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『律法の垣根を越えた信仰』(ルカ福音書 7:1-10)

2017.04.23(21:26) 344

『律法の垣根を越えた信仰』
(2017/4/23)
ルカによる福音書  7:1~10

ユダヤにおけるローマ帝国軍
 福音書にはどのような異邦人が登場するでしょうか。確認できる人を上げてみたいと思います。シリア・フェニキアの女(Mk7:24-30/Mt15:21-28)、ローマ総督だったピラト、そして、この百人隊長に代表されるローマ帝国の兵士たちであります。ローマ兵という存在。一般のユダヤ人にとっては、もっとも身近な異邦人であったでしょう。そして、ユダヤ人にとって、ローマ兵とは自分たちを支配する存在であります。「暴力装置」という言葉があります。軍隊や基地という存在は、実際に戦闘をしなくても、戦争状態にならなくとも、そこに存在するだけで、圧力を加える、という効果があるわけです。
 そしてある集団や民族を支配している状況の中で、極端に言えば、暴力を行使した瞬間に軍隊がいる意味がなくなるとも言えます。なぜなら、具体的に暴力を加えた瞬間、被支配集団や被支配民族に反乱の名目を与えることになるからです。(ミサイルや空母も一緒)
 ですから、ユダヤ人にとって、ローマ兵とは目の前にある力なのです。おそらく日常的に、武器や防具を身につけていたでしょう。また、そうでなければ、まったく軍隊という意味がないわけです。兵隊がそこにいるだけでユダヤ人たちが反乱を起こさせないようにする効果をもたらすわけであります。また、聖書の中に登場するローマ兵として、今日の箇所にも現れる百人隊長が登場します。文字通り、百人ほどの軍隊の隊長です。
 福音書の中に、豚の大群の霊に取り憑かれた男が登場する箇所があります。そこで、その男は、イエスに対し、「名はレギオン。大勢だから」と答える箇所があります(Mk5:1-20)。そして、霊がその男から追い出されると2000頭の豚が湖に落ちて死んでしまったというお話です。このレギオン、軍隊の単位であり、1レギオンは、百人隊が、60集まった軍隊、つまり6000人ほどの軍団を指す、と言われています。
 そして、おそらくユダヤ属州に、1レギオン、6000人ほどの軍隊がいたと想像することが出来ます。(もしかしたら、2000人ぐらいかも)そして、全体で2000人から6000人とすると、一つの居留地、町に、100人ぐらいが適当ではないでしょうか。そんな、想像をしてみますと、福音書に登場する百人隊長とは、その町の中で、一番偉い存在ではないか、と考えることができます。

ユダヤに好意的な百人隊長
 すると、相当に偉い人であり、一般のユダヤ人にとっては、恐れの対象と言って間違いないでしょう。しかし、ここに登場する百人隊長は、ユダヤ人たちの信頼を勝ち取っていたのでしょう。今日の箇所、ルカによる福音書7章3〜5節をお読みします。
「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」」
 2節で、「百人隊長に重んじられている兵士」と触れられていますが、ただ単に軍隊的に役に立つとかそういう意味ではなく、「かけがえのない」とも訳される言葉で、仕事だけではなく、個人的も繋がりの強かった兵士ということを示しています。つまり、百人隊長にとってかけがえのない友人が死にかかっていました。そして、イエスさまの癒しの力の話を聞き、助けてもらおうと思ったのでしょう。
 そして、この百人隊長はイエスを呼びつけて、高圧的に、治せというやり方をせず、さらに自分で足を運んで頼む、という方法も取らず、ユダヤ人の長老たちを使いにやるという方法をとりました。捉え方によれば、ユダヤ人の中の最も尊敬を集める存在を使いっ走りにするというのは、褒められた行動ではありません。しかし、ある注解書によれば、ユダヤ人たちをただ使い走りに使ったのではなく、ユダヤ人の文化、ユダヤ人が大事にしている風習を大事にするがゆえの行動だったということでした。この百人隊長は、ユダヤ人たちのための会堂、ユダヤ人がユダヤ人の神である主を礼拝するための会堂を建てます。彼は、ユダヤ人たちの信仰心に敬意を払っていただけではなく、とても好意的な感情を抱いていたのでしょう。そのような心から、深い造詣をもって、このように振る舞ったと理解できるのです。

権威に仕える者
 そして、伝言を聞いて、百人隊長の家に向かっていたイエスに対しても、使いをやって、答えとなる伝言を伝えます。7章6節後半から8節の言葉。
「「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」」

 イエスは「これほどの信仰を見たことはない」と言っています。まさにただ神の権威、力に信頼する姿として理想的な態度と言えます。最初に軍隊の話をしましたが、軍隊の存在、軍事力の存在によって、攻撃されないようにすること、「抑止力」という言い方をします。百人隊長は「権威」という言葉を使っています。神の権威を恐れる、ということも、目に見えないものを恐れる、目に見えないものを重んじるということで近い思いと言えます。また、百人隊長はあくまでローマ人であるながら、ユダヤ人の神の存在を重んじている、ということになります。おそらく、ユダヤ人は唯一神信仰ですから、ローマの神々を重んじるということはなかったでしょう。しかし、ローマ人は、多神教ですから、ユダヤ人の神も、いくつか信仰する神の一つとして捉えていた、というように考えることができます。そして、それは同時に、ユダヤ人の価値観や文化を重んじることに通じ、そうしたことから、この百人隊長は、ユダヤ人たちから信頼を得ていたのでしょう。

罪の問題
 そして、この奇跡伝承の一つの特徴について考えてみたい、と思います。それは他の癒やし物語の登場人物が、ユダヤ人であり、このお話が、ローマ人、つまり異邦人であるなら当たり前といえば、当たり前のことです。何か?この奇跡物語には「罪」という要素がまったく出てこないということであります。そして、それは当たり前のことと言えば、当たり前です。福音書の中における罪という概念は、あくまでユダヤ人に関係することであり、百人隊長などの異邦人たちには、まったく関係がないこととして捉えていたのでしょう。
 またこういうことも言えます。ユダヤ人たちにとって、また律法において、善悪の問題、罪の課題は、すべて明文化されたものであり、また神との関係の問題でした。罪がある状態とは、神の教えから離れてしまったこととなります。そして、興味深いことにヘブライ語における罪を指す言葉「ハーター」にしても、ギリシャ語において罪を指す言葉「はまるティア」のどちらも、語源は「的を外す」という言葉なのです。言い換えますと、罪ある状態とは、神に指し示した「的」「道しるべ」を外すこと、神から神の教えから離れることであります。

律法の垣根を越えて
 しかし、異邦人たちは、例外、律法のおける罪とは何の関係もありません。あくまで、「律法」は、ユダヤ人(イスラエルの民)に与えられてものであり、ユダヤ人以外の人が守ろうと守らないとしても、関係ないというのがユダヤ人の考え方です。(関係ある場合は、異邦人からユダヤ教の改宗すること、つまりユダヤ人になること)ですから、イエスも異邦人たちには、「罪」があるとかないとか、といった言葉を述べないわけです。つまり、ユダヤ人、律法における「罪」の課題は、異邦人には、まったく関係がないことであり、百人隊長のようなローマ人「罪が赦された」というのは、まったく的外れな言葉となってしまいます。
 今日の箇所では、「信仰」に基づいて、癒やしが行われています。今日の箇所ルカ福音書7章9節をお読みします。
「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」。
 この言葉、小さな言葉ではありますが、とても大きな意味を持つ言葉と言えます。つまり、イエスが語っている神の御旨、主なる神は、その対象をユダヤ人に限らない、すべての人に対しても、信仰する存在には、恵みを与える神なのだ、ということを示しているのです。「律法の垣根」と言う言葉を、説教題に用いました。この言葉の意味は、正確に言えば、ユダヤ人たちが、律法を守るために、教えの一段階広めに教えを守ろうとする枠のことを指します。
 40回の鞭打ちであったら、39回までにしておくとか、異邦人との食事の禁止や、履き物のチリを払う行為も異邦人的なものを口に入れないようにするための「律法の垣根」と言うことが出来ます。そしてこんなことをしていますと、垣根はどんどん大きくなっていき、それと共に、人はどんどん生きにくくなってしまう。誰も彼も罪人になってしまう、ということが起きてしまいます。しかし、イエスは、そうした垣根を取り払おうとしたのではないでしょうか。そうした垣根を小さくしていき、ユダヤ人のみならず、あらゆる人々を神の支配、神の国に招いておられた、ということが言えるのではないでしょうか。

あらゆる垣根を越えて
 ルカ福音書にも、他の福音書にも、もう一人、ローマ帝国の百人隊長が登場し、イエスに対して、信仰を告白をしております。それはイエスさまが十字架に架けられ、絶命したとき、命を落としたときのことです。ルカによる福音書23章44節から47節をお読みします。(P.159)
「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」
 マルコでは、「正しい人」ではなく、「神の子であった」となっています。この百人隊長が、イエスさまの処刑の作業を取り仕切った者ですが、「正しい人だった」また「本当に、この人は神の子だった」というのは、神の子であることを受け入れていて、このような発言を述べています。
 この百人隊長の態度にしても、今日のルカ福音書において、自分の大切な友人ともいえる部下を癒してもらった百人隊長にしても、異邦人でありながら、ローマ帝国の兵士でありながらも、イエスを神として受け入れて、そのことを違う形で告白している、と言えます。そして、共通点は、その内心、心の中については、まったく計ることが出来ませんが、二人の百人隊長も、言葉を発するだけで、その信仰を大きく評価されている、という点です。
 この百人隊長の信仰から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。常に新しい気持ちの信仰、そして常に神の前に無力な自分として立つ勇気ではないか、と思います。経験にしても、知識にしても、わたしたちは鎧のように、自分を着飾ろうとする、よく見せようとします。しかし、そうした姿が、人と差を付けることであり、ユダヤ人であれば律法で人を裁くことに繋がるのではないでしょうか。だからこそ、イエスはユダヤ人ではない、この異邦人である百人隊長の権威に対して、忠実な、純粋な信仰を重んじたのではないでしょうか。わたしたちも常に力を求め、外側を着飾ることを求めがちです。イエスの態度、また百人隊長の有り様から、信仰者としてどうあるべきか、という問いを忘れない存在でありたい、と思います。

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『復活への恐怖』(マタイ福音書28:1〜10)

2017.04.16(22:43) 343

『復活への恐怖』
(2017/4/16)
マタイによる福音書28:1~10

イースターの最近
 イースターはキリスト教会においては、理屈の上では、最大のお祭りである、とされる日であります。しかし、どちらかといえば、クリスマスの方が祝い事としては、大きな感じ、盛大な感じがしないでしょうか。それはただ単に、教会の中だけではなく、世の中の雰囲気の違いが影響しているでしょう。が、しかし、今年のイースターは何か、違う雰囲気を感じないでしょうか。
 というのは、大手スーパーや百貨店などでも、「イースター」として広告を打ったり、飾り付けをしていたりしているからです。私も先日、あるスーパーで買い物をしていたとき、印象的なコピー(宣伝文句)が聞こえてきました。だいたい、このようなものでした。
「「イースターおめでとう」雰囲気の曲をバックに、イースターの説明が始まった。
「春分の日の後の最初の満月から数えて、最初の日曜日」フムフム…。
「欧米ではこの時に、卵探しをしたり、ゆで卵などの卵料理を食べてお祝いします」フム…。
「春をお祝いする意味も込められていて、最近、日本でも拡がってきています♪」…ン?!」

 それだけでした。イエス様とか復活とかのみならず、キリスト教にも触れられず、イースターの宣伝のみです。どう、お感じになるでしょうか。で、これを私は、最近、いわゆるSNS、インターネットの世界で、書いてみたんです。一つは、Twitterで、そうしますと、いくつかのリツィートを得ました。そして、Facebookでも書いてみました。すると、「いいね!」という反応と同時に、具体的な意見やそれぞれの過去の行動などを紹介し合うこととなっていきました。
 しかし、私などは、イースターの意味がどうこうということは関係なく、興味がある人が自分で調べて、キリスト教のお祭りで、イエスが復活したことを記念した祭りなんだ、とか、さらに受難週というものがあるんだ、と自分で発見してくれたら、それはそれで良いのではないか、と。また、こんな想像もしていました。もしかしたら、イースターのキリスト教的な意味を言わないようになったのは、「特定の宗教の宣伝をして良いのか」と行った類いのクレームが入ったのではないだろうか、ということです。例えば、どうでしょうか。日本において、キリスト教はあくまで少数派の宗教ですが、多数派だったら、クレームは認められないだろうか、とか、イスラムだったらどうだろうか、他のまったく違う宗教を宣伝で、かなり問題がある類いの宗教や教えを持つものだったら、自分はどのような対応を取るだろうか、ということでした。そして、そうした言葉や意見の受け入れ方は、日本における宗教の自由度、信教の自由とどのような関係かなあ、とかいうことを考えてみました。
 そんなことを考えたのですが、振り返ってみて、キリスト教におけるイースターの意味とは何か、ということも、一言ではいかないのではないだろうか。いろいろな受け取り方、また理解度の違い、時系列的な変化もあるのではないか、ということを、今日は考えてみたい、と思います。

恐怖の一段階—弟子たちの行動—
 イースターはイエスの受難、十字架への道と別に考えることは出来ません。エルサレムへと上っていったイエスと弟子たち、弟子たちはイエスがエルサレムへ向かっていくことは、彼が玉座に座ることになると考えていました。それは、イエスが彼等にとって、メシア、油注がれた者であるという確信、期待、ある種の信仰に基づいたものでした。そして、そんな弟子たちやイエスを支持する群衆の思いの頂点がエルサレム入城の場面でした。
 しかし、弟子たちや群衆の期待は、あっという間に裏切られます。受難週という一週間の中で、エルサレム入場から十字架の時、弟子たちとすれば、天から地に突き落とされたような思いであったでしょう。群衆たちは、どうでしたでしょうか?彼らは、ある意味、イエスが神もメシアであるとか、キリスト(救い主)であるとか、どちらでも良かったのかもしれません。イエスが逮捕された後の裁判の場面、イエスかバラバか、という選択では自分たちの思いを裏切ったイエスを死刑にしろと叫び、エルサレム入城の場面での喜びの歓声、十字架への道の中では、イエスへの罵声へと変わりました。
 弟子たちはどうでしたでしょうか、イエスがゲッセマネで逮捕された時、ユダは裏切っており、十二弟子たちは皆、逃げ出してしまっていました。十字架刑の前夜、ペトロだけは、民衆に紛れて、イエスの近くにいようとしたのでしょうが、イエスの仲間ではないか、と疑われて、逃げ出します。そして、イエスは裁判にかけられ、十字架を背負わされて、ゴルゴダの丘への道を歩み、十字架上の死を遂げます。おそらく、そのような状況ですから、十二弟子たち男の弟子たちは、どこかに逃げていったか、隠れていたと考えられ、誰もイエスの十字架を見ることはなかったでしょう。そして、イエスの死後も、自分たちの危険を感じながら姿を隠し、イエスを裏切ってしまった後悔にさいなまれながら、この後、自分たちがどのような身の振り方をするのか、どのような道を歩んでいくのか、を考えていたでしょう。
 今日の箇所、マタイ福音書28章1節にはこのように記されています。
「28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」
 12弟子の誰でもなく、女性の弟子ともいえる「マグダラのマリアたち」女性だったのか。その理由をいろいろ想像することが出来ます。わたしが思うことは、男性の弟子たち、イエスに出会うことに対して、2重の恐れ、2つの恐れを持っていたのではないか、ということです。一つ目の恐れは、自分たちもイエスと同じように逮捕され、十字架にかけられてしまうのではないか、という恐れです。

恐怖の二段階 —イエスとの再会—
 そして、もう一つのイエスとの再会を恐れる理由。それはイエスとの出会い、そのものに対する恐れ、イエスを裏切ってしまったこと、また逮捕されることを恐れ、逃げ出してしまったことから生まれるイエスに対する後ろめたさ、恐怖からではないか、と感じるのです。マルコ福音書には、復活伝承かと思われるイエスと弟子たちの再会の場面を描く箇所が納められております。マルコによる福音書6章48節49節。(P.73)
「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」
 とても不思議な伝承、記述であり、この箇所に納められておりますが、実は空の墓の後、ガリラヤに行った弟子たちと復活したイエスのガリラヤにおける復活伝承であったのではないか、と考えられることのできる箇所です。なぜなら、イエスが亡くなっているという前提がなければ「幽霊だ」という叫びにはならないのではないでしょうか。そして、その死に対する後ろめたさが、弟子たちを恐怖させたのではないでしょうか。
 どうでしょうか。普通に考えて、自分をイエスのような導き手に従う弟子として考えてみてください。そして、その導き手である人が逮捕される場面、自分たちは逃げ出していってしまう。その前夜に、「たとえ、死ぬようなことがあっても裏切りません」と言っておきながら、逃げ出してしまったわけです。そして、裁判の場面、十字架への道の場面、十字架に掛かってしまってから、たとえ、助けることは出来なかったとしても、せめて顔を見るようなことぐらいは出来たかもしれません。でも、それも出来なかった。そして、そんな裏切りをしてしまった導き手、イエスが復活したという、どんな顔で再会すれば良いのでしょうか。

赦しとしての再会
 マタイ福音書28章7節をお読みします。
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 実は、この言葉、弟子たちが歩んだ道、原始教会が歩んだ歩みとは異なっています。教会の歴史は、ルカ福音書そして使徒言行録に記されていますように、エルサレムにおいて始まりました。ですから、「イエスにはガリラヤに会える」という言葉というのは、間違いではないか、と考えられるのです。そして、実際にガリラヤへ行けということではなく、イエスと弟子たちが歩んだ、ガリラヤからエルサレムへの道、イエスが共に歩み、イエスが教えを語り、イエスが様々な人を癒やし、イエスと共に様々な人々と触れ合ったあの旅の日々に立ち返りなさい、という指針、導きではないかという捉え方があります。
 今日の箇所には記されていませんが、イエスはペトロや他の弟子たちと一度ではなく、何度かにわけて、同時にではなく、再会を果たします。ここには、彼等がそれぞれどのような思いをもって、イエスと再会したのかが記されています。喜びに満ちたものであったとは、思われます。しかし、その恐れの記憶というのは、徐々に徐々に、喜びの記憶へと変わっていったのではないか、と思うのです。

希望の徴としての復活
 最初にイースターのキリスト教的な意味が伝えられない、という話をしました。イースターというのに、キリスト教やイエスとその復活に触れないスーパーの説明。しかし、キリスト教においても、ただ復活を喜ぶだけで、主なる神の愛の思い、御旨に触れたことになるのか、と言えば、そうではないでしょう。受難週、人の罪を背負って十字架への道を歩んだイエスの歩み、そうしたことを触れなければ、復活、イースターの意義を知ることにならないと言えます。しかし、最初はちょっとした切欠でも私は良いのではないか、と思うのです。なんかしらの興味を持って教会へ足を運んでくださるとか、聖書を開くことに繋がるかもしれないからです。また、私たちキリスト者の思いも時によって、そのイースターの年に置かれている自らの状況によって、受け取り方はずいぶん変わるのではないでしょうか。
 マタイ福音書28章10節をお読みします。
「28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」」
 イエスは、「恐れることはない」とおっしゃっています。おそらく多くの人の歩みは、だいたいの予想がつく道を歩むものではないでしょうか。ガリラヤへの促しは、もう一度新しい旅を始めようという勧めです。弟子たちにとってもは、二つの恐怖、恐れがあったと思います。一つは、イエスと再会することへ恐怖、そして、もう一つは、イエスがいないという状況の中で、キリストの群れであるエクレシア、教会を率いていかなければならないという責任に対する恐怖です。
 弟子たちにとっては、一度目の旅は、イエスと共になる旅でありました。しかし、二度目の旅はどうでしょうか。二度目の旅は、弟子たちが、使徒たちが、イエスがいない状況の中において、イエス、キリストが示した福音を実践する群れを率いて、歩んでいく旅でありました。そして、不安がありながらも、経験もしなかった歩みでありながらも、イエスが共にあることを信じて、歩んでいったのではないでしょうか。
 イースターという出来事は、弟子たちがイエス・キリストがいないながらも力強く、福音の担い手として歩み出したことを記念する時と言えます。そして、そのような歩みを歩むことがイエスを裏切ってしまったという受難週の後悔を乗り越える作業となったのではないでしょうか。そして同時に、イエスの復活という出来事を信じること、イエスが共にいるということを信じることに繋がるのではないでしょうか。「イエスが共にいる」ことは、キリスト者にとって常に希望であります。そうした意味で、イースターは私たちの希望なのです。イースターには希望の意味があること、イエスが共にいるという意味があることを、今日、改めて心に刻み、新しい歩みを歩み出しましょう。

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『自分の十字架を背負って』(マルコ福音書8:34〜9:1)

2017.04.09(18:29) 342

『自分の十字架を背負って』
(2017/4/9)
マルコによる福音書 8章34~9章1節

十字架とは何か
 十字架とは何なのか?キリスト教において、十字架とは、キリスト教そのものを現すシンボル、象徴であります。教会の中に飾られるものであり、プロテスタント教会においては、とてもシンプルな形のものであり、教派によって多少の違い、特徴はありますが、大きな違いがあるわけではありません。また、カトリック教会などでは、十字架だけではなく、イエスの像が刻まれている、ついている十字架がありますが、そうした違いから、こんな冗談が言われます。プロテスタント教会においては、イエスは復活しているけれども、カトリック教会では、イエス様は、まだ十字架上で苦しんでおられる、といったものです。
 また以前までは、カトリック教会における十字架のイエスは、苦しんでいる姿が多かったそうです。が、最近は、会衆を向かい入れるような、招くようなものが多くなってきたそうです。こうした違いも神学的な違いの現れ、十字架に対する考え方の変化の現れということができます。以前は、イエスの磔刑における贖罪、イエスの死、イエスの血によって、人々の罪が赦された、というところに強調点が置かれていたのではないか、と思います。それが最近は、神の招き、イエスの招きに強調点が変わってきた、ということの一つの現れではないか、と思われます。

「救い」なのか「痛み」なのか
 また、十字架とは何か、ということを聖書の記述の中で考えてみます。福音書とパウロにおいては、すでに違いがあります。今日の箇所において、十字架とはあくまで処刑の道具であり、イエスがゴルゴダの丘まで自らの命を奪う道具を背負って歩んだことが前提として記されています。マルコ福音書8章34節35節。
「8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 この言葉を読んだキリスト者は、おそらくこのように受け取るのではないでしょうか。信仰を持って歩むという選択、生き方は、何らかの覚悟が必要である、そして、イエスが十字架を背負ったように、信仰を持つとは重い十字架を背負うことになるかもしれない決断が必要だ、といった捉え方です。だいたいがこのような捉え方をしているのでしょうか。基本的に、十字架とは処刑の道具なのですから、そうした重さが込められているのは、当然のことと言えるでしょう。
 しかし、時の流れと共に、その捉え方も変化していきます。十字架が処刑の道具ではなく、神の愛を示すものとして、変化してきたということです。そしてパウロは、十字架のもつ二面性(「救い」と「死」)が込められているような言葉があります。第一コリント1章18節です。(P.300)
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
またこんな言葉もあります。同じく第一コリント1章22節から24節。(P.300)
「(1:22) ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、(1:23) わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 (1:24) ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
 パウロにおいては、十字架とは両義的なものという意識があります。そして同時に自らも「十字架につけられている」(G2:19)、とか「キリストを着ている」(G3:27)という表現もあり、十字架にかけられているイエスと自らを同一視している様子が見えてきます。

十字架の始まり〜佐藤研との指摘から〜
 また、話は変わりますが、ギリシア語の十字架を言葉、「スタウロス」を、十字架と翻訳するのは間違いではないか、という指摘もあります。佐藤研さんという聖書学者の方がおられます。その方が十字架を現す言葉「スタウロス」は、もともと「杭」という意味しか無かったのではないか、ということをおっしゃっています。『聖書を読む〜新約編〜』に納められている論文なのですが、このような記述があります。
「(十字架とは)「罪人の苦痛をできるだけサディスティックに長引かせる」残酷きわまりない処刑法/「ローマ帝国では重罪を犯した奴隷か、(ローマ人ではない)属州の反逆者に対してのみ執行された」/「美しいものには金輪際なりえない劣悪邪悪なもの」/さらに、イエスの時代、「十字」の形をしたstaurosは極めて希であったらしく(多くはT字またはただの柱だった)」
 そして、「杭殺刑」「杭殺柱」という訳語を提案しています。
 現代において、十字架というマーク、シンボルは、キリスト教のみならず、アクセサリーなどとしても、利用されているシンボルであり、これを変えることなど不可能であるでしょう。また、たしかにこの十字架、最初からキリスト教のシンボル、象徴として用いられていたわけではないのです。4世紀ぐらいから象徴として、重んじられるようになったそうで、それ以前はあまり重要視されていなかったそうです。
 たしかに単純に考えて、処刑の道具としては、十字架に日本の木材を綺麗に十字に組み合わせるのは、とても大変で、手間のかかる作業です。たしかに、本当は、1本の杭もしくは、一本の杭の上に横に角材もしくは丸太などの端を細くし、もう一方に、穴を開ける、ホゾを切るなどして組み合わせた「T字」型のものではないか、という説の方が、説得的であります。
 また伝説上、紀元2世紀を生きたローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世という人がいます。彼はローマ皇帝最初のクリスチャンとして知られています。それ以前、ローマ帝国の皇帝という存在は、キリスト教を迫害することはありましたが、キリスト者になるとは考えられなかったでしょう。しかし、彼はある戦争に向かう途中、十字架とギリシア語の「X」と「P」の幻を見、この徴を掲げれば戦争に勝てるという神意を経て、戦争にも勝ちました。それからローマ帝国の兵隊の盾には、十字架が刻まれることになったそうです。

『沈黙』から
 佐藤研さんの指摘、そしてコンスタンティヌス帝の十字架に関する伝説、これらのことから、十字架を指すギリシア語「スタウロス」は、もともと「杭」とか「木の棒」といった意味しかなかったという可能性が出てきます。また、今日の箇所において、弟子たちは、イエスが十字架刑、高殺刑によって最後「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉を聞いたとき、純粋に処刑の道具として、イエスの言葉を聞いたはずです。どういったようにこの言葉を受け取ったのでしょうか。そしてそんなことを考える上で、2つの映画の話をしたいと思います。
 一つは、『最後の誘惑』という作品、もう一つは遠藤周作原作で今年の1月に封切られました『沈黙』であります。どちらも、マーティン・スコセッシ監督の作品です。20年以上前の作品である『最後の誘惑』は、当時のキリスト教界において大問題になった映画でした。ちなみに、問題になったというのは、イエスが十字架上においてサタンの誘惑に陥ってしまったという点でした。そこが言いたいのではなくて、わたしが興味をもったのは、その中に現れたイエスは大工として働いているのですが、最初の方で、処刑の道具である杭、スタウロス、つまり十字架を作る役割としている、という描写がありました。可能性は低いと思いますが、一つ感じたのは、イエスと弟子たちが「十字架」または「スタウロス」に関して、何らかの共通した記憶を持っていたとしたら、わたしたちには分からない意味があったことになります。
 また、もう一つの『沈黙』では、17世紀、江戸時代の長崎においてポルトガルから渡ってきた宣教師が主人公の映画ですが、その中で、日本のキリスト者、キリシタンが海の中に立てられた十字架にくくりつけられ、処刑されるという場面があります。その場面、原作からお読みしたいと思います。
「…十字架に組んだ二本の木が、波打ちぎわに立てられました。イチゾウとモキチはそれにくくりつけられるのです。夜になり、潮が満ちてくれば二人の体は顎のあたりまで海につかるでしょう。そして二人はすぐには絶命せず二日も三日もかかって肉体も心も疲れ果てて息を引き取らねばならないのです。…」
「…引き潮になったあと、二人の括られた杭だけがはるかにぽつんと突ったっていました。もう杭と人間との区別もつかない。まるでモキチもイチゾウも杭にへばりついて杭そのものになってしまったようでした。ただ、彼等が生きているということは、モキチらしい暗い呻き声が聞こえてくるからわかりました。」
…午後、ふたたび潮が少しずつ張りつめ、海がその黒い冷たい色を増し、杭はその中に沈んでいくようにみえます。白く泡だった波が時々、それを越えて浜辺に打ち寄せ、一羽の鳥がすれすれに海をかすめ、遠くに飛び去っていきました。これですべてが終わったのです。…」
「殉教でした。しかし何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を…たとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭(らっぱ)を吹くような輝かしい殉教を夢みすぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような輝かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。ああ、雨は小やみなく海に降りつづく。そして、海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。」

自分の十字架を背負う
 今日の箇所において、弟子たちはイエスの言葉をどのように聞いたでしょうか。おそらくは、その意味、真意を知ることは出来なかったでしょう。この箇所はイエスの最初の受難予告の後の箇所にあたります。最初の受難予告、8章31節の「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」との予告に対して、ペトロは「そんなことは言わないでくれ」とイエスをいさめ、イエスがそのペトロを「サタンよ、引き下がれ」(8:33)と怒った後の箇所に当たります。
 しかし、イエスが十字架への道を歩み、磔刑の死を遂げ、復活し、教会の歩みが始まってから、その真意を知ることになったのではないでしょうか。その時、弟子たちは、十字架という言葉、スタウロスという言葉にどのような思いを持ったでしょうか。おそらく、救いとか痛みとか、というものではなく、十字架という存在にイエスという存在のすべてを見たのではないでしょうか。
 イエスの磔刑、イエスが貼り付けられた姿を十二弟子たちが見たとは、とても思えません。なぜなら、そのような場に居合わせたら、自らも処刑されてしまったに違いないからです。そうした意味で言えば、弟子たちはせめて、イエスが杭、十字架を背負ってゴルゴダへの道を歩んだ姿を見るのがやっとだったでしょう。また、そのイエスの最後の姿を、その場に居合わすことが出来た女性の弟子を中心とした他の弟子たちから、聞いたのではないでしょうか。その時、イエスの言葉を思い出した。また、それから先においても、様々な状況において、十字架、杭を背負ったイエスの姿を思い起こしたのではないでしょうか。
 弟子たちは、当然、逃げてしまった申し訳なさ、裏切りへの後悔も持って十字架を思ったでしょう。しかし同時に、キリスト教会の営み、交わりの指導者として、歩んでいくことは、彼らの癒やしとなったのではないでしょうか。イエスの担った十字架を自らの十字架として歩んでいくこと、背負っていくことは、彼らがイエスと共に歩むことが出来なかった、その先の道を歩むことによって実現されたと感じたのではないでしょうか。
 今週は、受難週、来週は、イエスの復活を祝うイースターです。イエスが主なる神の支配の実現のために歩んだ道、十字架への道は、途切れてしまいました。しかし、教会の歩は、その道をつなげる歩みではないか、と感じています。この週、イエスの歩み、イエスと共に歩んだ十二弟子たちの歩みに思いを寄せ、歩んでいきたいと思います。


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「モーセとエリヤ、そしてイエス」(マタイ福音書 17:1~13)

2017.03.26(17:04) 341

『モーセとエリヤ、そしてイエス』
(2017/3/26)
マタイによる福音書 17章 1~13節

イエスは○○である
 福音書は、イエスがどのようなことを行ったのか、どのような教えを述べたのか、どのような歩みを歩んで十字架への道を歩んだのか、を記しています。そして、イエス自身が、何者であるのか、どのような存在であるのか、を記している文書であります。イエスは、キリスト(救い主)であり、メシアであり、神の子であり、ダビデの子であります。これらの言葉は、「イエスは○○である」という形で、なされます。しかし、これらの言葉は、イエスに基づく場合もありますが、人の言葉を通じて、弟子たちは一般の人を通じての言葉であります。信仰の告白、疑問に対する答え、宣言などの形になりますが、それらはすべて人の言葉であります。ですから、間違っている場合もある、確認が取れないわけです。それにくらべて、今日の箇所の言葉は、神によって、そのことが述べられている。その点において、特別な箇所ということができます。
 マタイ福音書17章5節をお読みします。
「17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。」
 そして実は、神がこの言葉を語ったのは、マタイ福音書において、二度目になります。そして一度目は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面です。(マタイ3:16-17)
 今日の場面、モーセとエリヤという預言者が現れ、神の声が聞こえ、イエスが天に浮いた、というのですから、とても神秘的な場面ということができます。そして、こうした場面のことを、聖書学の世界では、神顕現の場面と言います。そして、その現れ方、現象によって、どのような性格を持つ神なのか、ということが示されています。そして今日は、なぜ、モーセとエリヤなのか、ということを考えてみたい、と思います。

ユダヤ教の立場から
 今日の箇所でイエスと共に、二人の預言者が現れました。一人はモーセ、一人はエリヤであります。「何故、この二人なのか?」という問いがあります。例えば、マタイ福音書などでは、ダビデから始まる系図から福音書は始まりますから、「イエスはメシアであったダビデの血を引く者」で「イエスもメシアである」という面が強調されていると思われます。ですから、ダビデでも良いではないのかなあ、と思うのですが、ダビデはありません。なぜダビデではないのか。推察するに、王というのは、あくまで人の側の立場にたつ存在で神の側には立っていない、ということではなかろうか、と思います。その上で、なぜ、モーセとエリヤだったのか、私としてヒントになるのは、ユダヤ教的な聖書(旧約聖書)の捉え方ではないか、と考えています。
 キリスト教的な立場で言えば、新約聖書と旧約聖書があり、新約聖書はイエスによって示された新しい契約を著すもの、旧約聖書は古い契約を著すものとして捉えられています。しかし、ユダヤ教にとっては、旧約聖書(聖書)しかないわけですから、「古い」と呼ぶことはありません。また、そうしたユダヤ教的な立場から考えてみますと、キリスト教の側が、一方的に「古い」と呼ぶことは、とても失礼な話ではないか、と聖書学者などの間では、それぞれユダヤ教聖書、ギリシア語聖書と呼ぶべきである、という意見もあります。
 そのような議論があるのですが、ユダヤ教では、ヘブライ語聖書のことを、「タナハ」と呼びます。これは、三つの頭文字をとった呼び方であります。「タ」というのは、「トーラー」(律法)で、モーセ五書〔創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記〕、を指します。そして2番目の「ナ」は、「ネイビーム」(預言)〔ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記/三大預言者+十二小預言者〕、そして、3番目の「ハ」は、「ケトゥビーム」(諸書)〔それ以外〕であります。そして、価値としては、1番目、2番目、3番目の順序、モーセ五書、預言、諸書の順序で重んじられています。モーセ五書に一番の価値があり、それらの補助する役割として、他の文書がある、という捉え方です。
 キリスト教ではどうでしょうか?ユダヤ教聖書(旧約聖書)のみの話ですが、おそらく多くの人が、旧約聖書というものは、歴史の順序に従って、時系列によって、まとめられている、と捉えていると思われます。そして、その現れとしてユダヤ教のヘブライ語聖書とキリスト教の旧約聖書では順序が微妙に違います。

モーセとエリヤという存在から
 モーセは、キリスト教的には言えば、十戒そして律法を受け取った存在です。また、旧約聖書の最初の五書が、「モーセ五書」と呼ばれているのは、最初の五書が、モーセによって記された、と考えられているからです。しかし、モーセ五書の最後の最後、申命記の最後には、モーセ自身が亡くなった場面が記されているのですが、そのようにユダヤ教の伝統の中では、捉えられており、最初の預言者であり、最大の預言者として捉えられているのです。
 エリヤはなかなか日本のキリスト者の中にも割と使われることの多い有名な預言者の一人です。そして、なぜそれほど知られているか、と言えば、イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネがその生まれ変わり、再来と捉えられているからです。そして、その根拠となっているのは、エリヤはその最後に死んではおらず、天に昇っていったと記されていること(列王記下2:1-14)、そして、もう一つ、旧約聖書の最後にあるマラキ書という文書で、エリヤが天から降りてくると預言されていることに基づいています(Ml3:1-3/19-24)。

エリヤとイエスの近さと歴史意識
 またエリヤとイエスではいくつか似ている点があります。一つは、「時の権力者から命を狙われていること」です。エリヤが活動した時代、間違った政治を行っていた王に対して、預言者は「あなた達の言葉と行動は間違っている」「神の意志はこうだ」と声を上げているわけです。しかし、力は王の方が当然強い、そして預言者たちの多くは無力であり、命を狙われたりする状況におかれたりもします。そして、そのようなエリヤの再来を望むということは、ユダヤ人社会において、いつの時代においても、変化を望む人々の信仰、希望となっていきました。
 今日の箇所、マタイ福音書17章10節には、イエスに対して、ある質問がなされています。
「17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。」
 これも、ただ単に預言の実現を待っているのではなく、期待している、イエスの時代において、ローマ帝国に支配されている状況を変えて欲しい、ヘロデ大王などユダヤ人でありながらもローマの支配を善しとしてユダヤ人の伝統を大切にしようとしない、支配層を変えて欲しい、と言った思いが込められていると考えられるのです。

イエスとは何者なのか
 最後に、モーセとエリヤ、そしてイエスという流れからこの箇所を捉えてみたいと思います。イエスの敵対者であったファリサイ派の人々から見たら、実は、彼らとしては、モーセとエリヤというのは、最高の選択肢だったのではないかなあ、と思うのです。自分たちこそ、モーセとエリヤの正しい伝承者であるという実感があったでしょう。しかし、律法学者やサドカイ派(祭司階級)の人々は、違ったはずです。モーセ、モーセ五書の権威は認めていたはずなので、モーセまでは納得できるでしょう。しかし、エリヤという人は、時の王たちと対立した預言者です。そして、律法学者にしても、サドカイ派にしても、新しい預言者という存在を認めませんでした。ですから、エリヤということは受け入れなかったでしょう。
 そして、宗教は変わってしまいますが、イスラム(教)ですとどうなるか。イスラムにおいて、ユダヤ教聖書は、第二正典とも言える文書であり、モーセもエリヤ、そしてイエスも預言者としての地位を与えられています。イスラムにとって、聖書に登場する特別な存在と言えば、アブラハムになります。なぜならイスラムの人々にとって、アブラハムは自らの神の信仰の始祖であります。さらにアブラハムの子、イシュマエルを自らの民族の始まりとしていることも影響しているでしょう。そして、イスラムにおいて、信仰を告白する言葉というのは、キリスト教のように長くなく、議論も生まれないのではないか、と思うほどシンプル、単純で二つのことを宣言するだけです。
「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」
 この宣言の説明を読んでみますと、前半の神の部分は、ユダヤ教、キリスト教が共有している唯一の神への信仰の宣言です。そして、後半は、ムハンマドのみが、使徒(神の使い)ということではなく、最後の預言者、使徒ということを指している、ということでした。キリスト教やユダヤ教に対して言うなれば、同じ神さまを信じているけど、捉え方が違うのよ、アブラハム、モーセ、エリヤ、イエスもいるけれど、ムハンマドが最後で最高の預言者だからね、という考え方なのです。

そしてイエス
 キリスト教にとって、イエス・キリストは絶対の存在であります。しかし、モーセとエリヤは絶対に必要か言えば、そうでもないとも言えるでしょう。ペトロの言葉として、それぞれに「仮小屋を建てます」という言葉があります。これは、モーセが奴隷状態にあったユダヤ人を主なる神の力によってエジプトを脱出したとき、昼間は雲の柱として、夜は火の柱となった神に従って歩んだ出エジプトの歴史を思ってのことでしょう。
 しかし最後に、私の最大の疑問を、ここで披露したいと思います。それは、ペトロや他の弟子たち、モーセとエリヤのことをなぜ一目見て、分かったのだろうなあ、という疑問です。写真もない時代、さらに絵画(肖像画)などもない時代、ユダヤ教においては、絵を描くことさえも禁じられていた時代、一目見て、「モーセだ、エリヤだ」とはいかないはずなのです。しかし、モーセとエリヤを見たというのは、それ以外には考えられなかった弟子たちの思いがあったということが出来るのではないでしょうか。
 聖書の記述を読むとき、主なる神の関する事実、イエス・キリストに関する事実を知ることも重要ですが、そうさせた人の信仰の姿を受け取ることも重要なのではないでしょうか。エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちを導きだし、十戒を中心とした律法を託されたモーセ、そして、神の思いから離れてしまったユダヤ民族、王を正しい道へと導こうとし、命を狙われながらも、神の言葉を預かる預言者としての道を歩んだエリヤ。イエスを中心として、2人の人が現れたとき、それ以外の人は思い浮かばなかったのでしょう。
 そんな歩みをイエスは歩んでいた、そして弟子たちもそんなイエスだからこそ、従ってきたということが言えるのではないでしょうか。受難節の時です。十字架への道を歩むイエスの姿を思い、歩んでいきたいと思います。

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『内面における黄金律』(ルカ福音書 6:37~42)

2017.03.20(14:30) 340

『内面における黄金律』
(2017/3/19)
ルカによる福音書 6章37~42節

イエスの黄金律の特徴
 今日の説教題、「黄金律」という言葉が含まれています。そして、キリスト教的には、イエスが語ったルカによる福音書6章31節の言葉、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」が黄金律として知られている言葉であります。しかし、ただ単に黄金律といっても、イエスの言葉だけのことではない捉え方もあります。古くは紀元前20世紀のエジプトにも見いだされ、他の宗教や文化、またイエス以前のユダヤ人、聖書の中にも、黄金律は存在していました。いくつか紹介します。(Wikipediaより)
 続編(第二正典)に含まれているトビト書4:15にはこのような言葉があります。
「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」
 また、ユダヤ教のラビの言葉にも現れます。ファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉。
「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」
 そして、他の宗教や文化でもあります。ヒンドゥー教の教え。(『マハーバーラタ』)
「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」
 イスラム(教)におけるムハンマドの言葉。(「ムハンマド遺言」)
「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」
 さらに孔子の論語にも存在します。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
 イエスの言葉を含めて、これらすべて、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれている教え、指針です。インターネット上の辞書、Wikipediaには、このように記されています。
「(おうごんりつ、英: Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。現代の欧米において「黄金律」という時、一般にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指す。」
 後半に記されていることですが、イエスの言葉以外の他の黄金律は、「〜するな」という形、否定的な形になっています。そしてイエスの言葉のみが、能動的な形(なせ)という形になっています。しかし、この違いは小さなものではなく、とても大きなことではないでしょうか。

黄金律の捉え方
 「自分がしてもらいたくないことは、他者にもするな」という否定形における黄金律。たしかに、そのこと自体は、とても納得できることであります。良いことと悪いこと、いわゆる倫理観というものは、様々な文化や風土などに影響に受けます。しかし、人と人の間のことですから、「自分がしてもらいたくないこと」を基本とすれば、事細かな法律なども必要なく、ある程度の考え方や文化の違いなどがあっても、共有できるルールとなるということがあります。そして、そのルールを破ってしまった罰として、有名なハンムラビ法典にもある「目には目を、歯には歯を」があって、その精神として、人に何らかの危害を加えたら、加害者にその危害と同等の罰を与えることができるというもの、黄金律に基づいた考え方ということが出来るのではないでしょうか。
 しかし、イエスの言葉でもある、「自分にしてもらいたいことを、人にもしなさい」という肯定形における黄金律というのは、そんなに単純な話にはならないのではないでしょうか。イエスの語った黄金律は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」(ルカ6:31)です。「人にしてもらいたいこと」とは、自分の価値観です。そして、一つの問いが出て来るわけです。ただ単に、自分の価値観だけで人にしてもらいたいことをやっていて、人に喜ばれるだろうか、ということです。自分の価値観でしてもらいたいことが、本当に自分ではない人、隣人にとってもしてもらいたいことなのだろうか、という問題です。「余計なお世話」とか「人に関わりたくない」とか感じる人がいるだろう。と、考えてしまうと、こうしたことをした方が良いだろうなあ、と思っても、迷惑がられたら、嫌がられたら、どうしよう、という気持ちから体が動かない、ということもあるでしょう。そんな風に考えてみますと、否定形の黄金律と肯定形の黄金律における違いは、小さくない、ということが見えてきます。

神の倫理と愛敵の教え
 そんな特徴を持つイエスが語った「肯定形の黄金律」。その言葉が持つ課題の大きさからなのか、イエスを信仰する人々、弟子たち、孫弟子たちなどの様々な伝承課程を経て、様々な捉え方がされてきたことが、マタイとルカの記述から知ることが出来ます。マタイ福音書7章9節から12節。(P.11)
「7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 マタイにおいて、イエスの黄金律は、神の教える倫理として、キリスト者が実現すべき倫理として、捉えられています。更に、そのことは、黄金律の直後に「律法と預言者である」という言葉があること、これは旧約聖書全体のことを指す言葉であり、黄金律ひとつで(旧約)聖書全体に値する価値があるといっているのです。
 そして、ルカ福音書においては違う捉え方がされています。ルカ福音書6章27節から31節(P.113)
「6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
 ルカにおいては、愛敵の教えの実現として捉えられています。マタイが聖書全体をさすような重さとは少し違いますが、愛敵の教え自体、かなり広く理解できる教えですので、とても重んじられていると言えます。

黄金律をなす主体として
 前置きとして、長々とイエスが語った黄金律とその捉え方について触れてきました。今日の箇所は、イエスの黄金律が含まれていたルカにおける「愛敵の教え」に続く箇所であります。ルカ福音書6章37節をお読みします。
「「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
 続く38節にも赦しに関する勧めがあり、それらは自分が神から赦されるためである、38節後半にある「自分の量る秤で量り返されるから」という理由が説明されています。
 ルカにおいて、人を赦すことは神から自らの罪を赦してもらうためであります。そして、マタイにおいては微妙に違うのですが、神が人の罪を赦してくれる方がからこそ、あなたも人を赦しなさい、という勧めになっています。そして、これらのことは、イエスが語ったメッセージ、神の国(支配)は始まっている、神はどのような人であっても愛を注いでくださる、人は誰でも神から赦されるというメッセージに重なります。

外側における黄金律の課題
 しかし、まだここに至っても、先ほども触れました難しい問題があります。それは「自分がしてもらいたいということは、本当に他の人もしてもらいたいだろうか」という問題です。現代社会においては、知らない人同士が具体的な人間的な触れ合いをするということは難しい社会です。私などの経験では電車に乗っている時、駅のホームにいる時など、人助けのために声をかけることもあります。が、だいたい断られたり、煙たがられたりする経験ばかりです。そういう社会になっているからでしょう。また、そのようなまったくの他人との関係でなくとも、身近な存在だからこそ、そうした働きかけが難しい関係があることもあります。親族や友人たちでも一度、関係が壊れてしまったり、切れてしまったりした関係の中においては、そうした働きかけは大きな困難を覚えることではないでしょうか。

内側における黄金律
 今日の箇所の後半部分をお読みします。ルカ6章41-42節。
「6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 人のことを評価するとき、良いか悪いかなど判断する時、まず自分はどうなんだ?ということを考えなさい、という勧めです。そして、たしかに、「人にしてもらいたい」と思われることを人にするには、そんな自分の姿、自分の有り様をまず考えなければならないのではないか、と考えさせられます。キリスト教文化圏では、富裕な人々が自らの財産、様々な慈善事業に用いる、ということが当たり前のように行われます。それらの行動も、現代社会における黄金律の実践として捉えられるでしょう。

イエスのもつ平等主義の根拠
 イエスは、なぜこのような教えを述べたのでしょうか?推察できるのは、徹底的な平等主義に立っているということではないか、と考えています。人としての彼の歩みを考えれば、こういうことでしょう。ユダヤ人として生まれ、ユダヤ的な教えに基づいて育ったイエスです。ですが、成長する過程の中で、ローマ人やサマリア人とも触れ合ったこともあったでしょう。そうしたとき、「否定形の黄金律」では、何か上手くいかないことがあったのではないでしょうか。また、キリストとして、律法の解釈者として考えれば、神への愛と隣人への愛を説きました。隣人への愛の究極の姿とは、利己的、自己中心的な愛の形ではなく、他者中心的な愛の形こそが、本当の意味での愛と言えるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、私たちに「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」と勧めました。しかし、他者への働きかけを勧めたはずのこの言葉は、まず自分たちへの問いかけとなるのではないでしょうか。また合わせて、その隣人との関係はどのような関係なのか、その隣人をどのように捉えているのか、受け取っているのか、ということが、問いとして浮かび上がってくるのではないでしょうか。

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