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『信仰を持つことと行うこと』(ルカによる福音書9:37〜43a)

2018.11.18(16:12) 382

『信仰を持つことと行うこと』
(2018/11/18)
ルカによる福音書 9章 37~43a節

奇蹟物語の核について
 今日の奇蹟物語、癒された人は、イエスのもとにやってきた父親の息子であります。そして、病としての症状は、39節に記されています。
「9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。」
 そして最初、イエスの弟子たちに頼んだのですが、できなかった(9:40)。であるから、その師であるイエスのもとにやってきて、癒してくれるよう頼んだ。そして、イエスが語ります。9章41節。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」と。
 そして、イエスがその子どもを連れてくるように述べ、連れてきた子どもを癒す、という流れになっています。

福音書を解釈すること
 今日のテキストは、ルカ福音書9章37節から43節前半です。そして、この箇所には、マタイとマルコそれぞれに平行箇所が存在し、大まかな流れについては重なっています。それは、もともとのマルコの記事を、マタイとルカの記者が、自らの福音書を記す作業の中で、マルコのテキストを見ながら、足りないと思った内容を書き加え、また、必要ないと思った箇所を削りながら、書き写したので、物事の順番というのは、なかなか変わりません。
 しかし、書き加えたり、削ったりした箇所はわかりません。そして、それらの違いを比べてみますと、各福音書が、この奇蹟物語をどのように受け取ったのか、ということを知ることができます。そして、その受け取り方というのは、同時に、福音書の読み手に対して、物語をこのように受け取って欲しい、という思いにも重なります。

マルコにおける強調点
 マルコ福音書における平行箇所、マルコ福音書9章14節から29節を開いてみましょう。(P.78)まず、ルカに比べて、ずいぶん長いことに、まず気がつくでしょう。2倍以上はあります。そしてルカに見られなかった二つの要素に注目したいと思います。一つは、マルコ9章14節。
「9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
 ここで議論をしていることは何でしょうか?律法学者も当時は、医者のような役割を持つ人々です。そして、イエスの弟子たちも律法学者たちも、この息子を癒すことができなかったのでしょう。そして、なぜ癒すことができないのか?と議論していた、と。
 そして、もう一カ所、最後の箇所、9章28節29節です。(P.79)
「9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」

マルコにおけるポイント
 マルコにおける、この最後の記述、「祈りによらなければ」この種の癒しの奇蹟を行うことはできない、とは、どのような思いが込められているでしょうか。ここで言われている「祈り」とはどんな祈りなのか、ということです。様々なとらえ方ができます。しかし、そのとらえ方の材料、要素を、今日のお話とするのであれば、奇跡行為、幼い子どものいやしのためとは言え、弟子たちにしろ、律法学者そして父親も含めて、自分の信仰の力によって何かをなそうとする姿勢は間違っている、ということではないでしょうか。
 マルコ福音書において、常にテーマとしていることに、弟子批判、使徒批判があります。使徒であろうと、どのような偉い人(?)であろうと神の前には同じ人間、ということ、カリスマ主義、つまり権威主義があります。弟子たちにしても、律法学者にしても、何らかの立ち場や権威によって、主なる神の力、癒しを実現することはできない、と言ったことを示そうとしているのではないでしょうか。その上で「祈り」は何を表しているか。神の前に、従順であること、謙遜であることを示そうとしているのではないでしょうか。

マタイによるポイント
 またマタイ福音書について考えてみたいと思います。マルコと同じように、マタイにおいて特徴的な点を挙げてみたいと思います。マタイ福音書17章14節から20節です。(P.33)マタイにおいて特徴的な記述は、一番最後の箇所、17章19節と20節です。
「17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」
 マタイにおいて、信仰には、濃い薄いがあるもの、また信仰の大小があるものです。そして弟子たちが人を癒やすことができないのは、信仰が薄いからだ、と。マタイにおいて、イエスは最高のラビ、最高の教師です。そして弟子たちは、教師と同じようになるべく、教師を超えるべく、研鑽を積む存在、学ぶべき存在です。信仰を、そうした積み重ねの中において、より厚くなるもの、より濃くなるものという理解をしているのでしょう。
 「信仰によって山が動く」ように「祈りによって人が癒やされる」ということは実際にはなかなか起こることではありません。また、これは面白い例なのですが、マルコの祈りの言葉の部分に、紀元3世紀のある写本で、「断食」という言葉が付加されているってことがありました。
 「祈りと断食によらなければ…」というかたちにされているものもあるのです。どうしても「祈り」だけでは、「病い」を癒やすことが出来ない、という状況がある中で書き加えられたのでしょう。

ルカによるポイント
 そして最後のルカ福音書に戻りたいと思います。ルカ福音書9章41節をお読みします。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」
 この箇所は、三つの福音書すべてに、ある要素です。「いつまでわたしはあなたがたと共にいて」というのは、イエスの受難と復活を思わせる記述であります。そして、「我慢しなければならないのか」とありますが、不完全な弟子たちを指しての言葉であります。また、信仰について、「ない」という言い方をしております。イエスにとっては、信仰は「あるなし」なのか、ということもできるでしょう。
 昔の本ですが、丸山真男さんという東大教授だった方の作品で、『日本の思想』という新書があります。その中に、評論で「『である』ことと、『する』こと」という作品があります。日本の近代化について、論じている書籍で、論ずることが難しいものですが、私なりに表現してみますと、江戸時代からの明治、大正、昭和に至る中で、時代の移り変わりの中で、日本人は自らの捉え方を変える必要が出てきた、といった内容と言えます。江戸時代において、封建社会ですから、武士の子は武士の子、農民の子は農民の子、そして商人の子は商人の子として自分について考えることなどなかった。
 しかし、明治大正昭和と時代が変わっていく中で、自らは誰であるのか、何になるのか、ということを考える必要が出てきた。また、昭和になると完全に自由になったかと言えば、自由には義務が生まれてくる、ただ生まれた時から日本人というだけではなく、日本人としての義務、なすべきことが出てきた。
 そうした中で、「『である』ことと『する』こと」というのは、江戸時代においては、日本人で「ある」ことを考えずにすんだ。そのままで日本人だから、しかし開国し、近代化を果たすと、日本人として「すること」、近代人として「しなければならないこと」が求められるようになった、と言えるのでしょう。
そして現代においても違う形で、新しい「日本人である」こと、日本人ならば「する」べきことが求められる時代になってきた、と言えるのでは無いでしょうか。

信仰を持つこと、行うこと
 最期に、ルカにおける信仰について触れて終わりたいと思います。ルカにおける信仰とは、基本的に、何かをすること、何かを明らかに宣言すること、と言えます。なぜならば、マタイにしても、ルカにしても、イエスを信じる、キリスト者になる、というのは、あくまでユダヤ教という基礎、ユダヤ人という基礎から改革という性質を持っていると言えます。しかし、ルカにおいては、そうした背景はなし。異邦人対象に書かれていると言えるのです。ルカにおいて重んじられるキーワードに「悔い改め」がありますが、あくまでユダヤ教の悔い改めではなく、自分中心のあり方から神中心のあり方に変わることであったと言えます。また、そうした意味において、例えば、「善きサマリア人」のたとえや「ザーカイ」の逸話も捉えられるのです。
 今日の最後の箇所、9章43節をお読みします。
「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」
 今日の奇跡をルカ福音書は、どのように捉えられるか、と言えば、神の力の徴としての側面が強いと言えます。マタイにしても、マルコにしても、奇跡物語について、あるべき信仰者の姿のテキスト、手本としての読まれることが求められているのに対して、ルカにまったくそうした視点はないと言えます。ルカは、イエスの奇跡を神の恵みの実現として、神の偉大さの実現として、読み手に対して、信じるか否か、悔い改めるか否かという問いを投げかけています。そして、神に立ち返るという意味での「悔い改め」を宣言すること、何かを明らかにすることを理想的な信仰者、キリスト者と捉えています。そして、さらに弟子たちのように、善きサマリア人のように、マリアとマルタのように、信仰を心の問題にせずに、信仰に基づいて、具体的に何かを「する」こと、何かを「行う」こと、他者に明らかにすることを求めているのではないでしょうか。


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『イエスも出会いから学んだ』(マルコ福音書7:24〜30)

2016.10.02(19:01) 324

『イエスも出会いから学んだ』


2016/10/02


マルコによる福音書 7章24~30節

 

イエスという存在

 イエスは人であるのか、神であるのか。人としては、ナザレのイエスと呼ばれている2000年前のパレスチナを生き、様々な罪人として呼ばれた人たちの隣人として生き、当時の宗教家や政治家たちの恨みを買い、処刑されてしまいました。そして、神の子としては、どのような歩みであったでしょうか。旧約聖書(ユダヤ教聖書)に記されたアブラハム、イサク、ヤコブの神の不思議な働きによって、マリアというユダヤ人の女性の子として生まれ、私たちの罪をあがなうために十字架上の死を遂げ、復活しました。その教えと歩みは12使徒たちへと受け継がれ、教会の礎となりました。

 イエスは、いったい具体的にはどのような人であったのでしょうか?頭は良かったのか?たぶん、いろいろな議論で勝っているから、頭は良かったはずだろう。手先はどうだろう?体力は?大工の子だったのだから、手先は器用だっただろうし、体力もそれなりにあっただろう。しかしこれ以上のこととなるとどうでしょうか。例えば、食事の好みは?大酒飲み、大食漢だったのか?性格的には?あまり怒らなかった?それとも怒りやすかった?神さまの子どもだから、怒らなかった、という人もいるかもしれません。また、今日の箇所や神殿で商売をしていた人たちや他の人たちにも怒っているから、もしかして、怒りっぽかったかもしれない。いろいろ考えられます。

 しかし、どうでしょうか?現在の日本においても、様々な差別問題があります。民族差別や男女差別など、そうした課題に対して、イエスはどのような考え方、価値観を持っていたのでしょうか。今日の箇所は、そんなイエスの人間性についても議論となる箇所です。

 

神学的イエス

 今日の箇所において、イエスは、今まで活動していたガリラヤ、ユダヤ人たちが住んでいる地域を離れ、ティルスという場所に向かいます。地図で確認してみますと、ティルスはイスラエルの北、地中海に面した町でフェニキアという地域に属しております。フェニキアもガリラヤ・ユダヤと同じくローマ帝国領であります。

 24節に「誰にも知られたくないと思っておられた」と記されています。多くの注解書において、「疲れていた」といった説明がされています。が、噂はユダヤ人を超えて、ガリラヤ地方を超えて、ティルスにまで伝わっていたのでしょう。イエスという病を癒す奇蹟行為者が来ているという話を耳にして、この女性がイエスのところに来たことによって、話が始まります。

 女性はイエスの足下にひれ伏し、娘に取りついた悪霊を追い出すことを願います。イエスは答えます。727節をお読みします。

 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない、子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

 「子供たち」とはイスラエルの民のことでありましょう。ユダヤ教聖書に記された神を自らの神としてイエスが「父」と呼びかける神を神としている人々であります。そして「子犬」とは異邦人のことを指しています。イエスは要約すると「まずイスラエルの民から救われるべきで、異邦人はその後だ。だから娘さんのことは我慢しなさい」と言っているわけであります。

 フェミニスト神学(女性神学)の立場などからは、大まかにこのような指摘がされます。イエスの福音書の伝承には、初代教会の有り様が反映している。初代教会は、男性中心的であり、ユダヤ人中心的であった。(『豚に真珠』〔マタイ〕、などの用例)そうしたことに対する批判として、異邦人であり、女性であるこのフェニキア出身の母親がイエスに対して、否と唱えているのだ、という説明です。しかし、この説明に問題があるなあ、と思うのは、イエスという人が一切出てこない、ということです。このお話は、まったくの作り話なのでしょうか。そうとも言えないのではないでしょうか。

 初代教会の考え方としては、イエスが伝えた「福音」もしくは「イエスがその教えと歩みと死と復活」を通して、自分たちに示してくれたことは、ユダヤ人から始まり、それから異邦人に伝わっていった、というのが教会の歴史であり、一般的な考え方でありました。


ユダヤ人イエス、貧農イエス

 また、ユダヤ人イエスという人格に引きつけて、イエスもユダヤ人としての限界があったという視点で読み解くこともあります。イエスも限界のあったユダヤ人であり、男性であった。ガリラヤにおける宣教活動で疲れきっていたイエスは休みを取るために、ティルスに行った。そのような状況の中では、助けを求める人、癒やしを求める人の気持ちに答える気にもならなかった。そして外国人、それも女性の願いであったので、つい癒やしを断ろうとして、あのような言葉を言ってしまった、という説明がなされます。また、イエス自身、自分はイスラエルの民から救うのが最初の役目、そしてその次に異邦人を救う、と考えていた、という説明もあります。

 また、この女性に注目してみると、かなり裕福であっただろうということが想像できます。「シリア・フェニキアの生まれ」(7:26)という説明があります。フェニキア人とは、大まかに触れますと紀元前15世紀ほどから地中海において貿易を広く行っていたとされています。そうしたことから事実としても裕福であったでしょうし、著者の意図としても、裕福な民族、家庭の母親とその子である、ということを示したかったのかもしれません。ティルスという町もローマ帝国からすれば、貿易港として、ユダヤ人地域の入り口として、豊かな町であったはずです。

 そうした設定としてお読みしますと、イエスは、ユダヤ人であるとかないとか、異邦人であるとかないとかではなく、貧しい者、小さくされた存在にこそ、神の恵み、神の業が下るべきである、と考えていた、ということになります。もしかして、福音書記者が伝えたかったことは、女性がどうとか、外国人がどうとか、ではなく、この点であった可能性も高いのではないでしょうか。

 

イエスという人の歩みから

 いろいろな可能性に触れてみました。しかし、人としてのイエスを考えた場合、これらのことは当たらないという可能性もあるのです。イエスはガリラヤのナザレという町で育ちました。そして、ナザレで大工の息子として、また一人前の大工として30歳ぐらいまでは生活していたはずです。ナザレのあるガリラヤは、エルサレムがある南側のユダ地方に比べれば、ローマに近く、多くの異邦人たちが生活しており、イエスも生活の中で様々な機会に異邦人たちと触れあっていたのではないか、と考えることができるのです。

 イエスがナザレに生きた時代、ナザレから北にわずか6.4kmの場所にセッフォリスという町がありました。紀元前2世紀にガリラヤの首都的な都市として建造され、最大の推定人口は、2万人。イエスの青年期には、大きな改修があり、ローマ風の町として建造されました。4000人が座れる劇場があり、公文書保管所、宝物庫、武器庫、銀行、学校、法廷、市場などもあったそうです。

 イエスが曲がりなりにも大工として生計を営んでいたのであれば、絶対に、この町の建設に関わったはずです。この町は、ユダヤ人の町ではありましたが、多くの異邦人たちもその町の機能から訪れていたはずで、建築に関わったイエスは、ユダヤ人だけではなく、異邦人とも触れ合っていたでしょう。そして、ローマ風の町ということでしたが、そこに住むユダヤ人たちもエルサレムのユダヤ人のような律法中心の生活ではなく、ローマの文化や風習で生活を営んでいたと想像することができます。

 

解釈に頼る私たち

 これらの背景から今日の箇所に戻って、考えてみたいと思います。イエスさまはなぜ、この女性の願いを断ったのでしょうか。現在の私なりの結論は、イエスがただ疲れていたから、つい断ってしまった、というところではないか、と思います。キリスト教からすれば、神学的な角度で見ることによって、教会の歴史として捉えることによって、イエスの間違った行動を神の計画として位置づけることによって心に納めようとする。また、イエスが限界を持った男としての側面も、教会の間違った伝統が現れた一側面として理解する。そして、どちらもイエスの神性、そして理想的な人間性を前提とした理解、また守ろうとする理解です。そして、どちらもイエスは失敗などしない、という思い、信仰が前提となっている、と言えないでしょうか。そうではない、読み方もあるべきだと思うのです。イエスも一人の人間であり、ちょっとした間違いも起こしてしまう、ということを素直に受け止めるべきではないでしょうか。

 そして、そうした姿勢は、イエスをメシアとして担ぎ上げようとしていた人々と同じ姿勢かもしれません。ローマ帝国の支配から救ってもらえると思っていたユダヤ人の群衆、新しいユダヤ人の王となると考えていた弟子たち、そうした人々の思いがイエスを十字架への道を歩ませることになった、と言えるのです。


女性の立場

 またユダヤ人社会においては、たしかに女性蔑視の視点が強かったでしょう。ですが、異邦人社会においては、かなりの部分において、女性と男性の地位の差は縮められていた、と考えられます。そうした現れとして、女性が財産を持つということも捉えられ、福音書にも財産を持っていながらも12年間も出血に悩んでいた女性や今日のシリア・フェニキアの女に登場する女性も捉えられるのではないでしょうか。注解の中には、「女性が男性に直接、癒やしを求めることなどあり得ない社会だった」といったものもありますが、そうした事実と整合性がとれないのではないでしょうか。そうした視点というのは、現代社会に広く広がっていた女性蔑視の視点を古代に適応させたもので、確かに平等であった、公平であったといえないでしょうが、今とは違う形のものであった、と言えるのではないか、と思うのです。

 

新しい出会いを通して

 物語の話に戻りますが、元来の核となっているお話は、イエスは疲れていた、そして「今は勘弁して欲しい」という思いで、ついまず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。7:27)と言ってしまった。しかし、それに対して、このフェニキア人の女性の「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)の言葉に、一本取られたと思い、いやしたのではないか、といったところではないか、と思います。ここから読み取るべきことは2つあります。1つは、強い影響力のある人は、ちょっとしたことでも特別なこととして捉えられることがあるから気をつけた方が良い、ということです。

 聖書に書かれて、2000年経っても、この行動にはどんな意味があるのだろうか、と議論されてしまう。ほんとにちょっとしたことであっても、人から見れば、あの人はあんなに良い人なのに、実は、人種差別主義者だった、とか、女性差別主義者だった、とか、最終的には自分のことばっかり考えている自己中心的な人だ、と受け取られてしまうという良い例と言えるのではないでしょうか。

 そして、もう一つは、疲れているときは自分の行動に気をつけよう、ということです。何かしら、自らは小さなことと思うようなことでも、とても大きな失敗に繋がることがあるからです。また、その助けの言葉は、その女性と子どもが上げる最後の声だとしたら、どうでしょうか?助けを求められる人、イエスにとっては、多くの助けの言葉の1つかもしれない。また、その「助けて」の言葉が、最後の言葉であったらどうでしょうか。助けを求めることとは、時に簡単なことではないことがあります。この女性は大きな決意と熱意と勇気をもってイエスのところへやってきて、癒やしを求めました。様々な注解書や様々な説教においても、そうしたことが強調されます。民族性を超えて、宗教を超えて、この人はイエスに助けを求めに来た、そのような姿勢に学ぶにきた、と。

 最後に致しますが、イエスは、この女性と出会ったことによって何かを学んだ、と思います。それは自らが望むか望まないかに関わらず、メシアとして、キリストとして、歩むときに気をつけるべきこと、心がまえみたいなものではないでしょうか。どんなに疲れていたとしても、助けを求める人にとっては、その時が決定的な時である場合もある。そして、何か重要な事柄であったとしても、人の存在を無視することはできない、ということ。もしかして、ここにおける経験が、「良きサマリア人のたとえ」へと繋がっているのかもしれません。


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2014初めての沖縄平和ツアー(ぱーと6/ひめゆり塔&魂魄の塔)

2014.01.29(22:20) 259

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  「魂魄の塔」


(ぱーと5の続き)


平和の礎に続いて、平和祈念公園内の平和祈念資料館を見学しました。
撮影禁止なので、写真はありませんが、以前訪ねた展示内容よりも
新しくなっていました。

 ↓リンク先をはっておきます

平和祈念資料館のホームページ



話題となったガマの中での状況については、
赤ん坊を抱きかかえる母親とその隣に立つ兵士(日本兵)。
兵士は怖い顔をして銃を持っていました。
その銃は、中途半端な方向に向けられていましたが、
実際は母親と子どもに向けられました。

また、太平洋戦争開戦の詔書が展示されていましたが、
現首相である安倍晋三さんのおじいさんの名前が
あったことが印象的でした。

そんな重苦しい場から昼食へ向かいました。
ガイドの金井先生に食事の場所は、お任せしておりました。
お!狭い道へ入っていく!おお!ここは!

真壁ちなーのブログ

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屋根の上のシーサーがお出迎え。
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そして、ソーキそば。(大盛りにしてしまいました)
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そして、また移動。ひめゆりの塔へ向かいます。

観光バスがいっぱい。修学旅行生も観光客もたくさんでした。


駐車場から碑に向かう途中のあったガジュマルの木。
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そして、ひめゆりの塔。
たくさんの花が供えられていました。
入り口付近にお花が売っている場所がありまして、
そこで買って、おささげするのですね。
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しかし、わたしはここでちょっと違和感。
バスガイドさんが「黙祷」を促していたのですが、どんなことを祈るのでしょうかね?
私はひねくれ者なので、「私たちのための犠牲になってくれて…(伏せ字)」であって
「やすらかにねむって下さい。二度と戦争は…(伏せ字)」ではない、と思うのです。
それでは、どこかの神社と同じではないか、と違和感。
以前は気づかなかったのですが、前からやっていたかなあ。

戦跡は、ときにナショナリズムの道具となってしまいますが、
「ひめゆり」にしても、沖縄にあるどんな碑や戦跡にしても、
そういった危険性があるだろう、とあらためて、考えさせられました。
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これは建物の中にあったポスター。
不鮮明ですが、「不屈館」という資料館のお知らせ。
元新聞記者で、元沖縄県知事の瀬長亀次郞さんを記念して作られた(?)みたいです。
今回は無理でしたが、次回は訪ねてみたいです。

 ↓リンク貼っておきます。
不屈館のホームページ
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ひめゆりの塔の敷地内にあったボード。
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続いて魂魄の塔へ。
ひめゆりの塔から、ほんの5分ほどでしょうか。
そういえば以前、6月23日に訪ねたときには、ひめゆりの塔付近から歩いたことを思い出しました。
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魂魄の塔についての説明文。
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アップ。
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魂魄の塔から歩いて出られる海岸。
ゴツゴツした珊瑚礁で出来た海岸です。
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その後、轟壕に行きましたが、ここでは入り口まで。
かなり深いようです。修学旅行生もたくさん来ているみたいです。
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その後、糸満にあった農協の直売所のようなところに寄ってから、
国際通り近くのホテルまで送っていただきました。
金井先生ありがとうございました。

それにしても、新しい道が出来ており、
思ったより早く着きました。

その後、休憩をしてから、国際通り、公設市場の2階で食事をして、
沖縄民謡の店へ行って、2日の日程を終えました。

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(ぱーと7へ)

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2014初めての沖縄平和ツアー(ぱーと5/糸数壕&平和の礎)

2014.01.27(21:20) 257

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  「平和の礎(いしじ)について」

2日目のスタートです。
今日は、一日中、ぎのわんセミナーハウスの自動車で移動。
ガイドと運転手は、佐敷教会の金井創牧師でした。


ぎのわんセミナーハウスを8時50分に出発して、
高速を使用して、30分ぐらいで糸数壕(アブチラガマ)に到着しました。
こんな見学用の建物が出来ていて、ビックリ。
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ヘルメットの貸し出しもしてます。
やっぱり修学旅行生なども来られるので、
大量にありました。懐中電灯は自分で用意した方が良いですよ。
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入り口の看板。
ちなみに糸数というのは、地域の名前。
アブチラガマという名前には、
アブ=深い縦の洞穴、チラ=崖、ガマ=鍾乳洞や壕のこと、という意味が
あるそうです。
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壕の中は撮影禁止なので、
見学を終えた出口の写真。
壕の中において懐中電灯を消してみました。漆黒の闇と静けさ…。
金井先生は、「この闇と静けさが命を守った」ということをおっしゃっていました。
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出口付近のサトウキビ畑。
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沖縄と言えば、石敢當(いしがんどう)ですよね。
 ↓
石敢當(Wiki)

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アブチラガマと轟壕に関する新書がありました。現在、読み進めてます。
  ↓
沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 ―国内が戦場になったとき (集英社新書)沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕 ―国内が戦場になったとき (集英社新書)
(2000/06/16)
石原 昌家

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1時間ほどの見学を終えて、平和祈念公園へ向かいます。


まずは、平和の礎(いしじ)へ。

そういえば、礎(いしじ)っていうのは、
ウチナーグチ(沖縄弁)ということを、今回初めて知りました。
日本語にすれば、「いしずえ」とのこと。
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沖縄戦で犠牲になった人すべての名前が記されています。
このあたりは、沖縄県民。市町村別になっています。
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海に向かって進んでいきます。
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平和の礎(いしじ)についての説明文。
こう書いてあります。
「沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑」とあり、その下には、括弧付きで、
「沖縄県出身者:満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者」
と記してあります。
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 ↓(詳しくはこちら)
http://www.pref.okinawa.jp/site/kankyo/heiwadanjo/heiwa/6518.html


このあたりは、米軍の犠牲者の名前が並んでいます。
沖縄戦は、米軍の歴史の中でも、数多くの犠牲を生んだ
壮絶な戦いであった、として記憶されているそうです。
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終戦から50年目の6月23日、平和の礎の除幕式にともされた火です。
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かつて血によって赤く染まったといわれる海岸線を望みます。
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こちらは名前が彫られていない碑。
韓国の方々の名前が掘られる予定でしたが、
遺族が望まないなどの理由で進められていない、とのことです。
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敷地内にいた青い鳥。イソヒヨドリというそうです。
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(ぱーと6へ続く)


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2014初めての沖縄平和ツアー(ぱーと4/佐喜眞美術館&ゴスペルの会)

2014.01.25(13:51) 256

(ぱーと3の続き)

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 「佐喜眞美術館屋上の窓」


佐喜眞美術館に到着しました。
この美術館の概要について、館長さんの文章がわかりやすいです。
 ↓
館長あいさつ「もの想う空間へ」


開放感のある芝生の庭と亀甲墓。
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この石の山。
その数、236,095個。会館当初は通し番号が付けられていました。
沖縄戦の犠牲者の数であるそうです。
最初に見たときよりも、山は低くなり、芝生に覆われてきています。
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屋上の窓に向かって。
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屋上の窓。
6月23日の夕方、ちょうど太陽が指すようにつくられています。
さらに階段は、6段、と23段になっているとのことです。
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屋上の高い位置から見た普天間基地。
この日は、たまたま米軍の訓練はお休みでした。
とても静かで、それはそれで、普段の爆音のすさまじさを感じさせられました。
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そして、普天間基地の周辺施設の見学に向かいました。
活動開始まで、しばらく時間がありましたので、
普天間基地や返還された北谷地区などを廻りました。

すでに横断幕は貼ってありました。
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また、基地反対活動の一環としてビニールテープを結びつけて、
おられる方がいました。
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今日は訓練がない休日でしたので、
静かですが、普段は車の出入りが激しいゲートとのことです。
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関係のリンクです。↓
普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会ブログ
普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会の活動主旨(Blog「喜びカタツムリの歩み」より)

のぼり。
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挨拶する一緒に訪問したお仲間
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そして、一日目の宿舎である「ぎのわんセミナーハウス」へ。
久々ですが、何回目かは不明。けっこう来ています。
  ↓リンクです
ぎのわんセミナーハウス


ちょうど修繕中。
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晩ご飯は、セミナーハウスで。
料理を作ってくださった方は、お世話になっていた方なので、びっくり。
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近所のスーパーで買いだしをして、一日を振り返りながら、
沖縄のシマー(泡盛)で一杯やって、眠りにつきました。


(ぱーと5へ続く)


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周縁自体


未分類
  1. 『信仰を持つことと行うこと』(ルカによる福音書9:37〜43a)(11/18)
  2. 『イエスも出会いから学んだ』(マルコ福音書7:24〜30)(10/02)
  3. 2014初めての沖縄平和ツアー(ぱーと6/ひめゆり塔&魂魄の塔)(01/29)
  4. 2014初めての沖縄平和ツアー(ぱーと5/糸数壕&平和の礎)(01/27)
  5. 2014初めての沖縄平和ツアー(ぱーと4/佐喜眞美術館&ゴスペルの会)(01/25)
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