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『もう一度、歩みだそう』(マタイ福音書28:1〜10)

2020.04.12(11:25) 399

『もう一度、歩みだそう』
(2020/4/12)
マタイによる福音書28:1~10

イースターとは? —何を受け継いでいくのか—
 あらためてイースターとは何なのか、ということを考えてみたい。そして、イエスが復活したことを記念するイースターでキリスト者として、何を大切にして、何を語り継いでいけば良いのだろうか。イエスが復活したことを記念するイースターは、キリスト教会の始まりであり、その根拠とも言える。イエスが十字架上の死の後、何が起こったのか、とても知ることは出来ない。が、とにかく弟子たちが、イエスが予言していたとおり復活し自分たちの前に現れた、ということを宣べ伝えたことが初代教会の始まりであった。どれほど歴史が進んでも、それは変わらないであろう。だが事実として、どのようなことが起こり、それがキリスト教として真実となっていったのか。ということは、あまり問われないことかもしれないが、キリスト教にとって、とても重要なことではないか、と思う。
 キリスト教辞典(キリスト新聞社)の「よみがえり」の項目には、このように記されている。
「弟子たちが確固たる信仰をもって主イエスの復活を宣べ伝えていることは、きわめて印象的である。特に十字架によって彼らが受けた絶望感を念頭に置く時、その間に起こった変化に驚かずにはおれない。彼らが主イエスの遺体を他に移して、復活信仰を捏造したという、敵側の中傷を意に介せぬように淡々と書き残しているのは、弟子たちの復活の確信を示すものである」
 説得的に復活の事実を説明しているが、興味深いのは心理的なアプローチで近づこうとしていることだ。私は、弟子たちが復活したイエスとの再会には、とてつもない恐怖が伴ったではないか、と想像している。マルコ福音書6章49節には湖上を歩むイエスを見て、弟子たちが「幽霊だ」と大声で叫んだ、というテキストがあるが、これも元々は復活伝承ではなかったか、と考えている。また、マルコ福音書16章8節においても、空の墓を見た女性の弟子たちが、「震え上がって、正気を失っていた」とあるが、これも同じである。これらの二つの伝承から、イエスの復活には、とてつもない恐怖が伴ったことが想像できる。そして復活を受け入れたとしても、次には「本当だろうか」という疑問があり、事実として受け入れるまでには時間がかかったのではなかろうか(ヨハネ20:24-29など)。そして、感動の再会は同時に、弟子たちにとっては赦しの瞬間でもあったであろう。しかし赦し、その後への歩みへ至る過程は人それぞれであり、そうした違いが復活伝承の多様な記述に反映したのではなかろうか。

「堀伝」という教会
 名古屋堀川伝道所の第一印象は、とても大人な教会であるということである。誰もが自立した信仰生活を営んでおり、教会という箱に依存していない、また牧師という存在に依存していない、ということであった。おそらく、それは堀伝の歩みの初めから始まっていたことであろう。代務者の時代も長く、日常的な礼拝のあり方にもそれは現れている。また信徒同士の関係においても、言えることであろう。また牧師であろうと信徒であろうと、対等な関係であることが、堀伝の大きな魅力であると感じているが、日本の一般的なキリスト教会のあり方とは一線を画している。
 2020年度、この4月から私は「堀伝」の牧師、主任担任教師として就任する。一つ特徴的なのは、他の3名の協力牧師との共同牧会という形である。前任牧師の辞任が決まってから、私も堀伝の1メンバーとして、堀伝のこれからの歩みの話に加わってきた。その中で、1人1人が教会のあるべき姿に対して、とても自由に発言をし、意見交換していることが印象的であった。誰もが「教会は?」という主語で語るのではなく、自覚的に自由に発言していたということであった(詳しい内容は、他記事の報告にて)。
 そして、その結論として礼拝に集っている4名の教職による話し合いによって決定して欲しい、との結論を経て、私が主任担任教師として手を挙げ、原則月二回の礼拝説教とその他、牧師としての責任を負うこと、また3名の協力牧師によって、月二回の礼拝説教と、その他の教会の業(これからの話し合いによるが)を担って頂く形を取り、新しい歩みを歩み出すこととなった。

「堀伝」と私のこれから
 私自身、名古屋に戻ってからは、フリーの牧師として、日本基督教団の制度上で言えば、無任所牧師として、具体的な教会の現場は持たずに様々な教会において礼拝説教を重ねてきた。今現在、日本キリスト教団のみならず、多くのキリスト教会が、従来の教会と牧師の関係、一教会一牧師という形を維持することが難しくなってきているということである。また、たとえ一教会で一牧師の生活を守ることができたとしても、これからの変化の時代においては、牧師自身も他に仕事を持つなどして、牧師同士、また教会同士が支え合うことで柔軟にこれからの変化に対応できるキリスト教会を形成していくことができるのではないか、と考えている。そのためにも、今後も堀伝だけでなく、他の教会でも積極的に礼拝説教の奉仕などを外へ出て行くことも続けていきたい。
 堀伝にしても、その他の教会にしても、高齢化や信徒の減少。そして牧師と教会の考え方のミスマッチなど、様々な課題がある。私自身、前任の教会を辞したときの根本的な原因は、牧師として私が考える教会像と教会(信徒一人一人)が考える牧師像のズレであった。教会という場所は、過去から現在、そして未来へと進んでいる。そして同じ時、同じ場において様々な世代、様々な考え方を持つ人々が集っている。が、牧師としても信徒もそれぞれが自己を絶対化してしまうことがある。その時、何が起こるか、と言えば、教会がそこに集う人、今現在集っている人だけの物となり、未来に集う人、明日集う人のための教会、キリスト教となることができなくなるということはないだろうか。また常に、社会の課題に目を向けることは同時に、その先にある一般の人々に目を向けることである。それこそが宣教の業、伝道の業になるというのが、堀伝的な歩み方であろうと考えている。そして、過去がこのようであったから、現在も同じであり、未来も同じである、というようには考えない自由さを持っていると考えている。そして、このような教会だからこそ、一人の牧師だけではない宣教(教会の活動)、協力牧師という立場の人々もいて、それぞれがちょっとずつ負担を背負い合っていく教会の活動が実現できるのではないか、と考えている。

復活とは「赦し」であり、新しい「旅のはじまり」である
 話をイースターに戻す。復活は、とても不思議な伝承、記述である。イエスの復活、イエスとの再会には弟子たちは多大な恐怖があったと思う。そして、その再会は単なる喜びではなく、大きな赦しがあったであろう。十字架刑の前夜に、「たとえ、死ぬようなことがあっても裏切りません」と言っておきながら、逃げ出してしまったわけである。そして、裁判の場面、十字架への道の場面、十字架に掛かってしまってから、たとえ、助けることは出来なかったとしても、せめて顔を見るようなことぐらいは出来たかもしれないが、出来なかった。そして、そんな裏切りをしてしまった導き手、イエスが復活したという、とても顔を合わせることなどできないというが普通ではなかろうか。しかし弟子たちは復活したイエスに出会い、イエスと共に歩んだ旅路を、イエスを道しるべとして、弟子たちのみで歩み出している。そこには、とてつもなく大きな「赦し」と「和解」があったのだろう。
 マタイ福音書28章7節をお読みします。
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 教会の歴史は、ルカ福音書そして使徒言行録に記されていますように、エルサレムにおいて始まりました。ですから、「イエスにはガリラヤに会える」という言葉というのは、歴史的に言えば間違っているとも考えられる。しかし、この言葉、実際にガリラヤへ行けということではなく、イエスと弟子たちが歩んだ、ガリラヤからエルサレムへの道、イエスが共に歩み、イエスが教えを語り、イエスが様々な人を癒やし、イエスと共に様々な人々と触れ合ったあの旅の日々に立ち返りなさい、という指針、導きではないかという捉え方ができるのではなかろうか。
 イエスはペトロや他の弟子たちと一度ではなく、何度かにわけて、同時にではなく、再会を果たした。ここには、彼等がそれぞれどのような思いをもって、イエスと再会したのか、また赦しを得たのかという過程が記されていると言えないだろうか。最初は恐れであったものが、その恐れの記憶というのは、赦しと和解を経て、喜びの記憶へと変わっていったのではないだろうか。

もう一度、歩みだそう
 マタイ福音書28章10節をお読みします。
「28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」」
 ガリラヤへの促しは、もう一度新しい旅を始めようという勧めです。弟子たちにとっては、二つの恐怖、恐れがあったと思います。一つは、イエスと再会することへ恐怖、そして、もう一つは、イエスがいないという状況の中で、キリストの群れであるエクレシア、教会を率いていかなければならないという責任に対する恐怖です。弟子たちにとっては、一度目の旅は、イエスと共になる旅でありました。しかし、二度目の旅は、弟子たちが、エスがいない状況の中において、イエスの歩みによって生まれた群れを率いて、歩んでいく旅であった。そして、不安がありながらも、経験もしなかった歩みでありながらも、イエスが共にあることを信じて、歩んでいったのではなかろうか。
 イエスと弟子たちの再会には「赦し」がありました。教会の歩みは、イエスに赦され続ける歩みではないでしょうか。教会の歩み、また一人の信仰者の歩みも小さなものであり、間違えることもたくさんあるだろう。しかし、そうした過ちも含めて、復活の主イエスに赦されて続けているのではなかろうか。平和への祈り、神の国の実現の祈り、とても私たちには実現不可能な祈りかも知れない。しかし、そうした祈りを献げること、またそのために働き続けることを、私たちは主イエスから、微力ながらも赦されて、祈り求めることを赦され続けていると言えます。イースターとは、主イエスが私たちのような小さな存在と共にいるということを確認する時です。これからも主イエスが共にいることを信じて、歩み続けていきましょう。

(名古屋堀川伝道所教会通信『群衆No.234号』掲載/一部編集)


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『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイ福音書 1:18~25)

2018.12.26(16:22) 384

『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイによる福音書 1:18~25)

正しい人ヨセフ
 今日は、ヨセフの視点に立ってイエスの誕生、父ヨセフにとっての子であるイエスについて考えてみたい、と思います。今日の箇所で、このヨセフ、マリアが結婚前であったのにも関わらず、イエスを身ごもっていたことを知り、19節において「正しい人」であったので、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としたと記されております。
 このヨセフの「正しさ」、実は様々な捉え方が出来ると思います。どうでしょうか、一般的にも、多くの人の価値観においても、「離縁」しようとしたのは、ヨセフと婚約していたマリアが結婚前であったのに、妊娠したというのは他の男性と望ましくない関係があった証拠だ、と。だから、離縁しよう、と。そんな女性とは結婚できない。そんな「正しさ」をヨセフは持っていた、と。そのような説明がしやすいものです。

律法的に正しいヨセフ
 しかし、そうではなく、そうした正しさを曲げて、当時の律法の解釈によれば、婚約中、結婚前に妊娠していたことが明らかになったら、マリアは死刑になってしまうことになっていました。そこでヨセフは、そうしたことをさけるために、ヨセフは結婚しないことにしたのだ、という捉え方です。婚約を破棄するというのは、当時で言えば、離婚するに等しいことです。さらに結婚前なのに、子どもがいたとなれば、たしかに、マリアは様々な非難を受けるかもしれません。しかし、結婚前に離婚してしまえば、死刑になることからは免れる。そして、子どもも母親を失うことは無い、と。そんな理由からヨセフは、マリアと離縁、別れようとした、というお話です。なるほど、ヨセフという人、実はとっても思いやりに富んだ人だったのだなあ、と思わせる説明でした。ま、こんな複雑な解釈もありますが、自分の子どもではない子どもを育てるのは、「正しい」とは言えないけれども、命を助けることを「正しい」こととして、結婚したという捉え方も出来るでしょう。

家父長制における長男
 ヨセフが持っていた「正しさ」とはどういったことでしょうか。「正しさ」とは、何なのか、現代においては、様々な「正しさ」の対立によって、世界における国と国、また人と人とが、ぶつかり合ったり、いがみ合ったりしているように思います。
 聖書においても、この「正しさ」は大きなテーマとなります。律法において正しいのか、人を守ることの正しさなのか。例えば、今日の箇所の直前、マタイ福音書、新約聖書の冒頭、アブラハムからイエスに至る系図が記されています。どのような意図、意味があるのでしょうか。ぱっと読んでみると、イエスがアブラハム直系、ダビデ直系の、ユダヤ人としては、とっても「正しい」家系、日本風に言えば、家柄の持ち主だということを伝えたいように感じます。
 しかし、よく読んでみると、違う意図があるようにも感じます。この系図、ほぼ男性しか記されていない系図に、5名の女性について、記されている点です。1章3節に登場しますタマル。彼女は、創世記〔Gen28:26〕に登場し「子ども」に恵まれず、夫とも死に別れた為、売春婦に化けて、自分の義理の父であるユダをだまして、関係を持ち、子供を持った女性であります。そして5節に登場するラハブ〔Jos2c〕も売春婦であり、さらに付け加えますとユダヤ人ではない「外国人」であります。そしてルツは有名ですが、彼女も外国人であり、さらに違う神様を信じる異教徒であります。そしてウリヤの妻も外国人であり、〔2Sm11:1-12:25〕ダビデが自分の部下の妻を横取りして自分の妻とした、という話に基づいております。世界中にはいろいろな形の系図があります。多くが男性中心でしょう。そして女性の名前が書いてあったり書いてないものもあります。ですが、望まれる立場の女性の名を記すことがあっても、わざわざ望まれないような女性のことを記すでしょうか。これらの女性の背景には、ユダヤ人としては相応しくない、あまり公にしたくないような事柄があります。

なぜ5名の女性について記されたのか?
 なぜ、この5名の女性について、記されているのでしょうか。それは、神の愛は、律法や人の思い通りには現れない、人の側の「正しさ」という枠にとらわれない、ということが示そうとしているのではないか、と感じています。そして、聖書全般にも現れていると言えます。
 たとえば、不思議なことですが、律法に寄れば、家の権利、家父長制においては、長男が家を継ぐべきと書いています。でも、実は、しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという父祖たち、族長時代と呼ばれる時代の人々は誰もが、兄がいる弟であって、律法を破っているのです。律法においては、家の権利は、家の長の権利は、長男が継ぐべき、となっておりますが、この4人とも、長男とは言えず、長男が引き継ぐべきという律法、教えを守った者はいないのです。
 そういった意味では、聖書というものには、律法や神の教えといった正しさがある一方で、「人間の現実は、なかなかそのようにはいかないよね。でも、神様はそんな人間も愛してくださるんだよ」っというメッセージが込められているのです。

「正しさ」が求められる世の中
 「正しさ」とは何でしょうか?私の日常生活においても、問題となります。子どもたちに対して、良いことをしたら褒めて、悪いことをしたら怒る、という毎日を続けています。しかし、どうでしょうか?「正しい」行いをすれば褒めて、またご褒美でもあげて、悪いことをしたら、怒る。何も挙げない。そればっかりではないですが、そういうことが続いたら、どうなんだろう?って考えることがあります。良い子だったら得をして、悪いことをしたら、罰せられる。そういうことを続けていたら、子どもはどのように育っていくだろうか?良い子として育っていくだろうか。そうではないかもしれない。親の目ばかり気にする子として、見えるところ、得をするところでは「良い子」「正しい子」であるかもしれません。また、その子たちが他の人に接するときには、どうなるだろうか?やさしくできるだろうか?隣人に対して、正しい事ばかりでは無い。間違ったことをする人もいる。社会的に弱い人、正しくありたいと思っているのに、それが出来ない人、人たちに対して、どのような態度を取るだろうか。
 例えば、あのアドルフ・ヒトラーは、父親から体罰を伴った厳しいしつけを受けていた、ということが知られています。ヒトラー世代のドイツでは、特別なことではなく、広く行われていた教育法で合ったそうなのですが、悪いクセに対して首や腕を固定して姿勢を正したり、何か悪いことをした場合には、きびしく罰するといった教育法(?)だったそうです。しかし、ヒトラーが学んだのは、正しいクセや姿勢や行いではなく、自分をムチ打つ父親の姿そのものだったのでしょう。こうしたことを「闇教育」という言い方をします。そして、その当時のドイツでは、そうした教育法が、主流だった、流行っていたそうなので、名も無きヒトラーたちが数多くいたと考えられます。私もどうだろうか、と考えてしまうことがあります。そうした教育の果て、闇教育の果てには、どのような運命が待っているだろうか。他者に対して、隣人に対して、いわゆる「優しさ」というものを持つことができないのではないだろうか。子どもの成長、人間の成長というのは、複雑なものですから、そうも単純なものではないですが…。
 こんな風に考えてみますと、「正しさ」というのは、重要なことではありますが、それをどのように伝えるのか、どのような「器」で伝えるのか、ということの方が大きな影響を与えるように思います。体罰の課題、大相撲の世界を揺るがしていますが、あそこにも正しさをどのような方法で伝えるか、という方法のみが伝わっていた、と受けとることも出来ます。

「正しさ」の人ヨセフ
 聖書の話に戻ります。イエスの父ヨセフは、彼自身の「正しさ」によって、マリアと離縁しようとしました。この「正しさ」は、律法を守るためではなく、マリアの命を守るためでした。そして、ユダヤ人として理想的ではない系図もそのように言えるかもしれません。人間の現実、律法やいわゆる世の中の正しさだけで、生きているわけではない人という存在の現実を受け止めている。そうした不完全な存在である人間を守ろうという意志がヨセフにあった、そして主なる神にもあったと言えるのではないでしょうか。
 最後にしますが、クリスマスにおいて、ヨセフはなかなか前面に出てくることはありません。しかし、ヨセフがもっていた正しさは、イエスの中に脈々と流れていたのでは無いでしょうか。現代日本において、力をもたない幼子が当たり前の愛情を注がれずに育たざるを得ない状況があります。イエスは、この世に何の力もない赤ん坊として誕生しました。クリスマスは、そのことを祝いますが、何も力のない赤ん坊は、何の力もありますが、その笑顔によって、多くの人々を笑顔にし、そして幸せを感じさせてくれます。誰もが赤ん坊として、この世に生を受けました。しかし、いつの間にか、力や知識やその他の要素によって、また自らの「正しさ」によって人を比べてしまうようになってしまう。
 クリスマスという出来事は、誰でも赤ん坊のように、神の前には何の力もない存在であるけれども、愛されるべき存在なのだ、ということを思い起こす日ではないでしょうか。1年で一番寒い時期、弱ってしまう時ですが、神様が私たち一人一人を愛してくださっているということを胸に、また歩み出したい、と思います。

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『傷だらけの系図』(マタイ福音書1:1〜17)

2017.12.12(08:02) 361

『傷だらけの系図』
(2017/12/10)
マタイによる福音書 1章 1~17節

福音書の冒頭
 新約聖書には、福音書が4つ含まれており、それぞれ福音書を生み出した教会や信仰者の信仰が現れています。比較するため、マタイ以外のもの、マルコ、ルカ、ヨハネの書き出しに触れます。マルコ福音書1章1節をお読みします。(P.61)
「1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。」
 ここにはイエスの物語を小説のように記そうという意識があります。そして興味深いのは、その「活動」に意識が集中している、という点であります。また、「福音の初め」とありますが、マルコ福音書において、福音とは、イエスの存在というよりも、イエスの言葉や活動そのものということができます。
そして、ルカ福音書1章1節から4節までをお読みします。(P.99)
「1:1-2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」
ここには、イエス・キリストの物語を文字どおり「順序正しく」伝えたい、実質的な歴史として伝えたい、という意識が働いています。この背景には、既にイエス・キリストの出来事・福音が様々な形、記されたものや口伝えで知られていた。そして、違いがあり、何が本当か判らない…そういった状況の中で、「正しいイエス・キリストの物語を記そう」「歴史としてのイエス・キリストの物語」を伝えようという意識が働いています。
そして最後のヨハネ福音書1章1節をお読みします。(P.163)
「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
 ヨハネ福音書の冒頭は、あきらかに創世記1章に基づいて、記されております。天地創造物語の影響があります。天地創造物語において、この世のあらゆるものは、主なる神によって創造されていますが、必ず「○○あれ」という神の言葉がその創造に先立っています。そのことから、「言葉は神と共にあった」そして、その神と共にある「言葉」がイエス・キリストとしてこの世にやってこられる、という信仰が背景にあります。

「系図」に記された思い
 そして、今日お読みしましたマタイ福音書1章1節をお読みします。
「1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」
 この箇所は、「ビブロス」という単語から始まります。そして、この言葉は「パピルス」という言葉に由来があり、英語の「バイブル」いわゆる「聖書」と訳される言葉の語源でもあります。『記されたもの』『本』『歴史』と訳される言葉です。新共同訳聖書では「系図」と訳されておりますが、「アブラハム」と「ダビデ」の名前を列記することによって、アブラハムからダビデの直系の子であるイエスという意味が込められているのです。そしてこの長々と記された人の名は、創世記から始まるイスラエルの民、ユダヤ人と主なる神との「歴史」または「物語」を語る前の振り返りである、と言えます。
 しかし、ここで考えてみたいのは、系図というのは、あくまで恣意的なものということです。日本でも家父長的な家族観(家族のとらえ方)に基づいて、記されている、ということを考えなければならないと思います。例えば、日本においても系図といえば、基本的には、誰か1人の個人や関係を起点にして書かれることが多いと思います。家という話にすれば、曾祖父などに立派な人がいて、その人から始まって、自分とどのような関係なのか、という形で見ることが多いでしょうか。しかし、あくまでそれも男性中心であり、家の枠を示すためのものと言えます。また、人の歴史の中においては、母系社会もあり、母系に基づいて、女性中心に系図を記してみたら、どうでしょうか。まったく違うものになるでしょう。またこんな想像もできるのではないでしょうか。マタイに記された系図、アブラハムに始まり、ダビデを経て、イエスに至っています。これはイエスが、アブラハムの子孫であり、さらに王家の家系であるダビデ家に属しているということを示そうとしています。
 しかし、ユダヤ人であれば、基本的にはアブラハムの子であることは当然でした。また更に言えば、マリアは聖霊によって身ごもっているので、父であるヨセフの家系など、血脈という意味では、まったく関係のない話になってしまいます。また更に、家系というものを逆に考えてみたいと思います。どうでしょうか?アブラハムからユダヤ民族が始まりました。大和民族でもかまいません。そして、それは、あらゆるユダヤ人が含まれているものです。そういった意味で、ピラミッド型の家系図ができます。しかし逆に考えてみて下さい。1人の人には父と母がいます。そして、その父にも母にも、それぞれ父と母がいる、と。さらにどんどん遡ることができます。すると、どうでしょうか。まったく逆さまのピラミッドを描くことができるのではないでしょうか。まあ、これは一種の言葉遊びのようなものでしょうが、系図というものにどれだけ書かれた人の意図が含まれているか、ということを考える刺激になるかもしれません。

マタイにおける「イエスの系図」
 今日の聖書の箇所、マタイ福音書に記された系図を、まず大まかに触れてみたいと思います。この系図は、大きく3つに分けることが出来ます。
 1段落目は、1章2節から6節前半まで。2段落目は6節後半から11節まで。そして3段落目は、12節から16節までです。この三つの分け方にはある種の流れがあります。系図はアブラハムに始まり、そしてダビデまで一四代で記されていますが、ここまでは『上り坂』です。誰もが主なる神を信じる者として生きていた、そしてその頂点がダビデです。そしてその頂点が解るようにダビデにのみ『王』という称号が付与されております。次の2段落目は、実は、王たちが記されています。それなのに、「王」という称号は、まったくつけられておりません。そして、王たちは主なる神を裏切り続け、他の神の信じ、律法を破りました。そして、その結果としてダビデによって建てられた国は亡び、主だった人々は「バビロンへ移住させられ」ました。主なる神に率いられたイスラエルの民としては「下り坂」どん底です。そして3段落目、12節から16節まで捕囚期、捕囚からの解放、そしてイエス・キリストまでの歴史は、「上り坂」です。だだ単の羅列ではなく、この系図にはそのような考え方があって記されているのです。
 6節にある「王」という言葉は、イスラエルの民の絶頂期、「良き時代」を意味する鍵語(キーワード)であります。
そして逆に、11節12節に記された「バビロンへの移住」は、イスラエルの民の最低の時代を意味する鍵語(キーワード)なのです。そして、16節に「メシア」という鍵語が現れます。2度目の絶頂期、「良き時代」の到来をこの系図、歴史の羅列によって記そうとしている、と言えるのです。

タマル・ラハブ・ルツ・バトシェバ
 そして、この系図における不思議な点に触れてみたい、と思います。このほぼ男性しか記されていない系図に、4名の女性の名前が記されている点です。
 1章3節に登場しますタマルは、創世記〔創28:26〕に登場し「子ども」に恵まれず、夫とも死に別れた為、売春婦に化けて、自分の義理の父であるユダをだまして、関係を持ち、子供を持った女性であります。そして5節に登場するラハブ〔ヨシュア2章〕も売春婦であり、さらに付け加えますとユダヤ人ではない「外国人」であります。そしてルツは有名ですが、彼女も外国人であり、さらに違う神様を信じる異教徒であります。そしてウリヤの妻バトシェバも外国人であり、〔2サム11:1-12:25〕ダビデが自分の部下の妻を横取りして自分の妻とした、という話に基づいております。世界中にはいろいろな形の系図があります。が、これらの女性の背景には、いわゆるスキャンダラスな背景があり、なるべくならばこの4名の女性のような「存在」は、どちらかと言えば、わざわざ記すべきような事柄が込められている名前ではありません。しかし、記されている。とても不思議なことなのです。

なぜ4名の女性について記されたのか?
 このことに関して、広く二つのとらえ方があります。一つ目は、マタイ福音書は、ギリシャ語で記されており、これは福音書が記された教会の状況に適合します。当時のキリスト教会は、アラム語を話すユダヤ人よりは、ギリシャ語を話すギリシャ人たちローマ人たちがすでに多数派でした。そのような状況の中で、すると、この4名の女性の話は、自分たちの主であるイエスの血統は、「ユダヤ人たちのものだけではない」という点に積極的な意味を込めている、という理解です。系図というものはその人の背景を記すものであります。が、男性だけの系図では、イエスが如何に生粋のユダヤ人の家に生まれたか、血統を持っているのか、ということを示すだけになってしまいます。ですから、わざわざこの4名のユダヤ人ではない女性たちを加えたのだ、という読み方です。
 そして、もう一つは、神の愛とは、律法や人の思い通りには現れない、という読み方です。そして、そのことはモーセ五書、族長や旧約聖書に記されている登場人物たちにも現れているといえます。創世記から申命記、旧約聖書の最初の五書は、旧約聖書律法の中心であります。本来ならば、律法的にも理想的な状態が現れているべきでしょう。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという父祖たちのことを考えてみたいと思います。律法においては、家の権利は、家の長の権利は、長男が継ぐべき、となっておりますが、この4人とも、長男とは言えません。また、最初の預言者として知られているモーセも、長男でありません。さらに、その召命のとき、彼が神の使いとして、奴隷として苦しめられているイスラエルの民を救うために、エジプトに迎え、と神の命じられたときにこのような言葉を述べています。
「わたしは何者でしょう」【出エ3:11】
 自分にそのような資格があるのか、価値があるのか、という思い、それは同時に謙遜さと言えます。全能の神の前に立つ不完全な存在としての人。そういった人を神は選ばれた。イスラエル民族も別に世界の中において強い力をもった民族ではなく、とても弱い小さな民族でした。だからこそ選ばれた、という言葉もあります。【申命記26章】そして、その人の側の謙遜さを包む神の力が旧約聖書の多くの箇所には記されており、それを「神の愛」と表現することが出来るのではないか、と思います。
 そして、この言葉は、この系図の5人目の女性であるイエスを生んだマリアの言葉にも繋がります。実はマタイ福音書においてマリアは一言も言葉を発していないのですが、ルカ福音書にはこのような言葉があります。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
 マリアも旧約聖書に記された多くの先人たちのように、「自分は相応しくない」という気持ちを持っていました。だからこそ主なる神に用いられた、そのような信仰がこの系図に現れている、と読むことが出来るのではないでしょうか。

神の前に相応しい者であろうか
 そして、ここに上げられた女性たちも、神の前に謙遜だったからこそ、神に選ばれたと言えます。私は、キリスト教信仰において、神の前に謙遜であること、謙虚であることがとても大切な意識だと思っています。「わたしはキリスト者として相応しい者であろうか」「神の前に立つにふさわしい存在であろうか」という意識です。
 なぜ系図に多くの傷とも言えるような物語が記されているのか?神の愛というものが、血統などで決まるわけではなく、神の意志が勝っており、そして人の意思、信仰、謙遜さも関係しているということを示そうとしているのではないでしょうか。ここに名前が出てきた女性たち、また男性も、旧約聖書において、主なる神に導かれた物語が記された人々であります。その名前を綴りながら、その名前を読みながら、この福音書を生み出した初代教会の人々は、人が「かけ多き存在」「不完全な存在」ながらも、助け導き神の姿を思い浮かべたのではないか、と感じています。
 また、私たちに至る先祖の歴史はこんなにも空しい、神を裏切り続けてきた、そして異教徒や異邦人にたいしても自慢することも出来ないことばかり、なんにも誇ることがない。しかしそんな自分たちであったけれども神は自分たちを常に助けてくださっていた、という理解、信仰であったと思います。そしてそのような信仰の継承、つながりとして、「すばらしい系図」ではなく、「傷だらけの過去」であり、「傷だらけの歴史・記録」をマタイ福音書の冒頭においたのではないでしょうか。そして、その歴史の中から、その流れの中から、私たちの主であるイエスが誕生した、何も特別なことは無い、一人の人として生まれたのだ、という信仰が込められていた、と読むことが赦されている、と思います。
 先週からアドヴェントに入りました。世界の情勢は、様々な形で変化しておりますが、過ぎ去ろうとしている2017年も、新しい2018年もあまり明るいニュースが期待できるとは思えません。歴史の流れの中、あらがえきれない流れ、雰囲気を感じてしまいます。しかしイエス・キリストは、イスラエルの民のどん底の歴史の中「胸を張れない」背景、「傷だらけの歴史」の中に、神のまったく自由な意志によって誕生しました。信仰を持つ、希望を持つ、ということは、この世の流れから、まったく自由な神の意志を信じることであります。そのように、諦めてしまうことも、主なる神の前に「謙遜な姿勢」としては、相応しくないのではないでしょうか。
 クリスマスには、様々なとらえ方があります。しかし、たしかに人の世にはっきりと神の業が働いた時であり、そのことを思い返す時と言えるのではないでしょうか。光は闇の中でこそ輝きます。寒く、闇の深い季節ですが、そのような時にこそ、光輝く存在を求めて、過ごしたいと思います。

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『赦されることと許し合うこと』(マタイ福音書18:21〜35)

2017.09.24(19:37) 357

『赦されることと許し合うこと』
(2017/9/24)
マタイによる福音書 18章 21~35節

赦しという課題
 許しについて、述べられている箇所です。「赦し」とは何か、いろいろと考え方、とらえ方があると思います。また、説教題においても、音としては「ゆるし」は、同じ音であり、意味内容も似ているように捉えられますが、辞書などで調べてみますと、最初の「あかへん」の「赦し」は、罪を無くすこと、罪の赦し、神による赦しなどを意味して、宗教的なイメージがあります。また、後半の「ごんべん」の「許し」は許可といったもの、人の願いを聞き入れることなどを指すといった意味であると説明されます。
 そして、よく私などは、「ゆるし」という言葉を説教で触れるときには、神の赦しに関しては、「あかへん」の「赦し」、人の間での許しについては、「ごんべん」の「許し」を使っています。これは人によって違うかもしれませんが、聖書に寄るのか寄らないのか、私としては、律法学者ではないですが、人には罪を赦す権利など無い、という意識の表れと言えるかもしれません。

イエスによる赦し
 そして、このことは、イエスに対するある律法学者の言葉にもかさなります。マルコ2章5節から7節。(P.63)
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」
 「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」律法学者のイエスに対する言葉であります。律法において、罪が赦される、ということは、神殿なりに行くなどして、決められた儀礼を行うことによって、罪が赦される、ということが認められることになります。律法学者たちや祭司たちの立ち場によれば、律法なり神殿なりの権威に基づかなければ、罪が赦される、ということは認められない、ということです。
 しかし、イエスはこの箇所で罪を赦してしまっている。何を根拠に?ということになります。敵対者たちからすれば、何もしていないのに、「罪の赦し」が宣言されたことに対して、「人が罪を赦している」ということになるでしょう。しかし、イエスの視点は違うのではないか、と思うのです。何もしていないわけではなく、今、触れた箇所で言えば、中風(麻痺など)の病気で悩む友人を助けようと、屋根をはがして、友人を下ろしました。また他の箇所などでも、律法で規定されていた捧げ物を捧げることが出来なかった人の捧げ物、祈りを褒めている箇所などもあります。イエスはそのような人の神へ対する気持ち、また隣人に対する気持ちがこもった行いをすべて、祝福すべきもの、として、神の赦しを得るに相応しい行為として捉えていたのではないでしょうか。

神の赦しと人の許し
 今日の箇所において、王が家来たちに貸している借金を清算しようとして、ある1人の家来が借金を赦されています。24節によれば、王さまはまず、その金額は、1万タラントンであり、返せなければ、家族や持ち物を全部売り払って返すように命じます。しかし、その家来が「返します」としきりに願うので、憐れに思い、帳消しにしました。そんなことがあって解放されたその家来は、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、首を絞めて、「借金を返せ」と言った、と。そしてそのことが王の耳に入り、家来は捉えられてしまったというたとえ話であります。
 王から借金を赦されたのに、仲間の借金を許すことが出来ないという家来の姿は、一般の人の姿に重ねられています。たしかに、人は赦されることを強く求め、それを喜びますが、いざ自分が許す存在となるとその難しさ、困難さは、とてつもなく大きなものであります。王から借金を許された家来の借財は、1万タラントンとされています。これがどのくらいの金額であるのか、参考になる記録を紹介したいと思います。
 ヨセフスという『ユダヤ戦記』を記した人がいますが、彼の著作によれば、ヘロデ大王の息子でアルケラオスという人がいます。ヘロデ大王の死後、アルケラオスは、ユダヤ、サマリア、イドゥマヤという地域、私たちがカナンの地という地域の領主となりますが、その地域全体の税収が、600タラントンだったそうです。また、もう1人、ヘロデ大王の息子でヘロデ・アンティパスというガリラヤとヨルダンの領主だった人がいます。(田川健三訳新約聖書より)
 彼の年収が200タラントンだったそうです。ですから、10000タラントンというのは、イスラエルを一つの国家とすれば、国家予算の10倍以上というとてつもない金額ということになります。またこの家来が仲間に貸していた金額も100デナリオンとして、出てきます。福音書では、わりとよく知られている金額です。マタイ福音書20章1節から16節にある「ぶどう園の農夫の例え」です。朝から働いた労働者と昼から働いた労働者と、夕方1時間ほどしか働いていない労働書に同じ賃金が支払われたという例えです。あの箇所で支払われる金額が1デナリオンです。ですから、おおよそ1デナリオンを1万円と考えることが出来るかもしれません。
 ちなみに、家来が赦された1万タラントン。1タラントンは6000デナリオンぐらいと考えられております。ですから、1万タラントンとは、デナリオンに換算すると、6億デナリオン。1デナリオンが1万円だとすると、6000億円ということになり、本当に国家予算なみの桁になってしまいます。

イエスの語った共同体の姿と教会
 教会の視点に立って、「赦し」について、考えてみたいと思います。一応、教会のメンバーになる。洗礼になるということは、手続き上、理屈の上では、罪が赦されたことによって、教会のメンバーになるということになっています。今日の箇所で言うなれば、この王から多大の金額の借金を赦された家来のように、仲間の借金、仲間の罪を赦さなければならない、としたら、どうでしょうか。とても、できないと思うのではないでしょうか。
 また、神から赦されることと、自分が人を許すことは、まったく違うことと誰もが考えるのではないでしょうか。また、人を許すと言っても、自分に危害を加える人や敵対者などは、まったく違う、と考える人もいるでしょう。また、許されると言っても、同じ教会の人の間のみ、とか、同じ教団の人たちのみ、とか、ということもあるかもしれません。しかし逆に言って、同じ教会の人、同じキリスト教の人だからこそ、許すことが出来ない、ということもあるかもしれません。また、「許しなさい」と言っても、間違ったことも受け入れなさい、ということでもないでしょう。おそらくイエスは、喜怒哀楽に豊かな人であったでしょう。怒りの感情で言えば、神殿において、両替商や商人たちのテーブルをひっくり返して、怒りをあらわにしています。また、様々な皮肉が効いたユーモアをもって神の国、神の支配について語っています。
 そこにいた人々は、笑顔によってその言葉を受け取り、反感を持つのではなく、ユーモアがあったからこそ、自分のこととして、その言葉を受け取ったのではないか、と私は想像しています。

教会における男女
 また「赦し」とは、少し話が離れてしまうかもしれませんが、教会の中において、よく話題になることの中に、男女差別の課題があります。別に意図はないのですが、例としてあげやすいので取り上げてみたいと思います。女性の教職の少なさ、たまたまと言って良いのか、名古屋堀川伝道所の牧師は、女性ですが、今でこそ、多くなってきましたが、N教会で牧師になった当時は、大変だったと思います。特殊な状況もあったでしょうが、子どもを抱えての牧会…。考えてみると、ぞっとします。
 また、パウロ書簡において、こんな言葉が記されています。第1コリント14章33b節から36節。(P.319)
「聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」
 先日、女性差別について、岡崎茨坪伝道所での礼拝説教の後で話題になりました。その時、ある男性がこんなことを言っておられました。
「町内会とか、マンションの組合とかで、だいたい実際に動いているのは女性ばかりなのに、女性は議論が苦手だから、男性が代表に選ばれる。」
 これって、わりと教会の中の議論、役員とかにも当てはまるのではないかなあ、と思うのです。日本キリスト教団の一般的な教会の男女比率っていうのは、だいたい3対7から4対6ぐらいだと思うのです。しかし、役員になるとこの比率が逆転して、さらに教区総会、教団総会になると男性の比率が更に上がっています。そして、考えてみますと、教会の保守性、社会の保守性もこうした制度の上に成り立っているのではないかなあ、と思うのです。牧師になるより、教団総会の議員になることの方がとっても難しいと思います。役員になって教区議員になって、さらにその中の選挙で選ばれる。(10年ぐらいかかる?)当然、若い人や実際の教会の問題などは見逃されてしまうのではないか、と。
 こうした男性と女性の違い、やはり立ち場として、男性にしても、女性もしても、日本という社会の中で、そうした役割を求められてきたことから起こってくると思います。会社にしても、社会にしても、町中を運転していても、女性であるとなめられたりして、まともに相手にしない、とか、なめられてしまう、とかが出てくる。そうしたことを避けるために、また男性が前に出る、というサイクルが繰り返される、と。そして、そのサイクルを断ち切るためには、今現状の私たちにおいて、社会において、不平等、非効率、不必要だと思われるようなことを実践することからしかないのではないでしょうか。

赦された者として
 今日の課題である「赦し」、聖書の箇所に戻ってみて、考えてみたいことは、「神の赦し」にしても、私たちが隣人と「許し合う」ことにしても、最初は、不平等な形で進むのではないか、ということです。考えてみれば、イエスさまが語っている神の国、神の支配というのは、不平等なものと言うことができます。先ほど触れた「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20:1-16)にしても、放蕩息子のたとえにおける兄の弟に対する妬み(ルカ15:11-32)、そして「見失った羊のたとえ」(マタイ18:12-14)にしても、課題となっているのは、神から赦された者を妬む他者の姿なのです。ぶどう園の労働者、1番長く働いた者が短い時間しか働いた者に対する妬みを持つというのは、ある種の平等性から言えば当然です。労働時間に応じて、賃金は支払われるべきです。また、財産を先払いして使い果たしてしまった弟を歓迎し、盛大なお祝いを開いた父に怒りを持つ兄も平等ではない、という妬みです。見失った羊、羊が妬みを持つのかどうか、解りませんが、99匹か1匹を選べと選択を求められて1匹を選ぶ羊飼いは商売としては、間違っていると言わざるを得ないでしょう。しかし、あの羊飼いは、99匹の羊を置いて、はぐれてしまった1匹を探しに出かけるのです。
 今日の箇所において、王から多大な借金を赦されたのも関わらず、仲間を許すことの出来ない家来。私たちはどうでしょうか。自分たちと同じような存在であれば、許すことができるかもしれません。しかし自分より罪深いという人を許すことができるだろうか。イエスさまは、神が私たち人を赦してくださっている、ということを示してくださいました。そして同時に、私たちに、隣人、他者をどれだけ許して、受け入れているか、許し合っているだろうか、という大きな問いを投げかけていると思います。

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『隠されている神』(マタイによる福音書11:2~19)

2017.08.22(06:29) 354

『隠されている神』
(2017/8/20)
マタイによる福音書 11章 2~19節

イエスとヨハネ
 今日の箇所、バプテスマのヨハネとイエスさまが比較された形で記されています。バプテスマのヨハネは、イエスに洗礼を授けた預言者でありますが、すでに捕らえられており、牢屋に繋げられた状況の中に置かれています。11章2節3節をお読みします。
「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」」
 「来たるべき方」とは、キリスト(ヘブライ語で言うところのメシア)、救い主のことを指しております。イエスがこの世における歩みをすすめた時代、ユダヤ人たちは日々、重税とローマ兵から苦しめられ、虐げられていました。苦しみの中にあったユダヤの人々、イスラエルが求めていた神から与えられる救い主とは、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる救い主でした。いうなれば旧約聖書中にある「サウル・ダビデ・ソロモン」のような王のような存在であったでしょう。神から与えられる「救い主」とは強くあって、ユダヤの王となってローマ帝国の支配から解放してくれる救い主でした。
 バプテスマのヨハネという人は、荒野に住み、福音書にも記されていますが、「らくだの毛皮」を着て、「革の帯」を着けて、いなごや野蜜を食べ物としていました。(Mt3:4)そこにたくさんの人が来て、ヨハネより清めの洗礼を受けていました。罪に汚れてしまったと考えている人々が、もう一度、神に立ち帰ることができる、ということを水による清めを行っていました。そして、ただ「清め」の儀式を行っていたというだけではなく、様々な世の中に対して感じていて不満や苦しみから逃れさせてくれるだろう、と考えていました。
 そして、イエスの周囲に集まってきていた人々も、同様です。イエスであれば、ユダヤ人たちを支配していたローマ帝国を倒してくれるかも知れない。また、自分たちのことをバカにしている祭司や律法学者たちのことも変えてくれるかも知れない。神殿も本当に人たちのことを大切にしてくれる神さまの神殿にしてくれるかも知れない、という思い。

イエスとヨハネの共通点
 バプテスマのヨハネは、預言者として、断食をして、荒野に住んで禁欲的な生活を営み、洗礼活動を行いました。日本風で言えば、いわゆる「世捨て人」として、あらゆる「欲」を立つことによって、「仙人」のようになって、神に近づこうとした、救いに至ろうとした、人でした。そして、イエスの方はどうだったか。イエスは、荒野に住むことも、断食することもなく、多くの町々を訪ね歩き、それぞれの場において、多くの人と共に食卓につき、お酒も交えて、触れあっていました。そんなヨハネとイエスへの言葉として、11章16節17節は捉えることが出来ます。
「11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」
 これらの描写は、子どもの遊びのことです。笛を吹いて、結婚式の宴のマネごとをすること、「結婚式ごっこ」をして遊ぼうと思ったのに、一緒に遊んでくれなかった。
 イエスは、宴会ばかりしていた、というよりも、たくさんの人との触れ合いの場として、おそらく不特定多数の人と共に食事をとっていたのでしょう。葬式の歌を歌って、泣き真似をする「葬式ごっこ」遊ぼうと思ったのに、無視されてしまった。バプテスマのヨハネは、禁欲的な生活をしていました。断食をし、規則正しい生活や質素を重んじる清貧とも言える生活環境だったでしょう。まったく逆のことであるのに、等しく、「悪霊に取り憑かれている」と非難される。それを「罪人や徴税人の仲間だ」と非難される(18-19節)。そういった言葉をイエスも実際に耳にしたことでしょう。そして、そういった自らやヨハネに対する非難の言葉を弟子たちに向かってユーモア・皮肉を込めて語ったのではないでしょうか。
 ヨハネが語った厳しい禁欲的な悔い改めの道も神への道です。そしてイエスが語り行動した解放の言葉、違いを超えた自由な交わりの道も神の道なのです。これら二つはまったく逆のことです。しかし、それらのどちらにも参加しようとしない、傍観者として批評する人ばかりではないか、という意味が込められています。つまり、神さまの考え方、神さまを大事にするあり方がどのような形で来たとしても、受け入れない人たちばかりではないか。それで良いのですか?ということをこの譬えからイエスさまは伝えようとしているのです。

日常生活の中で
 レオナルド・ダ・ビンチが描いた『最後の晩餐』という絵画があります。とても、有名な絵画であります。しかし実は、その場面において、放たれたイエスの言葉は、「(あなたがたのうちのひとりが)わたしを裏切ります」というものです。
 弟子たちは、あの場面をどのような思いを持って、思い返していたでしょうか。よく考えてみますと、福音書には、食事の場面が数多く記されています。たしかに、食事は人間がいきていく上で、必要不可欠なものです。が、それにしても、あれだけの場面が描かれているのは、とても特徴的なことではないでしょうか。なぜでしょうか?一つの理由としては、イエスの活動において、様々な立場の違う人と食事をするという事柄自体に意味があったということでしょう。そして、もう一つは、弟子たち、そして多くのイエスをメシア、救い主、キリストとして、イエスに従った人たちにとって、食事は、神の支配、神の国の前触れであったと捉えられていたからと考えられます。
 また、特に弟子たちにとっては、何度と重ねて来たイエスとの交わりの時であり、思い出がつまった楽しいときであったでしょう。共に喜び、心を許しあい、触れあった場所。しかし最後の食卓の場となった文字通りの「最後の晩餐」の場面、現代においては、もっとも有名な食卓を描いた絵画であるこの作品の場面は、喜びの場であるはずの食卓で、「裏切りの予告」が成された瞬間を描いた内容なのです。
 誰もイエスの本当の思い、計画を知ることが出来なかった。そして、誰もがその予告通りに裏切ってしまう。しかし、そこに神の愛が現れている。この直後にイエスはゲッセマネの園で逮捕されてします。弟子たちは、誰1人として残らず、逃げて行ってしまう。そのことを予告した場面。もしも弟子たちが、このダ・ビンチの名作を目の当たりにしたら、どのような気持ちになるでしょうか。痛みと同時に、主なる神であるイエス・キリストの深く大きな愛を感じざるを得ないのではないでしょうか。

信仰の営み/教会の営み
私たちの日常生活の中において、食卓を共に囲む、ということは、家族や親しい間柄においてのみ、行われることと言えるでしょう。また教会の営みの中においても、いわゆる愛餐という形で行われる教会の食事、イエスを中心にして守られた食卓を思い返すためということができます。そして聖餐には、イエスがその命をかけて、私たちが負うべき罪をおってくださったこと、同時に主なる神が常に私たちと共におられるということを思い返すためになされることと言えるでしょう。
 教会の営みの中においては、当たり前のように、愛餐にしても、聖餐にしても、行われることであります。しかし、当たり前のように、行われることだからこそ、時の経過の中において、まったく同じ食事や愛餐、また聖餐であったとも、置かれている状況や気持ちによって、受け取り方はずいぶん異なることがあるでしょう。
 また、同じ事柄だからこそ、過去のことを思い出すということもあるのではないでしょうか。そして、弟子たちは、初代教会において、食事を取るために、イエスと共に、囲んだ食卓の喜びと楽しみ、そこで出会った多くの人々、また、イエスを裏切ってしまった罪とイエスの愛に満ちた赦しを思い起こしたのではないでしょうか。

隠されている神
 今日の箇所において、イエスの活動は結婚式ごっこの遊びとして、ヨハネの活動は、葬式ごっこの遊びとして、喩えられています。ここには、ある種の宗教批判があると言えます。宗教心とか信仰共同体の営みというのは、時に、日常生活から離れた場所にあるものとして、日常生活とは異なったものとして考えることはないでしょうか。何か特別な奇跡であるとか、宗教的な興奮状態とか、冠婚葬祭といった人生の切れ目切れ目とか、そういったものとしての話です。
 しかし、イエスがここで伝えようとしていることは、そうではなく、人としての当たり前の営みの中に、神の国、主なる神の愛、神の業がある、ということではないでしょうか。日常の教会の営みの中に、まったく変わらない日々であったとしても、神の愛がある、またなかなか思い通りのならないことがあったとしても、そうした営みの中にこそ、神の業が現れる可能性があるのではないでしょうか。
 今日の説教題は、「隠されている神」としました。私たちは、時に分かりやすい形での神の姿、神の存在を求めてしまいます。今日の箇所は、そのような私たちの弱さに対して、実は、そのような当たり前の毎日、思い通りにならないような毎日であっても、「わたしは共にいる」と、イエスさまがおっしゃられるように、常に、神の力が働いていることを信じなさい、主なる神の存在に信頼を寄せなさい、とおっしゃっているのではないでしょうか。

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周縁自体


マタイ
  1. 『もう一度、歩みだそう』(マタイ福音書28:1〜10)(04/12)
  2. 『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイ福音書 1:18~25)(12/26)
  3. 『傷だらけの系図』(マタイ福音書1:1〜17)(12/12)
  4. 『赦されることと許し合うこと』(マタイ福音書18:21〜35)(09/24)
  5. 『隠されている神』(マタイによる福音書11:2~19)(08/22)
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