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『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11)

2018.07.29(14:32) 376

『許しの創造性』
(2018/7/29)
ヨハネによる福音書 8:1~11

姦通という罪
 今日の箇所、様々な捉え方がされます。イエスの慈悲深さを示す物語として、またイエスが持っている人という存在に対する鋭い視座を示すものとして、またファリサイ派や律法学者たちという論敵に対する見事な知恵の勝利として、など本当に様々な捉え方があります。さらに、ここに出てくる女性は、とある伝承によれば、マグダラのマリアではないか、として語られることがあります。また、そうした考え方を元にしてか、イエスを描いた映画などでも、マグダラのマリアとイエスの出会いの物語として、描かれることがありますが、聖書のテキストとしては、あくまで一つのテキストであり、一人の女性として捉えることが適切と言えるでしょう。この女性は、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、連れてこられました。彼らはイエスに質問しました。今日の箇所、8章の4節5節です。
「…「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 なぜ、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにこのような質問したのでしょうか。6節に「(イエスを)訴える口実を得るため」とありますが、この問いは、たくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされていました。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけていた「罪人」とされた民衆の期待を裏切ることになります。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、イエス自身も逮捕される可能性さえでてきます。このように「許すべきである」「許さないべきではない」といった、どちらの答えを答えたとしても、イエスが立ち場を失うという良く出来た質問なのです。しかし、イエスはその質問に対して、地面に何かを書くような仕草をしてから、逆に彼らに対して、ある質問を返します。今日の箇所、8章7節。(P.180)
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」

なぜ石を投げられなかったのか
 このようにイエスに問われ、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。この女性は何らかの行動や意思表示をまったく行っておりません。しかし、この女性はイエスによって許されました。なぜ誰も、石を投げることができなかったのか?イエスに逆に質問された人々は、罪の問題を、この女性と自分の関係ではなく、神と自分と隣人との関係において、罪の問題を捉える視点をイエスの問いがもたらしたからではないでしょうか。ユダヤ人は歴史を通じて、神殿また聖所において、様々な罪を贖う儀式、罪の呪いを無化する儀式を行っていました。その中で、年に一度、自分たちが気付いていない罪を癒やすため、無化するための儀式というものがありました。イスラエル民族、ユダヤ人が知らずに犯してしまった罪を大祭司が雄山羊の頭に手を当てて移して、その山羊を荒野へ逃がす、という儀式です。いわゆるスケープゴートの語源になっている儀式です。(レビ記16章)
 知らないうちに犯したかもしれない罪。律法は、613個あると言われています。その中には、「〜してはならない」といった禁止項目もあれば、「〜した方が望ましい」といった期待される項目もあります。そうしたことも律法違反であると捉えれば、罪を犯したことのない人などいない、と言えるでしょう。また、言える人がいたら、それはそれで、と思いますが。とにかく、イエスは石を投げようとしていた人々のそうした心をくすぐったのではないでしょうか。

やまゆり園の事件から
 2年前の7月26日、神奈川県のやまゆり園で、19名の方が殺傷される事件が起こりました。加害者となった彼は、障がいを持った人、特にコミュニケーションが困難な人を「心失者」と呼び、社会に役に立たない存在、必要の無い存在、としていました。彼はある新聞社の1年前の手紙による取材や投書によって、「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております」「世界には“理性と良心”とを授けられていない人間がいます」「障害者は生産性がなく生きている価値がない。そこに税金が回されている」と言った言葉を記しています。
 また最近、とある国会議員が、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャル)といった性的少数者の人を指して、「生産性がないのに、税金を投入するのには是非がある」といった内容のことを投書して、大きな批判を浴びております。この発言を聞いて感じたのは、障がい者に対しても同じ発想をするんだろうな、ということです。また、「生産性とは何を指すか」ということも課題になるでしょう。子どもを生まないという選択をした夫婦や結婚しない人はどうでしょうか。また、生産性がなければ生きる価値が低いとか、生きる価値が無いとなるとどうでしょうか。やまゆり園の加害者となった彼は、障がい者を「役に立たない」と言っていました。「生産性がない」にも繋がる表現でしょう。
 また、私は牧師になる以前、神学校に進む以前、18歳から3年間、金属加工を行う鉄工所に務めていました。あるとき、一つの機械の改造をしました。とても単純なある部品を並べる機械でした。そして完成して納品に行ったのですが、その機械によって、あるパートの女性の仕事が無くなってしまうことを知りました。機械化って基本的に、そういうことなのですが、何か、心が痛む瞬間でした。実はこの世の中、機械化が進めば進むほど、技術が進めば進むほど、モノを作る手間は減っていきます。それは生産性の上昇なのでしょうか、低下なのでしょうか。
 また、障がいを持つ人をケアする人の仕事もどうなんでしょうか。多くの高齢者施設や障がい者の施設における夜勤の現実。40名の人を夜勤では3名で見るということが当たり前という現実があります。緊急的な対応が2件でもあったら、1名で38名もの人の対応をしなければならないということが容易く起こりうる現実があります。これも、「生産性」という尺度で言ったら、無駄なこと、不必要なことと言われてしまうかもしれません。

ラルシュのエピソードから
 しかし、障がい者だからこそ、成し遂げられたこんな出来事もあります。とあるラルシュコミュニティーのリーダーから聞いた話です。1994年にアフリカのルワンダで、おおよそ1000万人の人口の5%から10%の虐殺されるという事件がありました。民族的そして政治的な対立が背景にはあります。その時の出来事です。アフリカの家族は大きくて20人か30人ぐらいいることもあります。そのようなある大きな家族の中に、自閉症の男性がいました。多くの自閉症者がそうであるように、その男児も周りの人たちの感情に、とても敏感でした。そして日常的に、家族にとっては重荷では内存在でした。
 その家族が住む村にもその人たちを殺そうという暴徒が近づいてきました。この家族はある小屋に皆で隠れました。本当に緊張した空気の中で、この人は耐えられなくなり、この小屋から表で出て走り出してしまいました。家族はその男性のことを諦めました。またその子が小屋から出て行ってしまったことによって自分たちも暴徒たちに発見され殺されると思ったそうです。そして暴徒たちがやって来ました。この自閉症の男性は、まっすぐ暴徒の司令官のところに歩いていきました。そして自分のポケットからタバコを取り出して言いました。「火を持っていますか?」その司令官は、この男性に目をやり、銃を置いて、ポケットからマッチを取り出して、火をつけてあげました。その司令官は自分の部下たちの方を向き直り「戻ろう」と言いました。

許しの創造性
 聖書のお話に戻ります。イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになり、このような言葉を彼女にかけています。(8:11)
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 イエスは、この女性に対して、他の箇所でよく見られるように「罪を許す」とか「罪は許された」とは言っていません。「罪に定めない」と言っています。また、この女性は、様々な尺度でいって、好ましくない人、おそらくは罪人とされる人であったでしょう。そうした女性が理想的な存在となったのでしょうか。そうではないでしょう。律法という尺度でいえば、「罪人」という存在に過ぎない人だったでしょう。また、現代的にいえば、「役に立たない」人間、「生きていても意味がない」人間、そして「生産性がない」と言われてしまうような人であったのではないでしょうか。
 今日の説教題は、「許しの創造性」としました。私が感じていることですが、「許し」とは、その当人だけの問題ではない、ということです。女性の周囲にいた人々、イエスの言葉によって、この女性への許しによって、何か感じるものがあったのではないでしょうか。改めて神の存在、神の赦しとは何か、罪とは何か、ということを考えたのではないでしょうか。
 また、ルワンダにおける奇跡について紹介しました。いわゆる世の中の尺度では測ることができない力を障がい者は持っているということができるかもしれません。一般の人が持っていない力があるからこそ、だからこそ、自分たちの命を狙おうという人に敵対することなく、接することが出来たのだ、と。しかし、そうではなく、力を持っていないからこそ、生産性を持っていないからこそ、奇跡がおこったと考えることは出来ないでしょうか。ただその人をそのまま、その隣人をそのまま受け入れること、実はとても難しいことです。しかし、まったく力が無かったとしたら、どうでしょうか。目の前の人を受け入れるしかない。しかし、それは否定的なことではない、肯定されるべきことなのだ、と考えてみたらどうでしょうか。
 人は、どのような時でも、生産性とは言わないまでも、障がい、民族や思想、宗教、所属、性別、また「生産性」など様々な要素によって、人を区別しています。しかし障がいを持つ人から見れば、どうだろうか、ということを思います。障がいを持つ人は、私たちのそうした人を区別しようとする弱さを打ち破ろうとしているのかもしれません。今日の箇所における女性もそうではないでしょうか。イエスはこの罪ある女性を罪には定めませんでした。1人の人のことでありましたが、周囲にいた多くの人が、主なる神の赦しについて、罪について、改めて心に刻みつけたのではないでしょうか。「許し」とは、ただ1人のことではなく、多くの人々への救いへとつながる創造性、人と人をつなげる創造性をもっているのではないか、と感じています。


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『信仰の原点としての復活』(ヨハネ福音書20:19〜29)

2018.04.08(22:07) 367

『信仰の原点としての復活』
(2018/4/8)
ヨハネによる福音書 20章 19~31節

ヨハネ福音書における受難と復活
 ヨハネ福音書の特徴は、一貫して、イエスが神と共にいた存在として描かれているところにあります。
 有名なヨハネ福音書の冒頭、1章1節「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」また、1章14節をお読みします。「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 この言(ことば)は、イエスのことを指しています。「先在のキリスト論」という言い方をして、キリストはこの世の始まりから、神と共にいて、神から離れてこの世にやってきたという神学論であります。そして、ヨハネにおけるイエスは、この神学に基づいて、何もかも最初から最後まで、あらかじめ知っているという立場で描かれています。
 大貫隆という神学者は、「金太郎アメみたいな文書」と表しました。言うなれば、最初から最初まで、同じことを伝えようとしているからです。イエスは、救い主であり、先在の神であり、すべてを最初から最後まで知っていた、ということです。ですから、ヨハネ福音書におけるイエスは、自分が逮捕される状況になっても、処刑される状況になったとしても、恐れることも、叫び声を上げることはありません。ただ、予定どおりに事柄がなされること、ただ予定されていた時間が過ぎていくことだけのように、時を過ごしていきます。
 そうした有り様が、末期のぶどう酒を口に含んだとき「渇く」といった言葉、また事切れるときに語った「成し遂げられた」という言葉に現れています。そうしたあり方は、マルコ福音書とは、まったく逆のものと言えます。マルコ福音書において、受難、イエスの地上に於ける苦しみとは、イエスがこの世の歩み全体を指している様に思います。というのは、マルコにおける悲劇性というのは、弟子たちがイエスへの無理解、そして裏切りに重点が置かれていると捉えられるからです。イエスは、何度も自らが十字架にかかる、と宣言していながら、そのことを理解していませんでした。弟子たちは、あくまでイエスがユダヤ人の王となることを期待していた。まあ、おそらくイエスがゲッセマネの園で逮捕される瞬間でもそのように考えていたでしょう。ですから、ペトロにおいても、他の弟子たちにおいても、「たとえ、命を失おうとも従います」ということができたのでしょう。そうした弟子たちの無理解とイエスの思いの違い、ズレに悲劇性があるわけです。
 ヨハネ福音書におけるイエスは、最初から最後まで知っている、ということは、一つ問題が起こってくるわけです。受難にならないわけです。全部、知っているとなると。そして、このことが神学という不思議な学問でいうと、大きな問題となるわけです。というのは、キリスト教徒の救いというのは、イエスの苦しみと命(死)によって贖われた、ということになっています。が、先在のキリスト論、ヨハネ福音書におけるイエスの有り様ですと、イエスが命を捧げたということに関しては、まったく問題がないのですが、苦しんだか?というと、少し問題になって来ていたと考えられるのです。

疑いの視点
 ヨハネ福音書は、90年代に生まれたと考えられています。そして比較したマルコ福音書は、4つの福音書の中で一番古いと考えられ、西暦でいうと60年前後、そして、その間、大きな違いがあったでしょう。イエスの死と復活は、30年と考えられています。マルコ福音書が生まれた60年だとしても、30年経っています。そうすると、直接にイエスの言葉を聞いた人も少なくなってきていたでしょう。そうした状況から福音書が生み出されたと言えます。しかし、ヨハネ福音書が生まれた時代は、それよりも、更に30年です。直接に、イエスを知っている人がいるかどうか、分からない時代です。そうした状況の中において、本当にイエスがいたのかどうか、本当にキリスト、救い主、神の子であったのか、疑問に思う人も増えてきたであろう時代です。そして同時に、このような問いもされたでしょう。極端に言えば、このような問いでしょう。
「イエスは、ただの犯罪者であったんじゃないのか。」「ただ、ローマ帝国や神殿に反抗したテロリストじゃないのか」
キリスト教徒の間でも、こんな問いがあったと思います。
「本当に神の子だったのか」「イエスの死が私たちと関係あるのか」「イエスが私たちの罪のための犠牲となったというのは、本当か?」…。
 今日の箇所の最後の箇所、20章29節の言葉をお読みします。
「20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ福音書における受難
 復活の記事は、各福音書によってかなり違いがあり、その福音書にしか記されていない特殊資料も多いという特徴があります。そうしたことから、今日の記事に至るヨハネ福音書におけるイエスの復活について、なぞってみます。十字架刑の後、イエスの亡骸は亜麻布に包まれて、大きな岩が入り口に置かれていた横穴の墓の中に納められます。が、三日後に、マグダラのマリアが訪ねていきましたが、大きな石はどけられて、遺体がなくなっていた。
 驚いてペトロともう1人の弟子を呼びに行って、3人でその遺体が失われていることを確認して、悲しんでいた、その後ろにイエスが現れ、主イエスが復活したことを知った。その後、弟子たちが集まって隠れていた家に、またイエスが突然現れて、手とわき腹を見せ、たしかに十字架にかけられたイエスであることが示された。しかし、その場に、トマスはおらず、復活について疑いを抱き、「傷に指を入れる」と言った表現までして、イエスの復活の事実を確認すること求めます。トマスのイエスの傷に指を入れてみたいという言葉。神学書などを開いてみますと、「イエスさまが釘で打ち抜かれた手の傷、槍で刺されたわき腹の傷に触れることによって、主イエスの痛みを知るためであった」という説明もなされる言葉であります。とても信仰的な捉え方と言えます。しかし、他の福音書における受難物語のとらえ方や強調点の違いを考えたとき、必ずしも、そのようには言えません。
 また、ヨハネ福音書が生まれた時代、キリスト教会はひどい迫害状況にあったと言われています。非常にグロテスクな表現は、そうした迫害状況の反映かもしれません。具体的にキリスト教を信じることによって、十字架に付けられたり、槍で傷つけられている人がいたとも考えられるわけです。そのように考えてみますと、トマスが、イエスの傷に指を入れなければ信じない、という言葉も非常にグロテスク、悪趣味な表現もそうした雰囲気を表している、また迫害の中における教会の友たちの言葉、叫び、と考えてみますと、うなずけるような気がします。そして、そうした痛みは、再びイエスの苦しみの意味を問う問いに繋がるでしょう。イエスの苦しみが私たちの罪のためのモノだったのか?
 ヨハネ福音書の生まれた時代に迫害を受ける人の苦しみが本当に無駄なモノではなく、意味あるものだったのか。50年前の一人の男性の苦しみが、わたしたちの罪のためだったのか。そうした議論がこのトマスの言葉の背景にはあったのではないでしょうか。イエスの復活、キリストの復活が本当にあったのか無かったのか、ということ、「聖書にそのように書いてあるから信じる」という人もいるでしょう。しかし、聖書の記述について、考えてみますと、一つ、大きな問題があることに気がつきます。福音書というものは、復活について、信じている人が書いている、ということです。歴史書や記録ではない、ということです。そうなると、客観的な証明という意味では、まったく成り立たないということです。

復活を信じるではなく…
 そんなヨハネ福音書の背景について考えてみますと、イエスの苦しみについて考えることは、同時に復活について考えることではないかという考えに私は至ります。また、イエスを神の子として信じること、またキリストとして信じることは、同時に復活について信じること。福音書を読むこと自体、そういう構造になっているのではないか、ということです。ヨハネ福音書の著者にとって、復活は疑いようの事実、前提とされているわけです。そうしたことを、疑いを持ってしまった人々、時代を超えて同じような思いを持つような人々に伝えようとしているのではないか。
 今朝、テレビで「こころの時代」を見ていました。現在、70歳前後のアメリカで育った日本人で仏教を宣教している人の話でした。その人が、キリスト教のことを指して、(何かしらの事柄や教義を)「信じる宗教」であるという表現をしておられました。また仏教のことを指して、「信じる宗教ではなく目覚める宗教である」ということもおっしゃっておられました。たしかにその通りかもしれません。よく言われることです。キリスト教を信じるとは、イエスが神の子であるかどうか、を信じること、復活したかどうかを信じることだ、と。しかし、聖書のテキストから示されることは実はそうしたことではない、ということを最近考えております。私が考えているキリスト教の信仰というのは、「信じる宗教」というより、「(イエスの後を)歩む宗教」ではないか、ということです。本来、キリスト教を信じるというのは、イエスの存在が自分自身の生き様に関係があるということだけで十分ではないか、と思っています。
 いわゆる教義的な信仰のあり方、「復活」というのは、信じるか信じないかではないということができるのではないでしょうか。イエスの苦しみが私と関係がある、イエスは私たちのために死んだのだ、ということを信じる時点で、イエスの復活を受け入れるということに繋がるのではないでしょうか。また、イエスの痛みに共感する、痛みを覚えるという時点で、自分とは違う他者の痛み、存在に対する共感も出てくるでしょう。そうしたあり方一つ一つが、イエスの復活を受け入れることに繋がっているのではないでしょうか。


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 母親の誕生日祝いでした。


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『神の涙という矛盾』(ヨハネ福音書11:28-37)

2017.05.07(16:30) 345

『神の涙という矛盾』
(2017/5/7)
ヨハネによる福音書 11章28~37節

感情の連鎖
先日、SNS(Twitterやfacebook)にこのような文章を載せました。

「ちょっと前のお話。
仕事で、自動車の運転をすることが多い日々です。
道路には、いろいろなモノが落ちています。軍手、長靴、パイロン、ゴミ袋、言葉に出来ないモノ…など。
しかし先日、目にしたモノはいろいろと想像を膨らむものでした。
なんと、花束。
いわゆる、葬儀や結婚式などのお花ではなく、プレゼントとして、渡しそうなもの。
それが片側2車線の道路の真ん中に…。
何があったのだろうか。
誰かに贈られたものなのか?
それとも贈られる前だったのか?
それともそれ以外の理由だったのか。
純粋な落とし物だったのか。
それとも、あえて道路の真ん中という場所だったのか。
その花束、誰かを幸せにできたのか、どうかわかりません。
しかし、ボクは知的好奇心という幸せをもらいました。」


 これに対して、様々な反応がありました。皆さんだったら、どうでしょうか?道の真ん中に落ちていた「花束」から、皆さんはどのような背景を想像するでしょうか。私などの恋愛や色恋沙汰が背景にあったのではないか、という想像。人の事故つまりは死があったのではないか、という想像。またはゴミというのでしょうか、片付けなければならないモノ、人のイタズラといった想像。そして、それに対する「なっとらん」といった怒りの感情。またはそれ以外。いろいろ考えられると思います。
 そうした反応に正解はない、と思うのですが、ある程度は、それぞれの反応には、その人が置かれている状況、持っている感情などが反映しているのではないか、ということは考えられるでしょう。最近、世界中で、一国主義、ある種の国家主義、または民族主義が動きというものが様々な形で現れています。そして、その背景には、世界全体、地球全体に拡がっている「怒り」があるのではないか、ということが言われています。日本でも、誰もがなんとなくイライラしている風潮が以前より強くなっていると感じておられる人もおられるでしょう。私もそう感じています。(私自身もそうかもしれませんが…)
 感情の連鎖ということがありますが、同時に、感情の変換が起こる、と。怒りが哀しみに、哀しみが怒りに、笑いが怒りに、怒りが笑いに、と。しかし当たり前のことですが、そのことによって関係が良くなったり、悪くなったりすることがあります。そして、人と人、集団と集団、国家と国家の間において、そうしたことも起こり、時に穏やかではない話にもなってしまいます。
 そして、そのような社会の中において、キリスト教徒として、考えることの一つに、「イエスであったら、どうしただろうか?」「イエスであったら、このような状況、世界の中でどのように振る舞っただろうか?」というのは、常に大きな課題でしょう。

イエスの感情表現
 今日の箇所は、イエスが涙を流したことが記されている箇所ですが、イエスの感情表現と言えば、この涙を流した箇所と、いわゆる宮清め、神殿で商人たちや両替屋の舞台をひっくり返したとき、怒っていなかったわけはないでしょう。実は、イエスがはっきりと感情を表現したのはこの二つの場面しか記されていません。あとの感情表現に関しては、読み手が想像するしかないわけです。
 そして、イエスの感情表現については、キリスト教の歴史においては大きな問題となることもありました。『薔薇の名前』という映画があります。ウンベルト・エーコというイタリアの作家が1980年に発表した小説が原作であり、主人公は、ショーン・コネリーです。13世紀のイタリアとある修道院において、修道士たちが犠牲になる殺人事件が多発します。修道院の中のお話ですが、殺人事件が多発してしまった直接の原因は、「キリスト教における笑い」の問題でありました。その修道院には、大きな図書館があり、たくさんの書物が収められていたのですが、その中に、「笑い」に関して肯定的に記したものが納められています。しかし、ある修道士は「笑い」をとても否定的に捉えており、その書物の存在を隠そうと、公にならないために修道士が殺されていったのです。その殺人を犯した犯人にとっては、「笑い」とは人間を堕落させるもの、神の恵みを忘れさせるもの、神に対して罪を感じなくなるもの、という捉え方をしており、神の恵みを忘れさせないために殺人を起こしてしまっていたのです。そして、この修道士は、「イエスは笑わなかった」と信じていたと思われます。しかし、どうでしょうか。イエスが弟子たちと旅を続けていたその道すがら、様々な人々と共に食卓についていたとき、その場に、笑いはあったのでしょうか?なかったでしょうか?

イエスと人々との触れ合い
今日の箇所、イエスは以前から親しくしていたマリアとマルタの兄弟のラザロという友人が重い病気にかかっていることを聞き、彼らが住んでいるベタニアという町にやってきました。しかし、イエスたち一行がベタニアに到着した時には、ラザロは死後4日もたっており、墓に葬られていたという状況でした。マルタとマリアの姉妹は聖書には何度か登場しますが、ルカ福音書には、マルタは働き者で人の世話をする方、妹のマリアはどちらかと言えば、あんまり動かずにイエスのお話に耳を傾ける方として描かれます。(ルカ10:38-42)そんな逸話が福音書の中に記されていることからも、イエスとこの姉妹が親しかったことがうかがい知れますが、ラザロの死後に現れたイエスに対して、妹のマリアは、イエスにこう述べています。32節。
「11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。」
 あなたさえここにいれば、弟のラザロは死ぬことはなかった。このマリアの言葉と態度や、周囲にいたユダヤ人たちの態度からか、イエスは涙を流します。

イエスは涙を流された
今日の箇所、イエス・キリストの物語が記された福音書の中では、二つの大きな特徴がある箇所です。一つは、11章の35節「イエスは涙を流された」という箇所。新約聖書の中には、四つの福音書が収められておりますが、この11章の35節は、イエスの物語が記された四つの福音書の中でもっとも短い箇所である、ということです。日本語では、「イエスは涙を流された」と記されていますが、英語では「Jesus wept」(ジーザス・ウェプトゥ)ギリシャ語では「εδακρυσεν ο ιησους」(エダクルーセン・ホ・イエスース)と二つの単語と一つの冠詞で構成された節で、聖書の中ではもっとも短い節として知られています。また、この箇所は、イエス・キリストが唯一、涙を流した箇所として知られています。福音書の中における、イエスの感情表現は少なく、「憤った」「憐れんだ」などは良く出て来る表現です。また神殿における宮清めで怒っていることや弟子たちへの戒めを述べる姿はあります。ですが、はっきりとした感情表現として、「涙を流した」とあるのは、この箇所のみなのです。

神の涙という矛盾
 しかし、一方で、神である存在が悲しみに暮れ、涙を流すのだろうか、という疑問もあります。神という存在は、全てをつかさどる存在です。特に今日のテキストであるヨハネ福音書の1章1節の冒頭は、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とはじまります。そして、この「言(ことば)」とは、イエスのことを指しますが、続く2節3節では、このように続きます。「1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
「言」はこの世の創造の前から神と共にあり、「言」であるイエスによって、すべてのものが創造されたということです。ということは、イエスはすべてのものを知っているということです。ですから、わたしたち1人1人の誕生から終わりまで知っていることになる。とすると、今日の箇所。ラザロが亡くなることも、最初から知っていた、ということになります。たしかに、人の生き死やこの世の動き、そのすべてを、その最初から最後までを知っているとしたら、喜びも悲しみもなくなってしまうかもしれません。また、だとしたら、神の子、キリストであるイエスが、今日のように涙を流すというのは、おかしな話だ、ということにならないでしょうか。

涙に現されたもの
 ラザロの死、この事実に直面した時、イエスは涙を流します。このことからわたしたちはいったい何を知ることが出来るのでしょうか?人の死に直面して流す涙、自分の近しい存在を失ったときに流す涙。人間にとってはとても自然なことでしょう。人はそのことによって悲しみを無意識に和らげようとしている、とか、人の心にコップに喩えて、水をためたコップを揺らしたときにこぼれた水である、などとも表現されます。
 イエスが涙を流されまた、そのことを対して、周囲の人々から、二つの全く視点の異なった感想が語られています。一方は36節の言葉、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。イエスの涙から知ることが出来るイエスの内面に視点を置いています。彼らはイエスの涙を目にして、同じく涙していたかもしれません。そしてもう一つは37節の言葉、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」。涙を流されたことから、生き返らせることは出来ないと受け取っての言葉でしょう。この言葉の語り手は、イエスの人としての感情よりも、イエスが持っている力、神として持っている奇跡に興味があって、述べられた言葉ではないでしょうか。
 そして、これら二つのイエスに対する反応は、それぞれイエスが持っている人としてのあり方、神としてのあり方に対応しています。主なる神は多くの奇跡を起こし、福音書におけるイエス・キリストも多くの病を癒し、時に人の命さえも生き返らせました。そのような力を人が手に入れたとしたら、誰も死に関して、悲しむこともなくなるでしょう。死や病いが無くなれば、というテーマは人間にとって不変なものであります。だからこそ、神に祈り、求めるという行動を行います。そして、もし自分がそのような力を手に入れたら、悲しむこともなくなる、という思いがあるのではないでしょうか。そして、もしイエスが悲しむとしたら、また神が悲しむとしたら、それはどうなのだろうか、という思いを持つのではないでしょうか。そして、このことは先に紹介した『薔薇の名前』に現れる「笑い」を憎む修道士に繋がるのではないでしょうか。おそらくあの修道士は、イエスさまは感情など動かされなかった、笑うこともなければ、悲しむこともなかったと信じていたのではないでしょうか。

神が共にある
 イエスが、貧しい人々、虐げられている人々とふれあうとき、食卓を囲むとき、そこには笑いがあふれていたのではないでしょうか。イエスは周囲の人々と触れ合い、敵対者たちの皮肉的な質問に対して、たくみな皮肉や喩えによって、やり返しています。そのような時、その場には笑いがあったのではないでしょうか。また、今日の箇所に記されているように、イエスは、様々な人の悲しみを共に哀しみ、また喜んだのではないでしょうか。そして、イエスさま自身も、悲しみを持ち、涙を流したのではないしょうか。
 イエス・キリストが泣きもせず、笑いもしない神さまだとしたら、どうでしょうか。わたしたちが絶対的な神の力を求めていたとしても、ここで何事も無かったかのように、イエスが人々の涙に対して、なんら心動かされること無く、神の力を持って、ラザロを甦られせた、としたら。ラザロの兄弟であるマリアやマルタのことに木にかけること無く、泣いている人々に対して、「私は人を甦らせる神の力を持っている」といって、ただ甦られせ、「さあ、神さまを信じなさい」と言ったとしたら。信仰を失うことは無いかも知れませんが、このイエスさまが私たちが信じている神さまなのだろうか、と疑問を持つのでは無いでしょうか。
 イエスは今日の箇所で万能の神の姿を帯びるのでは無く、人としての姿を帯びて涙を流しています。そして、時には笑い、共に肩をたたき合い、弟子たちや周囲にいた人々と同じ時を過ごし、ふれあったと私は感じています。イエスは神の奇跡行為者でありながら、人間を超越した存在でありながら、涙を流します。イエスがここで涙を流したのはある意味、本当に人間であった証明と言えます。人の苦しみ・悲しみに涙すること。とても自然なことです。そんなイエスだからこそ私たちの思い、祈りを聞き入れてくださるように思います。
 そして、神がわたしたちと「共にある」とは、奇跡的な力が私たちと共にあるということではなく、わたしたちの悲しみを聞き、共に喜び、共に涙を流してくださる、ということではないでしょうか。そして、教会にとって大事なことも、神が私たちと共にあるように、教会の中における隣人と共にあること、教会の外にいる隣人たちと共にあることを目指して歩み続けることではないか、と感じています。主なる神がこのときも、そして、これからも、それぞれと共にあって、わたしたちの歩みを導いてくださることを信じたい、と思います。


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『罪に抗う道こそ平和への道』 (ヨハネ福音書8:1~11)

2016.08.14(21:15) 318

『罪に抗う道こそ平和への道』
(2016/8/14)
ヨハネによる福音書 8:1~11

姦通という罪
 今日の箇所、様々な捉え方がされます。イエスの慈悲深さを示す物語として、またイエスが持っている人という存在に対する鋭い視座を示すものとして、またファリサイ派や律法学者たちという論敵に対する見事な知恵の勝利として、など本当に様々な捉え方があります。さらに、ここに出てくる女性は、とある伝承によれば、マグダラのマリアではないか、として語られることがあります。また、そうした考え方を元にしてか、イエスを描いた映画などでも、マグダラのマリアとイエスの出会いの物語として、描かれることがありますが、聖書のテキストとしては、あくまで一つのテキストであり、一人の女性として捉えることが適切と言えるでしょう。
 「姦通」という罪は、結婚している夫であれば妻、妻であれば夫以外の存在と親しい関係を持つことを指し、十戒にも記されている重い罪と考えられていました。十戒には第5戒(第五の戒め)として、「姦淫してはならない。」(出エ20:14)とあります。一般に姦通罪というのは、いわゆる夫と妻以外の関係において、親密になったことを指すと考えられます。
 が、当時のユダヤ社会においては、夫は妻以外の女性と関係を持っても、罪を問われることはありませんでした。もっぱら妻が夫以外の男性と関係を持つことを罪とされており、この記事も夫のある女性、結婚していた女性が夫以外の男性と関係を持った場合にのみ罪とされ、罰が下されるものとされていました。なぜ、このような差別があったのか。
 実は、十戒にしても、律法にしても、男性中心的な価値観、いわゆる家父長制の家族制度、社会制度に基づいて、律法全体、法体系が男性中心的なものであったのです。姦通に関する罰が記されている箇所、申命記22章22節以下を開いています。申命記22章22節。(旧.315)「22:22 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」その前後に、様々な「姦淫」に関する罪と罰について記されています。実は、そこで何が大切に考えられているか、と言えば、夫と妻の関係に対する裏切り行為ということへの罰というものでないのです。

律法学者とファリサイ派の企み
 この女性、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、連れてこられました。彼らはイエスに質問しました。4節5節です。
「…「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 なぜ、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにこのような質問したのでしょうか。実は、律法学者とファリサイ派の人々のこの問いは、たくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされていました。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけた民衆の支持を失うということになります。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、律法の解釈者として律法の教師としての人気を集めていたイエス自身の人気が地に落ちてしまいでしょう。このように「許すべき」「許さないべき」、どちらの答えを述べたとしても、イエス自身が失脚する、立ち場を失うという良く出来た質問を投げかけているのです。しかし、イエスはその質問に対して、地面に何かを書くような仕草をしてから、逆に彼らに対して、ある質問を返します。今日の箇所、8章7節。(P.180)
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」

石打ち刑という罰
 その質問に対し、そこにいた人々は「(これを聞いた者は、)年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8:9)とのことです。なぜ、そこにいた人々は彼女に石を投げることなく立ち去ってしまったのでしょうか。また、なぜ「年長者から」立ち去っていったのでしょうか。
 このような理由が考えられます。石打ちの刑とは、律法にも規定されているユダヤ人独特の処刑方法です。石打ちの刑のみがユダヤ人の処刑方法だ、という理解もあるのですが、高いところから突き落とす、という方法もあり、ルカ福音書においてイエスがナザレに戻ったとき、高いところから突き落とされそうになる場面がありますが、それも処刑の一つである、と言えます(ルカ4:29)。
 そして、その手続きですが、どのような場合でも裁判のような形を取ります。そして、その中では、処刑されるべきだ、とされた人の罪を証言する人が、二人いなければ、それは罪として認められない、とされていました(マタイ18:16)。そして、その証言が得られ、死刑が執行されるとなった場合、最初の石を投げるべき存在として、その証言を行った人自身が行うべきとされているのです(申命記17:5-7)。
 こうした法律のあり方からこういうことが想像できると思います。いわゆる夫婦の裏切りの場合、残酷な話だと思いますが、その証言をする人というのは、裏切ってしまった妻の夫や婚約者、その家族の場合が多いのではないでしょうか。(赦す権利もあるということ)また、その最初の石が投げられたことによって、他の人が石を投げ、処刑される人は、その一つ一つの痛みによって、徐々に、ゆっくりと死に至っていくわけです。とても残酷な刑と言わざるを得ません。いっそのこと、一撃で、一瞬で殺してくれないか、と感じるでしょう。

石を投げなさい
 イエスに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と問われて人々は、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。ここにおいて、なぜ年長者はその場から立ち去ってしまったのでしょうか。この問いに正解はない、と思うのですが、わたしとしてはこんな想像をしています。それは、誰もこの女性が姦淫をしたという事実を見た人はいなかったのだろう、ということを思うのです。
 しかし、誰かの伝聞によって、この女性やその夫や家族にも訴えられていたわけでもないのに、イエスを陥れるためにこの女性はこの場に連れてこられていたのです。誰も彼もが、確かな罪を確認することなく、全体的な雰囲気によって、連れて来られてしまったのではないでしょうか。そして、イエスに「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」と問われ、改めて女性を罪に定めること、女性を死に至らしめることの重さを思い、誰も石を投げられなかったのではないでしょうか。
 
戦争の恐ろしさ
 日本が先の戦争を戦ってから、71年の時が過ぎようとしています。8月第一週は、日本キリスト教団においては、平和聖日として礼拝が守られております。今日のテキスト(聖書箇所)は、聖書日課に従ったものです。説教題にも「平和」という言葉が出て参ります。あえて、この箇所、平和のテーマとして捉えてみたいと思います。イエスは11節でこの女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃっています。この箇所、罪という言葉が二つありますが、岩波訳の聖書においては、この言葉を訳し分けて、このように訳されております。「「私もあなたを断罪しない。行きなさい。〔そして〕これからはもう過ちをやめなさい。」」
 断罪しない、ということ。その相手との関係を切らない、その相手を攻めない、その相手を攻撃しない、その相手と戦わない、その相手と戦争しない、ということに繋がるのではないか、ということをこのテキストから受け取りました。戦争の恐ろしさというものを考えるとき、良い言葉があります。「戦争ははじめるのは簡単だが、やめるのは難しい」また「戦争は、始めたいときに始められるが、やめたいときにはやめられない。」
 戦争が始まるとき、おそらく誰もが終わるときを想像して始まるでしょう。しかし、文明の発展がもたらした効果か、近代以降における戦争の多くが「戦争があって良かった」と言えるような終わり方をしているだろうか、ということを思います。また、最初は小さな争いであったかもしれませんが、どんどん大きくなり、またどんどん泥沼にはまってしまっていき、多くの生命や財産、資源を無駄にしていくことばかり繰り返しているように感じます。
 石打ちの刑で考えてみてどうでしょうか。最初は小さな石であったかもしれない。しかし、周りの誰もが石を投げるようになったらどうでしょうか。また、こういうことも考えられるでしょう。戦争が本格的に始まってしまったとき、誰もが石を投げることが当たり前になったとき、石を投げることがおかしいと思ったとき、石を投げることを辞めることが出来るだろうか。また、さらに石を投げる行為を止めることが出来るだろうか。
 写真家で桃井和馬という人がおられます。世界中の様々な紛争地を訪ねてこられてきています。その彼から、平和のことを話題にしているときに、このような質問をされました。「平和のことを考えることとは、ある日突然、自分の家族が殺されたとして、その犯罪者を許せるかどうか」という問題だ、といった内容でした。どうでしょうか?自分だったら、許せるだろうか?この問いは、自分の問題だけではありません。自分たちを攻撃する国や人々がいたとしてその人の家族が、自分が所属している国家や関係している存在に、もし家族や恋人、友人を殺されていたとしたら、どのような言葉や方法を持って平和を訴えるでしょうか。その人は、戦争を始めた人ではありません。その人も自分の家族の犠牲が合った故に、銃を取ったかもしれない。彼も石を投げられた犠牲者であったかもしれない、と考えたとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

平和への道
 聖書のお話に戻ります。イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになり、このような言葉を彼女にかけています。(8:11)
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 この女性が、イエスを陥れるために、この場に連れてこられました。それ自体は、とても不当なことでありました。しかし、この場に残り続けたということは彼女自身、いわれるような罪を犯していたのでしょう。なぜ、イエスはこの女性の罪に定めなかったのでしょうか。
 それは、この女性を罪に定めることによって、ますます神から離れた道を歩んでしまう、と考えたからではないでしょうか。この女性が歩むべき道は、罰を受けることではない、すでに充分に受けてきた。イエスはこう考えたのではないでしょうか。彼女に必要なのは、主なる神とこの女性が和解するだ、と。神と和解することによって、より良い道、より良い未来がある、と。神との和解は、また周囲の人々との和解へと繋がります。平和の課題でも同じではないでしょうか。自らの過ちにまず目を向け、間違いを正し、互いに許し合い、未来に対して新しい関係を築いていこうという姿勢こそが、平和へと繋がるのではないでしょうか。


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 ニケの像(長野県の美ヶ原高原美術館)
  ※何年か前の写真でっす。

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周縁自体


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『痛みを神の招きとして』ヨハネ福音書9:1-5

2015.03.23(21:08) 288

『痛みを神の招きとして』
(2015/3/22)
ヨハネによる福音書 9章1~5節

信仰と神義論

 信仰生活とは何なのか?様々な形で考えさせられることがあります。例えば、聖書研究会においても、テーマにしましたが、神さまがこの世に存在するのであれば、その神さまを信仰する人には、苦しみなどないのではないか?祈りが聞かれないとするのであれば、その神さまの存在には意味がないのではないか?何故、信仰深い人や正しい人が病気や様々な不幸によって苦しまなければならないのか?
 これらの問いについて、誰もが一度は考えたことがあるのではないでしょうか。また、信仰を持つにしても、持たないにしても、同じであれば、わざわざ忙しい毎日なのに、貴重な休みの時である日曜日の朝に時間を作って、教会に行って、礼拝に出るなどというめんどくさいことはしなくても良いのではないか?さらに当番、さらに役員、そんなことをやっているより、のんびり家でソファにでも腰掛けて、テレビドラマで格好いい俳優の顔でも拝んでいる方が、教会で長々とした説教というお話を聞いているよりマシと考えるひともいるでしょう。
 また、こんなことも言えます。キリスト教の神さまは、愛の神さまと言われている。そして、ですからイエスさまが罪人を訪ねたこと、また罪人と呼ばれた人々と一緒に食事をしたりしたことから、考えてみたら、礼拝に行くとか行かないとか、洗礼を受けるとか受けないとか、そうしたことで神さまは差別しないのではないか。だったら、礼拝に行くよりは、家でのんびりしていた方が良い…。
 こうした問いのことを神義論と言い、旧約聖書が記された古代イスラエルの時代から、このような問いが常に行われていたことがその内容から理解することが出来ます。例えば、コヘレトの言葉1章2節3節。(P.1034)「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。/太陽の下、人は労苦するが/すべての労苦も何になろう。」
口語訳聖書においてはこのように訳されていました。「…空の空、空の空、いっさいは空である。/日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」(伝道の書1:2-3)
 コヘレトの言葉には、他にも、良いこととしたとしても、何も変わらないのであれば、生きる上で何の意味があるのか。また、悪人たちがとっても幸せそうに暮らしているのではないか。神さまは本当にいるのだろうか。また、そうした不義、理不尽を赦す神さまであれば、神さまとしての意味があるのだろうか。また、ヨブ記に記されておりますヨブと友人たちとの対話、サタンの試みによって、不幸が訪れたヨブに対して、友人たちは、「何か罪を働いたのではないか?」と、ひたすらにヨブに対して厳しく問いかけます。さらに詩編や箴言もそうした詩や言葉に溢れています。

痛みと信仰
 もう一度、ヨハネによる福音書9章1節から3節をお読みします。(P.184)
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
先週の礼拝説教で、クイズにしましたが、今日の聖書の箇所。どちらが好きか、と言えば今日の箇所、現在、私が一番嫌いな聖書の箇所であります。ある人が病気になりました。そして、それは生まれつき目が見えない、という病いです。しかし、それはイエスさまがやってきて、「神の業」が現れるため、「神の奇跡」が現れるための病いでした。そして、神さまの計画通りに、イエスさまがこの人のところにやってきて、この人は癒されました。良かった。やっぱり神さまは本当の神さまで、イエスさまは本当に神さまの子どもだった、と。喜べるだろうか、というのが、この箇所に対する私の一つの疑問です。

契約信仰と創造信仰の間で
 神学的に言って、この箇所を論述しますと、様々なことが言えます。一つは、信仰するという行為は、その人が持っている民族や血統や家族といった関係ではなく、一人の人と神との関係が問題なのだ、ということを、この箇所は明らかにしています。
 旧約聖書のエゼキエル書18章1節から3節には、このような箇所があります。(P.1321)
「主の言葉がわたしに臨んだ。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。」
 いわゆるイスラエルの民、イスラエル民族と神さまの関係は、民族と神との契約であり、信仰的には、神と民との契約における信仰、また宗教の形としては民族宗教ということが出来ます。この箇所は、そうした宗教のあり方、信仰のあり方を乗り越えている、と言えます。
 また、こういうことも言えます。創世記の始めに記されているように、この世にあるものすべて、この世に生きる者すべてを主なる神が創造し、この世のすべてを神さま人の歩みにおける始まりから終わりまで、すべてが主なる神の意志によって動かされているとする信仰のあり方。こうした信仰の形を創造信仰と言いますが、すべてが神の支配の中にあるのであれば、どんな苦難の中にあっても、不安があっても、安心できる、でしょうか。

聖書における空白・信仰における空白
 今日の箇所が、嫌いな理由ですが、誰でも信仰に至るには、それなりの葛藤があると思うのです。が、この箇所には、そうしたことが書かれていない、ということが嫌いな理由です。そんなに単純なものだろうか。また、たとえ神さまご自身であったとしても、イエスさま自身に言われたとしても、それは踏み込みすぎではないか、というように感じるからです。その間には、誰にも触れることが出来ないような何かがあるはずです。それを、そんなに簡単に言ってしまっていいだろうか、ということです。信仰に至るには、また洗礼を受けたりすること、自覚的に教会に通うという歩みに至るには、誰もが言葉に表すことが出来ない時を過ごすことがあるのではないでしょうか。
 例えば、聖書でも考えてみれば、そうした信仰的な確信に触れるような事柄、中心的な事柄は、空白が多いように思います。このようなことを聞いたことがあるでしょうか。旧約聖書は、イエス・キリストの前ぶれの書であり、新約聖書はイエス・キリストがこの世を歩んだ記録集である、と。言い換えますと、旧約聖書はイエスの前、新約聖書はイエスの後である。そうしますと、旧約聖書と新約聖書の間にイエスさまはいることになる。で、聖書を開いてみますと、旧約聖書と新約聖書の間には、真っ白なページが1枚挟まっている。これがイエスさまだという事ができるかもしれません。またその一枚のページこそが信仰の難しさを示していると言えないでしょうか。

痛みを神の招きとして
 聖書の中には、イエスに付き従っていった弟子たち、またイエスの教えに導かれて、信仰の道に至った人々、イエスに病いを癒されてイエスを神の子として証した人々、様々な人が記されております。が、信仰に至ったのには、誰にしても、現すことが出来ない空白の部分があるのではないか、と思うのです。わたし自身も、先ほどのような数々の問いにおいて、答えが出たわけではありません。しかし、聖書において記されているイエスの歩みに従いたいと思い、洗礼を受け、また牧師として歩む意志を与えられたわけです。しかし、今でも、神さまに対しては、疑問と確信の間にいるように思います。そして、信仰を持つ、というあり方は、それで良いのではないか、と感じています。
 信仰のあり方として、疑問と確信には違いがあるように思ってはいないでしょうか。自らに起こる様々な出来事を完全に神さまの意志によるものとする信仰のあり方と、主なる神に対して様々な疑問を投げかける信仰のあり方。違うようには考えていないでしょうか?また、神に対して疑問を持つあり方は、不信仰である、という考え方をしてはいないでしょうか。しかし、先に紹介したように、旧約聖書の中にも、神に対する疑問の言葉は記されています。またイエスさま自身も、このような祈りを献げています。(P.92)
「「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」(マルコ福音書14:36)
 ゲッセマネの祈りに見られるイエスの信仰のあり方。ここでイエスは自分の運命を拒否しながらも、受け入れています。そうした意味で言えば、最初に問いかけた問い、神義論という言葉を借りるのであれば、神が正しいか正しくないか、信仰を持つか持たないか、という二元論をイエスは乗り越えて、両方の地平に足をつけて、立っていると言えます。そして、私たちの信仰のあり方もイエスのように、確信と疑問または信仰と不信に、足をつけて歩む信仰の道ということがありうるのではないか、と思うのです。

隣人と共なる信仰・イエスと共なる信仰
 今日の箇所、最初に嫌いな聖書の箇所であるということをお話しさせていただきました。わたしが嫌いというか、好きになれない理由は、これまでお話ししたように、あまりに神さまに、またイエスさまに対する信仰的確信に基づいた箇所であるからです。人がその人生を歩む上で、様々な患難に襲われることがあります。そして、確かにあらゆる苦しみや痛みを神の計画として、神の招きとしては、受け取ることが出来たら、それはとても幸福なことかも知れません。嫌いな讃美歌だったら「来たれ、来たれ、苦しみ」(21-483)をあげますが、そんなように苦しみのすべてを受けとめられたら、幸せかもしれません。
 「神を畏れることは信仰の始まり」という言葉があります。同じように、神に対する疑問から信仰の道は始まるのではないでしょうか。それは、また自らの信仰の有り様に対する疑問ではないでしょうか。誰しも、私たちは確信を持って、強く歩みたい、というように願います。しかし、その強さとは、何の助けもいらない、ということを示していないでしょうか。信仰を持つとは、神と共に歩むこととするならば、強い信仰とは間違った信仰であるということにはならないでしょうか。また一人きりで歩むことが出来る強さが信仰とするのであれば、隣人と呼ばれる他者の存在はどうなってしまうのでしょうか。イエスさまは、神を愛すること、また自分と同じように隣人を愛することを命じました。それは隣人と共に歩むことではないでしょうか。そして、それが教会に必要なあり方ではないでしょうか。
 ただ神に集中することによって、イエスに集中することによって、他者の存在、隣人の存在をないがしろにしてはいないでしょうか。教会という場所が自らの自己実現の場所になってはいないでしょうか。そうではなく、様々な違いを超えて、また信仰のあるなしも超えて、そこに集う人々と歩もうとする場所が教会ではないかなあ、と思います。そして、そうした歩みこそが、宣教であり、伝道と呼ばれる業ではないでしょうか。私たちは、主なる神の前においては、主イエスの前においては、相応しくない者の集まりであります。しかし、イエスさまは私たちと共に歩んでくださっています。今日の聖書の箇所をもういちどお読みします。ヨハネ福音書9章3節。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
 わたしが大嫌いな箇所です。しかし、いつかは、そうした信仰の地平に至りたい、という思いもあります。わたしたちは常に、主なる神へ対して疑いを持ちながらも、良き歩みへと導かれたいと願っています。また、疑いを持ちながらも、願いを持ちながらも、神により頼む存在であります。そして、そうした歩みは、ただ一人の歩みではなく、隣人と共に手を取り合っての歩みではないか、と感じています。また山登りに喩えるのであれば、1人ではない歩みであり、助け合いながら、いつか、その頂上に手をかけ、両方の足で立ちたいと願い続けることではないか、隣人と助け合いながら、その頂を、めざし続けることが信仰の道ではないか、と感じています。

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周縁自体


ヨハネ
  1. 『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11) (07/29)
  2. 『信仰の原点としての復活』(ヨハネ福音書20:19〜29)(04/08)
  3. 『神の涙という矛盾』(ヨハネ福音書11:28-37)(05/07)
  4. 『罪に抗う道こそ平和への道』 (ヨハネ福音書8:1~11)(08/14)
  5. 『痛みを神の招きとして』ヨハネ福音書9:1-5(03/23)
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