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『道を示すのはイエスのみ』(ヨハネ福音書6:14〜21)

2020.07.26(20:34) 406

『道を示すのはイエスのみ』
(2020/7/26)
ヨハネによる福音書 6:14~21

ヨハネ福音書を生まれた状況
 今日の聖書箇所が納められているヨハネ福音書は、非常にきびしい迫害状況の中で生まれた、と考えられております。ヨハネ福音書は、紀元後90年頃、イエスが天に昇ってから60年ぐらい経った時に成立した、と考えられています。さらに、教会から離れていった人や自然と亡くなる人もいる中で、より神との繋がり、イエスとの繋がりを求めて記された福音書ではないか、と考えることができます。
 ヨハネ福音書に唯一納められているテキストとして、イエスが弟子たちの足を洗う場面があります。受難週の木曜日、洗足礼拝の元になっている記事ですが、その箇所13章においては、第一の弟子であるペトロは、奴隷のすることである洗足を師であるイエスに行ってもらうなど出来ないと「「わたしの足など、決して洗わないでください」」(13:8)といっています。が、イエスはそんな言葉に対して、こう応えています。「「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」」(13:8)。ペトロはその言葉に慌てて、「足だけでは無く、手も頭も」(13:9)、と応え、イエスに足を洗ってもらっています。
 そして同時に、いわゆる最後の晩餐の記事は無く、この記事が最後の晩餐の記事に当たるのですが、体を洗うということは、死後の弔いにも通じる行為であり、どのような状況であっても、また死に至るとしても、イエスと共にあることへの希望がこの箇所にも込められている、と言えるかもしれません。

舟―オイコメネ
 ご存じかと思いますが、今日のお話に登場する船は、キリスト教において、一つの象徴として用いられます。船は船なのですが、船は「教会」のことを指すシンボルとして用いられています。2011年3月11日に起こりました東日本大震災から、来年の3月で丸10年となります。わたしは当時、神奈川県に居住していました。感じたことのないような大きな揺れを感じましたし、その後に起こった津波の映像に少なからず動揺させられました。海沿いの町であったためか、海沿いから離れようと渋滞が起こりました。またそれに続く原子力発電所の事故や計画停電において、私たちが少なからず、今までとは違う日常を送り、また生命について、自然について、考えを改めるような機会になったのではないか、と思います。
 あの出来事は、わたしたちの生活が、地に足を付けた物ではなく、舟のような不安定なものかも知れない、という思いを誰に対しても抱かせました。そして、住む場所、生活全体、エネルギーや食べ物に至るまで、捉えなおすことを考えさせる出来事でした。まさに教会だけではなく、わたしたちの生活そのものも舟のような不安定なものである、ということをおもわされる出来事でした。そして、今またコロナウイルスという存在によって、今までの生活が破壊され、今は移行期かもしれませんが、その後の生活がまったく見えないといっても、良い状態かもしれません。
 福音書の中で、舟(オイコメネ)はキリスト教の歴史の中では、教会を表すシンボル(表象)として、知られています。教会がどのような嵐の中にあったとしても、キリストがいれば恐れることは無い。また、逆説的に言って、たとえ教会であったとしても、ギリシャ語のエクレシア(神の群れ、教会)という看板が立てかけられていたとしても、その場にイエス・キリストがいなければ、その中に主なる神がいなければ、その教会は荒嵐に飲み込まれて、沈んでしまう、ということを示している、といえるかもしれません。

嵐の中において
 福音書の中において、弟子たちが舟に乗るときは、ほとんどの場合、嵐に巻き込まれます。また地形的な特性として、ガリラヤ湖は夜になると嵐のような風が吹くという特徴があるそうです。しかし暗くなってしまってから弟子たちはイエスがいないのに、カファルナウムに戻ろうとして舟を出します。そして、「二十五ないし三十スタディオン」、だいたい、5キロメートルぐらいにあたります。沖へと漕ぎ出してから、湖が荒れ出します。
 そこでイエスが湖上を歩いて近づいてきて、舟にイエスが乗り込むと「間もなく、舟は目指す地に着いた」ということです。さらっとした文章ですが、ある意味、とても不思議です。ガリラヤ湖の大きさは、縦(南北)に20km、横(東西)に12kmとすると、5kmから漕ぎ出したところで、すぐに着くとは考えにくい。
 とすると、この表現には、ある種のイエス像、信仰のあり方が現れている、と言えるでしょう。例えば、マルコではイエスは舟の横を通り過ぎます(Mk6:45-51)。イエスが歩もうとしている場所を目ざすべきといったメッセージがある、と言えるでしょう。また、マタイでは嵐を叱りつけて収めたり(Mt8:28-34)、舟に近づいて弟子たちを歩かせようとしたりするイエスがいます(Mt14:22-33)。イエスの自然現象への優位性と弟子たちが特別な存在であることとその不完全性を示すものといえるでしょう。そして嵐という存在は、教会のみではなく、人に対しても攻撃を加えるもの、なんらかの脅威を与えるものとして捉えることができます。

優生思想と排他性
 物理的な天災や人災、また様々な政治思想や価値観、民族観、人生観も時に私たちの存在を揺るがすことがあります。障がい者に対する差別的な発言、また高齢者に対する発言、民族差別的な発言、いずれも全体主義的な国家主義や民族主義の分泌物として出てくると言えるかもしれません。先日も、とある政治家の「命の選別」発言があり、さらにALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性の命が奪われる事件がありました。SNS(Twitter)でその女性が「死にたい」とつぶやいたことから、仙台と東京に居住する医師免許をもった男性によって、100万円以上の謝礼によって実行されるといった事件でした。
 実行者のうちの一人は、優生思想を持っていた、ということですが、この考え方も考えてみたら、一つの障がいと言えるかもしれません。「世の中の役が立つかどうか」という尺度を、角度をかえて考えてみたらどうなるでしょうか。よりよく「お金を稼ぐ」ための物を作り出す人というのは効率良く環境を破壊している人かもしれません。また「環境のこと」を第一に考えたとすれば、あらゆる人間はその活動を完全にストップする必要にさらされてしまうかもしれません。そして、様々な危機といわれるときや変化が求められる時、そうした差別の根はジワリと顔を出すように感じます。そして、自分自身の中にそうした間違った思いがないとも言えません。

道を示すのはイエスのみ
 今日の箇所、最初の部分、中途半端なところから選ばせていただきました。ヨハネ福音書6章14節15節。
「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」
 ここで、イエスは特定の人、集団の預言者、王となることを拒否しています。たしかに主イエス、神の子であるイエス・キリストが特定の民、民族の神であるということは、とても受け入れられないことで、正しいことと言えます。しかし、一方であの人たちの神さまではなく、自分たちの神さまです。というのも正しくないでしょう。ヨハネ福音書を生み出した人々としては、自分たちの神さまです、といった気持ちだったのではないかな、と思います。
 しかし、それでは、その特定の人々が、神さまを決めてしまうことにはならないでしょうか。それは間違っているでしょう。そうではなく、イエスさま、そして神さまは、誰のものでもない、ということ。キリスト者が、歩むべき道を指し示すのはイエスのみ、ということです。舟の上であれば、行き先を決めるのはイエスのみということです。そして、それは、「イエスは我らの主(あるじ)なり」というシンプルな信仰告白、十戒の第三戒、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」の教えにも繋がる姿勢なのではないでしょうか。


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『世界の中心はここ』(ヨハネ福音書4:5〜26)

2020.06.28(15:24) 405

『世界の中心はここ』
(2020/6/28)
ヨハネによる福音書 4:5~26

ユダヤ人とサマリア人(異なる存在との出会い)
 今日与えられたヨハネ福音書4章には、イエスさまとサマリアのある女性の出会いが記されております。イエスと弟子たちは、エルサレムからガリラヤ地方に向かうため、サマリアを通りました。そして、シカルという町の井戸のそばにイエスが座っていたときサマリアの女性がそこに水をくみに来ました。
 イエスはその女性に「水を飲ませてください」(4:7)と頼みました。そして、その女性は声をかけられたことに驚いていますが、イエスとの応答を通して、イエスに対して、「預言者ではないか」と告白するに至っています。そして、20節から26節においては、ユダヤ人はエルサレムにある神殿において主なる神に祈り、そしてサマリア人は過去に神殿が建てられていたゲリジム山において祈ることを常にとしていた。そして、そうした状態がイエスの存在によって、歴史が切り替わることによって、違う場所で祈るようになる、と説明するわけです。
この「違う場所」とは基本的には、それぞれの地にあるキリスト教会のことを指しています。そして言うなれば、どこにも中心、総本山などがない、ということを指し示しており、ローマのバチカンにありますサンピエトロ大聖堂もこの教会の会堂も同じ価値を持っている、という理解もできます。

気づきによって
 子どもが幼稚園児だった頃、私が牧師を務めていた教会の子どもの礼拝にも出ていて、通っていた幼稚園もキリスト教系だったので礼拝に出る機会を持っていました。家でも聖書の絵本やお話を聞くのですが、ある時、創世記22章に納められていますアブラハムがイサクを捧げるという物語を教会で聞いたあとのことです。こんなことを言い出しました。
「おれ、神様きらい。」「なんで?」「だって、子供を殺して捧げろ、っていうのでしょ」「怖いから、嫌い」…。
 たしかにおかしな話なのです。わたしなどは、子どもの頃から、この逸話に対して、違和感を持ったことはありませんでした。アブラハムは正しい人で、強い信仰を持っているんだな、すごいなあ、としか理解していませんでした。そういった意味で言いますと、子どもの頃からアブラハムの立場で、絵本を読み、お話を聞いていたわけです。しかし、子どもの立場、イサクの立場にたってみたらどうでしょうか。
 しかし、まったく違う捉え方もあります。『ラビによる聖書解釈』といった本があり、その解釈に驚かされました。ユダヤ教のラビ(教師)である著者は、アブラハムがイサクを殺そうとしたことは間違った行為だったのではないか、神さまが求めていた答えではなかったのではないか、と記していたのです。要点だけを申しますと、あの逸話の最初にある「神はアブラハムを試された」という言葉ですが、この言葉によって始まるお話は、あくまで「試み」であって、その結果に正解が記されているわけではない、ということです。そして、本当の正解は、神さまにイサクを捧げるのではなくて、「わたしはそんなことはできない」というべきではなかったか、ということでした。神さまへの愛と自分の子どもへの愛を比べることはできない。そして同時に、神さまへの愛と隣人への愛は比べることはできない。そして、「いくら信仰によるものであっても人がしてはいけない境界線、限界が記されている」というのです。そして、『ラビによる聖書解釈』には、そのような解釈に続けて、このように記されていました。
「実際、この解釈では、神はまさに最後の瞬間まで、アブラハムが拒否するのではないのかと期待して待っていたことになります。しかし、それが起こらず…神は彼をとめさせるために天使を送らなければならなくなりました。この解釈において、神は確かにアブラハムをテストしました。しかし、神は次のことを知ってショックを受けたのです。人間は、ある行為がどこか神に仕えるものであると確信するならば、愛する子どもをさえ殺すというようなところまでも突き進む決意をするということです。」

サマリヤ人とユダヤ人の関係
 信仰を持つということ、また何かに思いを持つということ、大切な存在を作るということが、他者への排除、また差別にはつながってしまう、ということは宗教ならずとも起こりうることです。例えば、民族主義、日本においても、日本における中心は、どこでしょうか?と言えば、東京でしょう。しかし、京都と答える人もいるかもしれない。
 また世界地図、私たちが慣れ親しんでいる世界地図は、これです(日本中心)。しかし西洋世界においては、これでしょう(ヨーロッパ中心)。日本は「極東」という呼ばれ方をすることがありますが、この地図でなければ、その意味はわかりません。また、日本中心ですと、ヨーロッパとアメリカは遠いように感じてしまいますが、それは大きな勘違いでしょう。また以前、富山県に行ったときに、面白い日本地図に出会いました。富山中心で、北が上でもありません。日本そして、朝鮮半島、中国の中心に富山があるように感じます。また、私は以前、オートバイで富山県から新潟まで走ったことがありますが、とても不思議な感覚がありました。私は、ずっと太平洋側それも東海道(1号線)の近くに住んでいるので、山は北、海は南、というのが、当たり前だったのが、それが逆になってしまうと、とても不思議な感覚に陥ります。しかし、これも逆の感覚の人もいるでしょう。
 また、これは沖縄中心の地図です。沖縄に米軍基地が集中している状態。沖縄に基地が集中するのは、戦略防衛上、大切な場所だから、という言い方をします。しかし同時に、1872年の琉球処分によって、沖縄が明治政府によって日本に併合される以前は、周辺諸国と広く貿易をしていた貿易立国であったことが知られています。対立の象徴とも言える軍事基地と平和的な貿易立国という過去、これもまったく逆の姿勢と言えるでしょう。

中心の論理
 今日の聖書箇所の話題に戻しますが、ユダヤ教にとっては、中心と言えば、神殿があるエルサレムでありました。しかしサマリア人は、首都サマリアに神殿を建てて、神を礼拝していました。ユダヤ人にとって、サマリア人の神殿は不当なものであり、異端といったものでした。しかしサマリア人にとっても、同じでサマリアの神殿こそ、ホンモノの神殿であり、エルサレムの神殿は間違った神殿でありました。そうした状況の中において、
 わたしたちは誰もが固有の人生を歩んでいます。そして自分のことさえもわからないときがあります。ましては自分ではない他者、隣人のことを正確に知ることなどできるわけがありません。そして、ユダヤ人にとってのサマリア人のように、サマリア人にとってのユダヤ人のように、まるっきり敵対関係の人もいるでしょう。そして自分ではない他者によって、自分自身をみるかもしれません。まったく逆の立ち場であったらどうだろうか、差別の意識などは、こうした視点から気づくこともあるかもしれません。

世界の中心はここ
 今日の箇所で、イエスが、このサマリアの女性にこう述べています。ヨハネ福音書4章21節。
「4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」
 今日の説教題は、「世界の中心はここ」という題にしました。込めた思いは、ただ礼拝する場所がどこであるべきか?ということではなく、あらゆる場所、あらゆる民族、あらゆる一人一人が、神さまにとって、大事な存在である、ということです。たとえば現在、コロナウイルスが世界を覆っていますが、ただ自分の居住地、国家だけの状況が落ち着いたからといって、不安はなかなか消えません。常に二次三次感染の恐怖に陥らない可能性がゼロではないからです。そのように、他者の危機は、自らの危機、同時に他者の幸福は自らの幸福、神さまはそのような視点をもって、私たちを見守っているのではないでしょうか。そして、世界の中心はどこ?という問いは成り立たず、人が生活する場、人が生きてる場すべてが、神さまによって祝されている場所ではないでしょうか。

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『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11)

2018.07.29(14:32) 376

『許しの創造性』
(2018/7/29)
ヨハネによる福音書 8:1~11

姦通という罪
 今日の箇所、様々な捉え方がされます。イエスの慈悲深さを示す物語として、またイエスが持っている人という存在に対する鋭い視座を示すものとして、またファリサイ派や律法学者たちという論敵に対する見事な知恵の勝利として、など本当に様々な捉え方があります。さらに、ここに出てくる女性は、とある伝承によれば、マグダラのマリアではないか、として語られることがあります。また、そうした考え方を元にしてか、イエスを描いた映画などでも、マグダラのマリアとイエスの出会いの物語として、描かれることがありますが、聖書のテキストとしては、あくまで一つのテキストであり、一人の女性として捉えることが適切と言えるでしょう。この女性は、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、連れてこられました。彼らはイエスに質問しました。今日の箇所、8章の4節5節です。
「…「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 なぜ、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにこのような質問したのでしょうか。6節に「(イエスを)訴える口実を得るため」とありますが、この問いは、たくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされていました。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけていた「罪人」とされた民衆の期待を裏切ることになります。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、イエス自身も逮捕される可能性さえでてきます。このように「許すべきである」「許さないべきではない」といった、どちらの答えを答えたとしても、イエスが立ち場を失うという良く出来た質問なのです。しかし、イエスはその質問に対して、地面に何かを書くような仕草をしてから、逆に彼らに対して、ある質問を返します。今日の箇所、8章7節。(P.180)
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」

なぜ石を投げられなかったのか
 このようにイエスに問われ、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。この女性は何らかの行動や意思表示をまったく行っておりません。しかし、この女性はイエスによって許されました。なぜ誰も、石を投げることができなかったのか?イエスに逆に質問された人々は、罪の問題を、この女性と自分の関係ではなく、神と自分と隣人との関係において、罪の問題を捉える視点をイエスの問いがもたらしたからではないでしょうか。ユダヤ人は歴史を通じて、神殿また聖所において、様々な罪を贖う儀式、罪の呪いを無化する儀式を行っていました。その中で、年に一度、自分たちが気付いていない罪を癒やすため、無化するための儀式というものがありました。イスラエル民族、ユダヤ人が知らずに犯してしまった罪を大祭司が雄山羊の頭に手を当てて移して、その山羊を荒野へ逃がす、という儀式です。いわゆるスケープゴートの語源になっている儀式です。(レビ記16章)
 知らないうちに犯したかもしれない罪。律法は、613個あると言われています。その中には、「〜してはならない」といった禁止項目もあれば、「〜した方が望ましい」といった期待される項目もあります。そうしたことも律法違反であると捉えれば、罪を犯したことのない人などいない、と言えるでしょう。また、言える人がいたら、それはそれで、と思いますが。とにかく、イエスは石を投げようとしていた人々のそうした心をくすぐったのではないでしょうか。

やまゆり園の事件から
 2年前の7月26日、神奈川県のやまゆり園で、19名の方が殺傷される事件が起こりました。加害者となった彼は、障がいを持った人、特にコミュニケーションが困難な人を「心失者」と呼び、社会に役に立たない存在、必要の無い存在、としていました。彼はある新聞社の1年前の手紙による取材や投書によって、「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております」「世界には“理性と良心”とを授けられていない人間がいます」「障害者は生産性がなく生きている価値がない。そこに税金が回されている」と言った言葉を記しています。
 また最近、とある国会議員が、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャル)といった性的少数者の人を指して、「生産性がないのに、税金を投入するのには是非がある」といった内容のことを投書して、大きな批判を浴びております。この発言を聞いて感じたのは、障がい者に対しても同じ発想をするんだろうな、ということです。また、「生産性とは何を指すか」ということも課題になるでしょう。子どもを生まないという選択をした夫婦や結婚しない人はどうでしょうか。また、生産性がなければ生きる価値が低いとか、生きる価値が無いとなるとどうでしょうか。やまゆり園の加害者となった彼は、障がい者を「役に立たない」と言っていました。「生産性がない」にも繋がる表現でしょう。
 また、私は牧師になる以前、神学校に進む以前、18歳から3年間、金属加工を行う鉄工所に務めていました。あるとき、一つの機械の改造をしました。とても単純なある部品を並べる機械でした。そして完成して納品に行ったのですが、その機械によって、あるパートの女性の仕事が無くなってしまうことを知りました。機械化って基本的に、そういうことなのですが、何か、心が痛む瞬間でした。実はこの世の中、機械化が進めば進むほど、技術が進めば進むほど、モノを作る手間は減っていきます。それは生産性の上昇なのでしょうか、低下なのでしょうか。
 また、障がいを持つ人をケアする人の仕事もどうなんでしょうか。多くの高齢者施設や障がい者の施設における夜勤の現実。40名の人を夜勤では3名で見るということが当たり前という現実があります。緊急的な対応が2件でもあったら、1名で38名もの人の対応をしなければならないということが容易く起こりうる現実があります。これも、「生産性」という尺度で言ったら、無駄なこと、不必要なことと言われてしまうかもしれません。

ラルシュのエピソードから
 しかし、障がい者だからこそ、成し遂げられたこんな出来事もあります。とあるラルシュコミュニティーのリーダーから聞いた話です。1994年にアフリカのルワンダで、おおよそ1000万人の人口の5%から10%の虐殺されるという事件がありました。民族的そして政治的な対立が背景にはあります。その時の出来事です。アフリカの家族は大きくて20人か30人ぐらいいることもあります。そのようなある大きな家族の中に、自閉症の男性がいました。多くの自閉症者がそうであるように、その男児も周りの人たちの感情に、とても敏感でした。そして日常的に、家族にとっては重荷では内存在でした。
 その家族が住む村にもその人たちを殺そうという暴徒が近づいてきました。この家族はある小屋に皆で隠れました。本当に緊張した空気の中で、この人は耐えられなくなり、この小屋から表で出て走り出してしまいました。家族はその男性のことを諦めました。またその子が小屋から出て行ってしまったことによって自分たちも暴徒たちに発見され殺されると思ったそうです。そして暴徒たちがやって来ました。この自閉症の男性は、まっすぐ暴徒の司令官のところに歩いていきました。そして自分のポケットからタバコを取り出して言いました。「火を持っていますか?」その司令官は、この男性に目をやり、銃を置いて、ポケットからマッチを取り出して、火をつけてあげました。その司令官は自分の部下たちの方を向き直り「戻ろう」と言いました。

許しの創造性
 聖書のお話に戻ります。イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになり、このような言葉を彼女にかけています。(8:11)
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 イエスは、この女性に対して、他の箇所でよく見られるように「罪を許す」とか「罪は許された」とは言っていません。「罪に定めない」と言っています。また、この女性は、様々な尺度でいって、好ましくない人、おそらくは罪人とされる人であったでしょう。そうした女性が理想的な存在となったのでしょうか。そうではないでしょう。律法という尺度でいえば、「罪人」という存在に過ぎない人だったでしょう。また、現代的にいえば、「役に立たない」人間、「生きていても意味がない」人間、そして「生産性がない」と言われてしまうような人であったのではないでしょうか。
 今日の説教題は、「許しの創造性」としました。私が感じていることですが、「許し」とは、その当人だけの問題ではない、ということです。女性の周囲にいた人々、イエスの言葉によって、この女性への許しによって、何か感じるものがあったのではないでしょうか。改めて神の存在、神の赦しとは何か、罪とは何か、ということを考えたのではないでしょうか。
 また、ルワンダにおける奇跡について紹介しました。いわゆる世の中の尺度では測ることができない力を障がい者は持っているということができるかもしれません。一般の人が持っていない力があるからこそ、だからこそ、自分たちの命を狙おうという人に敵対することなく、接することが出来たのだ、と。しかし、そうではなく、力を持っていないからこそ、生産性を持っていないからこそ、奇跡がおこったと考えることは出来ないでしょうか。ただその人をそのまま、その隣人をそのまま受け入れること、実はとても難しいことです。しかし、まったく力が無かったとしたら、どうでしょうか。目の前の人を受け入れるしかない。しかし、それは否定的なことではない、肯定されるべきことなのだ、と考えてみたらどうでしょうか。
 人は、どのような時でも、生産性とは言わないまでも、障がい、民族や思想、宗教、所属、性別、また「生産性」など様々な要素によって、人を区別しています。しかし障がいを持つ人から見れば、どうだろうか、ということを思います。障がいを持つ人は、私たちのそうした人を区別しようとする弱さを打ち破ろうとしているのかもしれません。今日の箇所における女性もそうではないでしょうか。イエスはこの罪ある女性を罪には定めませんでした。1人の人のことでありましたが、周囲にいた多くの人が、主なる神の赦しについて、罪について、改めて心に刻みつけたのではないでしょうか。「許し」とは、ただ1人のことではなく、多くの人々への救いへとつながる創造性、人と人をつなげる創造性をもっているのではないか、と感じています。


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『信仰の原点としての復活』(ヨハネ福音書20:19〜29)

2018.04.08(22:07) 367

『信仰の原点としての復活』
(2018/4/8)
ヨハネによる福音書 20章 19~31節

ヨハネ福音書における受難と復活
 ヨハネ福音書の特徴は、一貫して、イエスが神と共にいた存在として描かれているところにあります。
 有名なヨハネ福音書の冒頭、1章1節「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」また、1章14節をお読みします。「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 この言(ことば)は、イエスのことを指しています。「先在のキリスト論」という言い方をして、キリストはこの世の始まりから、神と共にいて、神から離れてこの世にやってきたという神学論であります。そして、ヨハネにおけるイエスは、この神学に基づいて、何もかも最初から最後まで、あらかじめ知っているという立場で描かれています。
 大貫隆という神学者は、「金太郎アメみたいな文書」と表しました。言うなれば、最初から最初まで、同じことを伝えようとしているからです。イエスは、救い主であり、先在の神であり、すべてを最初から最後まで知っていた、ということです。ですから、ヨハネ福音書におけるイエスは、自分が逮捕される状況になっても、処刑される状況になったとしても、恐れることも、叫び声を上げることはありません。ただ、予定どおりに事柄がなされること、ただ予定されていた時間が過ぎていくことだけのように、時を過ごしていきます。
 そうした有り様が、末期のぶどう酒を口に含んだとき「渇く」といった言葉、また事切れるときに語った「成し遂げられた」という言葉に現れています。そうしたあり方は、マルコ福音書とは、まったく逆のものと言えます。マルコ福音書において、受難、イエスの地上に於ける苦しみとは、イエスがこの世の歩み全体を指している様に思います。というのは、マルコにおける悲劇性というのは、弟子たちがイエスへの無理解、そして裏切りに重点が置かれていると捉えられるからです。イエスは、何度も自らが十字架にかかる、と宣言していながら、そのことを理解していませんでした。弟子たちは、あくまでイエスがユダヤ人の王となることを期待していた。まあ、おそらくイエスがゲッセマネの園で逮捕される瞬間でもそのように考えていたでしょう。ですから、ペトロにおいても、他の弟子たちにおいても、「たとえ、命を失おうとも従います」ということができたのでしょう。そうした弟子たちの無理解とイエスの思いの違い、ズレに悲劇性があるわけです。
 ヨハネ福音書におけるイエスは、最初から最後まで知っている、ということは、一つ問題が起こってくるわけです。受難にならないわけです。全部、知っているとなると。そして、このことが神学という不思議な学問でいうと、大きな問題となるわけです。というのは、キリスト教徒の救いというのは、イエスの苦しみと命(死)によって贖われた、ということになっています。が、先在のキリスト論、ヨハネ福音書におけるイエスの有り様ですと、イエスが命を捧げたということに関しては、まったく問題がないのですが、苦しんだか?というと、少し問題になって来ていたと考えられるのです。

疑いの視点
 ヨハネ福音書は、90年代に生まれたと考えられています。そして比較したマルコ福音書は、4つの福音書の中で一番古いと考えられ、西暦でいうと60年前後、そして、その間、大きな違いがあったでしょう。イエスの死と復活は、30年と考えられています。マルコ福音書が生まれた60年だとしても、30年経っています。そうすると、直接にイエスの言葉を聞いた人も少なくなってきていたでしょう。そうした状況から福音書が生み出されたと言えます。しかし、ヨハネ福音書が生まれた時代は、それよりも、更に30年です。直接に、イエスを知っている人がいるかどうか、分からない時代です。そうした状況の中において、本当にイエスがいたのかどうか、本当にキリスト、救い主、神の子であったのか、疑問に思う人も増えてきたであろう時代です。そして同時に、このような問いもされたでしょう。極端に言えば、このような問いでしょう。
「イエスは、ただの犯罪者であったんじゃないのか。」「ただ、ローマ帝国や神殿に反抗したテロリストじゃないのか」
キリスト教徒の間でも、こんな問いがあったと思います。
「本当に神の子だったのか」「イエスの死が私たちと関係あるのか」「イエスが私たちの罪のための犠牲となったというのは、本当か?」…。
 今日の箇所の最後の箇所、20章29節の言葉をお読みします。
「20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ福音書における受難
 復活の記事は、各福音書によってかなり違いがあり、その福音書にしか記されていない特殊資料も多いという特徴があります。そうしたことから、今日の記事に至るヨハネ福音書におけるイエスの復活について、なぞってみます。十字架刑の後、イエスの亡骸は亜麻布に包まれて、大きな岩が入り口に置かれていた横穴の墓の中に納められます。が、三日後に、マグダラのマリアが訪ねていきましたが、大きな石はどけられて、遺体がなくなっていた。
 驚いてペトロともう1人の弟子を呼びに行って、3人でその遺体が失われていることを確認して、悲しんでいた、その後ろにイエスが現れ、主イエスが復活したことを知った。その後、弟子たちが集まって隠れていた家に、またイエスが突然現れて、手とわき腹を見せ、たしかに十字架にかけられたイエスであることが示された。しかし、その場に、トマスはおらず、復活について疑いを抱き、「傷に指を入れる」と言った表現までして、イエスの復活の事実を確認すること求めます。トマスのイエスの傷に指を入れてみたいという言葉。神学書などを開いてみますと、「イエスさまが釘で打ち抜かれた手の傷、槍で刺されたわき腹の傷に触れることによって、主イエスの痛みを知るためであった」という説明もなされる言葉であります。とても信仰的な捉え方と言えます。しかし、他の福音書における受難物語のとらえ方や強調点の違いを考えたとき、必ずしも、そのようには言えません。
 また、ヨハネ福音書が生まれた時代、キリスト教会はひどい迫害状況にあったと言われています。非常にグロテスクな表現は、そうした迫害状況の反映かもしれません。具体的にキリスト教を信じることによって、十字架に付けられたり、槍で傷つけられている人がいたとも考えられるわけです。そのように考えてみますと、トマスが、イエスの傷に指を入れなければ信じない、という言葉も非常にグロテスク、悪趣味な表現もそうした雰囲気を表している、また迫害の中における教会の友たちの言葉、叫び、と考えてみますと、うなずけるような気がします。そして、そうした痛みは、再びイエスの苦しみの意味を問う問いに繋がるでしょう。イエスの苦しみが私たちの罪のためのモノだったのか?
 ヨハネ福音書の生まれた時代に迫害を受ける人の苦しみが本当に無駄なモノではなく、意味あるものだったのか。50年前の一人の男性の苦しみが、わたしたちの罪のためだったのか。そうした議論がこのトマスの言葉の背景にはあったのではないでしょうか。イエスの復活、キリストの復活が本当にあったのか無かったのか、ということ、「聖書にそのように書いてあるから信じる」という人もいるでしょう。しかし、聖書の記述について、考えてみますと、一つ、大きな問題があることに気がつきます。福音書というものは、復活について、信じている人が書いている、ということです。歴史書や記録ではない、ということです。そうなると、客観的な証明という意味では、まったく成り立たないということです。

復活を信じるではなく…
 そんなヨハネ福音書の背景について考えてみますと、イエスの苦しみについて考えることは、同時に復活について考えることではないかという考えに私は至ります。また、イエスを神の子として信じること、またキリストとして信じることは、同時に復活について信じること。福音書を読むこと自体、そういう構造になっているのではないか、ということです。ヨハネ福音書の著者にとって、復活は疑いようの事実、前提とされているわけです。そうしたことを、疑いを持ってしまった人々、時代を超えて同じような思いを持つような人々に伝えようとしているのではないか。
 今朝、テレビで「こころの時代」を見ていました。現在、70歳前後のアメリカで育った日本人で仏教を宣教している人の話でした。その人が、キリスト教のことを指して、(何かしらの事柄や教義を)「信じる宗教」であるという表現をしておられました。また仏教のことを指して、「信じる宗教ではなく目覚める宗教である」ということもおっしゃっておられました。たしかにその通りかもしれません。よく言われることです。キリスト教を信じるとは、イエスが神の子であるかどうか、を信じること、復活したかどうかを信じることだ、と。しかし、聖書のテキストから示されることは実はそうしたことではない、ということを最近考えております。私が考えているキリスト教の信仰というのは、「信じる宗教」というより、「(イエスの後を)歩む宗教」ではないか、ということです。本来、キリスト教を信じるというのは、イエスの存在が自分自身の生き様に関係があるということだけで十分ではないか、と思っています。
 いわゆる教義的な信仰のあり方、「復活」というのは、信じるか信じないかではないということができるのではないでしょうか。イエスの苦しみが私と関係がある、イエスは私たちのために死んだのだ、ということを信じる時点で、イエスの復活を受け入れるということに繋がるのではないでしょうか。また、イエスの痛みに共感する、痛みを覚えるという時点で、自分とは違う他者の痛み、存在に対する共感も出てくるでしょう。そうしたあり方一つ一つが、イエスの復活を受け入れることに繋がっているのではないでしょうか。


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 母親の誕生日祝いでした。


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周縁自体


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『神の涙という矛盾』(ヨハネ福音書11:28-37)

2017.05.07(16:30) 345

『神の涙という矛盾』
(2017/5/7)
ヨハネによる福音書 11章28~37節

感情の連鎖
先日、SNS(Twitterやfacebook)にこのような文章を載せました。

「ちょっと前のお話。
仕事で、自動車の運転をすることが多い日々です。
道路には、いろいろなモノが落ちています。軍手、長靴、パイロン、ゴミ袋、言葉に出来ないモノ…など。
しかし先日、目にしたモノはいろいろと想像を膨らむものでした。
なんと、花束。
いわゆる、葬儀や結婚式などのお花ではなく、プレゼントとして、渡しそうなもの。
それが片側2車線の道路の真ん中に…。
何があったのだろうか。
誰かに贈られたものなのか?
それとも贈られる前だったのか?
それともそれ以外の理由だったのか。
純粋な落とし物だったのか。
それとも、あえて道路の真ん中という場所だったのか。
その花束、誰かを幸せにできたのか、どうかわかりません。
しかし、ボクは知的好奇心という幸せをもらいました。」


 これに対して、様々な反応がありました。皆さんだったら、どうでしょうか?道の真ん中に落ちていた「花束」から、皆さんはどのような背景を想像するでしょうか。私などの恋愛や色恋沙汰が背景にあったのではないか、という想像。人の事故つまりは死があったのではないか、という想像。またはゴミというのでしょうか、片付けなければならないモノ、人のイタズラといった想像。そして、それに対する「なっとらん」といった怒りの感情。またはそれ以外。いろいろ考えられると思います。
 そうした反応に正解はない、と思うのですが、ある程度は、それぞれの反応には、その人が置かれている状況、持っている感情などが反映しているのではないか、ということは考えられるでしょう。最近、世界中で、一国主義、ある種の国家主義、または民族主義が動きというものが様々な形で現れています。そして、その背景には、世界全体、地球全体に拡がっている「怒り」があるのではないか、ということが言われています。日本でも、誰もがなんとなくイライラしている風潮が以前より強くなっていると感じておられる人もおられるでしょう。私もそう感じています。(私自身もそうかもしれませんが…)
 感情の連鎖ということがありますが、同時に、感情の変換が起こる、と。怒りが哀しみに、哀しみが怒りに、笑いが怒りに、怒りが笑いに、と。しかし当たり前のことですが、そのことによって関係が良くなったり、悪くなったりすることがあります。そして、人と人、集団と集団、国家と国家の間において、そうしたことも起こり、時に穏やかではない話にもなってしまいます。
 そして、そのような社会の中において、キリスト教徒として、考えることの一つに、「イエスであったら、どうしただろうか?」「イエスであったら、このような状況、世界の中でどのように振る舞っただろうか?」というのは、常に大きな課題でしょう。

イエスの感情表現
 今日の箇所は、イエスが涙を流したことが記されている箇所ですが、イエスの感情表現と言えば、この涙を流した箇所と、いわゆる宮清め、神殿で商人たちや両替屋の舞台をひっくり返したとき、怒っていなかったわけはないでしょう。実は、イエスがはっきりと感情を表現したのはこの二つの場面しか記されていません。あとの感情表現に関しては、読み手が想像するしかないわけです。
 そして、イエスの感情表現については、キリスト教の歴史においては大きな問題となることもありました。『薔薇の名前』という映画があります。ウンベルト・エーコというイタリアの作家が1980年に発表した小説が原作であり、主人公は、ショーン・コネリーです。13世紀のイタリアとある修道院において、修道士たちが犠牲になる殺人事件が多発します。修道院の中のお話ですが、殺人事件が多発してしまった直接の原因は、「キリスト教における笑い」の問題でありました。その修道院には、大きな図書館があり、たくさんの書物が収められていたのですが、その中に、「笑い」に関して肯定的に記したものが納められています。しかし、ある修道士は「笑い」をとても否定的に捉えており、その書物の存在を隠そうと、公にならないために修道士が殺されていったのです。その殺人を犯した犯人にとっては、「笑い」とは人間を堕落させるもの、神の恵みを忘れさせるもの、神に対して罪を感じなくなるもの、という捉え方をしており、神の恵みを忘れさせないために殺人を起こしてしまっていたのです。そして、この修道士は、「イエスは笑わなかった」と信じていたと思われます。しかし、どうでしょうか。イエスが弟子たちと旅を続けていたその道すがら、様々な人々と共に食卓についていたとき、その場に、笑いはあったのでしょうか?なかったでしょうか?

イエスと人々との触れ合い
今日の箇所、イエスは以前から親しくしていたマリアとマルタの兄弟のラザロという友人が重い病気にかかっていることを聞き、彼らが住んでいるベタニアという町にやってきました。しかし、イエスたち一行がベタニアに到着した時には、ラザロは死後4日もたっており、墓に葬られていたという状況でした。マルタとマリアの姉妹は聖書には何度か登場しますが、ルカ福音書には、マルタは働き者で人の世話をする方、妹のマリアはどちらかと言えば、あんまり動かずにイエスのお話に耳を傾ける方として描かれます。(ルカ10:38-42)そんな逸話が福音書の中に記されていることからも、イエスとこの姉妹が親しかったことがうかがい知れますが、ラザロの死後に現れたイエスに対して、妹のマリアは、イエスにこう述べています。32節。
「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。」
 あなたさえここにいれば、弟のラザロは死ぬことはなかった。このマリアの言葉と態度や、周囲にいたユダヤ人たちの態度からか、イエスは涙を流します。

イエスは涙を流された
今日の箇所、イエス・キリストの物語が記された福音書の中では、二つの大きな特徴がある箇所です。一つは、11章の35節「イエスは涙を流された」という箇所。新約聖書の中には、四つの福音書が収められておりますが、この11章の35節は、イエスの物語が記された四つの福音書の中でもっとも短い箇所である、ということです。日本語では、「イエスは涙を流された」と記されていますが、英語では「Jesus wept」(ジーザス・ウェプトゥ)ギリシャ語では「εδακρυσεν ο ιησους」(エダクルーセン・ホ・イエスース)と二つの単語と一つの冠詞で構成された節で、聖書の中ではもっとも短い節として知られています。また、この箇所は、イエス・キリストが唯一、涙を流した箇所として知られています。福音書の中における、イエスの感情表現は少なく、「憤った」「憐れんだ」などは良く出て来る表現です。また神殿における宮清めで怒っていることや弟子たちへの戒めを述べる姿はあります。ですが、はっきりとした感情表現として、「涙を流した」とあるのは、この箇所のみなのです。

神の涙という矛盾
 しかし、一方で、神である存在が悲しみに暮れ、涙を流すのだろうか、という疑問もあります。神という存在は、全てをつかさどる存在です。特に今日のテキストであるヨハネ福音書の1章1節の冒頭は、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とはじまります。そして、この「言(ことば)」とは、イエスのことを指しますが、続く2節3節では、このように続きます。「1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
「言」はこの世の創造の前から神と共にあり、「言」であるイエスによって、すべてのものが創造されたということです。ということは、イエスはすべてのものを知っているということです。ですから、わたしたち1人1人の誕生から終わりまで知っていることになる。とすると、今日の箇所。ラザロが亡くなることも、最初から知っていた、ということになります。たしかに、人の生き死やこの世の動き、そのすべてを、その最初から最後までを知っているとしたら、喜びも悲しみもなくなってしまうかもしれません。また、だとしたら、神の子、キリストであるイエスが、今日のように涙を流すというのは、おかしな話だ、ということにならないでしょうか。

涙に現されたもの
 ラザロの死、この事実に直面した時、イエスは涙を流します。このことからわたしたちはいったい何を知ることが出来るのでしょうか?人の死に直面して流す涙、自分の近しい存在を失ったときに流す涙。人間にとってはとても自然なことでしょう。人はそのことによって悲しみを無意識に和らげようとしている、とか、人の心にコップに喩えて、水をためたコップを揺らしたときにこぼれた水である、などとも表現されます。
 イエスが涙を流されまた、そのことを対して、周囲の人々から、二つの全く視点の異なった感想が語られています。一方は36節の言葉、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。イエスの涙から知ることが出来るイエスの内面に視点を置いています。彼らはイエスの涙を目にして、同じく涙していたかもしれません。そしてもう一つは37節の言葉、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」。涙を流されたことから、生き返らせることは出来ないと受け取っての言葉でしょう。この言葉の語り手は、イエスの人としての感情よりも、イエスが持っている力、神として持っている奇跡に興味があって、述べられた言葉ではないでしょうか。
 そして、これら二つのイエスに対する反応は、それぞれイエスが持っている人としてのあり方、神としてのあり方に対応しています。主なる神は多くの奇跡を起こし、福音書におけるイエス・キリストも多くの病を癒し、時に人の命さえも生き返らせました。そのような力を人が手に入れたとしたら、誰も死に関して、悲しむこともなくなるでしょう。死や病いが無くなれば、というテーマは人間にとって不変なものであります。だからこそ、神に祈り、求めるという行動を行います。そして、もし自分がそのような力を手に入れたら、悲しむこともなくなる、という思いがあるのではないでしょうか。そして、もしイエスが悲しむとしたら、また神が悲しむとしたら、それはどうなのだろうか、という思いを持つのではないでしょうか。そして、このことは先に紹介した『薔薇の名前』に現れる「笑い」を憎む修道士に繋がるのではないでしょうか。おそらくあの修道士は、イエスさまは感情など動かされなかった、笑うこともなければ、悲しむこともなかったと信じていたのではないでしょうか。

神が共にある
 イエスが、貧しい人々、虐げられている人々とふれあうとき、食卓を囲むとき、そこには笑いがあふれていたのではないでしょうか。イエスは周囲の人々と触れ合い、敵対者たちの皮肉的な質問に対して、たくみな皮肉や喩えによって、やり返しています。そのような時、その場には笑いがあったのではないでしょうか。また、今日の箇所に記されているように、イエスは、様々な人の悲しみを共に哀しみ、また喜んだのではないでしょうか。そして、イエスさま自身も、悲しみを持ち、涙を流したのではないしょうか。
 イエス・キリストが泣きもせず、笑いもしない神さまだとしたら、どうでしょうか。わたしたちが絶対的な神の力を求めていたとしても、ここで何事も無かったかのように、イエスが人々の涙に対して、なんら心動かされること無く、神の力を持って、ラザロを甦られせた、としたら。ラザロの兄弟であるマリアやマルタのことに木にかけること無く、泣いている人々に対して、「私は人を甦らせる神の力を持っている」といって、ただ甦られせ、「さあ、神さまを信じなさい」と言ったとしたら。信仰を失うことは無いかも知れませんが、このイエスさまが私たちが信じている神さまなのだろうか、と疑問を持つのでは無いでしょうか。
 イエスは今日の箇所で万能の神の姿を帯びるのでは無く、人としての姿を帯びて涙を流しています。そして、時には笑い、共に肩をたたき合い、弟子たちや周囲にいた人々と同じ時を過ごし、ふれあったと私は感じています。イエスは神の奇跡行為者でありながら、人間を超越した存在でありながら、涙を流します。イエスがここで涙を流したのはある意味、本当に人間であった証明と言えます。人の苦しみ・悲しみに涙すること。とても自然なことです。そんなイエスだからこそ私たちの思い、祈りを聞き入れてくださるように思います。
 そして、神がわたしたちと「共にある」とは、奇跡的な力が私たちと共にあるということではなく、わたしたちの悲しみを聞き、共に喜び、共に涙を流してくださる、ということではないでしょうか。そして、教会にとって大事なことも、神が私たちと共にあるように、教会の中における隣人と共にあること、教会の外にいる隣人たちと共にあることを目指して歩み続けることではないか、と感じています。主なる神がこのときも、そして、これからも、それぞれと共にあって、わたしたちの歩みを導いてくださることを信じたい、と思います。


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周縁自体


ヨハネ
  1. 『道を示すのはイエスのみ』(ヨハネ福音書6:14〜21)(07/26)
  2. 『世界の中心はここ』(ヨハネ福音書4:5〜26)(06/28)
  3. 『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11) (07/29)
  4. 『信仰の原点としての復活』(ヨハネ福音書20:19〜29)(04/08)
  5. 『神の涙という矛盾』(ヨハネ福音書11:28-37)(05/07)
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