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『神と大地の契約』創世記9:8-17

2014.11.03(15:54) 277

『神と大地の契約』
(2014/11/2 永眠者記念礼拝)
創世記 9章 8~17節

東日本大震災の記憶
 今日お読みしました箇所に登場するノアという人物。キリスト教徒であろうとなかろうと、神さまの命令に従って、大きな箱船を作ったこと、そこにたくさんの動物のつがいを入れて、神さまの手によって起こされた大洪水から守った人物であります。そして、今日の箇所は、洪水が収まった後、神とノアの間で確認された契約について記されています。
 実はこの箇所、このように礼拝の中で選んだのは、おおよそ3年半ぶりでして、その前の機会というのは、2011年の3月20日のことでした。ピンと来た方もおられるでしょうが、あの東日本大震災から9日目のことでした。教会において選ばれる聖書の箇所というのは、説教者なり牧師が自らの意志で選ぶこともありますが、聖書日課という言い方をするのですが、あるカレンダー(『日毎の糧』)によってつけられており、さらに小田原教会ですと、2ヶ月か3ヶ月前には決めているものですから、変えることも出来ません。子どもにそのような震災について、神さまについて、どのように語るべきか、ずいぶんと悩ましいことでした。
 というのは、このノアの逸話、大洪水を起こしたのは、神さまであり、さらに、その理由として、創世記「地上に住む人に悪が広がった。…」と記されているからです。3年前の2011年の3月11日におきた大震災の被害、そしてその後に起こった福島原子力発電所の事故、今まだその影響を残しております。またさかのぼること1995年1月17日、来年の1月には、阪神淡路大震災から20年を数えることとなりますが、震災によって家族や身近な人を失った人々の悲しみは、長い時間が経ったからと言って、なかなか癒えるものではないでしょう。

『ノア』という映画より

 先日、今日の箇所に登場するノアを主人公とする映画を見てきました。アメリカで作られた映画ですから、当然キリスト教の考え方そのまま、聖書の考え方そのままなのか、と思っていたら、そうではないような要素がたくさんありました。例えば、キリスト教における神をアメリカまた英語では、「God」と言います。
が、その映画では「Creator」(創造者)という言葉で呼びかけられていました。また、聖書の中における箱船の記述には、ただ箱船を作っているノアたちをバカにした人たちが登場しますが、具体的な争いなどは記されていません。しかし、映画の中においては、雨が降り出し、洪水が激しくなっていく中で、周辺に住んでいた住民たちが、箱船に乗り込もうとして、壮絶な戦いが起こる、という場面が描かれていました。さらにノアたちと住民たちとの間でとても対照的な要素がありました。それは僅かな実り、食料にも感謝して大切に食しているノアの一家に対して、他の人々は、まさに「むさぼる」という表現が当たっていると思うのですが、動物の肉を食べるにしても、野菜などを食するにしても、無駄も多く、人と人とで奪い合い、殺し合いながらも、自分の食べ物を得ようとする。そんな姿で描かれていました。
 この映画を見ながら、感じたことですが、おそらく作者は、聖書に記されたノアの物語を単なる聖書の物語にしておきたくなかったのでしょう。ユダヤ教の正典に収められた物語として、キリスト教の正典に収められた物語として、良い物語として描きたくはなかった。現代を生きる視聴者たちに、問いを投げかけたかったのだ。と思うのです。例えば、環境破壊、エネルギー問題、放射能汚染、核戦争、経済格差、など。最近ですと、グローバル化の影響によって、新しい病気が瞬く間に世界中に広がっていく恐れ…。様々な恐れがあります。そうした中で、漠然と感じる不安、それはどのような形でしょうか。そんな危機にあるとき、混乱が来るとき、どのようなことが起こるでしょうか。わたしが共通して、想像するそうした危機に起こること、それは、人と人の分断されること。
人と人が別れて、争い合う姿ではないでしょうか。そして、それは先に挙げた危機を超えて、私たちを滅ぼす可能性を持っている、といえないでしょうか。環境破壊、食料や水を巡って、またエネルギーを巡って、戦争が起こるかもしれません。核兵器、経済格差、による争い、戦争、そしてそれはすでに始まっている、と言えるかもしれません。

神が改心した?
 今日の聖書の箇所は、主なる神が、ノアとその家族、その箱船に乗り込んだ動物たち以外のすべての生物が滅ぼした洪水の後、雨がやみ、水が引いた後にノアと神との間に交わされた契約に関する記事です。
 創世記9章12節13節をお読みします。
「9:12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
9:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」

 さらに14節15節をお読みします。
「9:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
9:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」

 神さまは、なんでこんな約束、契約をしたのでしょうか。それは、わたしの想像に過ぎませんが、何かの理由があったはずです。なぜなら全能の神であれば、また気に入らない人々が増えてきたのであれば、同じように洪水を起こして滅ぼしてしまえば良いのではないか、と思います。しかし、そんなことはしない、と言っている。なぜ、こんな約束をしたのか。
 聖書に記されております天地の創造物語、天と地は7日間で造られました。そして最初の人間である、アダムとイブという人が創造されました。そして、その人たちに「この世を支配しなさい」とおっしゃっています。ですから、洪水を起こしたときの神さまは、このように考えたのではないでしょうか。地上のことは、どんなに間違ったことであったとしても、自分の責任じゃなくて、人間の責任だよ、だから洪水が起こったこと、人間もすべての生き物も滅ぼされてしまったのは、人間の責任だ、人間の自己責任だよ、と。
 しかし「もう決してしない」という約束をした。それは神さま自身が、自分がやってしまったことに心を痛め、後悔し、悲しんだからではないでしょうか。そして神さまは、自分が作った虹を見て、天と地がつながっていることを見て、地上における悲しみは地上だけのものではなく、天の悲しみでもあるのだ。また自分が起こした洪水によって引き起こされた惨劇、多くの命が失われた姿を見て、後悔したのではないか、と思うのです。そして、ノアと一緒に洪水の後にかかった虹を見て、二度とこのようなことをしない、と誓ったのではないでしょうか。


繋がりの中で
 今日わたしたちは、永眠者、先に天に召された人々を記念するために、ここに集いました。身近な友人たち、家族、教会における友、それぞれ一定の時間を共に過ごしました。そして、ここに写真が飾られている人々、また写真が飾られていなくとも、それぞれの心の中にいる人々がいます。そうした人々は、この世において、命を与えられ、私たちと共にこの世における日々を歩み、そして主なる神へ招かれ、天へと旅立っていきました。
 しかし、虹が大地と天とを結ぶ徴であるように、私たちと旅立っていった人々もつながっています。こうした関係は言うなれば、親族や家族、そして今日のように先人たちのことを思い起こすことは、時間の考え方で言って、縦の関係と言えます。そして先人たちから思いやりを受けた。そしてそのことによって、人を思いやることを知ったということができないでしょうか。また、先に旅立っていった人々との繋がりを知っているからこそ、私たちは人を思いやること、また人の思いやりに感謝することが出来るということはできないでしょうか。
 人は、多くの人の間で過ごしています。また私たちの先人たちのことを思い起こすことは、過去のことかもしれません。また、繋がりがなければ悲しむこともない、とニヒリスティックに、無感動に言うことも出来るかもしれません。しかし、過去のことがなければ、繋がりがなければ、自分がどこに立っているのか、どこに生きているのか、どんな時を生きているのか、ということもわからないのではないでしょうか。そして当たり前のことですが、私たちには、必ずしも息子や娘はいないかもしれませんが、必ず両親はいて、必ず多くの人の思いやりの中で、繋がりの中を歩んできたのではないでしょうか。
 聖書を生み出した民族、神の子イエスが生まれたユダヤ人たち。時の流れについて、私たちとはまったく逆の考え方を持っていた、と言われています。わたしたちは、だいたい未来とは前にあるもの、過去とは後ろにあるもの、と考えがえるものです。しかし、ユダヤ人たちは逆であったそうです。未来が後ろ側、背中にあり、過去は前にある、と考えていたそうです。確かに言われてみますと、一理あるように感じます。わたしたちは過去のことは経験したことですから当然、知っています。見たことがある、と言えます。しかし、未来のことを知ることは出来ません。見ることは出来ません。わたしたちの歩みは、ずっと手こぎボートのように、後ろ向きに進んでいる、と言えるかもしれません。今日のような永眠者記念礼拝の日、すでに天に召された先人たちや家族たちのことを思い起こします。それは同時に、過去の自分自身を思い起こすことであります。その時どうであったか、たしかに繋がりの中に生きていた自分がいるはずです。
 わたしたちは未来を知ることは出来ません。しかし、いつでも過去を振り返ること、見つめることはできます。そんな自らの中にある過去の繋がりを胸に、先人たちとの思い出を基盤にして、私たちが先人たちの平安を祈っているように、先人たちも私たちの平安を願っている、ということを胸にして、それぞれの人が新しい歩みを平安の中で歩んでいかれることを願っております。

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『少数者によって救われる』創世記18:20-33

2014.05.26(08:03) 274

『少数者によって救われる』
(2014/5/25)
創世記 18:20~33

アブラハムの歩み
 ご存じのように旧約聖書は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった三つの宗教における聖典とされており、唯一なる神、キリスト教でいうところの主なる神と人の歩みを記したものであります。そして、その中においても最初の族長と表されるアブラハムは、主なる神に従う理想的な人物として描かれています。
 アブラハムは、主なる神の呼びかけによって、バビロニア地方のウルから、おそらくは父親のテラに伴って、カナンの地を目指すように、促されます。そして途中、ハランという場所で、テレは亡くなります。そして、彼が部族の長となり、ハランの地から、さらにカナンの地へ移動してその場に定住します。定住し、アブラハムと主なる神との間に祝福の約束、契約が結ばれました。
 よく契約という表現をいたしますが、ただ単に人間の側、アブラハムの側にだけ、義務があるというのではなく、神の側にも義務がある。人の側、アブラハムとしては主なる神への従順、これは信仰とも言うことができるかもしれませんが、それが求められる。それに対して、神の側はそのアブラハムの信仰に答える祝福、恵みが義務となるわけです。その約束については、創世記15章1〜5節(P.19)に記されていますが、「…あなたの盾」となるという約束、「報いは非常に大きい」(15:1)ことが宣言され、アブラハムの子孫が、天にある星の数ほどになるということが約束されています(15:5)。
 今日の箇所において記されているのは、ソドムとゴモラという町の運命について、また神の裁きの厳しさについて記した箇所と言えます。が、同時に、主なる神に従う上での厳しさについても記されて箇所とも言えます。それは今日の箇所、創世記18章25節にあらわれている言葉、「正義」「正しさ」という事柄に対する姿勢が問われている、と言えます。

ソドムとゴモラの罪
 ところで、ソドムとゴモラという町、なぜ神によって滅ぼされなければならなかったのでしょうか。具体的に、「このような悪いことをしたから滅ぼす」とは記されていません。そして、この箇所は現代にもつながるある価値観について影響を与えてきた箇所でもあります。今日の箇所の直後、創世記19章にある物語をもとにして、それは、いわゆる「同性愛」この箇所においては「男色」の罪を犯してからだ、という読み方がされてきました。そして、そうした読み方、解釈から、男性同士の同性愛について「ソドミー(Sodomy)」という言葉が生まれました。しかし、最近の解釈からは、ソドムの罪とは、男性同性愛に関するものではなく、旅人を重んじない態度のことではないか、という解釈がなされるようになってきました。今日の箇所の直後、19章において、神の使いである二人が、ソドムの町のロトの家に招かれました。しかし、その出会いにおいては、夕方に町についた二人は、町の門の前に座っていましたが、誰にも声をかけられずにいた。そんな二人をロトは家に招きました。さらにロトの家で歓待されていた二人を町の人々が訪ねてきて、乱暴なことをしようとした。
 旧約聖書において、ほかにも、旅人を助けない行為、さらには痛めつけるような出来事が記されています。特に士師記19章20章に記されている出来事では、それを元にして戦争にまで起こったことも記されています(P.414-)。またイエスが語ったたとえ良きサマリヤ人のたとえにおいても、旅人が強盗に襲われた出来事が記されています。そうした存在を助けることが当然である、という価値観が基になっています。そうしたことからもソドムとゴモラの罪とは、旅人を痛めつけるような行為、価値観が罪とされており、その罪に対して罰が下るのだと理解することができます。

「正しさ」の働き
 そして、今日の箇所においては、その罰が下されようとしているソドムとゴモラの町に「正しい者」がいて、そういった人が裁かれるのはどうなのだろうか。それは正しいことなのか間違ったことなのか、ということが、アブラハムと神との間で交わされているのです。今日の箇所18章23節から25節をお読みします。(P.24)
「アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」」
 神の正しさは、どのような形で示されるのでしょうか。たとえば、町や民族に対する裁きという形でいえば、ヨナ書の物語が思い出されます。神によってニネベの町に行って、悔い改めを呼びかけなさい、といった導きを受けたヨナでした。しかし自分の行動によってニネベの人々が悔い改めること、そして神様がそれを受け入れて、ニネベの町の人々を赦すことを嫌って逃げようとしています。ニネベとは、ユダヤ人にとっては、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国の首都です。自分たちの民族の国家を滅ぼした町を赦すことができるだろうか。また神の存在を知り、神の裁きが下ることを知ってから、悔い改めるならば、誰でも赦されてしまうのではないか、そうしたことを許せるでしょうか。
 また新約聖書におけるイエスのたとえでも同じかもしれません。ルカ福音書15章に記されている放蕩息子のたとえ、父親から自らが分け与えられた財産を使い果たして帰ってきた弟を赦す父親の姿。まじめに父親の下で働いてきた兄は面白くありません。父親の姿勢に記されている神がどのような罪人であったとしても、赦す姿勢を受け入れることができない。
 わたしたちにとっても、このことは大きなテーマとなります。間違ったことをした人が神に許されることは正しいことなのか、受け入れなければならないことなのだろうか。また逆に、正しい者がほかの人の罪によって裁かれること、言い方を変えれば、不幸になることは神の目に正しいことなのか、ということです。神の目に正しい行いをした人は祝福されなければならない。また逆に悪い行いをした人は裁かれなければならない、何らかの罰を受けなければならない、という考え方が誰にでもあります。そしてさらに、そのようになっていなければ、なんで神様を信じる必要があるだろうか、ということになります。
 
確率か人数か
 今日の箇所における状況は、今あげたヨナや放蕩息子のたとえ、まったく逆の状況であります。先ほど紹介した「ヨナ」と「善きサマリヤ人」の二つの例は、どちらも神の赦しに対して、違和感をもつ人という形をしていますが、今日の箇所においては、関係が逆になっています。神の側がソドムとゴモラを滅ぼそうとしており、人の側が赦しをもたらしてほしい、と願っている。そんな関係になっています。ソドムとゴモラを完全に滅ぼし尽くそうとしている神とそんなことはしないでほしい、と願うアブラハムの対話という形になっているのです。ソドムとゴモラ、それなりの大きさの町であったでしょう。
その中に、正しい人がいたとして、その人たちがどのくらいいれば、町全体として赦されるのか。
 アブラハムは、神が言われた「50人正しい人がいたら」という言葉から、どんどん数を減らしていって、最後には、「10人正しい人がいたら」助ける、という約束を取り付けています。しかし、最終的にソドムとゴモラは、滅ぼされてしまっています。ということは10人も正しい人がいなかったということでしょう。そして、ここでちょっと気になることがあります。最初に50人正しい者がいたとしたら、と神が譲歩しています。では、ソドムとゴモラの町には何人の人が居住していたのでしょうか?
 まったく想像でしかないのですが、考え方としては、この最初の問いの50人が全体の人数のどのくらいの比率であるのか、ということを想像することから近づくことができます。たとえば、50人が半分だとすれば、100人の町であったということ。これでは少なすぎるように思いますよね。また、50人が10分の1だとすれば、500人の町。それでも少ないかもしれません。で、私の想像としては、だいたい1000人ぐらいの人が住むの町であったと考えています。そうしてみますと、50人というのは、20人に1人という人数。パーセンテージでいうと、5%ぐらい、100人のうちの2人ぐらいではないか、と思われます。そしてそこからどんどん減らしていく、ということです。
 で、最終的に10人がいれば、助けるという神の約束をアブラハムは果たしたわけです。1000人の中の10人とは、100人に1人、1%という人数になります。そして100人に1人と言えば、イエスのたとえにおいては、99匹と1匹の羊の話が思い出される数字、比率となってきます。では、100人のうちに1人いれば、神さまはその全体の人、100人を赦すのであろうか、ということになります。現代社会において民主主義とは、単なる多数決に陥っています。そうした意味で言えば、100人の中の1人というのは、本当にわずかな数でしかなく、注目されることもないかもしれません。また、その中の1人に目を向けるということは、残りの99人全員に対して、もう一度目を向けることにもつながります。

社会のあり方と少数者
 また、この人数のことから考えられる問いがあります。なぜアブラハムは最終的に、たった「1人正しい者がいれば」と聞かなかったのか、ということです。ソドムには、アブラハムの甥にあたるロトとその家族がいたわけです。ですから、神様に対して、「たった1人の正しい者がいれば滅ぼさない」という約束ができれば、ソドムとゴモラの町が救われるわけです。しかし、そうした形の質問はしなかった。また、出来なかったかと言えるかもしれません。32節において、アブラハムは「もう一度だけ言わせてください」と述べているので、「1人の正しい者でもいれば」という問いは頭になかったかもしれない。また違う角度から考えて、10人という人数は、ロトともう一家族だけでも正しい者がいれば、町が救われるのだ、という希望の数字と言えないか、と考えることができます。
 ロトの家族は、ロトと妻と二人の娘。19章によれば、その家族だけで2人の神の御使いを家に招き入れて、もてなしています。そこへ町の者たちがやってきて、その客人、神の御使いを出せ、と言われてしまう。ここで、ロトの家族以外に神の御使いである旅人を持てなそうとする人がいたとしたら、また家庭があったらどうでしょうか。その結果は、まったく違っていたかもしれない。「そんなことをしてはいけない」「旅人は大切にしなければならない」という人また家族がロトとその家族以外にいたとしたら、まったく違うことが起こっていたかもしれない。
 ロトのように考える人々。多数の間違った人たちの中で、ロトの家族もソドムとゴモラの町に昔からすむ人々に比べたらよそ者であったでしょう。善悪の問題ではなく、ロトの言葉に耳を傾けることはしにくかったかもしれません。しかし、そうしたロトの家族を助けようとする人がいたら、この2人の旅人を助けようとする人がいたら、どうでしょうか。もしかして、あっという間に、「正しい者」が10人を超えて、ソドムとゴモラの町が救われたかもしれない。1人でも4人のロトの家族でも不可能のことかもしれなかった。しかし、それ以外の6人、わずかな人でも助けようとしていれば、あっという間にソドムとゴモラの町は救われていたかもしれない。10人という数字には、そんな意味が込められていたのかもしれない。

誰かの助け手として
 今日の箇所、主なる神とアブラハムのやりとりの最初にアブラハムは、23節において、神に対してある問いを投げかけています。23節の言葉。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」という問いを投げかけています。ロトの家族だけが正しいかったにしろ、また誰かたった一人正しい者がいたにしても、その人たちだけを助け、残りの悪い者たちだけを滅ぼせば良いのではないか。そうすれば、神さまの正しさも守られるし、神を信じる人たち、神の前に正しい者たちも納得する。しかし神様はこの問いに対して、「正しい者が50人いれば」という形で人数の問題にすり替えてしまっていて、このアブラハムの問いにまったく答えていない。
 なぜだろうか、と感じます。救いにしても、裁きにしても、また祝福にしても罰にしても、正しい人と悪い人を分けていれば、誰しも納得するのではないか、と思います。しかし逆に、このようなあり方にこそ、主なる神の愛の大きさが込められている、またキリスト教のある種の厳しさが込められている、と言えないでしょうか。そして、確かに私たちの住む世界は、ただ単に正しい人だけで幸せになるとか間違った人だけが不幸になる、という形にはなってはいません。
 主なる神は、私たちに対して、ただ「正しい者」だけが救われるのではなく、その「正しい者」から始まる、神の愛の実現を目指すこと、また、ただ傷つけられた「少数者」が救われるだけではなく、その民全体が救われることを目指していると考えることは出来ないでしょうか。また、誰か痛めつけられている人がいるのであれば、その小さな「少数者」が救われることが全体の平和につながるのだ、ということを伝えようとしているのではないでしょうか。
 

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              足柄峠                   足柄峠より小田原


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『誰かの助け手として』創世記2:4b-9/15-25

2013.10.28(08:30) 239

『誰かの助け手として』
(2013/10/27)
創世記 2:4b〜9/15〜25

一週間による創造神話と進化論

 今日は、創世記の冒頭に収められている創造物語の一つを聖書箇所として与えられました。私たちが良く知られている創造物語ですが、二つの箇所、要素から成り立っていると言えます。一つは、創世記1章に当たる部分。この世のすべてが、主なる神によって一週間で創造されたという物語。そして、今日の箇所にあたる部分、2章から3章にあたるアダムとイブの創造物語とエデンの園からの堕落が収められて箇所であります。
 そして聖書の冒頭の部分でありながらも、読むのには、なかなか困難がある箇所と言えるのではないか、と思われます。創世記1章のこの世が一週間で創造された、という記述。このままに受け取ることが出来るでしょうか。今の化学の力によれば、宇宙はおおよそ138億年前に誕生した、ビックバンによって発生し、増大と共に徐々に冷えていって、星雲が出来、星が誕生し、地上が形づくられるようになった。そして、その一つの太陽系の第3惑星、地球と呼ばれる星において、生物が誕生した。
 そして、その地球における海において、単細胞生物として「いのち」は現れ、様々な進化の過程を経て、今の「ヒト」となり、人類という生物の歴史が編まれている。しかし、創世記における記述とそうした私たちが学校などで学ぶ歴史とは全く異なっています。そして、それを信仰の問題として、考えるのであれば、どうするだろうか?わたしは、いわゆる化学の視点と聖書の記述は対立するものではない、と思っています。が、なかなかそれを説明するのは、この時間では難しいので触れませんが、アメリカにおいては、この問題が実際に裁判で争われたことがありました。

創造論と進化論
 チャールズ・ダーウィンが記した『種の起源』において、生物が様々な変化を繰り返しており、その環境に適応した変化を為した個体が生き残っていく、ということを、自然選択説(自然淘汰説)を提唱しました。これが現在、広く受け入れられている進化論と呼ばれている説です。
 が、19世紀の前半アメリカにおいては、このダーウィンの学説、ダーウィニズムは、神の創造を否定するものとして、法律によって、ダーウィニズムを教えることが禁じられていました。そのことに異論を唱えた、スコープスという生物の教師があえて、「進化論を教えてはならない」とする法律を破り、法廷において、進化論に反対する人々と対決しようとしました。
 その裁判は、スコープス裁判とかモンキー裁判と呼ばれました。進化論によれば、「ヒト」の祖先は、「猿」ですから、そのように呼ばれました。この裁判、アメリカ全土で注目を集め、小さな地方の裁判所に多くの報道関係者や傍聴者が集まったため、屋外で審議を行ったそうです。裁判において、進化論を教えたスコープスさんは負けたのですが、いわゆる聖書の創造物語をそのままに信じることに対して、かなり無理があることが示された事件として、アメリカのキリスト教史には刻まれていることです。
 そして、もう一つ興味深いことは、スコープスさんの反対者となった検事のブライアンという人。いわゆる適者生存、社会ダーウィニズム的な考え方、今で言えば、弱肉強食の考え方に反対した今でいえば、人権派と呼ばれるような政治家で民主党の大統領候補でもであった人でした。ブライアンとしては、創造論に現されている、人はすべからく神によって創造された神の子であり、そうした信仰が同時に社会正義の基盤、あらゆる人がもつ人権の基盤として、と考えていた。そうした彼の立場からすれば、ダーウィンが唱えた進化論を受け入れることは、『進化論』を教育の現場が受け入れることは、社会が進化論を受け入れることとなり「強い者はより強く、弱い者はより弱くなる」あり方を肯定することになる、という思いがあったのではないか、と言われています。
 その後、そうした社会ダーウィニズムは弱肉強食の思想となり、後に「優生学」と結び付きナチズムなどを生むことになる。「能力・力のない者は死」「それが世の中の原理」「力ある者が歴史・生命を繋ぐ」「人間は進化発展している」「有色人種から白人へ」「皮膚の色の違い」は、「種」の違い、など。あらゆる人種的至上主義、の基になった可能性があります。そうした人類の歩み、今の行き過ぎた競争社会のあり方を見ますと、あながちブライアンが聖書の創造論にこだわったことに対して、非科学的なことであったとして、一方的に否定することも出来ないかも知れません。


人の創造物語において

 今日の聖書の箇所、創世記の2章は、最初に人として創造されたアダムとエバの物語に当たる箇所です。創造物語において、記されていること。そこから私たちは、主なる神とはどのような存在であるか、ということも知ること、考えることが出来ます。また同時に、その神から創造された被造物はどのような存在であるのか、今日の箇所においては特に「人とはどんな存在か」「神にとって人は何か」ということが記されている箇所と言うことが出来ます。今日の箇所2章4節の後半から7節をお読みします。
「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。/しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
この人の創造において、興味深いことは、人が創造された目的とも読める記述があることです。それは、5節の後半の言葉「また土を耕す人もいなかった。」という言葉。そして、それと共通するものとして、15節の記述が挙げられます。2章15節の言葉「人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。この箇所を読むと、人は地を耕すために創造された、ということ。また更に深めて読むのであれば、神の創造した理想郷としてのエデンの園の管理者として、耕す者として創造された、ということです。

失楽園から見える人
 そして、続く箇所において、9節には、命の木と善悪の知識の木が生えていたこと、が記されています。しかし、16節17節においては、その木の実を食べてはならない、食べたら死んでしまう、ということが記されています。しかし、この食べたら死んでしまうと言われた「善悪の知識の木」からアダムとエバは、3章の失楽園物語において、この善悪の知識の木の実を食べてしまいました。しかし、死ぬことはありませんでした。ですが、そうではなく確かに死ぬことになりました。アダムとエバはエデンの園を追い出されたことによって、人を苦しんで産むことになり、また自らも死ぬことになった、と読むことが出来るかも知れません。
 こういうことです。アダムとエバはその木の実を食べてしまった結果、エデンの園から追放され、女に対しては、創世記3章16節で「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」と言われます。「はらみの苦しみ」を大きなものにする、とあります。この言葉は、ただ出産の痛み、苦しみを指すのではなく、子を産み育てる、ということ全体を指しているのではないでしょうか。人間全体が子を生み出すこと、子孫を生み出すこと。そして、自分が死んで天に帰って行く、という全体のことを指している、と言えます。アダムとイブはエデンの園にいれば、死ぬことはなく、子どもを産み、育てるということも無かったのですが、追放されることによって、子を産むこと、そして自分が死ぬ、という運命が与えられた、ということです。
 また男に対しても、同じく3章17節から19節においてこのように記されています。「(3:17) 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。(3:18) お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。(3:19) お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」」
3章17節の言葉、「土は呪われるものとなった」とあります。人はもともと塵から作られましたから、土とは大地とは関係が良いはずです。しかし、呪われるものとなった。関係が良ければ、人が望むものが土、大地から生えてくるはずです。しかしそうはならない、苦労して、雑草を抜いて、土を耕して、収穫を願わなければならない、そして、また死に土に帰っていくのだ、と主なる神は言われるのです。

誰かの助け手として
 最初に創造論における裁判の話題を取り上げましたが、いわゆるダーウィンの進化論を受け入れる上で、キリスト教信仰的大きな問題と言えば、人が持つ特別性が否定される可能性に対する恐れがあったでしょう。人も他の生物、動物だと同じだとなってしまう。そして、もう一つは、この世をつかさどる主なる神の意志が否定されることへの恐れであったと言えます。しかし創造神話における主要なテーマ、主題はそういったところにはないのです。
この物語において、現されていることは、人が生物の長ということか、と言えば逆かも知れない。先ほど、2章5節と15節において、人は地を「耕す者」と創造された、ということに触れました。しかし、この耕す、というのは、地を利用しよう、という自分のものとして支配しよう、思い通りにしてしまおう、という意味をくみ取れるかも知れません。しかし、本来的に言って優秀な農民、百姓というのは、土、畑や田んぼを思い通りにすることを「耕す」というではなく、ずっと共に生きていくあり方こそ「耕す」というあり方ではないか、と言えます。
 また、2章の後半において、男のあばら骨から女性が創造されたと記されていますが、その創造された理由こそ重要では無いでしょうか。2章18節「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」また2章20節「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」。男は女を助ける者として創造された、そして、それは一方通行では泣く、互いに助け合う存在として創造されたのだ、ということが23節における「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」という言葉には、込められているのでは無いでしょうか。

主なる神の助け手として
 聖書には、その主なる神の歩みが記されている、と言えます。が、同時にそれは人の歩みでもあります。そして今日の箇所、創造物語のテーマで、考えるのであれば、主なる神は何故私たち人を創造したのか?ということを考えなければならないでしょう。他の神話に比べるのであれば、聖書の創造物語における神さまは、この世におけるすべての物、物質、生物に至るまでを創り出し、人に対する徹底した平等主義があり、主なる神は最初からいて、最後までいる、ということが、特徴としてあげられます。
 そして、いうなれば、神さまは人に対して、助け手として、働きを求め続けているといえるのではないでしょうか。アブラハムに代表される族長たちを守り、導き、奴隷として苦しみの中にある時にはモーセを通じて、エジプトから救い出す神。しかし、他の神へと進もうとするときには、妬む神。ダビデを初めとする王を立てて支配しようとしますが、なかなか行かない。そして、最後に自らを神として、イエスという存在を通して、人に呼びかけようとしている主なる神。ただ単に人を助けようとしただけでなく、自らの思いとして、人に働きかけ、人の喜びを喜び、悲しみを悲しんでいる。
 こうしたあり方は、ただ単に「私たちと共にいる神」という告白では収まらない、留まらない神の姿が現されているのでは無いでしょうか。それは、「わたしを助けて欲しい」と神自身が人に呼びかけ続けている、そうした神なのだ、ということはできないでしょうか。多くの族長たち、王、預言者たち、イエス、そして使徒、イエスの弟子たちの言葉、そして聖書を通じて、神さまは私たちに「助けて欲しい」と叫び続けているのだ、という事は出来ないでしょうか。
 わたしたちはイエス・キリストを通じて、主なる神が、喜ぶこと、そして悲しむことを知っています。そうした思いを共有して欲しい、そして一緒に働いて欲しい、と神自身が私たちに呼びかけているのだ、と考えること。そして、そのために人は創造されたのだ、単なる神の被造物ではなく、神自身が私たちを似姿として創造したのは、地上に自らの意志を実現する「助け手」として創造したのだ。共に喜び、悩む存在と創り出されたのだ、と考えることは出来ないでしょうか。
 信仰もそうではないか、と思います。信仰を持つこと、洗礼を受けること、キリスト者となることは、何かが出来るとか、特別なことでは無い、と思います。まず、主なる神、そしてイエス・キリストが喜ぶことを喜び、悲しむことを悲しむことだけで十分ではないか、と思います。常に私たちを助け手として信頼して下さっている主に信頼を置き、今週も与えられた歩みを歩みたい、と思います。

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       早朝の小田原の町                  とある日の朝日


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周縁自体


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『族長イサクの生き方』創世記24:62-67

2013.08.12(08:25) 230

『族長イサクの生き方』
(2013/8/11)
創世記 24:62~67

族長の歩み、信仰者の歩み
 創世記に記されております2番目の族長イサク。あまり主人公として描かれることが少ない人物であります。それはアブラハムとヤコブというそれぞれ、わたしたちが心惹かれるエピソード、逸話を持っている人と比べてしまうことからかも知れません。しかし、それだけではなく、実際にイサクが主人公として登場する箇所がとても少ないのです。
 イサクが創世記において初めて登場するのは、赤ん坊としてであります。なかなか子どもが出来なかったアブラハムとサラの夫婦。主なる神よりあなたの子孫はとても増えて、繁栄するという約束だけはもらっていましたが、なかなか自分の子どもが与えられない。そして高齢になって遂には、自分たちの子どもが出来ないだろうと決断して、遠い親戚に譲ろうか、また僕に産ませた子供イシュマエルに譲ろうとしていました。が、神の使いが現れ、アブラハムとサラの間に子どもが生まれるのだ、という約束を与えられ、やっと与えられた子供でした。イサクが誕生するのです。アブラハムが100歳、サラは90歳の時でした(創18章)。
 そして、そのイサクが成長して未来も明るくなったと幸せ一杯のときだったでしょう。そのイサクを捧げなさい、という命令がアブラハムへ主なる神によって下される(創22章)。手を振り上げたとき、主なる神によって止められて、イサクは命をながらえます。そして、次にイサクの物語として、わたしたちが思い出すのは、イサクが老年になってからの逸話ではないでしょうか。年老いてしまい、目も見えなくなったイサク。2人の息子の内、兄であるエサウを好んでいました。エサウの一族の財産をすべて譲ろうと考えていました。しかし、妻であるリベカとヤコブのだまし討ちによって、家族の長となる権利が奪い取られてしまう、という物語です。そして、イサクは先の出来事によって家を出て行かざるを得なくなったヤコブと再会してから、息を引き取ったというように記されています(創35:27-29)。
 わたしが使用している聖書の解説書、聖書百科全書には、そんなイサクに関してこんな説明がされています。
「「族長」の中で、イサクは最も受動的な人物である。創世22章では、彼は黙ってアブラハムに縛られている。(後代のユダヤ教ではイサクが積極的に縛られたと解釈する)イサクは妻を決めるにもアブラハムの家令にまかせ自分では何もしない。視力を失い寝たきりになったイサクは妻と息子にだまされる。ただし創世26章ではイサクは自主的に動くが、ここでもアブラハム物語の一つの挿話を思い出させるだけである。イサク物語が教えることの一つは、神の計画の実現のためには必ずしも強くて積極的な個性の強い人物を必要としないということであろう。」

イサクの積極性/イサクと井戸
 なかなか興味深い解説であると言えます。しかし、本当にイサクの姿勢、あり方、生き方は「受動的」であったと言えるのでしょうか。そんな説明をされてしまうイサクの積極性が垣間見える逸話が収められている箇所があります。それは創世記26章におけるペリシテ人との争いについての箇所であります。創世記26章15節から20節です。(P.40)
「26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。
26:16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」
26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。
26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。
26:19 イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、
26:20 ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。」
 イサクは、この箇所に続いて、ベエル・シェバという場所において、ペリシテ人たちと「お互いに立ち入らないこと」「関わらないこと」という約束を立てて、井戸を掘ります。ペリシテ人とイスラエル人の間で、不干渉不可侵条約を結んだ、と言えます。そして、それが「ベエル・シェバ」という町の始まりだ、と言われています。「ベエル」というのは、「誓い」、「シェバ」は「井戸」を意味するそうです。
 実は、このペリシテ人との契約、歴史的な重要性でいえば、とても大きな意義があったのではないか、と言うことが出来ます。それは、主なる神の民であるイスラエルの民が初めて、領土を得たことを示すテキストである、ということは出来ないだろうか、ということです。当然、水は生活に欠かせないものです。そして、乾燥地帯であるカナンの地において、井戸とは生活には欠かせない存在であったでしょう。しかし、だからこそ井戸を掘ることは重要であり、井戸がないことも重要であったと言えます。
 今お読みしました創世記26章15節、「ペリシテ人たちはアブラハムが掘っていた井戸を埋めていた」とありました。井戸の存在が、その場所の所有権を示す事であり、重要であったことを示しているのではないでしょうか。

イサクの受動性?/リベカの存在
 今日、お読みしました箇所は、イサクとリベカの出会い、そして結婚の場面であります。そして、創世記24章1節からイサクとリベカの結婚に至る物語が記されています。最初にアブラハムとアブラハムの僕が登場します。名も記されていない僕ではありますが、アブラハムからこれ以上無いほどの信頼を得ていました(創24:2)。そして、その現れとも言えますが、この僕に対して、長い道のり(おおよそ1ヶ月ぐらいか)を旅して、アブラハムの一族のルーツ、源流である地域に行き、息子であるイサクと結婚する女性を、選んでくる役割が与えられます。そして、そこでカナンの民族ではなく、自分たちと同じ出身である親類に当たる人々の中から選ぶこと、そしてイサクと結婚した際には、必ずカナンの地に住むことが条件として提示されます。
 そして、この僕は旅立ち、「ナホル」という町で、井戸で腰掛け、主なる神に祈りました。24章12節から14節。
「「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。24:13 わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、 24:14 その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」」
そして、リベカのこの僕の頼みの通りに、そしてこの祈りに答えるように、僕に水をくむだけに収まらず、ラクダ10頭に対しても、水をくんだ、と記されています。『聖書考古学』という書籍には、このあたりのことにこのようなことが記されていました。
「ラクダという動物は乾燥に強く、数日間なら水をまったく飲まなくても生きていられる。また逆に、一度に大量の水を摂取することができることも広く知られている。一度に80リットルぐらいは飲めるらしく、ラクダによってはその1.5倍以上もの水を飲むことが出来ると聞く。
 仮にラクダ一頭あたり、80リットルとは言わず、その半分の40リットルの水を飲んだと仮定しよう。僕は10頭のラクダを連れていたわけだから、全部で400リットルの水、である。「水をくみに井戸に走って行った」(24:20)とさらりと書かれているが、全部で400キログラムにもなる水を走って運ぶのは大変な労力だ。何往復したのだろう。一度に10キログラムの重さの水を抱えて井戸から水槽までを走ったとしても40往復である。…。」
 とてつもない労力であり、体力です。皆さんの中にあるリベカのイメージが壊されたのではないでしょうか。そして、このリベカとイサクはさきほどのように井戸を掘って、自らの領地を広げていったのだ、と考えてみたとき、イサクの姿勢のみならず、このリベカの姿勢というものは、「受動的」なものであった、「受け身的」な姿勢であった、と言えるでしょうか。

族長イサクの生き方
 イサクという人、父アブラハムに縛られて祭壇の上で、屠られようとしたとき、どのような思いであったでしょうか。数多くの絵画などでは、イサクは10代前半ぐらいの存在として描かれます。それは父親に依存した存在、自分で何かを選択することができないような世代である、という期待が込められている、と言えないでしょうか。しかし、12歳といえば、イスラエルにおいては、一人前の存在として扱われる年齢です。そして、さらに
最近のユダヤ教の解釈などでは、イサクもただ父アブラハムの意志に従っていたのではなく、自らの意志で、祭壇にのぼって身を委ねたのだ、と解釈されているそうです。
 また、先ほどの結婚の場面、現代の日本においても、世界各地においても、ただ父親の決めた相手、さらに父親の僕が決めた相手を自分の結婚相手として、すぐに受けとめる、ということがあるでしょうか。とても考えられないことではないでしょうか。しかし、ここに、彼の強い意志がある、と捉えてみたら、どうでしょうか?
 何があったとしても、主なる神の御心に従うのだ、という決意。そうした思いが根底にあるとしたら、それが自分の生き方なのだ、という筋を通す歩みがイサクの歩みだと考えてみたら、どうしょうか。「受動的」である「受け身的」である、というイサクという人の受け取り方がまったく異なってくるのではないでしょうか。

1人1人の決断と他者の存在
 わたしたちは誰でもそうだと思いますが、なんでもかんでも自分の物差しと物を考え、理解し、受け取ろうとしています。そして、時に自分の尺度によって自分ではない誰か、他者を計り、傷つけてしまったりします。そして、自分から見えている部分だけで判断する。今日の箇所に現れているイサクに対しても、同じではないでしょうか。アブラハムに比べたとき、またヤコブに比べたとき、彼の歩みに目立つところはなく、とても受動的なもの、受け身的なものである。だから、彼の信仰の姿、生き方も平坦なものではないか、という捉え方。しかし、そうした私たちのイサクへの思いや、自分ではない他者に対する思いは絶対の真実とは言えません。そして、そうした他者の真実に近づいていくためには、よりその他者のことを知ることしか方法はない、と言えるのではないでしょうか。
 イサクという人、父アブラハムに縛られて祭壇の上で、屠られようとしたとき、どのような思いであっただろうか、また目が見えなくなって、エサウに祝福を与えようとしたとき、リベカとヤコブにだまされて、祝福を与えてしまったとき、すぐにだまされたことに気づいたとき、どのように感じたのでしょうか。その後、どのように受け取ったのでしょうか。
 自分を屠ろうとして父アブラハムとどのような思いで食卓を囲んでいたのでしょうか。また、祝福を奪い取られた後、どのような思いでリベカやエサウと、日々の生活を営んでいたのでしょうか。おそらく、そこには、主なる神への深い信頼、信仰があったのではないでしょうか。そしてその捉え方は、人である私たちには、2つの方向が開かれていると思います。一つは、どんなに理不尽な事柄であったとしても、その内容自体に神の意志があり、わたしたちが理解することが求められている、ということ。そして、もう一つは、その先がある、ということではないでしょうか。ただ単に、その瞬間の事柄だけに意味があるのではなく、その先があるということではないでしょうか。
 ただ、その瞬間だけに意味があるのではなく、その先がある、ということを受け入れることではないか、と思います。そして、それはこれから主なる神がなさること、また同じ意志、同じ信仰を持つ者たちを信頼する、ということではないでしょうか。ちょうど、8月は戦争について考えるときです。その戦争をただ「人の過ち」、また「神の不在」「神がいなかった」という瞬間の捉え方だけではなく、その先に神の意志をどう聞くのか、ということが求められていると思います。
 わたしたち1人1人の歩みは、イサクのように、ぱっとしない歩み、信仰生活に見られる、評価されてしまうものかもしれません。しかし、そうした歩みにも主なる神が共にいて下さる、ということを胸に刻みたい、と思います。平和の主が共にいてくださること、平和の主の導きを信じて、今週も歩み出したいと思います。


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『御旨は人の意志を超えて』創世記21:9-21

2013.07.14(20:52) 226

『御旨は人の意志を超えて』
(2013/7/14)
創世記 21:9~21

アブラハムの歩み
 創世記に記されております最初の族長と表されるアブラハム、創世記のみならず旧約聖書の中においても、主なる神との関係において、わたしたちは数多くの逸話、エピソードを通じて、彼のことを知ることが出来ます。遠くバビロニア地方のウルから、おそらくは父親のテラに伴って、カナンの地を目指すように、神に促されます。そして途中、ハランという場所で、テレは亡くなります。そして、彼が部族の長となり、ハランの地から、さらにカナンの地へ移動してその場に定住します。定住して、アブラハムと主なる神との間に祝福の約束が結ばれました。創世記15章1〜5節。(P.19)
「15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」」
 ここで結ばれた約束。細かく読んでみますと、アブラハムは既に自らの跡継ぎのことで、心を削っていることを知ることができます。2節におけるアブラハムの言葉です。
「「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」」
 創世記の11章には、この当時、アブラハムがすでに75歳であったことが記されて負います。アブラハムは、最終的には175歳で亡くなっていますから、参考にならないかもしりませんが、今お読みしました2節の言葉からは、すでに跡取りのことを気にしていることをうかがい知ることができます。さらに13章にも、アブラハムの跡取りに関するある事件について記されています。それは、おいのロトとの別れであります。15章3節において、エリエゼルは、アブラハムの家族、一族のものではなく、「家の僕」である、ということが記されております。ですから、優先して財産を継ぐのは、親類のロトのはずです。ですが、ロトは別の道を進むことになってしまった。
 おそらく、これにはロトとアブラハムでは考え方があわなかったということ、目指すべき将来像が異なっていた、ということが理由となっています。アブラハムは、あくまで族長として、定住地を持たない放浪する遊牧民の生活を営んでいました。そして、それこそが主なる神の臨む道であったと言えるでしょう。しかしロトはソドムという町を目指します。都市文明を目指したロトとあくまで主なる神の道を目指すアブラハムでは考えが異なり、とても跡取りとして選ぶことが出来なかったのでしょう。

神の勧めとアブラハムの意志
 そして更に、15章の約束があってのことか、側女であったハガルに、アブラハムの子どもを産ませる、という決断をし、イシュマエルが誕生しました。たしかにアブラハムの子どもであり、今日の箇所においても、いわゆる正妻の子どもでなくとも、跡取りとなること、財産と受け継ぐこと(21:10)が前提とされています。こんな風に考えることは出来ないでしょうか。それは、アブラハムと主なる神の間に結ばれた祝福の約束。15章の約束の以前、主なる神に導かれてカナンの地へとやってきたアブラハムとサラ、どのような辛いことがあったとしても、ただ主なる神にのみ従う事が自分たちの歩むべき道だ、と考えていました。そして、その後、いろいろな辛いことがあった中で、親戚でもなんでもないエリエゼルが、跡取りとなったとしても、それでいいじゃないか、という思いになっていた。しかし、15章4節における約束を聞いてしまった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」という言葉を聞いてしまった。そして、その約束から10年後、誕生させるよう努力したのかも知れませんが、叶わず、アブラハムとサラは側女のハガルを生みの母として選び、イシュマエルを誕生する(16章)。
 それでイシュマエルが跡取りとして、受け継ぐかと思えば、そうではなく、そして更に、主なる神はアブラハムとサラに使いを通じて、アブラハムとサラの実の子が生まれると予告し(18章)、イサクが誕生するのです。アブラハムが100歳、サラは90歳の時でした。

イサクとイシュマエル
 今日の箇所、兄のイシュマエルがイサクを虐める、という兄弟ゲンカを発端として、イシュマエルのその母であるハガルが追い出されてしまう場面であります。正妻であるサラの立場として、その怒りは分からないわけでもありません。ハガルは最初、イシュマエルを身ごもったとき、主人であるサラを軽んじた(創世記16章)、ということが記されており、そうした元々の関係の悪さが単なる子どものケンカを発端として、追い出すということにまで発展した、と言えるでしょう。
 また、もう一つ、面白い指摘ですが、ここで「からかっているのを見て」と訳されている言葉、ある翻訳では「たわむれているさまを見た」という翻訳をしているものが見られます。さらに二人の年齢差が問題となります。この場面、「からかっている」といえば、お互いの幼稚園から小学生ぐらいの年齢ではないか、と想像する方が多いのではないでしょうか。しかし、思った以上の二人の年齢差はあります。直前の箇所、イサクが乳離れしたとありますので(21:8)、3歳ぐらいとしましょう。するとイシュマエルは何歳になるか、どのくらいでしょうか。実は18歳ぐらいの計算になります(17:25)。18歳の子どもが3歳の子どもをからかう、と言えるだろうか。それよりは、サラの自分の子どもをかわいく想う思いとハガルとイシュマエルという親子への不振が、ただ遊んでいただけの18歳と3歳の兄弟を見る視線にも影響を与え、怒りとして結実した、と言えないでしょうか。

聖書における矛盾
 また、ここで旧約聖書に見られる一つの矛盾について指摘しておきます。それは、律法において、跡取りとして選ばれる存在は、長男でありますが、創世記の物語は一貫して、長男以外の者が、跡取りとなっている、ということです。たとえば、イサクも言ってみれば、イシュマエルの弟であります。そして、イサクから誕生したエサウとヤコブ、双子の二人ですが、弟であるヤコブが跡継ぎとなりました。そしてヤコブに生まれた12人の兄弟の中で後を継いだと言えるヨセフ。兄弟の中では、下から2番目の息子であります。
 なぜでしょうか?長男が財産を引き継ぐべきだ、というように、律法にははっきりと記されているのに、です。不思議といえば、不思議なことです。申命記21章15節から17節には、このように記されています。(P.313)
「21:15 ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。愛された妻も疎んじられた妻も彼の子を産み、疎んじられた妻の子が長子であるならば、
21:16 その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。
21:17 疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。」
 アブラハムとイサク、イサクとヤコブ、ヤコブとヨセフ、またカインとアベルの兄弟でも、弟が好まれる、いうなれば、創世記に表れる親子そして兄弟は、この律法をすべて破っている、と言えます。そして、こうした事実をどのようにとらえれば良いのでしょうか。二つのパターンがあると言えるのではないでしょうか。それは、族長の時代には、律法がなかったので、守る必要もなかった、という考え方。たしかにその通りです。しかし、ある意味の屁理屈と言えるでしょう。そして、もう一つの考え方、こちらが正解だと思うのですが、それは主なる神の意志は、律法を超えるということであります。

神の御旨を信頼して
 今日の箇所、元々は主なる神の意志によって誕生したイサクがアブラハムとサラに選ばれ、人の意志によって誕生したイシュマエル。しかしアブラハムとサラは、二人の間に誕生したイサクを選び、兄であるイシュマエルをその母ハガルと共に、追い出してしまいます。しかし、そのようなまったく希望もないよう状況に見えるときに主なる神が現れるのです。21章17節18節の言葉。
「21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 21:18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」」
 この祝福の予告は、12節においてアブラハムに述べられています。そして、イシュマエルの子孫、創世記25章によれば、イスラエルの民のように12部族を構成する、大きな民族となっていきます。イスラエルの民と同じように、祝福があったという徴と言えるでしょう。そしてユダヤとイスラムの伝承において、イシュマエルこそアラビア人の父祖である、というように考えられる存在であります。今日の箇所で、主なる神は、イスラエルの民ではない、イシュマエルにしても、イシュマエルにつらなる民を守られる、祝福する、と言っています。そして、言うなれば、人と人同士、兄弟同士、民族同士、異宗教同士の人々が仲たがいしたとしても、それぞれを守られる、ということと理解することが出来ないでしょうか。ただ、イサクを守る、とか、イシュマエルを守る、とかではなく、仲たがいしたとしても、それぞれを、それぞれの歩みの中で守られる、と言われている。そして、そういう読み方から、世界には、民族性や宗教性の違いによって、戦争が起こっていますが、それらのことに対して、神さまはどちらかにつく、というのではなく、悲しんでおられるのではないでしょうか。
 今週、台湾の玉山神学院から二人の神学生が小田原教会に滞在してくださいました。彼らはギターで原住民族の作った讃美歌を歌って下さったのですが、その歌詞の内容が、「原住民族として神を愛する」といった内容でした。アジアの過去の戦争を思った時、わたしはどうしても、現在の日本のあり方から、どうどうと「日本人」として神を愛する、とは言えないような後ろめたい思いがあります。しかし、彼らが堂々とした告白は胸を打ちました。もう一度、彼らが東京にやってきたときには、彼らを連れて、靖国神社の見学に行ってくるのですが、自分たちの国が乗り越えられていない過去の問題の重さを考えてしまいます。現在行われている選挙は、そうした日本の過去の歴史をどのように捉えるのか、ということ。他国と共に生きるのか、また日本国内においても、弱き存在と共に生きるのか、未来を担う存在と共に生きるのか、ということが問われている、と言えるでしょう。そうした思いを抱いており、どうどうと自らの国を誇ることが出来ない私に対して、彼らがどうどうと告白するのは、ただ単に自分たちを愛している、というだけではなく、隣人として立っているすべての人、民族を受け入れる、という姿勢があってこそ、のことではないか、と感じました。

人の意志を超えて
 アブラハムという人、わたしたちは自らの息子を献げるほどに、主なる神に強い思いを持って仕えた人として知っています。創世記22章において、これほどまでに臨んだ、また神のよって与えられた跡取りであるイサクを、主なる神は羊や山羊のように犠牲獣として献げなさい、と命じます(22:2)。そして、アブラハムはその言葉のとおりに、ある山に登って、イサクを縛って、屠ろうと剣を振り上げます。そのとき、主なる神が止める、という物語であります。主なる神によってアブラハムに対して、このように呼びかけます。22章12節。(P.31)「22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」」
 様々な解釈がされる箇所、さらに哲学的とも神学的とも問いの元になる箇所です。極端な例としては、そんな命令をする神を神と言えるのか、という問い。そして、まったく肯定的に自分の子どもを献げる位の強い信仰を持つべきだ、ということ。また、主なる神の自己紹介だ、という指摘。古代イスラエルには、子どもを献げて願い事をするという宗教、神さまがありましたが、それとは違う、という捉え方などがあがります。
 そして、もう一つの捉え方として、このような捉え方があります。主なる神は、この箇所において「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」と言っていますが、神さまが期待していた答え、行動とは、合格点ではあったが、満点ではなかった、という捉え方です。神さまの希望としては、アブラハムに反論して欲しかったのではないだろうか、という捉え方です。「自分の子を献げなさい」と神さまに問われたとき、「いくら神さまの願いだったとしても、それは出来ない」「神さまによって与えられた子どもであったとしても、それは出来ない」とアブラハムは拒否すべきだったのではないか、という捉え方です。そして、逆に神さまが学んだ、のではないか、という解釈です。人は主なる神への信仰のゆえに、自らの子どもさえ殺すかも知れない、愚かな存在である、ということを神は学んだのだ、という解釈です。
 神さまは、わたしたちが行うこと、私たちのある意味で「浅はかな企み」を良き方向へ導いて下さる存在である、と言えないでしょうか。そして、主が私たちの「意志」を超えて、働かれるからこそ、私たちは、不完全な存在かもしれないながらも、神に信頼をおいて歩む、ということが大事ではないでしょうか。
アブラハムとサラは、自らの思いで、神の計画を実現しようとして、イシュマエルを誕生させました。また、自らの子どもさえ殺そうとする愚かな存在ともいえます。しかし、主なる神はそうした私たちの愚かな「意志」を重んじて下さる。わたしたちが間違いながらも、従おうとする信仰を重んじて下さる存在ではないでしょうか。
 ですから、たとえ誤ったとしても、大胆に主なる神を信じ、歩み続けるべきではないでしょうか。今、世界においても日本においても、問われていることは、誰と共に歩むか、ということではないでしょうか。主なる神の御旨がどこにあるのか、を聖書から聞き、これからも歩み続けたい、と思います。


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周縁自体


創世記
  1. 『神と大地の契約』創世記9:8-17(11/03)
  2. 『少数者によって救われる』創世記18:20-33(05/26)
  3. 『誰かの助け手として』創世記2:4b-9/15-25(10/28)
  4. 『族長イサクの生き方』創世記24:62-67(08/12)
  5. 『御旨は人の意志を超えて』創世記21:9-21(07/14)