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『信仰を持つことと行うこと』(ルカによる福音書9:37〜43a)

2018.11.18(16:12) 382

『信仰を持つことと行うこと』
(2018/11/18)
ルカによる福音書 9章 37~43a節

奇蹟物語の核について
 今日の奇蹟物語、癒された人は、イエスのもとにやってきた父親の息子であります。そして、病としての症状は、39節に記されています。
「9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。」
 そして最初、イエスの弟子たちに頼んだのですが、できなかった(9:40)。であるから、その師であるイエスのもとにやってきて、癒してくれるよう頼んだ。そして、イエスが語ります。9章41節。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」と。
 そして、イエスがその子どもを連れてくるように述べ、連れてきた子どもを癒す、という流れになっています。

福音書を解釈すること
 今日のテキストは、ルカ福音書9章37節から43節前半です。そして、この箇所には、マタイとマルコそれぞれに平行箇所が存在し、大まかな流れについては重なっています。それは、もともとのマルコの記事を、マタイとルカの記者が、自らの福音書を記す作業の中で、マルコのテキストを見ながら、足りないと思った内容を書き加え、また、必要ないと思った箇所を削りながら、書き写したので、物事の順番というのは、なかなか変わりません。
 しかし、書き加えたり、削ったりした箇所はわかりません。そして、それらの違いを比べてみますと、各福音書が、この奇蹟物語をどのように受け取ったのか、ということを知ることができます。そして、その受け取り方というのは、同時に、福音書の読み手に対して、物語をこのように受け取って欲しい、という思いにも重なります。

マルコにおける強調点
 マルコ福音書における平行箇所、マルコ福音書9章14節から29節を開いてみましょう。(P.78)まず、ルカに比べて、ずいぶん長いことに、まず気がつくでしょう。2倍以上はあります。そしてルカに見られなかった二つの要素に注目したいと思います。一つは、マルコ9章14節。
「9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
 ここで議論をしていることは何でしょうか?律法学者も当時は、医者のような役割を持つ人々です。そして、イエスの弟子たちも律法学者たちも、この息子を癒すことができなかったのでしょう。そして、なぜ癒すことができないのか?と議論していた、と。
 そして、もう一カ所、最後の箇所、9章28節29節です。(P.79)
「9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」

マルコにおけるポイント
 マルコにおける、この最後の記述、「祈りによらなければ」この種の癒しの奇蹟を行うことはできない、とは、どのような思いが込められているでしょうか。ここで言われている「祈り」とはどんな祈りなのか、ということです。様々なとらえ方ができます。しかし、そのとらえ方の材料、要素を、今日のお話とするのであれば、奇跡行為、幼い子どものいやしのためとは言え、弟子たちにしろ、律法学者そして父親も含めて、自分の信仰の力によって何かをなそうとする姿勢は間違っている、ということではないでしょうか。
 マルコ福音書において、常にテーマとしていることに、弟子批判、使徒批判があります。使徒であろうと、どのような偉い人(?)であろうと神の前には同じ人間、ということ、カリスマ主義、つまり権威主義があります。弟子たちにしても、律法学者にしても、何らかの立ち場や権威によって、主なる神の力、癒しを実現することはできない、と言ったことを示そうとしているのではないでしょうか。その上で「祈り」は何を表しているか。神の前に、従順であること、謙遜であることを示そうとしているのではないでしょうか。

マタイによるポイント
 またマタイ福音書について考えてみたいと思います。マルコと同じように、マタイにおいて特徴的な点を挙げてみたいと思います。マタイ福音書17章14節から20節です。(P.33)マタイにおいて特徴的な記述は、一番最後の箇所、17章19節と20節です。
「17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」
 マタイにおいて、信仰には、濃い薄いがあるもの、また信仰の大小があるものです。そして弟子たちが人を癒やすことができないのは、信仰が薄いからだ、と。マタイにおいて、イエスは最高のラビ、最高の教師です。そして弟子たちは、教師と同じようになるべく、教師を超えるべく、研鑽を積む存在、学ぶべき存在です。信仰を、そうした積み重ねの中において、より厚くなるもの、より濃くなるものという理解をしているのでしょう。
 「信仰によって山が動く」ように「祈りによって人が癒やされる」ということは実際にはなかなか起こることではありません。また、これは面白い例なのですが、マルコの祈りの言葉の部分に、紀元3世紀のある写本で、「断食」という言葉が付加されているってことがありました。
 「祈りと断食によらなければ…」というかたちにされているものもあるのです。どうしても「祈り」だけでは、「病い」を癒やすことが出来ない、という状況がある中で書き加えられたのでしょう。

ルカによるポイント
 そして最後のルカ福音書に戻りたいと思います。ルカ福音書9章41節をお読みします。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」
 この箇所は、三つの福音書すべてに、ある要素です。「いつまでわたしはあなたがたと共にいて」というのは、イエスの受難と復活を思わせる記述であります。そして、「我慢しなければならないのか」とありますが、不完全な弟子たちを指しての言葉であります。また、信仰について、「ない」という言い方をしております。イエスにとっては、信仰は「あるなし」なのか、ということもできるでしょう。
 昔の本ですが、丸山真男さんという東大教授だった方の作品で、『日本の思想』という新書があります。その中に、評論で「『である』ことと、『する』こと」という作品があります。日本の近代化について、論じている書籍で、論ずることが難しいものですが、私なりに表現してみますと、江戸時代からの明治、大正、昭和に至る中で、時代の移り変わりの中で、日本人は自らの捉え方を変える必要が出てきた、といった内容と言えます。江戸時代において、封建社会ですから、武士の子は武士の子、農民の子は農民の子、そして商人の子は商人の子として自分について考えることなどなかった。
 しかし、明治大正昭和と時代が変わっていく中で、自らは誰であるのか、何になるのか、ということを考える必要が出てきた。また、昭和になると完全に自由になったかと言えば、自由には義務が生まれてくる、ただ生まれた時から日本人というだけではなく、日本人としての義務、なすべきことが出てきた。
 そうした中で、「『である』ことと『する』こと」というのは、江戸時代においては、日本人で「ある」ことを考えずにすんだ。そのままで日本人だから、しかし開国し、近代化を果たすと、日本人として「すること」、近代人として「しなければならないこと」が求められるようになった、と言えるのでしょう。
そして現代においても違う形で、新しい「日本人である」こと、日本人ならば「する」べきことが求められる時代になってきた、と言えるのでは無いでしょうか。

信仰を持つこと、行うこと
 最期に、ルカにおける信仰について触れて終わりたいと思います。ルカにおける信仰とは、基本的に、何かをすること、何かを明らかに宣言すること、と言えます。なぜならば、マタイにしても、ルカにしても、イエスを信じる、キリスト者になる、というのは、あくまでユダヤ教という基礎、ユダヤ人という基礎から改革という性質を持っていると言えます。しかし、ルカにおいては、そうした背景はなし。異邦人対象に書かれていると言えるのです。ルカにおいて重んじられるキーワードに「悔い改め」がありますが、あくまでユダヤ教の悔い改めではなく、自分中心のあり方から神中心のあり方に変わることであったと言えます。また、そうした意味において、例えば、「善きサマリア人」のたとえや「ザーカイ」の逸話も捉えられるのです。
 今日の最後の箇所、9章43節をお読みします。
「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」
 今日の奇跡をルカ福音書は、どのように捉えられるか、と言えば、神の力の徴としての側面が強いと言えます。マタイにしても、マルコにしても、奇跡物語について、あるべき信仰者の姿のテキスト、手本としての読まれることが求められているのに対して、ルカにまったくそうした視点はないと言えます。ルカは、イエスの奇跡を神の恵みの実現として、神の偉大さの実現として、読み手に対して、信じるか否か、悔い改めるか否かという問いを投げかけています。そして、神に立ち返るという意味での「悔い改め」を宣言すること、何かを明らかにすることを理想的な信仰者、キリスト者と捉えています。そして、さらに弟子たちのように、善きサマリア人のように、マリアとマルタのように、信仰を心の問題にせずに、信仰に基づいて、具体的に何かを「する」こと、何かを「行う」こと、他者に明らかにすることを求めているのではないでしょうか。


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『風立ちぬ、いざ生きめやも』(マルコ福音書6:45〜50)

2018.10.25(09:33) 381

『風立ちぬ、いざ生きめやも』
マルコ福音書6:45〜50

なぜイエスは通り過ぎたのか
 マルコによる福音書6章45節から50節において、イエスさまに促されてか、弟子たちはイエスさまを残して、ガリラヤ湖という湖に船を出しました。ガリラヤ湖はパレスチナ地域の北部にある湖で周囲50Kmほどの湖です。その周りにはイエスの出身地であるナザレや弟子たちが育った町がありました。弟子たちは、その湖に船を出したのですが、そのまま夜になりました。その時不思議なことが起こりました。今日の箇所、マルコによる福音書6章48節から49節をお読みします。
「6:48-49 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」
 読んでみて、当たり前のことですが、不思議なことがあります。それはイエスが湖の上、水の上を歩いた、ということです。そして、もう一つ不思議な出来事があります。それは、イエスがその弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」ということです。弟子たちが湖の上で「漕ぎ悩んで」います。イエスさまには12人の弟子たちがおり、弟子たちの中には魚を捕る漁師が4人もいたはずです。船を操作することに関しては、誰にも負けるはずがない仕事です。しかし、その彼らが、船で漕ぎ悩んでいた。よっぽどの状態であったと言えるでしょう。で、イエスさまが「湖の上を歩いて」弟子たちの所へやってきた、弟子たちは「幽霊だ」といって驚いています。そりゃあ、驚くでしょう。しかし同時に、イエスさまはその奇跡的な力で自分たちを助けてくれる、と思ったでしょう。が、イエスさまは通り過ぎて、行ってしまったというのです。なぜでしょうか?とても不思議なことと言えるのではないでしょうか。また、イエスはどこに行こうと思っていたのでしょうか。

復活伝承として
 またもう一つ不思議なことがあります。それは、弟子たちが「幽霊だ」と叫んで、イエスを恐れている点です。変な言い方ですが、イエスが死んでいない、とすれば、またイエスが生きていた、とすれば非常に不可解な言動です。ギリシャ語のニュアンスから「幻だ」という解釈もありますが、もう一つの解釈を紹介したい、と思います。それは、この物語、逸話自体、イエスの十字架刑の後に起こったイエスの復活の記事、復活伝承ではないか、という解釈であります。
 福音書の物語は、様々な口伝伝承が組み合わされて出来た物語であります。そして、そうした口伝伝承はバラバラでしたから、順序もなかった。そして本来、この物語が、もしも、福音書の十字架刑の後の伝承が今の形になって、ここに収められていると考えてみると、弟子たちが「幽霊だ」という叫び、そしてイエスが弟子たちの舟を通り過ぎようとした、という不可思議な点も納得がいくのです。
 マルコによる福音書の最後の箇所、16章7節にはこのような言葉が記されております。
「16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」(P.97)
 「先にガリラヤへの行かれる」という言葉にしたがってガリラヤへ行った弟子たちとイエスの出会いの記事、として、この出来事、逸話を捉えることはできないでしょうか。

風立ちぬ−堀辰雄の場合−
 今日の説教題、「風立ちぬ、いざ生きめやも」としました。昭和初期に活躍した堀辰雄の小説、「風立ちぬ」から、引用しました。堀辰雄には、結核を患った恋人がいました。結核とは今の時代ではなくなる人はいません。しかし、昭和初期においては、治療することが難しい病でした。その恋人と、サナトリウムという空気の綺麗な山の中にある病院と過ごした日々を描いた作品です。
 その最初にこの詩が、記されていました。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。もともとはフランス語の詩を訳した言葉です。わかりにくい言葉で、誤訳では無いか、という話もあります。が、おそらく堀辰雄さんとしては、「風が吹いた。さあ、生きようではないか」とか「風がふく。生きることに挑戦しなければならない」といった意味を込めたのではないか、と思われます。もともと、現実生活の中で、堀自らも肺を病んでおり、恋人と同じサナトリウム(病院)へ入院して、回復を願っていました。しかし、恋人は亡くなってしまい、自らは生き残った。そこから生きる、という歩みを、再び歩み出そうとするとき、自らの体験を小説に徴ながら、辛い日々ではあったけれども、今一度振り返るためにこの小説を記したのではないか。また、改めて「風立ちぬ、生きめやも」、「風が吹いた、生きていこうじゃないか!」と自らを奮い立たせて、新たな歩みを始めようとしたのではないか、と感じております。

風立ちぬ−堀越二郎の場合−
 また、「風立ちぬ」という題名、つい5年前、スタジオジブリの宮崎駿さん監督のアニメーション映画作品として描かれました。その作品の中での主人公は、堀辰雄さんともう一人、堀越二郎さんという人の人生が組み合わせられた形で描かれていました。堀越二郎さんという人は、旧日本軍の戦闘機だったゼロ戦の設計者でした。ちなみに、ゼロ戦は、愛知県の名古屋市の港区で設計されました。
 そしてゼロ戦の設計者を描くということで、戦争を賛美するのか、ということで、アジア諸国から批判がありました。そんなこともあって、私は、ジブリ映画が大好きだったこともあり、機械モノが好きだったこともあり、いろいろ調べてみました。すると、ゼロ戦について、堀越二郎さんがどのように考えていたのかがわかるようになってきました。
 ゼロ戦、正式には、零式艦上戦闘機と言います。零というのは、数字のゼロのことで、完成した年を示しています。1940年に使われ出したことから1940年のゼロを取って、「零式…」、ゼロ戦となったわけです。1940年の開発当時は、圧倒的な性能を誇っていました。日中戦争においては、その航続距離の高さから重慶の爆撃にも参加し、また運動能力の高さから、ほとんど打ち落とされなかったそうです。しかし、1945年の敗戦に至るまで、アメリカ軍の戦争機は、どんどん性能を上げていくのに、くらべてちょっとした改造を加えていくだけで、あまり発展せず、戦争末期には、時代遅れの機体であったと言うことができます。また開戦当初は、ベテランパイロットがたくさんいましたので、当然、ゼロ戦も強かった。しかし戦争が進んでいく中で、アメリカ軍や他の国の戦闘機の性能がどんどん上がっていく中で、ベテランパイロットが命を落としていく。またゼロ戦も敵国から研究されてしまう。そして防御が弱いという特徴が明らかにされる。戦闘機は燃料タンクとパイロットが弱点で、普通は分厚い鉄板で守られるわけです。しかしゼロ戦は、そうした防御を減らすことで、機体を軽くして、性能を上げていたから、それをすると弱くなってしまう。
 そして、どんどん外国に性能は抜かされていき、ベテランパイロットも少なくなっていく。経験の浅いパイロットしかいなくなってしまう。そして航空機、戦闘機同士の空中戦で、旧日本軍は勝てなくなってきた。そんな状況の中で、いわゆる特攻攻撃、特攻隊という発想が出て来る。ベテランパイロットたちが減っている状況です。ですから、特攻隊の隊員という人は、だいたい若い人たち、更にパイロットとしての経験も少ない人たち。訓練期間も普通は、1年ぐらいだったのが、戦争末期には半年になり、初陣(初めての戦闘)が、特効という場合もある。
 そんな状況を、堀越二郎さんは、とても苦しい思いをもってみていたそうです。ゼロ戦の改造はするけれども、海軍も余裕が無くなってきているという状況。自らが設計した機体で多くの若者が命を落としていく状況に対して、とても悔しい思い、苦しい思いをもっていたそうです。しかし、戦時中ですから、そうしたことを発言することは、即、非国民として糾弾される可能性もあり、できなかった、と。

誰もが状況を抱えている
 アニメーション映画の題材となった堀辰雄さんと堀越二郎さんの歩みについて触れさせて頂きました。ゼロ戦の設計者である、堀越二郎さんをモデルに映画を作ることについて、批判もあることは予想もできたでしょう。しかし宮崎駿さんは題材にすることにしました。そこで何を描きたかったのか。私はこんな想像をしています。
 映画の宣伝用のキャッチコピーは、「生きねば」とされています。また現在、『君たちはどう生きるか』の映画化に着手されています。おそらく、宮崎駿さんとしては、今という変化の大きな時代の中において、様々な状況の中で生きなければならない人という存在に対して、映画の観客に対して、「生きる」とはどういうことか、あらためて考えて欲しい。自分の意志で生きるということはどういうことか、ということを考えて欲しいと思っているのではないか、と思うのです。私たち、生きる場所ぐらいは選ぶことはできます。しかし、生きる時代や状況を選ぶことは、現実的に言えば、なかなか難しいと言わざるを得ません。(戦争、夢、時代、病気、恋人を失うということ)

教会の歩みとして
 今日のテキストのお話に戻ります。イエスさまが十字架刑にかかり復活した後、弟子たちがどのような歩みを果たしたのか、細かな歴史的な事実として知ることは出来ません。しかしエルサレムにおいて教会としての歩みが始まったことは使徒言行録から知ることができます。今日のこの箇所が、イエスの十字架刑とエルサレムにおける活動の間にあったとしたら、どんな話だっただろうか、と想像して、この箇所を味わってみたいと思います。
 イエスの十字架刑の後、墓にイエスを納めた弟子たちは、イエスに「ガリラヤで会える」という言葉を頼りにして、ペトロを中心として、ガリラヤ湖湖畔の町、ベトサイダに帰ってきました。しかし、イエスに会うことはできません。時間は経っていきます。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟はもともと漁師さらに網元だったので、家には舟もあったので、漁に出るようになりました。弟子たちは、イエスさまのことが心残りといえば、心残りでした。この世の救い主だと思っていたのに、なぜイエスさまは逮捕されて、十字架刑で死ななければならなかったのか?自分たちが信じたイエスさまは何者だったのだろうか。
 でも更に、不思議なことは、イエスさまの遺体を納めたはずの墓は空だった、遺体はどこに行ったのだろう。さらにあの墓には見たことも若者がいて、マグダラのマリアと何人かが出会った。そしてその若者が言った言葉。「『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」あの言葉の意味は、どういう意味だろう。なにか起こるのだろう。そんな思いを持ちながら、舟に乗って、漁をしていた。ある日一晩中、漁をしていたけれども、何も取れない。明け方になってきた。しかし強い風が吹いて、港へは、なかなか戻ることが出来ない。どうしよう。帰ることが出来ない。と、思っていると、水の上のはずなのに、誰かが近づいている。誰が?いや、何故?…なんと、イエスさまが、歩いて近づいてくる。こちらへやってくる。誰かが叫び声を上げた。死んだはずなのに、なぜ?幽霊か?いったい何が起こったのだ?どうしたんだ?そして、どこへ歩もうとされているのだ…。

なぜイエスは弟子たちの前を通り過ぎたのか
 舟は教会のシンボル、象徴であります。弟子たちはガリラヤへ帰ってから、いわゆる一般的な漁師の生活に戻ろうとしていたのでしょう。しかし、嵐に遭い、動けなくなっているところへ、十字架刑で亡くなったはずにイエスが現れ、自分たちの所でもなく、自分たちが進もうとしている所でもなく、通り過ぎて遠ざかっていこうとしています。
 イエスは、どこに向かって歩もうとしていたのでしょうか。それは、弟子たちが歩むべき道であったのではないでしょうか。嵐の中での出来事、弟子たちにとって、「風」であり、イエスの歩みは、新しい道を「生きるのだ」という呼びかけ、メッセージだったのではないでしょうか。
 新しい状況の中で、自分たちが歩もうとする道に思い悩むこともあるでしょう。そんな時、イエスさまは私たちの前に新しい道を示してくださるのではないでしょうか。弟子たちにとって、イエスの復活とはそんな意味もあったのではないでしょうか。


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『メシアか、それともキリストなのか』(ルカによる福音書 9:18~27)

2018.09.24(10:31) 380

『メシアか、それともキリストなのか』
(2018/9/23)
ルカによる福音書 9章18~27節

「イエスはキリストである」という思い込み
最初にクイズを紹介したい、と思います。
問題:父親と息子が交通事故に遭いました。父親は即死。重症の男の子は近くの病院に運ばれた。そして病院の当直は、腕の良さで知られた外科医だったので、誰もが助かるだろうと思っていた。しかし、病院で、手術を担当する医者がその少年を見てこう言った。この手術を担当することはできない。この子は自分の息子なのだ、と。一体どういうことでしょう?
(答えは、記事の末尾にあります)


 この問題を紹介したのは、私たちの中にある色々な思い込みと共に、「イエスはキリストである」という思いによって、聖書を読むという作業の中で見逃していることはないだろうか。また、「イエスはキリストである」ということは、キリスト教信仰において、中心的な課題なのですが、いわゆる思い込みで、キリストはこのような存在、イエスはこのような存在と捉えていないだろうか、ということを改めて考えてみたいと思ったからです。

マルコにおけるキリスト像
 今日の箇所、ルカによる福音書9章18節から20節は、ペトロの信仰告白と呼ばれている箇所であり、マルコ福音書にも並行箇所があります。の箇所を開いてみたいと思います。マルコ8章27節から30節。
「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
 マルコ8章29節におけるペトロの信仰告白。「あなたはメシアです」のギリシャ語は、「シュー エイ ホ キリストス(You are the Chirst.)」となっています。しかし、日本語の聖書では「あなたは、メシアです」と訳されているのです。ルカでも同じくメシアです。「メシア」というギリシャ語もちゃんと存在しています。しかし、「メシア」と訳されている。これは何故か?。
 口語訳聖書では、この箇所「キリストです」と訳されていましたが、新共同訳では「メシア」と訳されています。「メシア」という言葉は、旧約聖書で使われておりますヘブライ語では「油注がれた者(マーシュイーアッハ)」という意味があります。ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いは、同時に「あなたはメシアなのですか」という問いであるのです。
 そして、ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに合わせての翻訳と言えます。イエスに従ってきた弟子たち。おそらくはイエスは「メシアである」という思いをもって従ってきた、そうした思いを翻訳に反映させた訳なのです。
 たしかに、口語訳聖書での訳である「あなたはキリストである」は、教会的には、また信仰的には、都合の良い訳と言えます。しかし学問的に、歴史的考えたとき、文脈上、弟子たちは、イエスが「メシア」になることを期待していました。また、ギリシャ語における「キリスト」(救い主)という言葉自体も、その意味も知らなかったはずですから、「キリスト」と告白させるのは、おかしな話であり、翻訳としては「メシア」が相応しい、と言えます。

受難予告とキリスト思想
 今日の箇所であるルカ福音書の当該箇所(9章18節から27節)は、前半と後半にわけることが出来ます。前半の18節から20節は、ペトロの信仰告白とイエスの応答、そして後半の21節から27節は、イエスの受難予告であります。後半の部分にあたる受難予告から触れてみたいと思います。22節をお読みします。
「次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」」
 この部分は、イエスの十字架刑による死について予告であります。そして、それはイエスの予告であるということは、主なる神の計画であり、改めることは出来ないということです。そして更に、23節24節をお読みします。」
「9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
 この箇所は、理想的な弟子たちのあり方と同時に、イエスが歩むであろう道、キリストとしての真の姿、歩みを述べている箇所とも言えます。そして、この箇所をマルコと比べてみますと、面白いことに気がつきます。もう一度、マルコ福音書の並行箇所を開いてみると、ルカにおいては削られている箇所があります。
 マルコ福音書8章32節33節が、ルカにおいては、まったく削られている箇所となります。
「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」
 かなり強い調子での言葉であり、怒りの表現であります。そして「神のことを思わず、人間のことを思っている」と、イエスの指摘し、怒りをあらわにして、ペトロを叱っています。そしてこのことを今日のテーマに絡めて、考えてみます。

メシアとしてのイエス –マルコの場合−
 マルコの文脈で考えてみます。ペトロは、イエスがメシアになると信じて従ってきた。そしてイエスが、きっと新しいユダヤ人の王となり、ローマ帝国の支配からも解放してくれると信じてきたのでしょう。そしていよいよイエスがエルサレムへむかって歩みだそうとしている時、イエスが注目を集め出して、預言者ではないか、エリヤか、といった人も出てくる。
 そして、ペトロはイエスこそ、メシア新しいユダヤ人の王になると思っているその時、そのイエス当人が、逮捕される、殺されてしまう、という予告をしゃべり出してしまう。どうでしょう?止めるのでは無いでしょうか。それはまずい。自分の思いとは違う、と。イエスがユダヤ人に救いをもたらす存在として、期待していたペトロには受け入れられる発言ではなかったでしょう。翻訳の問題に帰ってみます。こうしたように考えてみますと、マルコにおいて、ペトロの言葉、信仰告白と言われている「あなたはメシアです」と訳されているのは、適切なことと言えるでしょう。

キリストとしてのイエス −ルカの場合−
 では、ルカにおいては、どのように捉えれば良いのでしょうか。新共同訳聖書のルカにおいても、「わたしはメシアです」と訳されています。しかし、ルカの場合においては、わたしは「わたしはキリストです」と訳した方が適当、相応しいのではないかと考えています。
 なぜならば、マルコはやはり「イエスはキリストである、そして、キリストはこういう存在である」と信じていた人々に対して、疑問を投げかけるつもりで、福音書全体を記していると思うのです。しかし、ルカにおいては、あくまで「イエスはキリストであり、キリストはこういう存在である」ということを伝えようとして、記しているからです。ルカ福音書冒頭、1章1節から4節には、
「1:1-2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」
 こういう言葉があるのであれば、やはり、弟子たちも正しくイエスをキリストとして理解していた、という姿勢であった。また、ペトロの言葉も削られていたのも、同じ理由からでしょう。ですから、「あなたはキリストです」と訳すべきではないか、と考えております。

メシアか、それともキリストなのか
 弟子たちは、イエスのことを、どのように考えて捉えていたか、と言えば、やはりメシアであったと言えます。なぜなら、彼等はユダヤ人であり、アラム語を話す人々として、イエスがダビデのようなメシアではないとしても、イエスをメシアと呼んでいたのではないか、と考えられます。そして、キリストとは、すべての出来事が終わった後に、イエスはどのような存在かとして、ギリシャ語を使う人々の間で「イエスはキリストである」ということで広がっていったと考えられます。
 今日の箇所の「あなたはメシアです」という箇所。わたしとしては、ここはキリストと訳すべきでは無いかなあ、と思います。しかし、一人一人捉え方が違って良いのではないかな、と思っています。各福音書には、各福音書を生み出した人や教会の神学が背景にあります。そして、私は一人一人に神学があって良いのではないかなあ、と思っていますので、どのような訳を当てはめるのかも自由と言って良いかもしれません。また、正典としてみたら、どうだろうか?礼拝の場ではどうだろうか?という問題も出てきます。いろいろな状況によって、相応しい訳がある、という分け方が出てくるでしょう。聖書朗読としてはこう、讃美歌としてはこう、信仰告白としてはこの訳といった形です。
 そしてキリストとは、どのような存在であるか?という課題も出てきます。メシアとは、ダビデのように、王として民をひっぱっていく存在です。それに対して、キリストとは?民の犠牲になる存在、またキリスト教の贖罪論においては、民の罪を背負って犠牲となる存在、民の最も低いところに立つべき存在です。そうしたあり方について、今日の箇所の後半にあたる部分は、イエス当人の声を通じて明らかにされた箇所と言えます。しかし信仰的にはあがめられる存在、上にいて欲しい存在です。両義的というか、なんとも捉え合えにくい存在なのです。
 イエスとは、自分にとって、どのような存在であるのか?キリストか、メシアか、救い主か、神の子か、ダビデの子か、様々な表現がされます。しかし私は、正解はないのではないか、と思っています。最初に医者の話をしましたが、どこかしら、自分たちのイメージの中で、イエスを捉えているのでは無いでしょうか。しかし常に、イエスの姿は変わっていくのではないか、と思います。聖書を読むとき、イエスの物語を読むとき、一つの捉え方に止まることなく、常に新しいイエスに出会っていくことが大切なことではないでしょうか。

〜〜〜〜〜〜
答え:医者は男の子の母親だった。

 アメリカにおけるジェンダーバイアスを考えるために、作られた問題。アメリカのボストン大学が在校生を対象に行った2014年の調査では、正解できたのは20%以下だったそうです。母親が医師をしているという学生も正解できなかったという結果は、職業と性別に対するジェンダーバイアスが、想像以上に深いことを物語っています。

※ クイズと解説については、このページを参考にしました→http://grasshopper-sapporo.com/2016/08/06/a-riddle/

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『身を献げた主に従う』(マルコ福音書10:35〜45)

2018.08.27(19:38) 379

『身を献げた主に従う』
(2018/8/26)
マルコ福音書10章35~45節

エルサレムの道とは
 わたしたちの信仰というのは、常に「このままで良い」と、今のままではダメで、「変わらなければならない」。そんな二つの意志のどちらか、または、その狭間にあるのではないか、と感じます。そして今日の箇所における弟子たちには、そういった二つの内の一つ、「自分は変化していくのだ。立派になるのだ」という思いと、「評価されたい」という欲望が表れている箇所と言えるのではないでしょうか。
 イエスと弟子たちは、エルサレムへと向かっていました。イエスは、どのような意識であったのか。様々な捉え方がなされます。マルコ福音書の文脈によれば、あくまで受難への道でありました。ヨハネ的には、神の計画に従った道、「犠牲の小羊」となるための道と言えるでしょう。しかし弟子たちは、不安がありながらも、自分たちは、特別な何かをする、また特別な存在になる、と考えていたのではないでしょうか。
 また、お互いに、イエスと弟子たちはお互いに対して、どのように考えていたでしょうか。イエスの側からはどうでしょう。いろいろな可能性があると思います。第一の可能性は「怒り」です。イエスはこの箇所の直前、三度目の受難予告、「自らが祭司長や律法学者に捕まり、十字架にかけられ、死ぬ」ことを宣言します。しかし、誰もそのことを本気には聞いていないのではいないのです。イエスさま自身が「自分は死ぬ」と言っているのに、「栄光にあずかるときには自分を右、また自分を左に」という言葉を弟子たちが述べている。まるっきりイエスさまが王様になるかメシア(救い主)として君臨することしか考えていない。まるっきりイエスさまの言葉を信じていないわけです。普通は怒るか、もしくは溜息でも付くのではないでしょうか。

受難の捉え方について〜ペトロとユダを例にして〜
 また、「苦しみ」「孤独」の中にあったと理解もあります。こんな想像をしてみたことはないでしょうか。弟子たちが、イエスが十字架への道を歩むことの意味を知っていたとしたら。
 受難という事柄の悲劇性を増すためには、弟子たちがイエスの意志、真意、また神の意志、真意を理解していなければいないほど、その悲劇性が高まります。そして更に言えば、イエスが復活しなければ、その悲劇性が高まるわけです。マルコ福音書が、もともと復活の記事がなかったかもしれない、ということの根拠には、そうしたことも関係しているわけです。悲劇性が一番強い場合というのは、その人の死が無意味なものである、という状況ではないでしょうか。戦後73年目の夏ですが、戦争の犠牲になった人々の死に関係して、「犠牲の故に、今の平和がある」とは、よく言われることですが、その死と平和が関係ない、としたら悲惨な死と言わざるをえません。また、「犠牲の故の平和」と声高に語ることによって戦争の責任者の責任に目を向けさせようとしない意図もあると言えるでしょう。
 また、悲劇性に関わることに要素として、赦しの要素も関係してきます。弟子たちを裏切ってしまったイエス。まずペトロなどは分かりやすい形での赦された人であります。最後の晩餐の場面において、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マルコ14:31)。このような言葉を述べ、さらに命をかけるとまで言ったペトロ。また、文字通りの裏切り者と言えるユダ。イエスを銀貨三十枚(マタイによれば)で売り飛ばしたとされています。しかし、ユダの福音書という2世紀に生み出された偽典があります。10年ほど前(2006年)に発行され、話題になったのですが、キリスト教の異端とされるグノーシス主義(知恵主義)の一つであります。
 ユダの福音書によれば、ユダのみがイエスの真意を聞いていた功労者である、という話であって、ペトロを代表とする使徒たちは、無理解であり、ユダこそが本当の使徒だったという主張なのですね。要するに、本家争いをしているようなものなのですね。我こそが、一番イエスの真意を理解していたのだ、ということを主張しています。話の本筋から離れますが、グノーシス主義にしても、偽典にしても、時代時代における本流の流れに対する批判と自らの正統性を主張するために記されている場合が多いです(カイン派、セト派など)。
 また誰が一番の使徒、弟子であるのか、という課題は、新約聖書に収められている福音書の中でもあると言えます。マタイでしたら、ペトロ。マルコでしたら、女性の弟子たち。ルカでしたら、パウロ(使徒言行録も含めて)。ヨハネは、愛する弟子、などです。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い
 今日の聖書の箇所で、ヤコブとヨハネがイエスに願っています。10章37節。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
 そしてイエスは、答えます。10章38節。
「10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」」
 二人は、「できます」と答え、イエスは重ねて言います。10章39節40節。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
 解釈学的には、この言葉、弟子たち、使徒たちがいずれ受けるであろう、被るであろう、受難について預言している、という捉え方が出来ます。ペトロにしろ、ヤコブにしろ、キリスト教宣教の故に処刑された、とされています。また、キリスト教共同体、教会の中において、誰がリーダーになるか、ということもイエスが決めることではなく、神の業、計画によるということを、述べようとしている、と言えます。
 また、この弟子たちの無理解、ズレ具合は、このような要求をするヤコブとゼベタイのみならず、二人を責める弟子たちも、内容的には同じレベルではないでしょうか。41節に、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」とあります。要するに、「汚いぞ!自分たちばっかり先生におべっかを使いやがって」と争いを始めます。さらに最後の晩餐の場面でも同じようなやり取りがなされているのです。マルコ福音書14章31節。
「14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。」

権威主義的信仰への批判として
 誰もが最初があると思うのですが、福音書を読んでいて、イエスが十字架にかかってしまうことについて、驚いた人はいるでしょうか?おそらく、おられないと思うのです。また、実際に弟子たちがどうだったか、という気持ちを本当の意味で体験すること、追認することは不可能と言えるでしょう。そういった意味で、マルコ福音書があれほどに悲劇性を高めようとしているのは、そうした意図があるのではないか、とさえ思います。
 おそらく、マルコ福音書を記した人は、読み手が、イエスの十字架刑とはこのような流れであった、弟子たちはこのようなことをしていた、弟子たちは、復活の主、イエスとこのような再会を果たした、ということを、ある程度、知っている人たちが読むのだ、といいうことを考えながら記していたはずです。このことは、考えてみれば、当たり前のことで、キリスト者、教会のメンバーしか読まないからです。そして、歴史的な事実、真実を伝えようという意志もあったけれども、やはり弟子たちの情けなさ、を伝えようとした意志は強かったでしょう。それは使徒や、イエスと直接に触れ合った弟子たちが、権威ある存在として捉えられるようなあり方への批判と言えると思います。
 そして、これは、もしかして想像でしかありませんが、どんどん世代が進むと共に、イエスとの関係が薄まってしまう、ということを危惧していたのではないか、と私は考えています。直接の弟子たちを批判しなければ、イエスと関係が薄くなればなるほど、世代が進めば進むほど、関係が薄くなっていく。しかし、直接の弟子たちもイエスの前ではなさけなかった。無理解であった。そうしたところの使徒たちを立てることによって、結果的に、直接にイエスも知らない弟子たち、キリスト者も使徒たち、イエスと直接出会った弟子も同じだよ、「そのままで良い」んだよ、ということが伝わっていくことになったのではないでしょうか。

価値を転換すること
 名古屋で、在日大韓キリスト教会や他の教会の人と一緒に、毎年、「平和を祈る祭典」として平和集会を行っています。今年は、在日の「趙博(ちょ ばき)」さんという方をお迎えして、歌と講演を伺いました。その中の一曲に、『息子よ、そのままでいい』という曲があります。この曲は、2年前に起きた相模原のやまゆり園の障がい者19名が犠牲になった事件を受けて、自閉症の17歳の息子さんを持つ報道関係の方がSNSに掲載して、拡散した記事です。そして、このような紹介をされています。

「わたしたち夫婦が授かった長男は、脳の機能障害“自閉症”を生まれながらに持っている。この男の刃は、私たち家族に向けられているー。テレビで容疑者の笑顔を見るたびに、心の中をやすりで削られているような気分に苛まれた。怒りや憤りをぶちまけても、容疑者はおそらく笑うだけだ。違う次元の言葉を綴りたかった。フェイスブックに投稿したのは事件から3日後。容疑者が『障害者は死んだ方が良い』と供述する事件の起きた日本から、障害者の父が書いた“詩”は世界に拡散されていった」

 平和集会の講演の中で、この曲に対して、パギやんは同意と同時に、障害者の家族から、やめてくれ、歌わないでくれ、という批判があったということを伺いました。「そんな単純に受け入れられない」「責められているように思う」など。たしかに、私もそういう反応があるだろうな、と思いました。しかし、あくまで元々は、一人の障がいを持つ息子の父親の詩をどうこうするというのは、おかしな話ではないでしょうか。障がいについての捉え方は自由、その時々に様々な思いを持つものです。良いも悪いもないと思うのですが、どうでしょうか。
 障がいという痛み、重荷をどのように捉えるか、神に与えられた道として、運命として捉えられるだろうか。「そのままで良い」と言えるだろうか。障がいに限らず、病い、負い、未熟さ、苦手なこと…。このように自分を良いとできない、という思いは、信仰において、自分は不完全である、という思いと重なるように思います。
 イエスは言っています。10章43節から45節。
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 どのような形であっても、高く評価されたい、という思いを私たちはどうしても持ってしまうのでは無いでしょうか。そして、私たちは、このイエスの言葉をどのように捉えれば良いのでしょうか。

身を献げるということー復活信仰ー
 今日の説教題は、「身を献げた主に従う」としました。この箇所において、福音書の著者は、弟子たちの無理解、イエスと弟子たちのあまりのズレの大きさ、イエスの孤独を読み手に伝えようとしています。私たち読み手がこのお話を手放しで笑えるか、ということが一つの課題として提供されているのです。イエスの十字架への道を知らずに、福音書を読んだとしたら、どのように感じるでしょうか。弟子たちのように、イエスはメシアである、ユダヤ人の王となるのだ、玉座に座る存在となるのだ、と考えていたのだったら、逮捕から十字架刑という流れは、驚くどころか、受け入れられないのではないでしょうか。
 また、わたしたち自身もイエスさまの思いを理解せずに、右に座らせてくれ、左に座らせてくれ、と叫んでいるのではないでしょうか。この弟子たちの姿は、わたしたちの姿かも知れない。最初には、信仰とは、「このままで良い」と「変わらなければならない」のどちらか、または間にあるという話をしました。本当にその通りだと思います。しかし、大事なのは、どのような存在であろうとも、イエスは、そのままで良い、と受け入れてくれている、ということではないかな、と思います。新しい一週間も主イエスが共にいることを信じて歩んでいきたい、と思います。

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『共感、共苦、共同体』(ローマの信徒への手紙12:9〜15)

2018.08.19(19:32) 378

『共感、共苦、共同体』
(2018/8/19)
ローマの信徒への手紙 12章9~15節

あるロボットのエピソード
 『プルートウ』(浦沢直樹著)というマンガがあります。誰もが知っている漫画家の手塚治虫さんの作品「鉄腕アトム」を元にしたマンガです。マンガの舞台は近未来、その世界ではアトムのように、ロボットがたくさん人間と一緒に生活をしております。ロボットらしいロボットもいますが、人間とは変わらない外見を持つロボットが生活をしています。登場するロボットたちは、仕事を持ち、夫や妻といった家族を持ち、感情があり、どうやら疲れもたまる、そして過去の経験の痛みを持ち、悩んだりもしている。悩みが深まると体の調子が悪くなり、お医者さんではなく、技師さんのところへ行き、治療ではなく、メンテナンスや修理をしてもらっている。心の悩みなどもお医者さんではなくエンジニア(技師)さんのところへ相談に行ったりします。
 そんな中で、ある夫婦のロボットの夫の側が不慮の事故で亡くなって(壊れて)しまいました。遺体(部品)はバラバラに処理されてしまいました。仕事の同僚であったロボットがその死(破壊)をその妻のロボットに知らせに行きました。夫を亡くした妻の側のロボットが悲しみに暮れていました。そんなとき、その妻のロボットに夫の同僚だったロボットがこんな提案をしました。「(だんなさんのロボットの)記憶、データを消去しましょうか」。

記憶と哀しみと時間の関係
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、ちょうど7年半の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。私は当時、神奈川県の小田原市に住んでいましたから、かなりの大きな揺れであると同時に、その後に続いた余震や計画停電などによって、自らもその当事者と記憶に刻まれています。また2度だけですが、被災地に行き、ボランティアとして働いたことがあります。しかし時間の流れの共に、その記憶はどんどん薄まっていきます。
 しかし当事者であれば、その記憶を薄まる、という表現は適切であるとは癒えないでしょう。家族を失った哀しみや痛みを薄まるとは言えないでしょう。たとえば、ご家族に不幸があった方に対して、「哀しみが早く薄まりますように」とは言わないでしょう。「哀しみが癒えますように」とか「慰められますように」と言うはずです。
 東日本大震災においても、他の様々な天災や災害においても、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。震災遺構について、このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。また、こんな言葉もあります。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。

パウロの活動の三つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(P.316)
 パウロの活動は、三つの内容を持っていたということが出来ます。そして、それら三つは、この言葉の実現として捉えることが出来るのではないか、と感じています。一つ目は、「宣教」また「伝道」と言われる働き、その徴として、その実現の場として教会を建てることであります。そして二つ目が、牧会と言われる行為、一つ一つの教会の中にある人々の悩みや課題に答えること、また様々な意見の違いや争いを正しい方向へ導いていくことです。そして、そうした具体的な言葉、助言が、私たちが知る聖書に収められている彼が記した手紙であります。
 そして最後、三つ目は、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。パウロは、具体的には、エルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子、ペトロなどの使徒がいた教会です。しかし、ユダヤ人社会の中における活動はとても厳しく、貧しい状況にあり、支援を必要としていました。そして、その支援の活動は、ただ単にエルサレムの教会を助けようということだけではなく、パウロとして、エルサレム教会の苦しみを共に苦しみ、喜びをともに喜ぶこと、そして「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」くこと、であると言えるのではないでしょうか。

共感、共苦、共同体
 私も教会で牧師として働いていたとき、教会の役割とは何か、ということをよく考えていました。その時、伝道とは何か?宣教とは何か?ということを考えていました。また、よくこんな議論になることがありました。「ようするに教会に来る人を増やすということは、人が来るようなイベントをすれば良い」と。そしていろいろイベントもしました。しかし、身近な存在になっても、それだけではなかなか枝としては繋がらない。zそして、それから繋がっていくポイントとなるのは何かな、と考えた時、今日のパウロに行き着きました。
 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉。これにはキリスト教会の中における教会と教会、また人と人の理想的な有り様が示されています。しかし、原点には、パウロが行った宣教、伝道の力、思いがあったと捉えることが出来るのです。この世に生きる人は、誰でも不安や心配があります。教会自身がそういう人の不安や心配に寄りそっているだろうか、ある種の答えを持っているだろうか、ということが宣教、そして伝道の指針であり、それを実現していくことが、宣教であり、伝道ではないでしょうか。
 そして、教会の理想的なあり方とは、内側の隣人において、共感共苦が実行されているだろうか、また外側の隣人に対して、共感共苦がなされようとしているだろうか。と、いうことが、教会の活動の一つの尺度になると言えるのではないでしょうか。

キリスト教会のなすべきこと
 最初にロボットの話をしました。家族を失った哀しみにくれているロボットは、失った家族の記憶を消去、消すことを断りました。東日本大震災から7年、また7月にも西日本を中心に大きな水害が起こりました。そうした被害にあった人が、すべての記憶をなして下さい、というでしょうか。また過去の戦争についての記憶はどうでしょうか。
 私たちの日常において、病いや人との死別などがなくなることはないでしょう。かといって、人類の技術が進んだからといって、誰も自らの家族が失われた記憶を消すことを選ぶでしょうか。また主なる神、イエス・キリストに体の痛みを消して下さい、と祈ることはあっても、家族を失った痛み、哀しみを消して下さい、と祈ることはないでしょう。なぜか?と言えば、家族を失った哀しみを消すとは、その家族丸ごとの記憶を消すことになるからです。そして、そのような自らの哀しみを消すということは、自分自身を否定するということにもつながります。自分自身の歴史、自分自身の歩み、自分自身を否定することになります。また自分自身の課題だけではなく、自分を思ってくれている人、自分を愛してくれている人、自分を大切にしている人の思いを否定すること。違う自分自身になってしまうことでしょう。またそのような祈りをイエスに祈るだろうか、また神さまに祈るでしょうか。
 教会は、すべての哀しみや悩みに対して、キリスト教が答えることが出来るだろうか、教会が答えることができるだろうか、と言えば、否と言うしかありません。では教会は、どのような歩みを歩むべきなのか?それこそ、今日の箇所に記されている言葉、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。私たちは、力ない存在でありますが、その隣人の喜びを喜び、その隣人の悲しみを悲しむこと。そうした営みを繋げていくこと場所、そうした人の群れがキリスト教、教会であると言えるのでは無いでしょうか。


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