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『メシアか、それともキリストなのか』(ルカによる福音書 9:18~27)

2018.09.24(10:31) 380

『メシアか、それともキリストなのか』
(2018/9/23)
ルカによる福音書 9章18~27節

「イエスはキリストである」という思い込み
最初にクイズを紹介したい、と思います。
問題:父親と息子が交通事故に遭いました。父親は即死。重症の男の子は近くの病院に運ばれた。そして病院の当直は、腕の良さで知られた外科医だったので、誰もが助かるだろうと思っていた。しかし、病院で、手術を担当する医者がその少年を見てこう言った。この手術を担当することはできない。この子は自分の息子なのだ、と。一体どういうことでしょう?
(答えは、記事の末尾にあります)


 この問題を紹介したのは、私たちの中にある色々な思い込みと共に、「イエスはキリストである」という思いによって、聖書を読むという作業の中で見逃していることはないだろうか。また、「イエスはキリストである」ということは、キリスト教信仰において、中心的な課題なのですが、いわゆる思い込みで、キリストはこのような存在、イエスはこのような存在と捉えていないだろうか、ということを改めて考えてみたいと思ったからです。

マルコにおけるキリスト像
 今日の箇所、ルカによる福音書9章18節から20節は、ペトロの信仰告白と呼ばれている箇所であり、マルコ福音書にも並行箇所があります。の箇所を開いてみたいと思います。マルコ8章27節から30節。
「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
 マルコ8章29節におけるペトロの信仰告白。「あなたはメシアです」のギリシャ語は、「シュー エイ ホ キリストス(You are the Chirst.)」となっています。しかし、日本語の聖書では「あなたは、メシアです」と訳されているのです。ルカでも同じくメシアです。「メシア」というギリシャ語もちゃんと存在しています。しかし、「メシア」と訳されている。これは何故か?。
 口語訳聖書では、この箇所「キリストです」と訳されていましたが、新共同訳では「メシア」と訳されています。「メシア」という言葉は、旧約聖書で使われておりますヘブライ語では「油注がれた者(マーシュイーアッハ)」という意味があります。ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いは、同時に「あなたはメシアなのですか」という問いであるのです。
 そして、ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに合わせての翻訳と言えます。イエスに従ってきた弟子たち。おそらくはイエスは「メシアである」という思いをもって従ってきた、そうした思いを翻訳に反映させた訳なのです。
 たしかに、口語訳聖書での訳である「あなたはキリストである」は、教会的には、また信仰的には、都合の良い訳と言えます。しかし学問的に、歴史的考えたとき、文脈上、弟子たちは、イエスが「メシア」になることを期待していました。また、ギリシャ語における「キリスト」(救い主)という言葉自体も、その意味も知らなかったはずですから、「キリスト」と告白させるのは、おかしな話であり、翻訳としては「メシア」が相応しい、と言えます。

受難予告とキリスト思想
 今日の箇所であるルカ福音書の当該箇所(9章18節から27節)は、前半と後半にわけることが出来ます。前半の18節から20節は、ペトロの信仰告白とイエスの応答、そして後半の21節から27節は、イエスの受難予告であります。後半の部分にあたる受難予告から触れてみたいと思います。22節をお読みします。
「次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」」
 この部分は、イエスの十字架刑による死について予告であります。そして、それはイエスの予告であるということは、主なる神の計画であり、改めることは出来ないということです。そして更に、23節24節をお読みします。」
「9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
 この箇所は、理想的な弟子たちのあり方と同時に、イエスが歩むであろう道、キリストとしての真の姿、歩みを述べている箇所とも言えます。そして、この箇所をマルコと比べてみますと、面白いことに気がつきます。もう一度、マルコ福音書の並行箇所を開いてみると、ルカにおいては削られている箇所があります。
 マルコ福音書8章32節33節が、ルカにおいては、まったく削られている箇所となります。
「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」
 かなり強い調子での言葉であり、怒りの表現であります。そして「神のことを思わず、人間のことを思っている」と、イエスの指摘し、怒りをあらわにして、ペトロを叱っています。そしてこのことを今日のテーマに絡めて、考えてみます。

メシアとしてのイエス –マルコの場合−
 マルコの文脈で考えてみます。ペトロは、イエスがメシアになると信じて従ってきた。そしてイエスが、きっと新しいユダヤ人の王となり、ローマ帝国の支配からも解放してくれると信じてきたのでしょう。そしていよいよイエスがエルサレムへむかって歩みだそうとしている時、イエスが注目を集め出して、預言者ではないか、エリヤか、といった人も出てくる。
 そして、ペトロはイエスこそ、メシア新しいユダヤ人の王になると思っているその時、そのイエス当人が、逮捕される、殺されてしまう、という予告をしゃべり出してしまう。どうでしょう?止めるのでは無いでしょうか。それはまずい。自分の思いとは違う、と。イエスがユダヤ人に救いをもたらす存在として、期待していたペトロには受け入れられる発言ではなかったでしょう。翻訳の問題に帰ってみます。こうしたように考えてみますと、マルコにおいて、ペトロの言葉、信仰告白と言われている「あなたはメシアです」と訳されているのは、適切なことと言えるでしょう。

キリストとしてのイエス −ルカの場合−
 では、ルカにおいては、どのように捉えれば良いのでしょうか。新共同訳聖書のルカにおいても、「わたしはメシアです」と訳されています。しかし、ルカの場合においては、わたしは「わたしはキリストです」と訳した方が適当、相応しいのではないかと考えています。
 なぜならば、マルコはやはり「イエスはキリストである、そして、キリストはこういう存在である」と信じていた人々に対して、疑問を投げかけるつもりで、福音書全体を記していると思うのです。しかし、ルカにおいては、あくまで「イエスはキリストであり、キリストはこういう存在である」ということを伝えようとして、記しているからです。ルカ福音書冒頭、1章1節から4節には、
「1:1-2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」
 こういう言葉があるのであれば、やはり、弟子たちも正しくイエスをキリストとして理解していた、という姿勢であった。また、ペトロの言葉も削られていたのも、同じ理由からでしょう。ですから、「あなたはキリストです」と訳すべきではないか、と考えております。

メシアか、それともキリストなのか
 弟子たちは、イエスのことを、どのように考えて捉えていたか、と言えば、やはりメシアであったと言えます。なぜなら、彼等はユダヤ人であり、アラム語を話す人々として、イエスがダビデのようなメシアではないとしても、イエスをメシアと呼んでいたのではないか、と考えられます。そして、キリストとは、すべての出来事が終わった後に、イエスはどのような存在かとして、ギリシャ語を使う人々の間で「イエスはキリストである」ということで広がっていったと考えられます。
 今日の箇所の「あなたはメシアです」という箇所。わたしとしては、ここはキリストと訳すべきでは無いかなあ、と思います。しかし、一人一人捉え方が違って良いのではないかな、と思っています。各福音書には、各福音書を生み出した人や教会の神学が背景にあります。そして、私は一人一人に神学があって良いのではないかなあ、と思っていますので、どのような訳を当てはめるのかも自由と言って良いかもしれません。また、正典としてみたら、どうだろうか?礼拝の場ではどうだろうか?という問題も出てきます。いろいろな状況によって、相応しい訳がある、という分け方が出てくるでしょう。聖書朗読としてはこう、讃美歌としてはこう、信仰告白としてはこの訳といった形です。
 そしてキリストとは、どのような存在であるか?という課題も出てきます。メシアとは、ダビデのように、王として民をひっぱっていく存在です。それに対して、キリストとは?民の犠牲になる存在、またキリスト教の贖罪論においては、民の罪を背負って犠牲となる存在、民の最も低いところに立つべき存在です。そうしたあり方について、今日の箇所の後半にあたる部分は、イエス当人の声を通じて明らかにされた箇所と言えます。しかし信仰的にはあがめられる存在、上にいて欲しい存在です。両義的というか、なんとも捉え合えにくい存在なのです。
 イエスとは、自分にとって、どのような存在であるのか?キリストか、メシアか、救い主か、神の子か、ダビデの子か、様々な表現がされます。しかし私は、正解はないのではないか、と思っています。最初に医者の話をしましたが、どこかしら、自分たちのイメージの中で、イエスを捉えているのでは無いでしょうか。しかし常に、イエスの姿は変わっていくのではないか、と思います。聖書を読むとき、イエスの物語を読むとき、一つの捉え方に止まることなく、常に新しいイエスに出会っていくことが大切なことではないでしょうか。

〜〜〜〜〜〜
答え:医者は男の子の母親だった。

 アメリカにおけるジェンダーバイアスを考えるために、作られた問題。アメリカのボストン大学が在校生を対象に行った2014年の調査では、正解できたのは20%以下だったそうです。母親が医師をしているという学生も正解できなかったという結果は、職業と性別に対するジェンダーバイアスが、想像以上に深いことを物語っています。

※ クイズと解説については、このページを参考にしました→http://grasshopper-sapporo.com/2016/08/06/a-riddle/

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『身を献げた主に従う』(マルコ福音書10:35〜45)

2018.08.27(19:38) 379

『身を献げた主に従う』
(2018/8/26)
マルコ福音書10章35~45節

エルサレムの道とは
 わたしたちの信仰というのは、常に「このままで良い」と、今のままではダメで、「変わらなければならない」。そんな二つの意志のどちらか、または、その狭間にあるのではないか、と感じます。そして今日の箇所における弟子たちには、そういった二つの内の一つ、「自分は変化していくのだ。立派になるのだ」という思いと、「評価されたい」という欲望が表れている箇所と言えるのではないでしょうか。
 イエスと弟子たちは、エルサレムへと向かっていました。イエスは、どのような意識であったのか。様々な捉え方がなされます。マルコ福音書の文脈によれば、あくまで受難への道でありました。ヨハネ的には、神の計画に従った道、「犠牲の小羊」となるための道と言えるでしょう。しかし弟子たちは、不安がありながらも、自分たちは、特別な何かをする、また特別な存在になる、と考えていたのではないでしょうか。
 また、お互いに、イエスと弟子たちはお互いに対して、どのように考えていたでしょうか。イエスの側からはどうでしょう。いろいろな可能性があると思います。第一の可能性は「怒り」です。イエスはこの箇所の直前、三度目の受難予告、「自らが祭司長や律法学者に捕まり、十字架にかけられ、死ぬ」ことを宣言します。しかし、誰もそのことを本気には聞いていないのではいないのです。イエスさま自身が「自分は死ぬ」と言っているのに、「栄光にあずかるときには自分を右、また自分を左に」という言葉を弟子たちが述べている。まるっきりイエスさまが王様になるかメシア(救い主)として君臨することしか考えていない。まるっきりイエスさまの言葉を信じていないわけです。普通は怒るか、もしくは溜息でも付くのではないでしょうか。

受難の捉え方について〜ペトロとユダを例にして〜
 また、「苦しみ」「孤独」の中にあったと理解もあります。こんな想像をしてみたことはないでしょうか。弟子たちが、イエスが十字架への道を歩むことの意味を知っていたとしたら。
 受難という事柄の悲劇性を増すためには、弟子たちがイエスの意志、真意、また神の意志、真意を理解していなければいないほど、その悲劇性が高まります。そして更に言えば、イエスが復活しなければ、その悲劇性が高まるわけです。マルコ福音書が、もともと復活の記事がなかったかもしれない、ということの根拠には、そうしたことも関係しているわけです。悲劇性が一番強い場合というのは、その人の死が無意味なものである、という状況ではないでしょうか。戦後73年目の夏ですが、戦争の犠牲になった人々の死に関係して、「犠牲の故に、今の平和がある」とは、よく言われることですが、その死と平和が関係ない、としたら悲惨な死と言わざるをえません。また、「犠牲の故の平和」と声高に語ることによって戦争の責任者の責任に目を向けさせようとしない意図もあると言えるでしょう。
 また、悲劇性に関わることに要素として、赦しの要素も関係してきます。弟子たちを裏切ってしまったイエス。まずペトロなどは分かりやすい形での赦された人であります。最後の晩餐の場面において、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マルコ14:31)。このような言葉を述べ、さらに命をかけるとまで言ったペトロ。また、文字通りの裏切り者と言えるユダ。イエスを銀貨三十枚(マタイによれば)で売り飛ばしたとされています。しかし、ユダの福音書という2世紀に生み出された偽典があります。10年ほど前(2006年)に発行され、話題になったのですが、キリスト教の異端とされるグノーシス主義(知恵主義)の一つであります。
 ユダの福音書によれば、ユダのみがイエスの真意を聞いていた功労者である、という話であって、ペトロを代表とする使徒たちは、無理解であり、ユダこそが本当の使徒だったという主張なのですね。要するに、本家争いをしているようなものなのですね。我こそが、一番イエスの真意を理解していたのだ、ということを主張しています。話の本筋から離れますが、グノーシス主義にしても、偽典にしても、時代時代における本流の流れに対する批判と自らの正統性を主張するために記されている場合が多いです(カイン派、セト派など)。
 また誰が一番の使徒、弟子であるのか、という課題は、新約聖書に収められている福音書の中でもあると言えます。マタイでしたら、ペトロ。マルコでしたら、女性の弟子たち。ルカでしたら、パウロ(使徒言行録も含めて)。ヨハネは、愛する弟子、などです。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
 今日の聖書の箇所で、ヤコブとヨハネがイエスに願っています。10章37節。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
 そしてイエスは、答えます。10章38節。
「10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」」
 二人は、「できます」と答え、イエスは重ねて言います。10章39節40節。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 解釈学的には、この言葉、弟子たち、使徒たちがいずれ受けるであろう、被るであろう、受難について預言している、という捉え方が出来ます。ペトロにしろ、ヤコブにしろ、キリスト教宣教の故に処刑された、とされています。また、キリスト教共同体、教会の中において、誰がリーダーになるか、ということもイエスが決めることではなく、神の業、計画によるということを、述べようとしている、と言えます。
 また、この弟子たちの無理解、ズレ具合は、このような要求をするヤコブとゼベタイのみならず、二人を責める弟子たちも、内容的には同じレベルではないでしょうか。41節に、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」とあります。要するに、「汚いぞ!自分たちばっかり先生におべっかを使いやがって」と争いを始めます。さらに最後の晩餐の場面でも同じようなやり取りがなされているのです。マルコ福音書14章31節。
「14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。」

権威主義的信仰への批判として
 誰もが最初があると思うのですが、福音書を読んでいて、イエスが十字架にかかってしまうことについて、驚いた人はいるでしょうか?おそらく、おられないと思うのです。また、実際に弟子たちがどうだったか、という気持ちを本当の意味で体験すること、追認することは不可能と言えるでしょう。そういった意味で、マルコ福音書があれほどに悲劇性を高めようとしているのは、そうした意図があるのではないか、とさえ思います。
 おそらく、マルコ福音書を記した人は、読み手が、イエスの十字架刑とはこのような流れであった、弟子たちはこのようなことをしていた、弟子たちは、復活の主、イエスとこのような再会を果たした、ということを、ある程度、知っている人たちが読むのだ、といいうことを考えながら記していたはずです。このことは、考えてみれば、当たり前のことで、キリスト者、教会のメンバーしか読まないからです。そして、歴史的な事実、真実を伝えようという意志もあったけれども、やはり弟子たちの情けなさ、を伝えようとした意志は強かったでしょう。それは使徒や、イエスと直接に触れ合った弟子たちが、権威ある存在として捉えられるようなあり方への批判と言えると思います。
 そして、これは、もしかして想像でしかありませんが、どんどん世代が進むと共に、イエスとの関係が薄まってしまう、ということを危惧していたのではないか、と私は考えています。直接の弟子たちを批判しなければ、イエスと関係が薄くなればなるほど、世代が進めば進むほど、関係が薄くなっていく。しかし、直接の弟子たちもイエスの前ではなさけなかった。無理解であった。そうしたところの使徒たちを立てることによって、結果的に、直接にイエスも知らない弟子たち、キリスト者も使徒たち、イエスと直接出会った弟子も同じだよ、「そのままで良い」んだよ、ということが伝わっていくことになったのではないでしょうか。

価値を転換すること
 名古屋で、在日大韓キリスト教会や他の教会の人と一緒に、毎年、「平和を祈る祭典」として平和集会を行っています。今年は、在日の「趙博(ちょ ばき)」さんという方をお迎えして、歌と講演を伺いました。その中の一曲に、『息子よ、そのままでいい』という曲があります。この曲は、2年前に起きた相模原のやまゆり園の障がい者19名が犠牲になった事件を受けて、自閉症の17歳の息子さんを持つ報道関係の方がSNSに掲載して、拡散した記事です。そして、このような紹介をされています。

「わたしたち夫婦が授かった長男は、脳の機能障害“自閉症”を生まれながらに持っている。この男の刃は、私たち家族に向けられているー。テレビで容疑者の笑顔を見るたびに、心の中をやすりで削られているような気分に苛まれた。怒りや憤りをぶちまけても、容疑者はおそらく笑うだけだ。違う次元の言葉を綴りたかった。フェイスブックに投稿したのは事件から3日後。容疑者が『障害者は死んだ方が良い』と供述する事件の起きた日本から、障害者の父が書いた“詩”は世界に拡散されていった」

 平和集会の講演の中で、この曲に対して、パギやんは同意と同時に、障害者の家族から、やめてくれ、歌わないでくれ、という批判があったということを伺いました。「そんな単純に受け入れられない」「責められているように思う」など。たしかに、私もそういう反応があるだろうな、と思いました。しかし、あくまで元々は、一人の障がいを持つ息子の父親の詩をどうこうするというのは、おかしな話ではないでしょうか。障がいについての捉え方は自由、その時々に様々な思いを持つものです。良いも悪いもないと思うのですが、どうでしょうか。
 障がいという痛み、重荷をどのように捉えるか、神に与えられた道として、運命として捉えられるだろうか。「そのままで良い」と言えるだろうか。障がいに限らず、病い、負い、未熟さ、苦手なこと…。このように自分を良いとできない、という思いは、信仰において、自分は不完全である、という思いと重なるように思います。
 イエスは言っています。10章43節から45節。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 どのような形であっても、高く評価されたい、という思いを私たちはどうしても持ってしまうのでは無いでしょうか。そして、私たちは、このイエスの言葉をどのように捉えれば良いのでしょうか。

身を献げるということー復活信仰ー
 今日の説教題は、「身を献げた主に従う」としました。この箇所において、福音書の著者は、弟子たちの無理解、イエスと弟子たちのあまりのズレの大きさ、イエスの孤独を読み手に伝えようとしています。私たち読み手がこのお話を手放しで笑えるか、ということが一つの課題として提供されているのです。イエスの十字架への道を知らずに、福音書を読んだとしたら、どのように感じるでしょうか。弟子たちのように、イエスはメシアである、ユダヤ人の王となるのだ、玉座に座る存在となるのだ、と考えていたのだったら、逮捕から十字架刑という流れは、驚くどころか、受け入れられないのではないでしょうか。
 また、わたしたち自身もイエスさまの思いを理解せずに、右に座らせてくれ、左に座らせてくれ、と叫んでいるのではないでしょうか。この弟子たちの姿は、わたしたちの姿かも知れない。最初には、信仰とは、「このままで良い」と「変わらなければならない」のどちらか、または間にあるという話をしました。本当にその通りだと思います。しかし、大事なのは、どのような存在であろうとも、イエスは、そのままで良い、と受け入れてくれている、ということではないかな、と思います。新しい一週間も主イエスが共にいることを信じて歩んでいきたい、と思います。

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『共感、共苦、共同体』(ローマの信徒への手紙12:9〜15)

2018.08.19(19:32) 378

『共感、共苦、共同体』
(2018/8/19)
ローマの信徒への手紙 12章9~15節

あるロボットのエピソード
 『プルートウ』(浦沢直樹著)というマンガがあります。誰もが知っている漫画家の手塚治虫さんの作品「鉄腕アトム」を元にしたマンガです。マンガの舞台は近未来、その世界ではアトムのように、ロボットがたくさん人間と一緒に生活をしております。ロボットらしいロボットもいますが、人間とは変わらない外見を持つロボットが生活をしています。登場するロボットたちは、仕事を持ち、夫や妻といった家族を持ち、感情があり、どうやら疲れもたまる、そして過去の経験の痛みを持ち、悩んだりもしている。悩みが深まると体の調子が悪くなり、お医者さんではなく、技師さんのところへ行き、治療ではなく、メンテナンスや修理をしてもらっている。心の悩みなどもお医者さんではなくエンジニア(技師)さんのところへ相談に行ったりします。
 そんな中で、ある夫婦のロボットの夫の側が不慮の事故で亡くなって(壊れて)しまいました。遺体(部品)はバラバラに処理されてしまいました。仕事の同僚であったロボットがその死(破壊)をその妻のロボットに知らせに行きました。夫を亡くした妻の側のロボットが悲しみに暮れていました。そんなとき、その妻のロボットに夫の同僚だったロボットがこんな提案をしました。「(だんなさんのロボットの)記憶、データを消去しましょうか」。

記憶と哀しみと時間の関係
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、ちょうど7年半の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。私は当時、神奈川県の小田原市に住んでいましたから、かなりの大きな揺れであると同時に、その後に続いた余震や計画停電などによって、自らもその当事者と記憶に刻まれています。また2度だけですが、被災地に行き、ボランティアとして働いたことがあります。しかし時間の流れの共に、その記憶はどんどん薄まっていきます。
 しかし当事者であれば、その記憶を薄まる、という表現は適切であるとは癒えないでしょう。家族を失った哀しみや痛みを薄まるとは言えないでしょう。たとえば、ご家族に不幸があった方に対して、「哀しみが早く薄まりますように」とは言わないでしょう。「哀しみが癒えますように」とか「慰められますように」と言うはずです。
 東日本大震災においても、他の様々な天災や災害においても、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。震災遺構について、このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。また、こんな言葉もあります。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。

パウロの活動の三つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(P.316)
 パウロの活動は、三つの内容を持っていたということが出来ます。そして、それら三つは、この言葉の実現として捉えることが出来るのではないか、と感じています。一つ目は、「宣教」また「伝道」と言われる働き、その徴として、その実現の場として教会を建てることであります。そして二つ目が、牧会と言われる行為、一つ一つの教会の中にある人々の悩みや課題に答えること、また様々な意見の違いや争いを正しい方向へ導いていくことです。そして、そうした具体的な言葉、助言が、私たちが知る聖書に収められている彼が記した手紙であります。
 そして最後、三つ目は、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。パウロは、具体的には、エルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子、ペトロなどの使徒がいた教会です。しかし、ユダヤ人社会の中における活動はとても厳しく、貧しい状況にあり、支援を必要としていました。そして、その支援の活動は、ただ単にエルサレムの教会を助けようということだけではなく、パウロとして、エルサレム教会の苦しみを共に苦しみ、喜びをともに喜ぶこと、そして「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」くこと、であると言えるのではないでしょうか。

共感、共苦、共同体
 私も教会で牧師として働いていたとき、教会の役割とは何か、ということをよく考えていました。その時、伝道とは何か?宣教とは何か?ということを考えていました。また、よくこんな議論になることがありました。「ようするに教会に来る人を増やすということは、人が来るようなイベントをすれば良い」と。そしていろいろイベントもしました。しかし、身近な存在になっても、それだけではなかなか枝としては繋がらない。zそして、それから繋がっていくポイントとなるのは何かな、と考えた時、今日のパウロに行き着きました。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉。これにはキリスト教会の中における教会と教会、また人と人の理想的な有り様が示されています。しかし、原点には、パウロが行った宣教、伝道の力、思いがあったと捉えることが出来るのです。この世に生きる人は、誰でも不安や心配があります。教会自身がそういう人の不安や心配に寄りそっているだろうか、ある種の答えを持っているだろうか、ということが宣教、そして伝道の指針であり、それを実現していくことが、宣教であり、伝道ではないでしょうか。
 そして、教会の理想的なあり方とは、内側の隣人において、共感共苦が実行されているだろうか、また外側の隣人に対して、共感共苦がなされようとしているだろうか。と、いうことが、教会の活動の一つの尺度になると言えるのではないでしょうか。

キリスト教会のなすべきこと
 最初にロボットの話をしました。家族を失った哀しみにくれているロボットは、失った家族の記憶を消去、消すことを断りました。東日本大震災から7年、また7月にも西日本を中心に大きな水害が起こりました。そうした被害にあった人が、すべての記憶をなして下さい、というでしょうか。また過去の戦争についての記憶はどうでしょうか。
 私たちの日常において、病いや人との死別などがなくなることはないでしょう。かといって、人類の技術が進んだからといって、誰も自らの家族が失われた記憶を消すことを選ぶでしょうか。また主なる神、イエス・キリストに体の痛みを消して下さい、と祈ることはあっても、家族を失った痛み、哀しみを消して下さい、と祈ることはないでしょう。なぜか?と言えば、家族を失った哀しみを消すとは、その家族丸ごとの記憶を消すことになるからです。そして、そのような自らの哀しみを消すということは、自分自身を否定するということにもつながります。自分自身の歴史、自分自身の歩み、自分自身を否定することになります。また自分自身の課題だけではなく、自分を思ってくれている人、自分を愛してくれている人、自分を大切にしている人の思いを否定すること。違う自分自身になってしまうことでしょう。またそのような祈りをイエスに祈るだろうか、また神さまに祈るでしょうか。
 教会は、すべての哀しみや悩みに対して、キリスト教が答えることが出来るだろうか、教会が答えることができるだろうか、と言えば、否と言うしかありません。では教会は、どのような歩みを歩むべきなのか?それこそ、今日の箇所に記されている言葉、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。私たちは、力ない存在でありますが、その隣人の喜びを喜び、その隣人の悲しみを悲しむこと。そうした営みを繋げていくこと場所、そうした人の群れがキリスト教、教会であると言えるのでは無いでしょうか。


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『沈黙の声に聴く』(列王記上 19:1〜12)

2018.08.06(21:15) 377

『沈黙の声に聴く』
(2018/8/5)
列王記上 19章 1~12節

預言者の問いに答えられない
 エリヤは、イスラエル民族の王国が南北に分裂していた時代、紀元前570年から550年頃、北側の北イスラエル王国において活動しました。今日の箇所の前の部分、列王記上の18章には、預言者エリヤとバアル神との預言者の対決の場面が記されています。首都サマリアは、ひどい干ばつに襲われ、酷い飢饉に陥っていました。それをエリヤは王国全体のヤハウェ神への不信仰、異教崇拝によるものとして糾弾します。
 それにより、バアルの預言者たちとエリヤは、カルメル山において対決することになり、そのいきさつが今日の箇所の直前の18章に収められています。カルメル山というのはイスラエルとフェニキアの国境線にある山で、2つの神、主なる神への祭壇もバアル神への祭壇も置かれていたのでしょう。その場において、エリヤは主なる神に祈り、バアルの預言者たちはバアルの神に祈って、どちらが最初に神の力によって、薪(まき)に火を付けられるかどうか?という戦いをすることになります。
 最終的に、バアルの預言者たちの祈りは通じず、エリヤの祈りにより火はつき、バアルの預言者たちを皆殺しにした、というお話です。で、こんな「正義が勝つ」といった「勧善懲悪」なお話だけでしたら、神の力が証明されたお話として、あんまり面白くありません。しかし、ここにとても興味深いやり取りがひとつ含まれているのです。列王記上18章21節をお読みします。(P.563)
「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。」
 「民は一言も答えなかった」とあります。なぜでしょうか?エリヤの言葉に心からの反発があったからでしょうか。同意して、エリヤの言葉を受け入れたからでしょうか。痛い指摘を受けて、無視しようとしたのか、違うでしょう。これは私の想像にすぎないかもしれませんが、彼らは、イスラエルの神とバアルの神が異なるということが理解出来なかったのでは無いでしょうか。おそらく宗教と宗教が混ざってしまっていた状態、宗教混こう状態であった。そうした状況において、「どちらかの神を選べ」ということが理解できなかったのでは無いでしょうか。

エリヤという預言者とその時代
 この時代の王アハブは、イスラエル国において、イスラエルの神と共に、異民族の神も信仰することを勧めました。そしてそれには、政治的背景、そしてアハブの王妃であったイゼベルの影響がありました。王妃イゼベルは、もともとフェニキアのティルスの王の娘であり、人の歴史の中でよくあることですが、王家同士の結婚は他国との政治的安定のために行われていました。そして同時に、それぞれの国や民族で信じられている神同士の結婚として捉えられることもありました。おそらく当時のイスラエルの人たちは、イスラエルの神ヤハウェもフェニキアの神バアルも自らの神と捉えていたのでしょう。ですから、先ほどのエリヤの問い、「もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」という質問に答えられなかったのでしょう。
 預言者エリヤが求めたのは、あくまでヤハウェ神のみ、主なる神のみへの信仰です。しかし当時のイスラエルの状況においては、そうした姿勢を理解できる状況も人もいなかった。誰も彼もヤハウェとバアルを信仰していた状況でありました。そして同時に、隣国との関係の安定にも繋がったでしょう。お互いの神、そして自らの神を近い関係として重んじる、信仰する、また文化などを重要視し、さらに信仰するというあり方、あり得る話では無いでしょうか。
 また、こんなことも言えるかもしれません。バアルは豊穣の神、確かに秋の恵みがなければ、食料がなければ生きていくことはできません。作物が豊かにとれることは誰もが当たり前に求めることです。雨季と乾季を繰り返すパレスチナ(レヴァント)において、雷は雨期の到来をもたらす神として信仰されていた、ということもヤハウェ神とバアル神の結びつきを示すことと捉えることも出来るのです。イスラエルの神には雷と雨を求め、バアル神には、実りを求め、穀物や果実などの豊作を求め、また子宝を求め、祭っていた。
 しかしエリヤがやってきて、バアルには祈るな、と批判する。エリヤがこの場にいて、明日からそんな祈りはダメだ、間違っている、と言われたらどうでしょうか。それは違う神への祈りだ、主なる神への祈りとしてふさわしくない、と言われたらどうでしょうか。エリヤの行動にはおそらく、そんなぐらいの過激さがあったのではないでしょうか。

静かにささやく声
 今日の箇所、列王記19章1節から12節は、エリヤは、王による迫害や民の無理解の中で、逃亡生活に陥っている状況を記しています。エリヤ自身、今日お読みした箇所は、逃げることに疲れ切って、神の山と呼ばれるホレブでの出来事を描いています。最後の箇所、列王記上19章11節12節をお読みします。
「19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
 主なる神がエリヤの前に現れた場面、顕現した場面です。しかし神は「山や岩を裂くような風、地震、火」の中にはいませんでした。これは私たちが神に求めるであろう現象の中、また一般に人を超えた存在としての神を感じるであろう力の中に、神はいなかったということを示しています。しかし、その後に訪れた「静かにささやく声」に、神が現れたのです。
 実は、この言葉、翻訳がとても難しい言葉なのです。ヘブライ語の原典を忠実に訳しますと、「沈黙の声」、英語では「Sound of Silence」となります。言葉として矛盾しています。新共同訳では、「静かにささやく声」となっております。この箇所に続いて神の言葉が続くので、「沈黙の声」と訳せなかったのでしょう。また、ギリシャ語訳の旧約聖書(七十人訳LXX)では、「かすかなそよ風の音」。日本語訳の中では、文語訳では「静かなる細微(ほそ)き聲(ごえ)ありき」。口語訳では、「静かな細い声」、そして、名訳と呼ばれる関根正雄訳「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳されていました。

全く希望が無い状況の中で
 今日は、日本基督教団において、「平和聖日」とされています。今年の終戦記念日は、戦後74年となります。終戦の年に生まれた方であったとしても73歳、戦争の記憶を持つ人はどんどん減っていきます。同時に日本国内の政治的状況においても、容易く戦争状態に入ってしまうような危うさを抱えています。また既に、違う角度から見れば、戦争状態である、また専守防衛が原則の自衛隊であっても、そうした原則を逸脱した状態に陥っているとも言えます。
 そしてそれには、様々な事情がある他国との関係、国際社会における立場など、様々な意見が出てきます。またそれは政治的な話だけでは無く、個人間、私たちの日常生活において空気のように伝わってきます。そうした状況の中において、平和への言説について語ることに困難さを覚えるような状況、誰も賛同してくれないような状況、また更にその平和を訴えることによって、自らの生命さえ脅かされるような状況があったとしたら、どうでしょうか。また、同じように主なる神への信仰が迫害される状況が合ったとしたら、どうでしょうか。自らの信ずるところの神への信仰を訴えることによって、また預言者として主の言葉を語ることによって、命の危機があるとしたら。逮捕されて、拷問でも受けざるを得ない状況が合ったとしたら…。しかし、神の言葉を語らざるを得ない。エリヤが陥っていたのは、このような状況でありました。

沈黙の声に聴く
 エリヤは、この箇所において、神の声を聴いたことによって、再び力強く神の預言者として歩み出しました。この「沈黙の声」を聞いた後、この箇所に続いて、聖書には、エリヤが神により具体的な導きを得たことを記しています。ということは、「沈黙の声を聞いた」ということなど記されなくても良いはずです。しかしエリヤにはとても重要な決断に至る何かがあったのでしょう。11節には、神の力がこの世における人知を超えた力に喩えられながれも、すべて否定される記述があります。神の力とは、山を裂くような、岩を砕くような風でもなく、地震でもなく、火でもない、と。では、沈黙の声とは何だったのでしょうか。
 エリヤは、後になって、いろいろな人に、この瞬間のことを聞かれたのではないかなあ、と思うのです。「なぜ、そのような極限状態でも預言者としての活動を続けられたのですか」「なぜ、絶望しなかったのですか」「逃げ出さなかったのですか」など、と。エリヤは答えに困ったのでは無いでしょうか。そうした状況の中において、何の説明できるような何かが無い中であったとして、実感として何かを得たのでは無いでしょうか。神の存在、主なる神の存在が共にあることを、はっきりと説明できない形で、人が持つ、聴覚とか、視覚とか、触覚とか、味覚とか、嗅覚とかいった五感においても、説明できないような形で、神さまが共にいてくださる、ということ、またこれからの道しるべ、何をなすべきかということを受け取ったのではないでしょうか。それがこのような表現「沈黙の声」になったのではないか、と感じます。

共にいる主なる神
 信仰の道において、何かの決断に至るとき、また心の動きに関して、言葉にならない瞬間、というもの、決定的な瞬間というものがあるでしょう。例えば、決定的な時という意味で言えば、ペトロがイエスを知らないと3度言ったときに、ペトロが聞いた鶏鳴、ニワトリの鳴き声。ペトロがあの鳴き声を聞かなかったとしたら、またあの瞬間、ニワトリが鳴かなかったとしたら。また、さらに聞いたとしても、その鳴き声にイエスの言葉を思い出さなかったとしたら、キリスト教の歴史が変わっていたどころか、始まってもいなかったかもしれません。
 私たちが、平和について語る瞬間、何か行動を起こす瞬間、未来から振り返って決定的な瞬間、決定的な割れ目を経験するときがあるかもしれません。その後の自らの歩み、また民族や国家の歩みの決定的な瞬間、決定的な分岐点に立つことがあるかもしれません。そのような時、何が判断を分けるのか、預言者エリヤが置かれたような極限状態かもしれません。また何事もない日常のある瞬間かもしれません。そのような時、主なる神の「沈黙の声」を聞くことが出来る自分でいることが重要なのでは無いでしょうか。


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周縁自体


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『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11)

2018.07.29(14:32) 376

『許しの創造性』
(2018/7/29)
ヨハネによる福音書 8:1~11

姦通という罪
 今日の箇所、様々な捉え方がされます。イエスの慈悲深さを示す物語として、またイエスが持っている人という存在に対する鋭い視座を示すものとして、またファリサイ派や律法学者たちという論敵に対する見事な知恵の勝利として、など本当に様々な捉え方があります。さらに、ここに出てくる女性は、とある伝承によれば、マグダラのマリアではないか、として語られることがあります。また、そうした考え方を元にしてか、イエスを描いた映画などでも、マグダラのマリアとイエスの出会いの物語として、描かれることがありますが、聖書のテキストとしては、あくまで一つのテキストであり、一人の女性として捉えることが適切と言えるでしょう。この女性は、神殿の中、境内において、イエスの前に律法学者とファリサイ派の人々によって、連れてこられました。彼らはイエスに質問しました。今日の箇所、8章の4節5節です。
「…「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 なぜ、律法学者とファリサイ派の人々は、イエスにこのような質問したのでしょうか。6節に「(イエスを)訴える口実を得るため」とありますが、この問いは、たくみな罠となっております。「姦通の罪」は、十戒の第5戒「姦淫してはならない」にも含まれており、この違反は重大なものとして、違反に対しては、テキストにあるとおり石打ちの刑とされていました。イエスの敵対者たちは、イエスがこの女性は石打ちであると答えれば、イエスに希望をかけていた「罪人」とされた民衆の期待を裏切ることになります。また「赦す」と答えれば、十戒の第五戒の戒めを破ることとなり、イエス自身も逮捕される可能性さえでてきます。このように「許すべきである」「許さないべきではない」といった、どちらの答えを答えたとしても、イエスが立ち場を失うという良く出来た質問なのです。しかし、イエスはその質問に対して、地面に何かを書くような仕草をしてから、逆に彼らに対して、ある質問を返します。今日の箇所、8章7節。(P.180)
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」

なぜ石を投げられなかったのか
 このようにイエスに問われ、誰もこの女性に石を投げることが出来ず、「年長者」より順に立ち去っていった、と記されています。この女性は何らかの行動や意思表示をまったく行っておりません。しかし、この女性はイエスによって許されました。なぜ誰も、石を投げることができなかったのか?イエスに逆に質問された人々は、罪の問題を、この女性と自分の関係ではなく、神と自分と隣人との関係において、罪の問題を捉える視点をイエスの問いがもたらしたからではないでしょうか。ユダヤ人は歴史を通じて、神殿また聖所において、様々な罪を贖う儀式、罪の呪いを無化する儀式を行っていました。その中で、年に一度、自分たちが気付いていない罪を癒やすため、無化するための儀式というものがありました。イスラエル民族、ユダヤ人が知らずに犯してしまった罪を大祭司が雄山羊の頭に手を当てて移して、その山羊を荒野へ逃がす、という儀式です。いわゆるスケープゴートの語源になっている儀式です。(レビ記16章)
 知らないうちに犯したかもしれない罪。律法は、613個あると言われています。その中には、「〜してはならない」といった禁止項目もあれば、「〜した方が望ましい」といった期待される項目もあります。そうしたことも律法違反であると捉えれば、罪を犯したことのない人などいない、と言えるでしょう。また、言える人がいたら、それはそれで、と思いますが。とにかく、イエスは石を投げようとしていた人々のそうした心をくすぐったのではないでしょうか。

やまゆり園の事件から
 2年前の7月26日、神奈川県のやまゆり園で、19名の方が殺傷される事件が起こりました。加害者となった彼は、障がいを持った人、特にコミュニケーションが困難な人を「心失者」と呼び、社会に役に立たない存在、必要の無い存在、としていました。彼はある新聞社の1年前の手紙による取材や投書によって、「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております」「世界には“理性と良心”とを授けられていない人間がいます」「障害者は生産性がなく生きている価値がない。そこに税金が回されている」と言った言葉を記しています。
 また最近、とある国会議員が、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャル)といった性的少数者の人を指して、「生産性がないのに、税金を投入するのには是非がある」といった内容のことを投書して、大きな批判を浴びております。この発言を聞いて感じたのは、障がい者に対しても同じ発想をするんだろうな、ということです。また、「生産性とは何を指すか」ということも課題になるでしょう。子どもを生まないという選択をした夫婦や結婚しない人はどうでしょうか。また、生産性がなければ生きる価値が低いとか、生きる価値が無いとなるとどうでしょうか。やまゆり園の加害者となった彼は、障がい者を「役に立たない」と言っていました。「生産性がない」にも繋がる表現でしょう。
 また、私は牧師になる以前、神学校に進む以前、18歳から3年間、金属加工を行う鉄工所に務めていました。あるとき、一つの機械の改造をしました。とても単純なある部品を並べる機械でした。そして完成して納品に行ったのですが、その機械によって、あるパートの女性の仕事が無くなってしまうことを知りました。機械化って基本的に、そういうことなのですが、何か、心が痛む瞬間でした。実はこの世の中、機械化が進めば進むほど、技術が進めば進むほど、モノを作る手間は減っていきます。それは生産性の上昇なのでしょうか、低下なのでしょうか。
 また、障がいを持つ人をケアする人の仕事もどうなんでしょうか。多くの高齢者施設や障がい者の施設における夜勤の現実。40名の人を夜勤では3名で見るということが当たり前という現実があります。緊急的な対応が2件でもあったら、1名で38名もの人の対応をしなければならないということが容易く起こりうる現実があります。これも、「生産性」という尺度で言ったら、無駄なこと、不必要なことと言われてしまうかもしれません。

ラルシュのエピソードから
 しかし、障がい者だからこそ、成し遂げられたこんな出来事もあります。とあるラルシュコミュニティーのリーダーから聞いた話です。1994年にアフリカのルワンダで、おおよそ1000万人の人口の5%から10%の虐殺されるという事件がありました。民族的そして政治的な対立が背景にはあります。その時の出来事です。アフリカの家族は大きくて20人か30人ぐらいいることもあります。そのようなある大きな家族の中に、自閉症の男性がいました。多くの自閉症者がそうであるように、その男児も周りの人たちの感情に、とても敏感でした。そして日常的に、家族にとっては重荷では内存在でした。
 その家族が住む村にもその人たちを殺そうという暴徒が近づいてきました。この家族はある小屋に皆で隠れました。本当に緊張した空気の中で、この人は耐えられなくなり、この小屋から表で出て走り出してしまいました。家族はその男性のことを諦めました。またその子が小屋から出て行ってしまったことによって自分たちも暴徒たちに発見され殺されると思ったそうです。そして暴徒たちがやって来ました。この自閉症の男性は、まっすぐ暴徒の司令官のところに歩いていきました。そして自分のポケットからタバコを取り出して言いました。「火を持っていますか?」その司令官は、この男性に目をやり、銃を置いて、ポケットからマッチを取り出して、火をつけてあげました。その司令官は自分の部下たちの方を向き直り「戻ろう」と言いました。

許しの創造性
 聖書のお話に戻ります。イエスとこの女性を取り囲んでいた人は誰もいなくなり、イエスとこの女性のみになり、このような言葉を彼女にかけています。(8:11)
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
 イエスは、この女性に対して、他の箇所でよく見られるように「罪を許す」とか「罪は許された」とは言っていません。「罪に定めない」と言っています。また、この女性は、様々な尺度でいって、好ましくない人、おそらくは罪人とされる人であったでしょう。そうした女性が理想的な存在となったのでしょうか。そうではないでしょう。律法という尺度でいえば、「罪人」という存在に過ぎない人だったでしょう。また、現代的にいえば、「役に立たない」人間、「生きていても意味がない」人間、そして「生産性がない」と言われてしまうような人であったのではないでしょうか。
 今日の説教題は、「許しの創造性」としました。私が感じていることですが、「許し」とは、その当人だけの問題ではない、ということです。女性の周囲にいた人々、イエスの言葉によって、この女性への許しによって、何か感じるものがあったのではないでしょうか。改めて神の存在、神の赦しとは何か、罪とは何か、ということを考えたのではないでしょうか。
 また、ルワンダにおける奇跡について紹介しました。いわゆる世の中の尺度では測ることができない力を障がい者は持っているということができるかもしれません。一般の人が持っていない力があるからこそ、だからこそ、自分たちの命を狙おうという人に敵対することなく、接することが出来たのだ、と。しかし、そうではなく、力を持っていないからこそ、生産性を持っていないからこそ、奇跡がおこったと考えることは出来ないでしょうか。ただその人をそのまま、その隣人をそのまま受け入れること、実はとても難しいことです。しかし、まったく力が無かったとしたら、どうでしょうか。目の前の人を受け入れるしかない。しかし、それは否定的なことではない、肯定されるべきことなのだ、と考えてみたらどうでしょうか。
 人は、どのような時でも、生産性とは言わないまでも、障がい、民族や思想、宗教、所属、性別、また「生産性」など様々な要素によって、人を区別しています。しかし障がいを持つ人から見れば、どうだろうか、ということを思います。障がいを持つ人は、私たちのそうした人を区別しようとする弱さを打ち破ろうとしているのかもしれません。今日の箇所における女性もそうではないでしょうか。イエスはこの罪ある女性を罪には定めませんでした。1人の人のことでありましたが、周囲にいた多くの人が、主なる神の赦しについて、罪について、改めて心に刻みつけたのではないでしょうか。「許し」とは、ただ1人のことではなく、多くの人々への救いへとつながる創造性、人と人をつなげる創造性をもっているのではないか、と感じています。


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最近の記事
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  3. 『共感、共苦、共同体』(ローマの信徒への手紙12:9〜15)(08/19)
  4. 『沈黙の声に聴く』(列王記上 19:1〜12)(08/06)
  5. 『許しの創造性』(ヨハネ福音書8:1〜11) (07/29)
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