の両親の存在によって誕生した、といえるでしょう。しかし、その深いところで、人の力では分からない所で、主なる神が働いてわたしたちを生み出して下さった、ということを信じることであります。
 そして、こうした「創造の主」の働きに対して、重要だと思うことは、私たち1人1人が無条件に神さまに愛されている、と確信をもって信じるということです。たとえば、この信仰が強いのは、たった1人の立ち場になってしまったとしても、たった一人の迫害の状況、たとえば虐められるような状況におかれてしまったとしても、わたしは神さまに愛されているのだ、ということを根拠に、その歩みを始められるという強さがあるのではないでしょうか。
 そして、そんな思いを持つ孤独な人々、神との関係、他者との関係が壊れてしまった人々。そうした人々のところをイエスは訪ねて、「カラスのことを考えてみなさい」とイエスは呼びかけたのではないでしょうか。黒い羽根に覆われ、さらに植物であっても、肉であっても、食するカラスは、律法的には、とても汚れた鳥として考えられていました。そして、そのカラスであっても、主なる神は養って下さっており、カラスも思い悩むことは無い。
 ましてやあなたがた皆、すべての人が神に創造された「神の子」なのだ、大切にされないはずがない、何を思い悩む必要があろうか。どんなに何もできなくても、友人の一人さえいず、優しい言葉さえも受け入れられなかったとしても、神さまは愛して下さっているのだ。イエスが多くの人々に語った言葉を胸にまた歩み出したいと思います。

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(2019年6月5日/熱田まつりの花火)

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『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)

2019.04.16(20:24) 389

『放り出された石の上に』
(2019/4/7)
ルカによる福音書 20:9〜19

仕事の中で感じること
 障がい者福祉の仕事をしていますが、その日々の中で、本当に様々な障がいのあり方があり、彼ら、彼女らを理解するには、それなりの知識や根気というものが必要かな、と言うことが出来ますが、もう一つ大事なことは、その人と共にいる、ということ、この人も自分の隣人なんだ、という思いであります。そして、もう一つ、考えさせられることは自分の生活というものが、以下にスムーズであるか、ということであります。
 自分たちの生活が以下に順調に進んでいて、障がいを持ったメンバーと共に生きる、ということは、否定的な言葉を使えば、とても「めんどくさい」こと、とても「じれったい」もので、自分自身がそのことにイライラしてしまうことがあります。しかし、そうした日々の中において、キリスト教風な言葉を使えば、人と「共に生きる」こと、人の「隣人になる」ことを、課題として与えられているように思います。,
 いかに自分1人の生活が、スムーズで簡単なことなのか。高齢者への介護でも同じですが、介護や介助の世界では、3大要素として、食事、トイレ、入浴が挙げられます。自分1人で済ませれば、それぞれ10分とか15分で済むことであっても、その2倍もしくは4倍もの時間がかかったりする。また、人間関係のめんどくささもある。人の多くの悩みは、人間関係だ、ということもできますが、まずメンバーとの人間関係があります。そして、それが一対一だったり、1日中、最高で連続24時間ということもあります。肉体的にも、なかなか辛いものがありますが、精神的に重くなってしまうこともあります。

分かち合い
 そういったことの対処というわけではないですが、たんぽぽでは、「わかちあい」という時間を持つようにしています。2人とかそれ以上の人で、皆で自分の悩みとか一日を振り返って、苦しかったこととか悲しかったこと、などを語り合う時間を持つことになっています。わたしたちの会社たんぽぽでも、会議の最初などに持つようにしています。だいたい、沈黙に始まって、沈黙に終わるのですが、団体によっては、キリスト教の祈りを文字通りする団体もありますが、たんぽぽでは時に何も定めていません。仏教徒や無宗教の人もいます。ですから、沈黙にはじまって沈黙に終わるというパターンになっています。
 「分かち合い」という時間、ただ単にお互いの日常の思いを言い合うというだけではなく、ただ単に報告というだけではなく、自分の気持ちを語る、ということを大事にしています。そうすると、どういうことが起こるか、と言えば、職員同士関係が悪かったこと、なんであんなことを?」と言ったことがあったとします。しかし実は、知らなかったけど、体のどこかが痛くて、とか、調子が悪くて、おろそかになってしまったことがある、とか、冷たい態度を取ってしまった、とか。また、そのように互いに、自らの痛みや悩みを聴き合うことによって癒やされ、また新しい力を得ていくことが出来ることもあります。「あー、自分だけではなかったんだ」「あー、そんな痛みを持っていたんだ」、と。「分かち合い」を契機にして、新しい人間関係を築くことになる、和解に至るとか、そんな場になっていくのです。ちょっと深い形で人を見つめることで、敵対関係ではなく、味方になっていく。そして、それでもダメであったら、さらに深くということかもしれません。
 この「分かち合い」、もともとは、ラルシュというフランスから始まった知的障がいや精神障がい者の方々と共に生きるコミュニティーから始まっています。障がいの影響か、コミュニケーションを取るのが、難しい人であっても、時間をかけて、じっくり耳を傾けること、目や表情、また体の他の部分で言葉、意志を読み取ろうとする。いわゆる健常者であっても、そうした時間によってだからこそ、伝えることができること、受け取ることができることがあるということでしょう。

「神の僕」と「神の息子」
 今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書20章9節から19節、「『ぶどう園と農夫』のたとえ」という小見出しがついている箇所です。ぶどう園の管理を主人が農夫たちに任せていた。そして、収穫期になったので、収穫物を得ようとして、ぶどう園の主人は、何度も僕を使わしたけれども、農夫たちは、その僕たちを、袋だたきにしたり、追いかえし、また放り出してしまったりした、と。
 そして最後には、主人の息子を送ったけれども、放り出して殺してしまった、と。一般的なたとえの読み解き方とすれば、ぶどう園のこの世のことであり、主人とは神さま、そして僕たちというのは神の使いや預言者たち、農夫たちは神さまに従わない人間たち、そして、主人の息子とはイエスさまのことであり、イエスの受難物語、十字架への道、ユダヤ人の支配者であった大祭司やローマ帝国、イエスを死刑にしろと叫んだユダヤ人たちが農夫である、と捉えるのが一般的な読み方ではないでしょうか。しかし本当に、そのような捉え方、読み方だけで良いのだろうか、という思いを最近、持つようになりました。

農夫は私たちかもしれない、という思い
 イエスは、こんな言葉を語っています。ルカ福音書25章45節。
「『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」(マタイ25:45/〔見失った羊のたとえ〕)
 また、「見失った羊のたとえ」においても、少数の者、望まれないような存在への思いやりを進めている、と言えるでしょう。「子供」にしても、「小さい者」にしても、いわゆる一人前には至らない存在ということができます。この世においても、それは代わらないでしょう。最近、よく感じることがあります。それは、ずいぶんと競争が重んじられる社会になってしまっているという思いです。
 ずいぶんとスピードや効率が求められてします。わたしは、名古屋市に住んでいますが、新幹線になって仕事へ行くことがあります。なかなか便利だなあ、と思う反面、こんなに忙しくしなくて良いか、っと思うことがあります。例えば、新幹線車内で、Wifiっていうインターネットの電波があるかどうか、コンセントがあるかどうか、で一喜一憂しました。また更に、リニアモーターカーもできる。とっても便利だ!っと。しかし、そんなに仕事しないと行けないか、と思い直したことがありました。それは、日曜日の朝一の新幹線、自由席で、ガーッと寝てるんですけど、新幹線の切符を手に握ってるんですよね。そして、それを当たり前のように、車掌さんが検札していきました。自分もどうだろうか、ずいぶんと余裕の無い生活しているなあ、っと思い直して、今は新幹線の中では、ぼーっとしたり、本を読んだり、仕事をしないようにしています。また、そういえば、「忙しい」という漢字は、心を亡くす、と書くよなぁっとか。
 そうした早さばかりを追い求める価値観の中で、障がいを持つ人たちの存在をどのように捉えるだろうか、ということ。自分の思いとを重ね合わせることで、自分もこの農夫たちのように、「小さくされた者」「弱き存在」を、邪魔だと思っていないだろうか。そして、さらに言えば、そうした障がい者の弱さとは、人であれば誰もが持つ「弱さ」のはずです。そうした弱さを否定すること、神の使いを否定することは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。

「神の子」と共に生きるために
 障がい者と共に生きること、聖書的には、「小さい者」「小さくされた者」でしょうか。そのような人々と共に生きてみる、生活してみると、自分自身の中にある強さに対する求めや弱さや小ささに対する恐れみたいなものが顔を出すように思うのです。しかし、考えてみますと、そうした「小さき者」や「子どもたち」を大切にできないことは、自分自身を大切にしていないことの徴、証拠かもしれない、と思うようになりました。
 例えば、私たちは誰でも年を取ります。いつか、ほとんどの人が、誰かの介護を受けることになるでしょう。そうなったとき、高齢者のペースに合わせてくれない介助者に当たったらどうでしょうか?けっこう辛いと思います。何かするにしても、現役時代と同じように評価されてしまう。そんな場、時があったとしたら、苦痛でしか無いでしょう。そうした意味でいえば、効率やスピードばかり求めるあり方は、人という存在、人の本質に関わる弱さを否定することにつながっているのではないでしょうか。
 農夫は、なぜ主人の僕そして息子を殺してしまったのでしょうか。それは、漠然とした不安感からでは無いか、と思います。そして自らを自らで支配しようとした、支配できると思ってしまった。自ら、ぶどう園を管理しているうちに、自分のものになったような錯覚に陥った。そして、ぶどう園をただ単純に奪われると感じてしまった。主人である存在に信頼を寄せることが出来なかった。そして、さらに神の僕という隣人も信頼できなくなってしまっていた。このたとえは、人が持つ漠然とした不安感が神への信頼を失わせてしまうこと。そして、そうした不安感が、さらには神の僕に限らない隣人、そして守られるべき、「小さき者」「子どもたち」をも殺してしまうかもしれない、さらには自分自身をも殺してしまうかもしれない人のありようを示しているのではないでしょうか。

放り出された石の上に
 今日の箇所ルカ福音書20章17節18節をお読みします。
「「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」」
 この石とは、イエス・キリストのことを指しています。イエスは、十字架への道を歩み、十字架上の死を遂げました。イエスの死は、人としての死であり、人としての弱さや痛みの象徴とも言えるでしょう。その人としての弱さや痛みの上に教会、キリスト教は立っている、と言えるのではないでしょうか。そして、そうした人の弱さに目を向けないことは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。
 主イエスは、私たちの罪のために十字架上の死を遂げました。人の罪とは何か、神に委ねると言うことを忘れて、神の使いを殺してしまうような弱さではないでしょうか。ぶどう園の農夫たちは、主なる神の支配に信頼を寄せることができず、神の僕、神の子をないがしろにしてしまいました。受難節というこの時期、イエスが弱さをもつ人として十字架屁の道を歩んだことに思いを寄せると同時に、自らの弱さに今一度、心を向けることが求められているのではないでしょうか。新しい一週間、イエスという犠牲の上に、十字架という象徴の上に、キリスト教が立っていることを覚えて、歩んでいきましょう。

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『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)

2019.03.17(22:16) 388

『ユダヤ人とサマリア人の境界線』
(2019/3/17)
ルカによる福音書  9:51~56

ユダヤ人にとってのサマリア人
 ユダヤ人にとってのサマリア人は、どのような存在だったのでしょうか。なぜ、新約聖書において知ることができますが、ユダヤ人たちから嫌われていたのか。それには、歴史的な背景があります。一つ目の要素としては、ダビデ王朝の終わり、ソロモン王が亡くなった後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。分裂したのが、紀元前922年です。その後、北王国と南王国で関係が良かった時代もあり、戦争状態の時代もありました。
 そして紀元前722年に、ちょうど200年後、北イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされます。アッシリア帝国は、支配した地域、民族に対して、まず強制的に移住させて、雑婚させるという強制移住雑婚政策を行いました。ようするにそれぞれの民族や地域が持つアイデンティティや宗教性を薄めることによって、支配しやすくするって政策です。ようするに、すべての人々をアッシリア帝国人にしようとする政策でした。そして、こうした政策の結果、ユダヤ人から見て、サマリア人とは、ユダヤ人からすれば、汚れた血統の民族という扱いを受けることになりました。

サマリア人にとってのユダヤ人
 そして、ユダヤ人の話に移ります。北イスラエル王国が滅びてから、およその150年後の紀元前586年、南ユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。バビロニア帝国はアッシリア帝国も滅ぼしてしまっているのですが、バビロニア帝国は支配した地域の支配階級を首都バビロンへ強制移住させる政策を行いました。いわゆるバビロン捕囚と言われるもので、おおよそ10,000人と考えられて、エルサレムのほとんどの人々が連れ去れてしまったと考えられます。そして、連れ去れた後のエルサレムは、神殿も破壊され、廃墟となってしまいました。
 そして、その後、オリエント世界の盟主は、アッシリア、バビロニアと変わってきましたが、ペルシア帝国という帝国が、全地域を支配することとなりました。そして、どのようなことが起こったか、バビロンに移住させられていた多くの民族に対して、紀元前538年、キョロスの勅令と言いますが、自らの故郷、地域に帰るように解放令が発令されます。そのことによって、バビロンに居住していた多くのユダヤ人がエルサレムへの帰還を目指すことになります。そのことによって、またエルサレムがユダヤ人の首都となり、解放令から、18年後の紀元前520年に神殿が再建されるのですが、道のりは大変なものでした。
 なぜ、大変だったのか?一つは、解放されたとはいえ、バビロンでの生活になれてしまい、エルサレムに帰ろうという気持ちになる人が少なかったということです。世界第一の都市での生活をすてて、わざわざ何百キロも離れた廃墟へ行き、町と神殿を再建しようという困難な計画に、ユダヤ人としてのアイデンティティに関わることとは言え、多くの人が挫折してしまったみたいなのです。そして、残ったユダヤ人たちによって、バビロニア・タルムードという優れたタルムードができあがります。
 そしてもう一方のエルサレムへ帰還し、神殿を再建しようとした人々には、思わぬ困難がもう一つありました。それは、サマリア人の存在でした。一つは、こんなことがありました。もともとは同じ民族、同じ神を信じている兄弟のような民族ですから、サマリア人は、神殿の再建の支援をしましょうか、とユダヤ人に呼びかけました。しかし、サマリア人は純粋なイスラエルの血統ではない、という理由でその支援を断ってしまいました。そして、もう一つ、政治的な事情がありました。ペルシア帝国は、領内を20ぐらいの行政区に分け、総督をおいて支配していました。そして当時、エルサレムがある地域の総督は北イスラエルにルーツをもつ人、つまりサマリア人だったわけです。その立場から考えてみますと、ユダヤ人のエルサレム帰還はペルシア王公認の事業です。ですから、ユダヤ人の帰還が上手くいった場合、自分の領地が減ってしまうということで、あまり協力しなかった、またむしろ邪魔をしたらしいのですね。
 そうしたことからユダヤ人はサマリア人を憎むようになった。そして、サマリア人の方としては、イエスの時代に至るまでに、ユダヤ人が強くなって、ユダヤ人がサマリア人を支配して、サマリア人の神殿を破壊してしまったりする、など。このように、歴史的にいろいろな事情があって、ユダヤ人とサマリア人は憎み合うようになってしまったのです。

キリスト教信仰にとってのエルサレム
 今日の聖書の箇所において、エルサレムに行く決意をもったイエスは、サマリア人の村へと立ち寄ります。エルサレムへ向かうにあたって、カファルナウムを中心としてガリラヤ地域からエルサレムへ向かうとなれば、ヨルダン川の西側を通りますので、サマリア地域を通るのは、自然なことです。しかし、サマリアの人は、イエスのことをないがしろにします。その理由については、何もしるされていませんが、弟子たちは憤慨して、言います。9章54節。
「9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。」
 これは、旧約聖書に記されているエリヤに関する物語に重なっています。ようするに、異教徒に対する裁きを重ねているわけです。しかし、イエスはその2人を戒めます。なぜかは記されていません。しかし、ルカの福音書の文脈でいえば、11章には、『善きサマリア人の例え』があり、宗教性や倫理性は民族によらない、という考え方をイエスはしていた、と言いたかったのでしょう。

『金子文子と朴烈』から
 先日、『金子文子と朴烈(パクヨル)』という映画を見てきました。大正時代、1923年に起こった関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺の混乱によって戒厳令で出されました。時の政府は、この混乱時に反乱が起こってならないとして、多くの民主運動活動家やアナーキストが虐殺されました。そして、金子文子と朴烈もそうした人々と同列に扱われることが多いのですが、彼らは皇太子を暗殺しようとしたという嫌疑をかけられ、有罪判決を受け、金子文子が獄死、朴烈(パクヨル)は、無期懲役刑を言い渡されますが、戦後、釈放される、という運命を歩みました。
 その映画自体、とても興味深いものだったのですが、まず韓国映画であったということ。しかし、映画のほとんどは日本語での会話で締められています。そして描かれる内容として、厳しい天皇制批判もあり、日本での映画化は難しいだろうな、と感じました。また、全編において、非常に政治的な空気というものを感じず、とても明るいということでした。そこから政治的なテーマというのは、「生き方」の問題なのだ、ということを感じました。また、本筋から離れますが、政府要人たちの徹底した韓国名の日本語読み。また、政府の都合によって、様々な真実が隠されようとする動き…。
 また、そうした在日韓国朝鮮人、在日コリアンの気持ち、被支配民族の気持ちに支配している側は、よっぽどの想像力を持たなければ、寄り添うことが出来ないっていう事実を突きつけられました。終戦時、こんな逸話があったらしいです。敗戦を知らされた日本人たちは、誰もが落胆していたそうなのですが、在日コリアンたちは、万歳をしていました。「戦争が終わった!日本の支配が終わる!自由になれる!」っと。とても当たり前です。しかし、日本人たちは、その在日コリアンたちの姿を見て、憎悪したらしいのですね。それが現在にまで続いている、と。身勝手な考え方ですが、味方だと思っていた在日コリアンの人々に裏切られた、と感じたそうなのです。自分たちがその人たちを傷つけてきたこと、踏みつけてきたことなど、すべて、その憎しみによって消えてしまった。そして、恐怖という感情も持ち、過去をしらない世代になればなるほど、憎しみのみが残ってしまう、と。

ユダヤ人とサマリア人の境界線
 ユダヤ人とサマリア人の間、境界線もお互いにそんな感情だったのではないでしょうか。民族として、世代として、積み重なった無理解や憎悪、そして思い込み、そうしたことにイエスの弟子たちさえもとらわれていた。イエスはどうだったのか、少なくとも、『善きサマリア人の例え』のようなことを言ったのですから、イエスはそのような意識は持っておらず、民族性や宗教性といったその人の背景ではなく、その人自身との繋がりをもっていたのではないでしょうか。今日の箇所においても、神殿の場所が問題とされています。神殿、神に祈る場所は、エルサレムなのか、サマリア人の聖所ゲリジム山なのか。イエスはそうした発想に捕らわれていなかったのではないでしょうか。また、それならば、なぜエルサレムに向かったのか、それは神殿がそこにあるからではなく、主なる神への信仰の形を変えようと、エルサレムに向かったと考えられるのではないでしょうか。
 今日の説教題は、ユダヤ人とサマリア人の境界線としました。民族的にみれば、時代も違い、アジアの私たちからすれば、ほとんど同じ民と言えます。そしてアジアの民もオリエント社会の人々から同じと言えるでしょう。しかし、近いからこそ見えてくる違いというのは、実は兄弟ゲンカのようなものなのではないでしょうか。ルカ福音書は、キリスト教がローマ帝国内の広い地域へ、様々な民族へと広がっていくことを意識して描かれています。サマリア人の存在は、ユダヤ人イエス、ユダヤ人の宗教として生まれたキリスト教の最初の境界線(ボーダー)として捉えられたのかもしれません。宗教とは、どのようなものであっても、境界線を作る、と言えるのではないでしょうか。しかし、境界線を壊し続ける宗教として、キリスト教を捉えることは出来ないだろうか。ユダヤ人とサマリア人の関係から、そんな課題について考えさせられました。

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『イエスのまなざしによって』(ルカ福音書22:54〜62)

2019.02.24(20:30) 386

『イエスのまなざしによって』
(2019/2/24)
ルカによる福音書 22:54〜62

ここに至るまでのペトロの歩み
 ルカ福音書における受難物語において、最後の晩餐の後、「いちばん偉い者」(Lk22:24-30)という小見出しが付いた箇所で、「誰が一番偉いか」という議論が起き、その直後の22章31節32節における、ペトロはイエスの言葉。
「「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」を聴き、ペトロはそれに対して、「「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と答えますが、イエスは更に「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と重ねて言います。
 31節32節の言葉は、イエスがこの世を去ってからの教会の歩みを準備する箇所です。が、34節の「三度知らない」という言葉はペトロ個人に述べられた言葉であります。が、同時に教会に対して、わたしたち一人一人に投げかけられた言葉と捉えることができます。主なる神の赦し、愛がペトロだけではなく、私たちに一人一人に注がれている、ということです。

信仰告白の一歩手前
 ペトロの否認は四つの福音書すべてに記されています。しかし、微妙に違いがあります。たとえば、ヨハネ福音書には、ペトロが大祭司の家の外に出て、泣いたという記事はありません。ペトロの悲しみ、イエスの赦しという要素よりはイエスの預言が実現した、という要素が強調されているからです。そして、マタイとマルコには大きな違いはないのですが、マタイの方がよりドラマ仕立てで装飾されているように感じます。
 そして、ルカによる福音書における特徴は、今日の説教題にもしました。ニワトリが鳴いたとき、イエスがペトロを見つめた、という記事があること、このイエスがペトロを見つめた、というのは、ルカにのみ収められている要素なのです。なぜ、ルカにのみ収めれているのか、イエスがペトロを見つめたということは無かったと否定するわけでは無いのですが、ルカとしては、ペトロがなぜニワトリの鳴き声を聞いてイエスの言葉を思い起こし、泣き崩れてしまったということでは、説得力が弱かった、と感じたのではないか、と思うのです。そして、イエスに見つめさせることによって、より一段のこの場面をドラマチックに描いた、ということではないでしょうか。
 そして同時に、イエスが復活してペトロと再会した前のどこかで、ペトロがイエスにはっきりと赦された、ということを、なんらかの形で区切りをつけたかった、と思うのです。どのような視線であったのか。とても難しいのではなかろうか、と感じるのです。イエスは、どのようなまなざしでペトロを見つめたのでしょうか。赦しの眼差し、怒りの眼差し、言った通りだろう、という眼差し、なかなか表現できないのではないでしょうか。またペトロはイエスに見つめられて、どのような気持ちになったのでしょうか。いたたまれない気持ち、自分の弱さを思い知る瞬間ではなかったか、と思います。

鶏鳴が開いたこと
 人の心配、悩みは、大きく分けると2つである、という言葉を読んだことがあります。一つは、「過去のことに対する後悔」そして、もう一つは、「未来のことに対する心配」だ、と。ま、考えてみたら、あたり前のことです。しかし、考えてみたら、こうして考えてみると、単純なことかもしれない。過去への後悔、自らの様々な過ち、人を傷つけてしまったことや、裏切り、人に対する傷、自分に対する傷があるかもしれません。そして未来への心配、不安…。そして、そうしたものを解消するためにどうするのか?その糸口も見えないときがあったりするのではないか。
 ペトロは、イエスのまなざしに打たれ、鶏鳴(鶏の鳴き声)によって、心動かされ、泣き崩れました。もし、ペトロがイエスのまなざしを捉えることがなかったら、鶏の声を聞かなかったら、どうでしょうか?どのような声であったのか、福音書には、まったく記されていません。ペトロのごく近く、朝を迎えて高らかな鳴き声であって、誰もが目を向けるような声だったかもしれません。しかし、そうでない可能性もあります。多くの人が集まっていた大祭司の家の庭先です。鶏小屋もあったかもしれません。しかし、その小屋はペトロの近くにはなかったかもしれない。誰もが気付かないような鳴き声だったものを、ペトロの耳は受け取ったとは考えられないでしょうか。そして、それはペトロにとっての人生における決定的な時、瞬間となったのではないでしょうか。そして、この鶏鳴(鶏の鳴き声)が無ければ、キリスト教の歴史は始まらなかったかもしれない、と感じています。そして、イエスがペトロを見つめることがなければ、ペトロが泣き崩れることもなかったかもしれません。

イエスのまなざし
 その後、イエスが復活し、弟子たちと再会し、使徒言行録によれば、天に昇ることによって、弟子たちの歩みとしての教会の歩みがはじまったとされています。しかし、ペトロにおける決定的な時は、この瞬間ではなかったでしょうか。また、誰にとってもそのような決定的な時、信仰における区切りとなる時があるのではないか、と感じています。
 過去の歩みを振り返り、未来へと歩み出すとき。例えば、洗礼を受けるに至ったという決断とか、教会に通おうという思い、聖書を開くということであっても、そこに至るある一点があるはずと言えます。そうした一点から過去を見、未来を見ること、それはルカ福音書的に言えば、「悔い改め」の瞬間と言えるかもしれません。そうした一点が重要だな、と思うのは、それがなければ、過去も未来もなくなってしまう、ということです。
 どのような教会にも始まりがあります。また、それ以前とそれ以後、また今日という礼拝の前があり、これからの未来があります。毎週、そうした区切りをつけるために、キリスト者は礼拝を捧げている、とも言えるでしょう。ペトロは、イエスのまなざしによって、そうした瞬間を与えられた、と言えるのではないでしょうか。人は弱い存在です。なかなか自分1人の力で、そうした瞬間を得ることは難しいのではないでしょうか。そして、こういう言い方もできると思います。キリスト者とは、今までの歩みを過去とし、またこれからの歩みをはっきりとした未来とするため、に聖書を読み、礼拝に集い、イエスの歩みによって示された主なる神の前に膝を折る存在だ、と言えるのではないでしょうか。

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周縁自体


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『弟子たちの自分ルールとイエスルール」(ルカ福音書9:46〜50)

2019.01.24(15:31) 385

『弟子たちの自分ルールとイエスルール』
(2019/1/20)
ルカによる福音書  9:46~50

弟子たち(私たち)の受け取り方
 この箇所はマタイにもマルコにも並行箇所が存在しており、それぞれのとらえ方の違いを確認することから、読み解いていきたいと思います。まず最初に記されたと考えられるマルコについて触れてみます。マルコ福音書9章35節から37節。(P.80)
「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」
 マルコにおいては、弟子という視点というよりも、キリスト者としてのあるべき姿を語っていると言えます。そしてそれに対して、マタイにおいても、ルカにおいても、教会という視点が加わっている、と推測することができます。マタイにおける箇所について考えてみたい、と思います。マタイ福音書18章1~5節です。お読みします。
『18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』(P.34)
 3節の『はっきり言っておく。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、天の国には入ることはできない。」』となっています。今日の箇所にあたる、もともとのマルコではイエスを受け入れることは、「子供を受け入れること」だ、というたとえになっているのに、マタイでは「子供のようになること」と課題とされ、それが成し遂げられたら「天の国に入ることができる」と、その課題が「天の国」に入る条件として、受け取っています。
 そして今日の箇所ルカ福音書をお読みします。9章48節をお読みします。
『9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」』(P.124)
 この後半の箇所『あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』とルカでは「偉い人」は誰かに焦点が当たっており、逆にマルコにありました35節の「仕える者になれ」という言葉は削られてしまっております。ですから、ルカではイエスの言葉は、「価値の逆転」を述べたモノとして捉えられている、と言えます。ルカにおいては、律法に対して、キリスト者としての倫理を述べようとしている意志が見られます。律法において「子ども」は、価値のない存在です。しかし、そのような子どもこそ受け入れるべきである、と。そして、ルカは異邦人への教会の広がりを重んじていました。ルカの教会は、子どもという存在に、律法的に見れば、汚れた存在とされる、異邦人を重ねたのではないでしょうか。

マタイの視点、マルコの視点
 マタイの視点は、あくまで教会の一人一人が「天の国」、「神の国」に入るためにどうしたらよいのか、という視点に意志が行っております。これはイエスを旧約聖書、律法の完成者、律法の最高の教師として見るマタイらしい解釈と言えるでしょう。イエスが与えて下さった律法の実現を重んじるマタイの立場としては、「子どものようになる」などとは、本来あまり好ましいことではないでしょう。しかし、それをあえてしろと言うのには、何か理由と目的がある、「子どものようになる」という行為も実践すべき教えの一つであり、これも神の国に入るのにふさわしい者となるためだということなのでしょう。
 そしてマルコとしては、子どもの関する比喩をキリスト者としてあるべき姿として受け取ったのでしょう。それが最もシンプルな形であります。律法的には、劣った存在である「子ども」。ただ、こういうことも言えます。神の前には、誰でも「子ども」のような存在である、という視点。ここから生まれてくる視点は、どのような上下関係もキリスト教共同体、イエスの弟子集団は取らない、ということも言えるのでは無いでしょうか。そして、それはマルコ福音書に現れている弟子批判にも繋がります。一番の弟子とされていたペトロでさえ、イエスを裏切り続けていた。また誰もがイエスの前には、神の前には、不完全である、という姿勢にも重なります。

子どもでありなさい、という教え
 子どもとはどのような存在でしょうか。当時のユダヤ人社会において、子どもとは価値のない存在であり12歳の成人の儀式をすぎなければ、一人前とは認められませんでした。また女性は12歳になっても低い存在として捉えられておりました。(「女子ども」という言葉)そうした者を受け入れろ、と言うわけです。そして、一般的に、この言葉には、イエスの慈愛、そして神の慈愛が込められた箇所として捉えることが多いでしょう。しかし、イエスの弟子たち、そして一般のユダヤ人たちは、どちらかといえば、このイエスの言葉を律法の問題として聞いたのではないでしょうか。
 弟子たちにしても、一般のユダヤ人にしても、イエスのことを、新しい律法の捉え方を語る教師、ラビと考えていたでしょう。とすると、やはり子どもの言及は、律法という価値観に基づいて聞いたはずです。それに対して、弱い子どもを守る存在として、また人を神の前における「子ども」という視点もキリスト教的な捉え方と言えるでしょう。

逆らわない者は味方?
 そして、今日の箇所には、もう一つのテーマがあります。ルカ福音書9章49節50節。
「そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」」
 キリスト教伝統の中に、洗礼というものがあります。多くのキリスト教会において行われています。そして、洗礼を授けるのは、教職(司祭、牧師)でなければならないとされています。そして、その教職になるためには、現在では、教職養成課程や試験制度などがあり、それぞれの教派、教団に認められて、教職となるわけです。日本基督教団ですと、神学校などを卒業した後、まずは、試験を受けて「補教師」というものになり、それから2年半以上の経験を経て、「正教師」というものになります。いろいろな教派的伝統のいろんな要素を組み合わせて、このようなシステムになっています。
 49節の言葉、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言っています。要するに、別の教会の宣教とか伝道に対する批判と捉えることができるでしょう。
 しかし、イエスはそうした視点にあり方について、否をいっているといえます。
「イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
 イエスは教会的な視点などなかったでしょう。また教会は、その歴史の中で、分裂や争いを繰り返してきました。多くの場合、教会同士が争うときは、より自分の方が正しい、という尺度が出てきてしまいます。

自分ルールとしないために
 今日の説教題は、「弟子たちの自分ルールとイエスルール」としました。「自分ルール」というのは、自分勝手な自分たちだけに都合の良いルールという意味です。そうしたあり方が教会のあり方としてふさわしいのだろうか、ということを教会の組織のあり方として考えてしまうことがあります。それに対するイエスの言葉というのは、とても刺激的であり、とても難しいハードルであると感じます。教会はその歴史の中において、集団としての秩序を守るために、否定的な意味だけではなく、知恵を駆使してきました。イエスの言葉は、そうした教会のあり方は、常に変化する可能性があるものとである、不完全なものである、という意識を持つことを促すのでは無いでしょうか。例えば、女性の教職制、実は2000年の歴史の中においては、未だ始まったばかりのことと言えます。ゲイやレズビアンなどのセクシャルマイノリティの存在、捉え方についても、未だに混乱した状態です。
 イエスが言っている「子供(の1人)を受け入れるように」というのは、どのようにくだらないと思うようなことであっても、自分自身の有り様を見つめ直して、新しい一歩を踏み出そうということではないでしょうか。そのための一つの指針、目印として、様々なルールが、教会、キリスト者、クリスチャン、自分の自分ルールになっていないか、と見つめ直すことが大事なのではないでしょうか。
 キリスト教そして教会は、聖書の言葉によって形づけられています。そして、聖書の言葉によって、また新しく変えられていくのではないか、と感じています。今という時代の中において、私たちの置かれている状況の中で、どのような教会のあり方、信仰のあり方を目指していくのか、改めて考えていく必要があるのかもしれません。イエスが伝えて下さった福音を自分ルールにしないように、常に「神の子」であることを忘れずに歩んでいきましょう。

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周縁自体


ルカ
  1. 『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)(06/06)
  2. 『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)(04/16)
  3. 『ユダヤ人とサマリア人の境界線』(ルカ福音書9:51〜56)(03/17)
  4. 『イエスのまなざしによって』(ルカ福音書22:54〜62)(02/24)
  5. 『弟子たちの自分ルールとイエスルール」(ルカ福音書9:46〜50)(01/24)
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