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『平和への犠牲』(マタイ福音書9:9〜13))

2017.08.09(12:51) 353

『平和への犠牲』
(2017/8/6)
マタイによる福音書 9章 9~13節

平和聖日の課題
 日本において8月は戦争の記憶抜きに、語ることは出来ません。今日、8月6日にヒロシマ原爆記念日、8月9日にはナガサキ原爆記念日、そして8月15日には、終戦記念日として、様々な追悼式典が行われます。日本基督教団としても多くの教会において、8月第一週の礼拝を平和聖日として守られます。いわゆる太平洋戦争、15年戦争、第二次世界大戦の終戦から72年の月日が流れ、その記憶を如何に後の時代に伝えていくか、ということが課題となっております。私などは当然戦争を知りません。世代的に言っても、過去に「戦争を知らない子どもたち」というフォークソングがありましたが、私などは、その子どもの世代、そして、さらにその子どもの世代、孫の世代になっているとも言えます。

無言館の記憶
 戦争とはいったいどのようなものでありましょうか。戦争の恐ろしさを思うのは、別に好戦的とか反戦的とか、また自分には関係がないと思っている人であったとしても、自分の知らないどこかの意思、誰かの意思によって、その命の削り合いに、望むか望まないかにかかわらず、巻き込まれ、時に人の命を奪い、時に人に命を奪われ、大きな痛みを与え、また大きな痛みを与えられ、誰かの友人や家族の命を奪い、また誰かによって自分の友人や家族、愛する人の命を宇ばれてしまうということ。それが戦争であるということです。
 以前に、神学校の研修会で、長野県上田市にあります無言館という美術館に行ってきました。その美術館には、戦没した画学生たちの作品が展示してある美術館でした。コンクリート打ちっ放しの建物で、上から見ると、十字架の形なのでもまるで教会のようにも見えたりする建物ですが、その中には、戦没した画学生たちの絵が飾られ、遺品や、また小さなプレートには、出身地や、どこの学校であったか、そしてどこで亡くなったかが記されていました。また、無言館のことについて記されている本を買って来たので、読んで、いろいろなことに気づかされました。その内容を紹介したい、と思います。
「正直いって、彼らの絵はまだまだ画家としては半人前であり、一般の職業画家の半分の技術、力量もそなえていない。何しろ学業半ばで、草でもむしられるように戦地に行かされ、そのまま帰ってこられなかった不憫な学生たちなのだ。かれらの絵が、いわゆる完成された画家たちの絵に比べて、芸術的に造形的にも見劣りするのは仕方のないことだろう。だが、『無言館』を訪れた多くの人たちはこういう。『絵の前に立っただけで涙が出ました』と。『絵を見て、こんなに感動したのは初めてでした』と。」(P13)
 また、館主である方が無言館という名前の由来について、記されていましたので紹介します。
「当初の『ムゴンカン』の命名理由は、とりもなおさず『画学生たちの作品は無言であっても、その作品が見る者に語りかけてくる言葉は饒舌である』という常識的なものであった。画学生の『無言』は単なる沈黙を意味するのではなく、伝えるべきあまりに多くの言葉を内包する『無言』なのだ、という意味だったのである。/しかし、最近になって私は、ことによるとこの『無言館』の『ムゴン』は、画学生の絵の前に立つ私たちの方が言葉を失い、無言でたたずむしかないという意味を持っているのではないかと考えることがある。それは、かれらの絵を前にして私たちが抱かざるを得ない心の静寂というか、自らが自らに問いかける自問の時間と言ってもいい『無言』にほかならない」(P.124)
 わたしも無言になってしまったのですが、それは、一枚の絵ながらも、そこにその人の人生があるように思えるからでしょう。また、本の中でも記しているのですが、「彼らは、平和祈念や戦争反対のために絵を描いていたわけではない」のです。戦場へと向かう5分前まで絵筆を握っていた人もいたそうです。そうした一つ一つのエピソードから一枚の絵でありながらも、何か人の生涯の結晶のような印象を持ちましたし、無言になってしまう重さを感じたのでしょう。

いけにえと憐れみ
 今日私たちに与えられた聖書箇所には、このような言葉があります。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」
 旧約聖書、ホセア書6章6節の引用であります。「いけにえ」というのは、神へ捧げられる犠牲獣のことを指します。旧約聖書において、律法によって、自らの罪を贖うため、神からの許しを得るため、献げ物を献げたり、また犠牲獣を屠ることが定められています。
 またエルサレム神殿においては、毎年一度、大贖罪日(ヨム・キプール)という祭りが行われます。どういった儀式かというと、人は自ら知っている罪については、献げ物を献げて、その罪による汚れを取り払っています。しかし、皆が気づかずにしている罪が蓄積してくる。そしてその罪を取り払う必要が出てくる。そこで毎年その「大贖罪日」には、羊を一頭連れてきて、大祭司がその羊の頭に手を触れ、すべての罪を移して、神殿から逃がすという儀式が行われていました。この儀式が「スケープゴート」の語源となっています。(Lev16)
 「スケープゴート」は、現在の意味はこのやや宗教的な意味合いから転じて、不満や憎悪、責任を、直接的原因となるものや人に向けるのではなくて、他の対象に転嫁すること、それらの解消や収拾を図るといった場合のその不満、憎悪、責任を転嫁された対象のことを指します。またある集団の中で、方針や主義に不利益とされる小規模な集団や社会的に弱い立場の人間をスケープゴートとして排除するなどして、社会的な支持や統合を目的とするといったものもあります。例えば、第二次世界大戦中のナチスが行ったホロコーストは、ユダヤ人をスケープゴートの対象としたものの一例とも言えます。

神の使いとしての犠牲
 そして、考えてみますと、旧約聖書に現れる預言者たちといった人たちの多くは、神の言葉を伝えるために、自らを犠牲として、いけにえのような歩みを歩んだ人が多かったと言えるのではないか、と思うのです。例えば、バプテスマのヨハネが生まれ変わりだとされたエリヤは、時の王がバアル信仰に進む中、主なる神への信仰を訴え、王権より、つまり国全体から命を狙われることとなります。
 また、よく知られた預言者であるイザヤは、このような神より、このような言葉を与えられています。イザヤ書には、預言者の役割として、かなり厳しい言葉が語られています。イザヤ書6章9節10節。(P.1070)
「主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」」
 この言葉、イザヤに対して、あなたは神の言葉を預かってイスラエルの民に語るけれども、それは、イスラエルの人を救うためではない、という宣言です。そして、それはとても厳しい勧めでもあります。ようするに、神の言葉を勧告として、耳の痛いことをイスラエルの民、また王たちに対して宣言するわけです。当然、「余計なことを言うな」という話になります。そして、邪魔者扱いされるわけです。現在のイザヤ書は、一つにされていますが、もともとは、三つの時代の預言者の言葉が一つにされていると言われていますが、2番目に収められている苦難の僕の歌と呼ばれる箇所は、そのような預言者の姿を表したもの、またイエスの姿をさき取りしたものとして読まれます。イザヤ書53章3節から8節(P,1149)
「53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」

イエス・キリストの記憶
 この言葉、十字架を背負い、ゴルゴダの丘への道を歩んだイエスの姿に重ならないでしょうか。また、「犠牲」という言葉、いわゆる「スケープゴート」にも重なり、多くの神の導きを得た、族長や預言者、王たちについても、時に主なる神の導き、また言葉を受けたが故、神の招きを受けたが故に、犠牲となることがあります。
 また、イエス・キリストを「神の子羊」と表現することがありますが、その「羊」という言葉には、犠牲獣としての羊が意識されています。そして、その羊の尊さが、神の愛の深さにもつながっている、といます。主なる神ご自身の独り子を献げるほどに、神はこの世、わたしたちを愛してくださったのです。キリスト教信仰において、重要な点は、私たちが信仰する主自らが自らを犠牲として、私たちの罪を赦してくださった。自らを代価として、わたしたちの罪を買い戻してくださった、ということであります。

平和への犠牲
 今ある、わたしたちの平和は、大戦中における多くの人の「犠牲」によって成り立っている、ということが言われます。たしかにその通りかもしれません。では、これからも平和を守っていくために、「犠牲」が必要なのか、ということが問題になると思います。戦争は「人の業」が起こすものであり、戦争の記憶が薄れれば、また繰り返す、といったような達観したような言葉を聞くことがあります。
 先ほど、無言館の話をしましたが、その作品を誰も戦争の無念さを表現するために、描いたのではありません。しかし、あの美術館に行った人々は、その絵を見て、その作者の歩み、最後に思いを寄せ、戦争のむごたらしさに心を痛みます。その「いけにえ」「犠牲」に心を痛める、ということが出来ると思います。
 それは、一人の人の人生を一枚の絵に見てしまうわけです。一人の人の物語をその絵一枚に感じてしまう。その重さに絶句してしまうのではないでしょうか。72年前に終戦を迎えた戦争おいて、本当に沢山の人が犠牲となりました。その犠牲となった方々を数字としてではなく、1人1人の事として考えてみたらどうでしょうか。1人1人の家族や友人達の哀しみとして、考えるということはどうでしょうか。その重さに押しつぶされそうになります。それが「あわれみ」という感情の方向ではないか、と思うのです。日常における「憐れみ」の広がりが平和へのつながっていくのではないでしょうか。
 イエスはわたしたちに「いけにえ」を求めない、とおっしゃっています。また、誰かの犠牲の上に成り立っている平和とは、本当の平和と言えるでしょうか。犠牲を求めない社会や関係性というのは、非常に難しいことです。「平和」という大きな枠ではなく、一つの国、地域、家族、友人関係、教会…。そうした場において、関係において、誰かが、「いけにえ」「犠牲」になっていることはないでしょうか。犠牲とされてしまっていることはないでしょうか。そのような私たちが生きているすべての場において、「いけにえ」「犠牲」を無くしていくことの積み重ねが、「平和の実現」につながっているのではないでしょうか。私たちは、主なる神の「憐れみ」を受けた存在として、その「憐れみ」を分かち合い、平和を求めていくことを求められていると感じます。これからの日々、平和を地道に求めて歩んでいきたいと思います。

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『誰が種を蒔いているのか』(ルカによる福音書8:4~15)

2017.07.16(17:12) 352

『誰が種を蒔いているのか』
(2017/7/16)
ルカによる福音書 8章 4~15節

聖書の読まれ方と解釈すること
今日の「種蒔きのたとえ」は、結構に頻繁に読まれる箇所であります。またイエスは、いくつかの「種」を用いたたとえをおっしゃっています。主なモノとして、今日お読みしました「種を蒔く人」のたとえ、「成長する種」のたとえ(マルコ4:26-29)、これはルカには納められていません。そして、「からし種」のたとえ(ルカ13:18-21)の三つであります。
 そして、さらに今日お読みしました「たとえ」の大きな特徴と言えるのは、その譬えの解釈までが、その後に記されているという点でしょう。今日の箇所においては、8章11節~15節にあたります。お読みします。
「8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。/ 8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。/ 8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。/ 8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。/ 8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
 譬えの説明が記されているのは、この譬えぐらいであります。なんてやさしいのだ、と思います。また、教会における説教、礼拝におけるメッセージのことを「解き明かし」ということがあります。要するに、聖書の文章、テキストのわかりにくい部分を説明すること、補うことが求められているわけです。そして、そのために、牧師のような存在なり、他の人々、担当の人、誰でも良いんですが、専門的な知識を学ぶとか、準備をして、皆で共有するわけです。とすると、今日の箇所、説明があるわけですから、説教やメッセージをする必要などないんじゃないか、という話になる。しかし、そうとも言えない。
 というのは、説教やメッセージというのは、コンテキストという良い方をしたりしますが、私たちが生きている「生活の座」において、解き明かされなければ、意味がない、という考え方に基づいているわけです。「コンテキスト」「生活の座」という言葉を使いましたが、これは、要するに同じ言葉であったとしても、文脈や関係性、状況において、とらえ方は大きく変わります。そして、聖書の文章、福音書の文章にも、様々な「生活の座」をくぐっているわけです。最初にイエスが語った状況、言い伝えられた状況、ギリシャ語の言葉に記された状況、まとめられた状況、翻訳された状況、そして読み解かれる状況、私たちが様々な状況で受け取った状況などなど。これらのこと、すべてがある意味で「フィルター」なわけです。本当の意味で、イエスの言葉、真意に近づくためには、これらの「生活の座」を乗り越えていかなければならない。これらのフィルターを超えていく事が、解き明かしであり、真実を捉えようとする作業なのです。ですから、どんな簡単な箇所であったとしても、解き明かし、説教、メッセージは成り立つと言えるのです。
 では、改めて、故この譬えだけ説明が記されているのでしょうか。それは、私の想像ですが、原始教会において、この喩えの解釈を巡って、いろいろな議論が起こっていた証拠ではないか、と思うのです。そして、このように考えてみますと、この箇所、単に、イエスの解釈を読むよりも、違ったとらえ方に、どのようなものがあるのか、比較するという作業をして想像する方が、この喩えのメッセージにより近づく事ができるのではないか、と思うのです。

宣教者の落とし穴
 イエスの解釈とされている、11節から15節の喩えと異なる解釈。まず、種を蒔く人が、神ではなく、宣教者1人1人である、という可能性が浮かんでくると思います。種まき人の立場で、この喩えを受け取る場合、どのようなことが起こるでしょうか。宣教者として蒔く『種』は変わらない。しかし、受取り手である土、土壌の違うによって、成長の仕方が違うのだ、というとらえ方になります。
 批判的に言えば、宣教者の自己絶対化を生み出す事になるでしょう。教会の働きとしても、牧師や伝道者の働きとしても、「上手くいく」ことも、いかないこともあります。しかし、それは自分の問題、教会の問題ではない、伝道しようとする対象、宣教しようとする対象の問題だ、とするわけです。
 かなり皮肉を込めて、言っていますが、こうしたことは、かなり多いのではないか、と感じています。例えば、教会の課題であるのかどうか、平和、教育、地域社会の課題、個人の健康、悩み、など。それらの牧会者としてのあり方、教会としてのあり方、など。自分の側から、取捨選択していないだろうか、とか。端的に言って、自分のあり方としての「種」の問題には、目を向けなくなってしまうのではないでしょうか。

農業者として
 また、この喩えを農業者の視点に立って考えてみたらどうでしょうか。当時の農業の方法を調べてみました。まず種を蒔きます。それから土地を起こした、ようです。現代の日本の農業では田んぼも畑もまず土地を起こして、肥料を入れてから、種を蒔きます。しかし、当時のパレスティナの農業では、種を蒔いてから、土地を起こしていました。そして、そうした方法をとるのであれば、いわゆる「ばらまき」で、おそらく畝を起こすようなことはしなかったでしょう。
 しかし、「種」がふさわしい場所に蒔かれるというのは、プロのあり方として、どうなのだろうか、という感想を生まれないでしょうか。当時の収穫率は、蒔いた種に対する収穫量というのは、今のように多くはなかったでしょう。そうしますと、たとえ一粒であっても、という思いが生まれて、茨や石地や道に貴重な種を蒔いてしまうという事自体、間違いである、という考え方も出て来るのではないでしょうか。そんなことは、ごく少数のこと、また考えなくても良い例だ、というとらえ方です。あくまで種の話としたら、良いかもしれません。しかし、人の話として、このお話を捉えたら、ずいぶんと傲慢ではないか。この人は良い土壌、この人は石、この人は茨って誰が決めるのでしょうか。

誰もが受取り手
 また、キリスト者自ら、また宣教者自身を「種」として、捉えてみたら、どうでしょうか。神から蒔かれる「種」、またイエスから蒔かれる「種」として、自らを捉えたとき、どのような解釈が成り立つでしょうか。しかし、これも先ほどのような理解とあまり変わらないのではないか、と思うのです。あくまで、自分は神の側に立つ存在、イエスの側に立つ存在として、土地、土壌にその責任を委ねることになるのではないでしょうか。
 どうでしょうか、このような理解、私たちが受け取っているイエスの姿勢や神の意志にそぐわない何かを感じないでしょうか。このように、違う解釈の可能性を探ってみたとき、イエスが語っている解釈、福音書に記されている解釈に示されている方向性は、あくまで、主なる神のみが、種つまり福音の主体であり、それ以外の人は、弟子であろうとなかろうと、キリスト者、クリスチャンであろうとなかろうと、あくまで、神以外は、つまり人は、土地、土壌であり、受取り手でしか、あり得ない、というとらえ方であります。
 しかし、これはかなり厳しい指針とも言えます。どのような人であっても、神の前には、同じ価値しかないということは、非常にわかりやすい、とらえ方であります。しかし、どんなに信仰的な蓄積や働きを果たしたとしても、何も関わっていない人と同じである、ということはかなり厳しい方向性ではないでしょうか。神の支配、神の国に従うために、様々な行いもすべてどのような隣人とも、同じ位置に立つということ、ただ神のみが発信者であり、すべての人は受け手、受取り手であるということはかなり厳しいとらえ方ではないか、と思うのです。

イエスの姿勢
 しかし、イエスの場合を指針として、捉えてみたとき、こうしたとらえ方もスッと心に入ってくるのではないでしょうか。イエスが神の子と言われながら、キリストという存在でありながらも、神の御旨に従おうと祈った、ゲッセマネの祈り。ルカのテキストではこのように訳されています。ルカ福音書22章39節から42節。(P. 155)
「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」」
 ゲッセマネの祈りにおいて、イエスが人として、自らの意思の実現ではなく、「御心のままに行ってください」と祈った姿勢は、理想的なキリスト者の姿、神の前に立つ人の姿として、紹介されることであります。一方の弟子たちは、どうであったか。イエスは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言っています。眠気の問題と捉えがちです。誰も眠気には勝てません。眠るべきときは、眠った方が良いと思います。が、そういった問題ではないのではないか。イエスが問題としていたのは、この夜が、普通の夜ではなく、特別な夜であること、唯一の導き手、師と仰いでいたイエスとの最後の夜であること、神がこの世に直接に介入して、神の愛を知らしめる時の始まりであることを覚えなさい、ということではないでしょうか。だから、眠いからとは言え、それはふさわしくない、といっているのです。神の意志とは、突然に人の眠気、状況によって動くのでなく、あくまで神の意志によって、時は動く、時は進むのだ、ということであります。

もう一度「種蒔き」
 最後に、9節10節に触れて、最後にしたいと思います。
「8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。/ 8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」」
 この「たとえ」は福音理解・教会理解の根幹に関わる議論となっていたのかもしれません。そうした背景を想像してみますと、教会はかなり初期の頃から、このような議論をしていたということが見えてきます。そして、それは自己絶対化の欲求であり、今現在もある誘惑に襲われていた、と言えるは無いでしょうか。
 『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』という言葉があります。私はとても、このような姿勢が大事だと思うのです。真実を知るのは、イエス、また主なる神のみ、私たちは常に神に近づこうとしている、また福音を生きようとしている、それを、隣人に分け与えたいと願っている、しかし、あくまで、真実をしる存在ではなく、私たちもあくまで、受取手である、ということが大事なのではないでしょうか。常に神に導きと救いを求め続ける存在として、種を求め、生かされる存在として歩むことを、「種まきのたとえ」は示そうとしているのではないでしょうか。

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『癒やしにつながる祈り』(マルコ福音書9:14〜29)

2017.07.03(09:03) 351

『癒やしにつながる祈り』
(2017/7/2)
マルコによる福音書 9章 14~29節

律法学者と弟子たちの議論
 14節最初に「一同」とありますが、先の9章2~13節には、イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが山に登って、イエスの姿が変わる記事がありましたが、その続きとして読ませるためにマルコが記した編集句でありましょう。14節をお読みします。
「一同がほかの弟子たちの所に来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
 何を議論していたのか、それは17~18節の弟子たちの言葉から想像する事ができます。
「「群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」」
 ここで議論をしていることは何でしょうか?14節で弟子たちと律法学者が「議論していた」とありますので、一面的には、弟子たちが、「自分たちが人を癒やすことが出来る力(権能)を与えられたのに何故癒やすことが出来ないのだろう」と議論していたと考える事ができます。そして、癒やすことが出来なかった。それだけで、もう一つ、想像する事が出来ます。それは、律法学者の人々も癒やす事ができなかったという要素であります。
 イエスの敵対者であった、祭司や律法学者、そしてファリサイ派にしても、当時のユダヤ社会においては、知識人であり、ただ単に律法的(トーラー的)に正しいか、正しくないか、義人か罪人であるか、を判断するだけではなく、病気の治療方法、治し方なども指導していたと考えられます。ですから、たしかにイエスの弟子たちが、この「霊に取り憑かれている」とされていた子どもを癒やすことも当然、試みていたのでしょう。そして、できなかった。さらにイエスの弟子たちもできなかったという状況であったと思われます。

「何と信仰のない時代なのか」
 イエスは、そんな状況の場に現れ、19節のように語ります。19節のイエスの言葉。
「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
 イエスがいう「あなたがた」は誰を指しているのか。弟子たちであることは確かです。しかし、弟子たちのみではなく、律法学者たち、そしておそらく、その周囲にいた群衆、名も無きユダヤ人たちに対しても、「あなたがた」と語りかけたのではないでしょうか。そして、何に対して、憤っていたかといえば、弟子たちにしても、律法学者にしても、また更に、この父親にしても、信仰の強さを問題にする姿勢に対して、嫌気がさしていたのではないでしょうか。信仰の強さというのは、つまり人の力にもつながります。そうした姿勢に対して、イエスは嘆いていたのではないでしょうか。
 
信仰とは?
 信仰とは、いったいどのようなものでしょうか?また信仰は、心の中のこと、とするのであれば、どのような形で、実際の生活や日々のあり方に現れるのでしょうか。マタイ福音書17章20節には、このような言葉があります。(P.33)
「「イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」
 からし種というタネは、イエスの喩えの中に、何度か出てきますが、他の植物のタネに比べても、もっとも小さいタネであり、成長したからし種という木は大きくなったとしても、人の身長ほどのものです。そうしたことから、ここに込められているのは、信仰とは大きさや強弱ではなく、有無、あるなしだ、ということと理解する事ができます。また言い換えますと、方向性の問題であると表現する事ができると思います。神に近づこうとするのか、そうではないのか、人としての高みを目指すのか、それとも低く下っていくのか、といった視点ではない、ということです。あくまであるかないか、有無だ、というのです。
 またパウロにおいて、信仰という言葉は、いくつかの福音書における記事のようにあるかないかと言ったもの、大きさといったものではなく、律法の対比で語られたり、神との関係、神への従順さにおいて語られます。

神への信頼という信仰
 そして、キリスト教会においては、多くの場合、信仰とは祈りにつながることということと理解されることが多くあります。しかし、これらの有り様というのは、それぞれのキリスト教会の歩んできた歩み、教会として、民族や国家としてのある方、文脈に関係しているでしょう。それぞれの教会が負っている歴史、政治や社会との関わり方の課題であると言えます。
 また、釜が崎の本田哲朗神父の翻訳をひいてみましたら、今日の箇所はこのように訳されておりました。
「イエスはこのことについて弟子たちに言った。「ああ、信頼してあゆみを起こそうとしない人たちだ。いつまであなたたちのところにいればいいのか。いつまでわたしは、あなたたちを支えなければならないのか。その子をここに連れて来なさい」
 信仰とは「ピスティス」というギリシャ語であり、本来は「真実」「信じる」「信頼」などの感情を表す言葉であります。それを「信仰」という宗教用語にしてしまいますと、なんとなく堅い感じ、感情の中で信じる、という意味になってしまいます。が、本来は「神に従う中で信じ行動すること」そこまでを含めたこと、として捉えられます。現在の「信仰」という言葉に押しつけられている前後の意志や行動から切り離された「ピスティス」(信じる)のとらえ方は、やはりずれているのではないか、という問題提起にもなります。
 またもしくは「信頼」と訳した方がすっきりするのではないかな、と思います。神への「信頼」が足りないから、律法学者と弟子たちの間で議論になってしまっている、と。そして、その「病に悩む子供」だけでなく、自分たちの正しさだけに興味が行き、神さえも彼らには映っていない、と。

祈りという信仰の形
 そのようなイエスのため息の後、イエスの癒やしが始まります。21~23節をお読みします。
「『イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」』」
「信じる者には何でも出来る」よく聞く言葉であります。信仰とは有る無しなのか、また他の箇所では信仰さえあれば、山さえも動く(マタイ17:20)という箇所までありました。信仰は「ピスティス」という言葉ですが、癒やされる当事者ではなく、その近親者の信仰によって「癒やし」が行われるのは、屋根をはがした4人の友人や12歳の娘の父親と同じパターンであります。そして23節でイエスは「信じる者には何でも出来る」と答えておりますが、これは父親だけに向けられた言葉ではなく、弟子たちにも向けられている言葉として理解することであると理解する事ができます。
 そして最後の部分、イエスは、この子を癒やした後、弟子たち「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」とイエスに問います。それに対して、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」と答えます。ここで言われている「祈り」とはどんな祈りなのか、ということです。様々なとらえ方ができます。しかし、そのとらえ方の材料、要素を、今日のお話とするのであれば、奇跡行為、いやし行為を自らの正しさのため、弟子たちや律法学者そして父親も含めて、自分の信仰の力によって何かをなそうとする姿勢は間違っている、ということではないでしょうか。

祈りとは?
 「信仰によって山が動く」ように「祈りによって人が癒やされる」ということは実際にはなかなか起こることではありません。また、これは面白い例なのですが、紀元3世紀のある写本では「祈り」だけでなく、「断食」という言葉が付加されて、「祈りと断食によらなければ…」というかたちにされているものもあるのです。これも当時の教会の状況がそうさせた不可でありましょう。どうしても「祈り」だけでは、「病い」を癒やすことが出来ない、という状況がある中、で、「断食が足りないのだ」と自分たちで「答え」「ハードル」をそこに掲げることによって安心したのではないかな、と思います。
 祈りとは何か?私なりの答えでもありますが、私たちの行動すべてが祈りのようなモノではないか、と考えています。たしかに礼拝や1人、心静かに神さま、イエスさまに祈るということも祈りであります。しかし日常の中における、様々な出来事や自らの他者や自分に対する働きかけ、こうなりたい、このようになって欲しい、ということ、何らかの働きかけや努力があったとしても、叶わないこともあります。勉強したら、とか、苦労したら、幸せになれる、お金持ちになれる。また病気であっても、何らかの治療を受けたり、とか、薬を飲んだり、とか。いろいろなことをします。しかし、叶わないこともある。そうしたこと含めて、祈りと言えないでしょうか。また芸術家やスポーツ選手ではどうでしょうか、努力だけでは、どうしようもないこともある。祈りに近いものもある。
 「祈り」とは、神さまとの対話ということがあります。「願い」を神に捧げる、というだけではなく、「感謝」を捧げる、そして最終的には、「神に委ねる」という行為が祈りではないでしょうか。今日の箇所で、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」とおっしゃいました。人の力では何ともならないことがある、その先にあることは、神に委ねること、そうした祈りによってこそ、癒やしが実現する、また新しい希望が与えられる、と受け取ることが赦されているのではないでしょうか。


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『罪の重さと愛の大きさ』(ルカによる福音書 7:36~50)

2017.06.18(20:22) 350

『罪の重さと愛の大きさ』
(2017/6/18)
ルカによる福音書 7章 36~50節

罪とは何か —ユダヤ人にとって—
 こんな想像をしてみてください。キリスト教の神さま、またはイエスの愛の大きさを示すとして、どの「逸話」や「たとえ」を紹介するでしょうか。旧約聖書、新約聖書には、数多くのお話は数多くあります。しかし、イエス様や神さまの愛の大きさを表すのに、ふさわしいお話とふさわしくない話があるでしょう。例えば、アブラハムに対して、イサクを捧げなさい、という話。愛の深さというよりも、神の愛の厳しさをしめすものと言えるでしょう。他の創世記の物語においても、関係の強さを強調する事はあっても、愛の大きさという感じはしないのではないでしょうか。
 また、出エジプトの一連の物語においては、神の力の大きさということができるでしょう。またダビデの物語にしても、預言者たちの物語にしても、そのように言えるでしょう。ただ、神がイスラエルの民に対して、ユダヤ人たちに対して、愛を注ぐ理由として、その力の強さではなく、イスラエル民族、ユダヤ人たちの弱さ、民族としての小ささに根拠を置くところに、神の愛の大きさがあるということはできるかもしれません。

罪とは何か —ユダヤ人にとって—
 また、新約聖書におけるイエスにおいても、その弱さや小ささを愛の根拠とするところはつながっている、同じである、と言えます。ただ、旧約聖書においては、ユダヤ人全体が弱き存在として、愛の対象でありましたが、それが変わっています。新約聖書、イエスが登場する福音書における弱さとは、ユダヤ人として不完全な存在、ユダヤ人の中において「罪人」と呼ばれるような存在、となりました。そしてイエスという神は、ユダヤ人として不完全な存在、罪人と呼ばれるような人に働きかけ、訪ね求める存在、神となりました。福音書によって、そのとらえ方や強調点は、微妙に異なっていますが、多くの場合、イエスが示した神の愛は、律法において、ユダヤ人として不完全な存在に愛を注ぐという革命が起こった、または逆転的に描いていると言えます。
 有名な例えを二つ、取り上げて、そのことを考えてみようと思います。一つは、マタイによる福音書20章1節から16節。ぶどう園の農夫のたとえです。あの喩えにおいて、注目すべき点は、朝から働いていた人たち、1番長く働いていた人たちが、自分たちにも、短い時間しか働いていない人にも、同じ賃金を支払った主人に対して、文句を言い、それに対する、主人の回答に強調点があります。マタイ福音書20章13節から15節。(P.38)
「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」(マタイ20:13-15)
 そして、もう一つ、ルカによる福音書の放蕩息子のたとえです。あの喩えにおいても、重要なのは、最後の部分です。大きな愛によって財産を食いつぶしてしまった弟の帰宅を、歓待した父に対し、不平を述べた兄に対する父の言葉です。ルカ福音書15章25節から32節。(P.139)
「15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 これら二つの喩え、とても有名です。そして、共通しているのは、神の罪深い存在に対する愛と、その愛に対して妬む存在です。
そして、もう一つ律法という尺度、ユダヤ人という尺度であります。ぶどう園の労働者のたとえにおける労働時間の違いは、ユダヤ人としての正統性や罪の大きさに関わります。放蕩息子に於ける兄と弟の関係もそうです。「罪深い」存在が正しいとされる人と同じような扱いをされたらどうでしょうか。「正しい」と思っている側は当然、怒りを感じるでしょう。私もそうです。しかし、神さまは「罪深い」存在であろうと「正しい」存在であろうと、同等に愛してくださる、また、むしろ罪深い存在こそ強く愛してくださる、というところに神の愛の大きさがあるというのです。
 しかし、これらの喩えを、異邦人が聞いたら、どう感じるでしょうか。確かに、神さまの愛の大きさを受け取ることはできるかもしれません。しかし、その逆転、罪人こそより大きく愛する、ということは伝わらなかったのではないでしょうか。そして同時に、イエスがなぜユダヤ人の中において、より罪が深いと考えられている人に向かったのか、は伝わらなかったのではないか、と私は想像しています。

罪とは何か —異邦人にとって—
 今日の箇所は、マルコ福音書に並行箇所がありますので、比較のためにお読みしたいと思います。マルコ福音書14章3節から9節。(P.90)
「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」」
 ルカとマルコの違いを確認します。マルコにおいては、イエスの油注ぎは頭への注ぎであり、ルカは足であります。面白いことに、対話者はシモンという同じ名前です。また、マルコにおいては、イエスの受難、イエスの死の準備として、油注ぎが行われるのに対し、今日の箇所、ルカにおいては、この「罪深い女」の赦しについて、興味が注がれています。ルカによる福音書7章39節から43節をお読みします。
「7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。」
 罪の赦しに説明するのに、具体的な貨幣を用いて説明しています。1デナリオンは、1日の賃金とされていますが、50日分の賃金の借金と500日分の賃金を帳消し、チャラにしてもらったとしたなら、どっちがより赦されたのか、愛が大きいのか、という話です。どちらかと言えば、より借金が大きい方です。そしてこれは同時により罪が深いか、という話なのです。そして、このような説明をルカ福音書では、よくされているのです。

ルカ福音書においての神の愛
 ルカ福音書は、異邦人に対して、福音を宣べ伝えることに力点が置かれている、と言われます。その場合、問題となるのは、律法をしらない人に対して、神の愛の大きさ、その特徴をどのようにのべ伝えるのか、ということであったと思います。先ほど、二つのたとえを取り上げました。ぶどう園の農夫のたとえにしても、放蕩息子のたとえにしても、律法を生活の基盤としていたユダヤ人であるとか、律法を知らない異邦人であるとかという違いを超えて、伝わりやすい特徴を持っていたでしょう。しかし、律法を知らない異邦人に、イエスが宣べ伝えた神、キリスト教の神さまの愛の大きさを伝えるのには、どうしたら良いのか?そういった視点から、具体的な数字、貨幣を用いて説明しようという試みが生まれたのではないか、と想像することができます。
 ルカにしか登場しない喩えとして、「不正な管理人のたとえ」(ルカ16:1-13)があります。これはルカ福音書にしかない物語なのですが、油や小麦を人に貸しているような人は、それを帳消しや減らしてやりなさい、という喩えがあります。この背景には、誰もが神に対して、罪、負い目を持っていて、それを赦して欲しい、と思っているのだから、同じようにしなさいという喩えです。人を赦すという倫理を具体的に神を手本にして実行しなさいという点で非常に分かりやすい指針といえます。
 また、そのようなルカの意識、わかりやすく神の愛を説明しようとする意識は、良きサマリア人の喩えもそうしたものといえます(ルカ10:25-37)。自分の立場を超えて、愛を実現しようとする姿勢、民族を超えた形の愛を実現しようという姿勢は、理想的な愛を表現することに繋がるでしょう。また、徴税人ザーカイの喩えも同じことが言えます。(ルカ19:1-10)徴税人として働いており、その職業的立場から周囲の人々から避けられていたザーカイ。しかし、イエスと出会う事によって、自らの財産を貧しい人に施し、不正に手にしたものを4倍にして返すと宣言します。これらのあり方も、ユダヤ人という立場にとらわれない聞き手を選ばない神の愛を示すお話と言えるのではないでしょうか。

福音の広がりと神の愛
 キリスト教は、聖書と伝統に基づいて、形づけられています。キリスト教のこと、教会のことは、聖書のすべて書いてあるか、と言えば、そうでもなく、伝統というか、人と人の繋がりによって教会は形づけられている、と言えます。そして、イエスの言葉と行動によって、示された福音も、様々な形を帯びて、また器で伝えられている、と言えます。
 そして、それらはなるべくならば、それぞれの民族性や状況、立場において、理想的な形になれば、より言い訳です。たとえば、関西の教会の方で、聖餐式を和風でやろうという話がありました。いろいろ考えたそうです。そして、結局、おにぎりと焼き魚で聖餐式をしたということを聞いた事があります。日本人という文脈のなかにおいては、確かに、パンよりはおにぎりでしょう。しかし、ぶどう酒(ワイン)を焼き魚というのは、どうでしょうか。5つのパンと2匹の魚で5000人の人が満腹したという共食の奇跡に基づいているのでしょうが、好みが分かれるかもしれません。
 また、マルコ福音書が考えている読者とルカ福音書が考えている読者では、いわゆる農民と都市生活者の比率も異なっていて、よりルカは都市生活者が多かったでしょう。都市生活者の徴税人と農民にとっての徴税人、そして貨幣のとらえ方もずいぶん違って板でしょう。イエス時代の農民の中には、貨幣などまったく触れずに生活していたような人もいただろう、と想像できるからです。
 いろいろな違いを挙げてきました。では、私たち自身にとって、伝わる福音の喩えとは、どのような逸話が心にしみるでしょうか。また自分の隣人、神の福音を知らない隣人に伝わるでしょうか。より大きな罪の重さが赦される物語、より大きな神の愛を感じる物語は、どのようなものか、想像すること、お話を考えること、自分の過去の経験から掘り起こしていくこと、そのような作業の一つ一つも、主なる神の福音をより深く自分の胸に刻む大事な時かもしれません。

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『イエスの軛(くびき)を背負って』(マタイ福音書11:25〜30)

2017.06.13(20:23) 349

『イエスの軛を背負って』
(2017/6/11 名古屋堀川伝道所)
マタイによる福音書 11章 25~30節

身近な存在である神
 今日の箇所、マタイによる福音書11章25節26節をお読みします。
「11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
 イエスは、「天地の主である父よ」と呼びかけています。イエスの祈りについて、斬新であり、また敵対者たちの怒りを買い、律法違反とも言えるであろうことは、この「父よ」という呼びかけでした。十戒には「あなたの神(かみ)、主(しゅ)の名(な)をみだりに唱(とな)えてはならない。」という戒めが記されておりますが、とても「父よ」といったような親しみを込めた表現は誰も用いませんでした。すると、こうした祈りとしての「父よ」という呼びかけも反対者たちにとっては、「自分は神の子である」という律法違反の主張とうつったでしょう。そしてそのことはイエスが逮捕され、裁判にかけられている場における、告発者たちがイエスに対して「神の子である」と言っていた、という主張にもつながります(マタイ26:63/マルコ14:61/ルカ22:70/ヨハネ19:7)。
 また、もう一つ、明らかにされていることは、イエスが語った神が、神殿にいる祭司や律法学者や王たちに、自らの存在を示したのではなく、25節の後半にあるように「知恵ある者や賢い者」ではなく「幼子のような者」に示し、それこそが「神の御心」だ、という点です。福音書に親しんできた人々にとっては、当たり前のことと言えますが、これも敵対者たちとなる律法学者や祭司たち、王族にとっては気に入らない主張でありましょう。そして、私たちもこのイエスの言葉、「幼子のような者」こそ、主なる神は招いている、という導きを完全に受け入れることが出来ているか、といえば、とても難しいことと言わざるを得ないのでは無いでしょうか。続く27節における「すべてのことは、父からわたしに任せられて」いる、という言葉にしても、後半の言葉にしても、同じような意味合いから、とらえることが可能でしょう。イエスことが主なる神を知る唯一の道しるべである、ということ、そして主なる神もイエスを通じてのみ、私たちにその意志を示して下さる、ということです。

律法の軛からイエスの軛へ
 さらに11章29-30節をお読みします。
「(29節)わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。…(30節)わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 「軛」とは、牛や馬の首につけて、鋤や鍬を引っ張らせて、田畑を耕すためのものです。ですから、軽いわけはありません。また、当時の律法中心のユダヤ社会には、「律法の軛」という言葉がありました。「軛」というのは、重いかもしれないけれども、それを付けていれば、間違えることはない、道を外れて進むことはない、「道しるべ」という意味を含んでおります。また『律法の垣根』という言葉もありました。これもただ単に言葉通りの「律法を守る」というのではなく、「この枠の中に生きていれば、律法に違反しない」という範囲のことを指し、決定的な間違いを犯さないための「生活の知恵」とも言えます。
 また今日の箇所でイエスが語る「わたしの軛」とは何か、「負いやすい軛」とは何か。軛とは普通、一頭の牛・家畜で付けるものではなく、二頭並べて、つけるものであります。そして、その間に鋤や鍬などを取り付けて、なるべくならば、まっすぐに土を起こして耕したり、ウネを切っていく、道具であります。イエスは「わたしの軛」とおっしゃっています。基本的には、主なる神の道を外れないように、自分たちの動きを制御してくれるためのものと捉えることが自然である、と思います。また、キリスト教的に言えば、「イエスが一緒の軛で、ともに歩んで下さっている、」という言い方もできるでしょう。

疲れた者、重荷を負う者は
 28節をお読みします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」ここで言われている疲れや重荷というのは、当然、日常の生活の中における「疲れや重荷」を指すのでしょうが、同時に「律法」や日常生活における重荷を指すものと思われます。マタイ福音書23章1節から4節をお読みします。
「23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」

 ファリサイ派の人々や律法学者を批判する言葉であります。キリスト教の神のあり方として、共にある神、インマヌエルの神、という表現がなされることがありますが、共に「軛」を首に付けて、荷を背負う、ということにも繋がるでしょう。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、そのようなことはしなかった。上から目線というのでしょうか、そうした位置に立って、いろいろと口を出してくる、しかし、それだけで手を貸す事もしなかった。そんな有り様をこの言葉は示しています。

聖書と農業、人類と農業
 イエスは、喩えにおいて、農業に関する言葉を多く使っています。種まきをする農民と種、ぶどう園の労働者たち、など。農業とはどういったものでしょうか。現代においては、農業というのは、自然を大切にすること、エコ的なものとして捉えられがちです。しかし、本質的に言えば、自然に対する人間の直接的な介入であり、自然の破壊の一つとも言えます。そして、農業は人類における文明の発展において、重要な役割を果たしています。
 農業は、大まかに言って、紀元前10000年ぐらいに生まれたという様に考えられています。それ以前の人類は、動物を狩る狩猟や、自然にできている果実や穀物を取る採取という方法で食料を得ています。しかし、様々な形で、他の植物を排除し、土を耕し、種をまき、収穫するという形の農業が生まれてきます。その後、紀元前5000年ぐらいには、簡単な道具としての農機具が生まれてきました。
 農機具の発展には、金属の精製、精錬技術も関わってきます。イザヤ書、2章4節の言葉。「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
「打ち直して」とあるので、金属の話であることを知る事ができます。そして、治水技術、水の管理ができるようになり、いわゆる文明が世界の各地に生まれるようになりました。そして農業の発展とは、収穫物を保管し管理するという作業を生みます。
創世記に記されているヤコブの息子ヨセフは、エジプトにおいて、エジプトの王であるファラオの夢を説いたことによって、エジプトの宰相、大臣のような立場を得て、干ばつによってもたらされた7年間の飢饉を乗り越えたとされています。そして、少し話はずるかもしれませんが、このような収穫物を保管する管理するということは、人類の安定した食糧自給を約束し、人口を大きく増やす要因となりましたが、同時に、そうした収穫物を奪い合う事、農地を奪い合う、戦争を生み出す原因ともなっていきました。戦争をするようになって、武器が必要になる、守るための城壁が必要になる、と。様々な技術が必要になる。そのようにして人間の文明は発展してきた、と言えます。

農業とイスラエルの民
 イスラエルの民族は、アブラハムの時代、町や都市、そして土地も持たない、半遊牧民族として、その歴史を刻んできました。土地を持たない事から、民族が亡くなった場合には、埋葬する土地の売買が大きな問題となるほどでした。しかし、エジプトに下り、奴隷として時期を過ごしてから、現在のパレスチナの地に帰ってきた時には、主なる神を頂点とした奴隷制度や王といった存在を持たない、平等主義的な民族のあり方を常に模索していたと言えます。
 しかし、周囲の強国(エジプト・アッシリア・バビロニアなど)に対抗するために、王という存在を作りました。また、民族的なアイデンティティ(ユダヤ教的生活習慣)を守るために、律法への厳しい服従や、民族的な血脈へのこだわりの強化などといった動きをその歴史の中で紡いできました。そして、イエスの時代は、そうしたあり方が、頂点に立っていた時代であったと言えます。そうした状況の中において、多くのユダヤ人たち、特に社会的な立場、地位、豊かさも持たない名も無き者たちは、生きづらい状況を生き、多くの重荷をその肩に、担ぎにくい軛を背負わされて、生きていたのではないでしょうか。

イエスの軛
 今日の箇所、マタイ福音書11章29節30節をお読みします。「11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 軛とは、家畜の動きを制御するものです。また同時に、こういうことも言えないでしょうか。人がその人として得るべきもの、与えられているものを得るための地図のようなもの、と。
 現代を生きる私たちはどうでしょうか。世界中の多くの人々が、恵まれない立場にいると考えています。日本でも、いわゆる税金の負担は少ない方と言われますが、いわゆる教育や福祉については、個人が負担しなければならない側面がどんどん大きくなっています。そうすると豊かな者はより与えられ、貧しい者はより失う形となっていく。しかし、あくまでそうした動きは、いつわりの「平等」や「公正」、「競争」また「自己責任」といったスローガンによって、進められていく。
 たしかに現代は、「豊か」で「便利」な世の中と言えます。しかし、それらの恩恵を受けることに、はっきりとした差があり、その狭間で多くの人と人との間が引き裂かれている状況、1人の人であっても引き裂かれている状況と言えないでしょうか。そして、誰もが「豊かさ」を求めて歩む中において、自分も「豊か」になりたい、という願いを持つ状況の中で、そうした差を批判をしなくなっていく。そして批判しやすい自分よりも「貧しい者」「持たざる者」に対する批判、「まじめにしていない」「努力が足りない」などの言葉が多くなり、また自らもそうした枠組みの中で評価するようになり、満足できなくなり、毎日が憂鬱になる。
 しかし、それにしっかりとした目安があるとすれば、誰もが自らの置かれている状況に納得して、それぞれの気持ちも安定して、住みやすい世の中になるのではないか。そのためには、誰もが得るものに満足することが大切ではないでしょうか。「イエスの軛」を、そのような目安として、地図として、考えることはできないでしょうか。他人に不当に荷を乗せられるのでもなく、勝手に収穫を減らされるのではなく、誰もが日常の生活に必要な糧を与えられる道具として、道しるべとして、イエスの軛はそれぞれの人に与えられているのではないでしょうか。

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