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『共感、共苦、共同体』(ローマの信徒への手紙12:9〜15)

2018.08.19(19:32) 378

『共感、共苦、共同体』
(2018/8/19)
ローマの信徒への手紙 12章9~15節

あるロボットのエピソード
 『プルートウ』(浦沢直樹著)というマンガがあります。誰もが知っている漫画家の手塚治虫さんの作品「鉄腕アトム」を元にしたマンガです。マンガの舞台は近未来、その世界ではアトムのように、ロボットがたくさん人間と一緒に生活をしております。ロボットらしいロボットもいますが、人間とは変わらない外見を持つロボットが生活をしています。登場するロボットたちは、仕事を持ち、夫や妻といった家族を持ち、感情があり、どうやら疲れもたまる、そして過去の経験の痛みを持ち、悩んだりもしている。悩みが深まると体の調子が悪くなり、お医者さんではなく、技師さんのところへ行き、治療ではなく、メンテナンスや修理をしてもらっている。心の悩みなどもお医者さんではなくエンジニア(技師)さんのところへ相談に行ったりします。
 そんな中で、ある夫婦のロボットの夫の側が不慮の事故で亡くなって(壊れて)しまいました。遺体(部品)はバラバラに処理されてしまいました。仕事の同僚であったロボットがその死(破壊)をその妻のロボットに知らせに行きました。夫を亡くした妻の側のロボットが悲しみに暮れていました。そんなとき、その妻のロボットに夫の同僚だったロボットがこんな提案をしました。「(だんなさんのロボットの)記憶、データを消去しましょうか」。

記憶と哀しみと時間の関係
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、ちょうど7年半の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。私は当時、神奈川県の小田原市に住んでいましたから、かなりの大きな揺れであると同時に、その後に続いた余震や計画停電などによって、自らもその当事者と記憶に刻まれています。また2度だけですが、被災地に行き、ボランティアとして働いたことがあります。しかし時間の流れの共に、その記憶はどんどん薄まっていきます。
 しかし当事者であれば、その記憶を薄まる、という表現は適切であるとは癒えないでしょう。家族を失った哀しみや痛みを薄まるとは言えないでしょう。たとえば、ご家族に不幸があった方に対して、「哀しみが早く薄まりますように」とは言わないでしょう。「哀しみが癒えますように」とか「慰められますように」と言うはずです。
 東日本大震災においても、他の様々な天災や災害においても、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。震災遺構について、このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。また、こんな言葉もあります。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。

パウロの活動の三つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(P.316)
 パウロの活動は、三つの内容を持っていたということが出来ます。そして、それら三つは、この言葉の実現として捉えることが出来るのではないか、と感じています。一つ目は、「宣教」また「伝道」と言われる働き、その徴として、その実現の場として教会を建てることであります。そして二つ目が、牧会と言われる行為、一つ一つの教会の中にある人々の悩みや課題に答えること、また様々な意見の違いや争いを正しい方向へ導いていくことです。そして、そうした具体的な言葉、助言が、私たちが知る聖書に収められている彼が記した手紙であります。
 そして最後、三つ目は、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。パウロは、具体的には、エルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子、ペトロなどの使徒がいた教会です。しかし、ユダヤ人社会の中における活動はとても厳しく、貧しい状況にあり、支援を必要としていました。そして、その支援の活動は、ただ単にエルサレムの教会を助けようということだけではなく、パウロとして、エルサレム教会の苦しみを共に苦しみ、喜びをともに喜ぶこと、そして「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」くこと、であると言えるのではないでしょうか。

共感、共苦、共同体
 私も教会で牧師として働いていたとき、教会の役割とは何か、ということをよく考えていました。その時、伝道とは何か?宣教とは何か?ということを考えていました。また、よくこんな議論になることがありました。「ようするに教会に来る人を増やすということは、人が来るようなイベントをすれば良い」と。そしていろいろイベントもしました。しかし、身近な存在になっても、それだけではなかなか枝としては繋がらない。zそして、それから繋がっていくポイントとなるのは何かな、と考えた時、今日のパウロに行き着きました。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉。これにはキリスト教会の中における教会と教会、また人と人の理想的な有り様が示されています。しかし、原点には、パウロが行った宣教、伝道の力、思いがあったと捉えることが出来るのです。この世に生きる人は、誰でも不安や心配があります。教会自身がそういう人の不安や心配に寄りそっているだろうか、ある種の答えを持っているだろうか、ということが宣教、そして伝道の指針であり、それを実現していくことが、宣教であり、伝道ではないでしょうか。
 そして、教会の理想的なあり方とは、内側の隣人において、共感共苦が実行されているだろうか、また外側の隣人に対して、共感共苦がなされようとしているだろうか。と、いうことが、教会の活動の一つの尺度になると言えるのではないでしょうか。

キリスト教会のなすべきこと
 最初にロボットの話をしました。家族を失った哀しみにくれているロボットは、失った家族の記憶を消去、消すことを断りました。東日本大震災から7年、また7月にも西日本を中心に大きな水害が起こりました。そうした被害にあった人が、すべての記憶をなして下さい、というでしょうか。また過去の戦争についての記憶はどうでしょうか。
 私たちの日常において、病いや人との死別などがなくなることはないでしょう。かといって、人類の技術が進んだからといって、誰も自らの家族が失われた記憶を消すことを選ぶでしょうか。また主なる神、イエス・キリストに体の痛みを消して下さい、と祈ることはあっても、家族を失った痛み、哀しみを消して下さい、と祈ることはないでしょう。なぜか?と言えば、家族を失った哀しみを消すとは、その家族丸ごとの記憶を消すことになるからです。そして、そのような自らの哀しみを消すということは、自分自身を否定するということにもつながります。自分自身の歴史、自分自身の歩み、自分自身を否定することになります。また自分自身の課題だけではなく、自分を思ってくれている人、自分を愛してくれている人、自分を大切にしている人の思いを否定すること。違う自分自身になってしまうことでしょう。またそのような祈りをイエスに祈るだろうか、また神さまに祈るでしょうか。
 教会は、すべての哀しみや悩みに対して、キリスト教が答えることが出来るだろうか、教会が答えることができるだろうか、と言えば、否と言うしかありません。では教会は、どのような歩みを歩むべきなのか?それこそ、今日の箇所に記されている言葉、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。私たちは、力ない存在でありますが、その隣人の喜びを喜び、その隣人の悲しみを悲しむこと。そうした営みを繋げていくこと場所、そうした人の群れがキリスト教、教会であると言えるのでは無いでしょうか。


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『共感共苦共同体』(ローマ12:9-21)

2017.03.16(21:42) 339

『共感共苦共同体』
(2017/3/12)
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

哀しみの記憶
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、昨日で、ちょうど6年の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。しかし、身近な人、家族を亡くした人などにとっては、なかなかその記憶が薄れる、ということはないでしょう。またその中で、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。津波によって陸に打ち上げられた船や避難ビルといった震災遺構を、残すべきか、それとも消し去るべきだろうか。このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。
また、こんな言葉もあります。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。

理想的な支援とは?
 私は、6年前の2011年3月11日に起こった東日本大震災の後、大きな顔は出来ませんが、2度、被災地を訪ねました。一度目は震災から2ヶ月後の5月、まだ地震や津波の被害の傷跡が生々しく残っていたときでした。そして2度目は、それから半年ぐらい経った時期、釜石市と仙台市で支援のためのボランティア活動に関わってきました。そのときのボランティアリーダーや被災者の人々たちと話をしながら、感じたことがあります。それは、本当に辛い状況にあるときこそ、なかなかボランティアの団体や人に「手伝って欲しい」「助けて」と言えないのだ、ということでした。
 釜石市でのボランティア活動をしていたとき、津波の被害に遭った喫茶店の清掃を行ったことがありました。震災から半年が立っていましたが、まったくの手つかずの状態です。津波は2階の天上の高さまで来たそうです。家財道具全てがゴミと化してしまったものを、すべてを出さなければならない。2階の押し入れの中の衣装ケースには海水が残っていました。そうしたものをまる1日かけて、すべてのゴミを排出しました。また、こんなことがありました。最初、ボランティアとして働く前に、ボランティアコーディネーターより、なるべく遺族に家族の話は聞くべきではない、触れるべきではない、と。しかし、一緒に行ったあるボランティアの方が、喫茶店のマスターのパートナーの遺品をもらう、ということがありました。しかし、どうしても、ということで、コーディネーターと相談して受け取ることにしました。それから連絡先を交換して、その後も続く関係となりました。そんなときに判断する尺度となったのが、その時だけではなく、その後も繋がりを持つ、ということでした。(いろいろな考え方があると思いますが)

パウロの活動の三つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
 パウロの活動は、三つの内容を持っていたということが出来ます。そして、それら三つは、この言葉の実現として捉えることが出来るのではないか、と感じています。一つ目は、主イエスを「救い主」として、「キリスト」を神の子と信ずる人々を広げること、つまり「宣教」「伝道」と言われる働き、その徴として、その実現の場として教会を建てることです。
 そして二つ目が、牧会と言われる行為、一つ一つの教会の中にある人々の悩みや課題に答えること、また様々な意見の違いや争いを正しい方向へ導いていくこと、そうしたこと心を砕いていました。そうした事柄に対する具体的なアドバイス、助言が私たちが知る聖書に収められている彼が記した手紙であります。
 そして最後、三つ目は、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。パウロは、具体的には、エルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子、ペトロなどの使徒がいた教会です。しかし、ユダヤ人社会の中における活動はとても厳しく、貧しい状況にあり、支援を必要としていました。
 そして、その支援の活動は、エルサレムを中心とした、1対1の関係だけを築くだけではありませんでした。横のつながり、様々な人の往来をさせること、弟子たちを派遣したりもしていますが、それらもそうした活動に一つでありますが、多くの都市に別々の存在していた教会を「一つの教会」にしていくこと、教会が、一つの「キリストの身体」であることを証していくための活動であったと言えます。

パウロの思い
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 第一コリント書は、パウロが教会の中に様々な違い(階級や宗教的信仰心)によって、分裂状態であったコリント教会の人々が和解へ向かうために記したものです。そして、この箇所自体は、教会とは、キリストの身体である、ということ。
そして、そこに集う人々は、いわば一つ一つの身体の部分である、ということをのべます。そして、その流れの中で、よく知られている愛に関する言葉は記されているのです。第一コリント13章13節。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 現在では、結婚式などで用いられる箇所であり、愛といえば、夫婦や恋人の間のこととして捉えられがちですが、実はパウロ自身は、教会の中における信徒同士、キリスト者同士の関係の中で、この言葉を記しているというのは興味深いことです。

共感共苦共同体
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉。これにはキリスト教会の中における教会と教会、また人と人の理想的な有り様が示されています。しかし、原点には、パウロが行った宣教、伝道の力、思いがあったと捉えることが出来るのです。この世に生きる人は、誰でも不安や心配があります。教会自身がそういう人の不安や心配に寄りそっているだろうか、ある種の答えを持っているだろうか、ということが宣教、そして伝道の指針であり、それを実現していくことが、宣教であり、伝道ではないでしょうか。
 そして、教会の理想的なあり方とは、外側に対して、共感共苦がなされているだろうか。内側においても、共感共苦が実行されているだろうか、ということが、教会の活動の一つの尺度になると言えるのではないしょうか。教会という場所は、キリスト教に基づいて立てられた場所であります。誰もがそれぞれのキリスト教信仰、またキリスト教、教会に対する思い、期待に基づいて人々は集っています。しかし、信仰心は現れ方が異なるように、1人1人、違いがあり、時に同じキリスト者であっても、クリスチャンであっても、同じ教会の仲間であっても、敵対してしまったり、憎み合ってしまったりすることがあります。
 憎み合う関係とは、敵対する関係というのは、どんな関係か、と言えば、パウロの言葉の逆になってしまうことです。その敵対者の「喜び」を憎み、その敵対者の「悲しみ」を喜ぶ関係のことではないでしょうか。また、「共感共苦」という言葉は、ただ人の思いに寄り添うだけでなく、共に苦しむ、という内容を含んでいます。喜んでいるときや楽しいときには、仲の良い友だちでも、苦しくなったときに、離れていってしまう友だちは本当の友人とは言えないでしょう。

最後に
 今日から教会暦でいえば、受難節に入りました。キリスト教信仰において、重要なイエスが受難の道を歩み、十字架刑によって命を落としたことに思いを寄せる期間です。イエスは、私たちの罪のため、罪を贖うため、私たちが負わなければならない罰を代わって、負って下さりました。
 子どもへのメッセージで、ロボットの話をしました。家族を失った哀しみにくれているロボットは、失った家族の記憶を消去、消すことを断りました。東日本大震災から6年、人類の技術が進んだからといって、誰も自らの家族が失われた記憶を消すことを選ぶでしょうか。そんなことはないでしょう。自らの哀しみを消すということは、自分自身を否定するということにもつながります。
 また、わたしたちは主なる神に対して、イエスさまに対して、震災の被害を被った時、家族を失った時など、どのように祈るでしょうか?消してください、とは祈らないでしょう。「癒やされるように」という祈りは、同時に、その人の隣人となって「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。その隣人の喜びを喜び、その隣人の悲しみを悲しむこと、そうした積み重ねの場が教会である、また教会の役割ではないでしょうか?
 そして、イエス自身もそのような人であったからこそ、私たちの罪を負って十字架への道を歩んだのではないでしょうか。受難節のこの日々、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」宣教者であったパウロ、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」神であった主イエス・キリストの十字架への歩みに思いを寄せて、歩みたい、と思います。

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「共感共苦共同体」(ローマ12:9-21)

2016.02.14(18:50) 307

『共感共苦共同体』
(2016/2/14)
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

エロス・フィレオー・アガペー
 キリスト教において「愛」という概念は特別な意味があると思えます。そして、よくこのような説明をされることがあります。新約聖書が書かれている言語であるギリシャ語、そのギリシャ語において「愛・愛する」を意味する言葉として、「エロス」と「フィレオー」と「アガペー」があります。そして、「エロス」は男女の愛、「フィレオー」は一般的な人間の愛、「アガペー」が神の愛である、と多くの場合、説明され、聞いてきたのではないか、と思います。
 しかし、まったく違う視点を与えられる説を聞いたことがあります。それは大阪にあります釜ヶ崎において野宿者の支援のための活動されている本田哲郎神父の講演によってでした。神父は現在日本のキリスト教会において広く使われている新共同訳聖書の翻訳にも関わっておられ、その彼の講演を聞きに行った時です。本田神父はこのような説明をされました。
「愛には三種類があり、エロスが性愛、フィレオーが友愛、アガペーが神の愛、という説明がされる。しかし、それは間違っているのではないか、と考えている。このような分け方が正しいのでは無いだろうか。「エロス」とは「家族愛」(秩序)、「フィレオー」は「友情」、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」と考えられる。」
 日本語における「愛」という言葉は、キリスト教が入って「愛」という言葉を広げる以前の「愛」は、男女間の愛、好色(色を好む)、「強い欲望」など、どちらかと言えば、否定的な感情として、捉えられてきました。
しかし、キリスト教における「愛」の観念が入ってきますと、このように変わってきました。これは広辞苑における愛の説明の箇所です。
 『愛』「キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと」
また、ついでにアガペーという項目もありましたので、そこも紹介したいと思います。
『アガペー』「神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として新約聖書に現われた思想」。
広辞苑において「愛」と「アガペー」に共通し、神の愛の特徴として、現われるのは、「一方的にあたられる」「見返りを求めない」「(自らを)犠牲として」ということです。これらのことがキリスト教で語られる「愛」である、と言えます。

パウロの活動の二つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
この手紙を記したパウロ、ローマ帝国に数多くの教会を建て、私たちが目にすることの出来る教会の記録、手紙として新約聖書に数多くの書簡が収められている使徒であります。パウロの活動は、二つの柱があったと説明できます。一つ目は、教会を建て、主イエスを「救い主」として、「キリスト」を神の子と信ずる人々を広げること、「宣教」「伝道」と言われることです。そしてもう一つは、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。
 パウロはエルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子がいた教会です。しかし、とても貧しい状況であり、その教会に献金を送る活動をしておりました。そして、エルサレムと他の教会だけでなく、横のつながり、様々な人の往来をさせること、弟子たちを派遣したりもしていますが、それらもそうした活動に一つでありますが、多くの都市に立つ教会を「一つの教会であること」を示していくこと、証していくための活動をしていた、ということです。

パウロの思い
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(P.316)
 第一コリント書は、パウロが教会の中に様々な違い(階級や宗教的信仰心)によって、分裂状態であったコリント教会の人々が和解へ向かうために記したものです。そして、この箇所自体は、教会とは、キリストの身体である、ということ。そして、そこに集う人々は、いわば一つ一つの身体の部分である、ということをのべ、さらに13章13節には、このような言葉があります。「13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 宣教者として、多くのキリスト教会を起こし、牧会者として、手紙を用いて、教会を良き方向へと導きました。パウロが記した手紙は、それぞれの教会が持っていた課題や問題でありました。また、今日の箇所のローマの信徒への手紙は、訪ねたことがないローマの教会に対するパウロの信仰の自己紹介と言える内容です。しかし、共通するテーマがあると思えるのです。それは、今日の説教題にもしました「共感共苦」、ロマ書12章15節の言葉「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ではないか、と感じています。

共感共苦
 教会という場所は、キリスト教に基づいて立てられた場所であります。誰もがそれぞれのキリスト教信仰、またキリスト教、教会に対する思い、期待に基づいて人々は集っています。しかし、信仰心は現れ方が異なるように、1人1人、違いがあり、時に同じキリスト者であっても、クリスチャンであっても、同じ教会の仲間であっても敵対してしまったり、憎み合ってしまうことがあります。
 憎み合う関係とは、どのような関係でしょうか?自分とは価値観、考え方が違う人。また、曖昧なものですが、性に合わない、という人もいます。そして、仲間や友だちであれば、パウロの言葉のようにその人の「喜びを共に喜び」、その人の悲しみを「共に泣く」も関係のこととなります。しかし、敵対する関係というのは、どんな関係か、と言えば、その逆になります。その敵対者の「喜び」を憎み、その敵対者の「悲しみ」を喜ぶ関係のことではないでしょうか。
 パウロは、教会の中にあるそうした状態、教会の間にあるそうした状態を嘆いていました。たとえば、日本基督教団の中にも、いろいろな信仰の形や考え方があって、なかなか合意が見いだせない課題や、お互いにここは許せないということもあったりします。また、それは教会内に限らず、多かれ少なかれ、あり得ることで誰もが、歩み寄りながら、その日々を過ごしていくものです。人の多くが悩んでいることといえば、人間関係のことではないかなあ、と思います。
 ただ、教会の中、またキリスト者同士において、こういうことは言えないでしょうか。教会において、怖いなあ、と思うことは、教会なり信仰の名の下において、違う考え方の存在、隣人を裁いてしまってはいないだろうか、ということです。

教会の歩むべき道として
 パウロは、コリントやガラテヤの教会に起きていた問題、そしてローマの教会において、起こっていた問題は現代の教会にも起こりうる問題です。考え方や立ち場の違いによっても起こりうるでしょう。パウロの時代は、教派やカトリック、東方教会、プロテスタント教会といった違いもありませんでした。ですから、現代においてその違いを乗り越えていくことは困難なことと言わざるを得ないかもしれません。
 また、愛といっても、最近では、夫婦の間におけるDVや子どもに対する暴力も課題になります。夫婦の間であれば、思っているからこそ、執着だったり強制が起こってしまう。それは愛ではなく、単なる支配ではないだろうか。また親が子どもに対して、「しつけ」のためとして一方的な暴力やネグレクト(無視や不干渉)が肯定されたりしないでしょうか。信仰も同じ過ちを起こしてしまうかもしれません。
 最初に、本田神父が紹介しました「愛・アガペー」の意味として、「一人の人として大切にすること」という意味を紹介しました。パウロは、そんな思いを持って、コリント教会やガラテヤの教会、そしてローマの教会といった多くの教会、多くのキリスト者に対して、手紙を記したのではないか、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉を編んだのではないか、と感じます。またパウロは、1コリント書13章の「愛の賛歌」において、「愛の無い信仰は無に等しい」(1K13:2)といったことを述べております。
 「共感共苦」という言葉は、ただ人の思いに寄り添うだけでなく、共に苦しむ、という内容を含んでいます。そして、自分とは違う価値観や信仰をもった存在であっても、それは可能かといえば、難しいことかもしれません。しかし、実は、そうした葛藤が、教会という場でなすことであり、宣教活動、伝道活動とは、そうした愛の実践の積み重ねと言えるのではないでしょうか。イエスは、二つの戒めとして「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を進めました。
 もっとも簡単な「隣人愛」の実現の方法とは、その隣人の「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。私たちはそれぞれの経験や能力といった個性を持っています。その個性をもって、主なる神を信仰しています。しかし、それだけでは隣人への視点がかけてしまっている、と言えます。私たちの毎日とは、新たな隣人との出会いの連続、隣人の新しい側面の発見の日々と言えるかもしれません。

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ローマ
  1. 『共感、共苦、共同体』(ローマの信徒への手紙12:9〜15)(08/19)
  2. 『共感共苦共同体』(ローマ12:9-21)(03/16)
  3. 「共感共苦共同体」(ローマ12:9-21)(02/14)