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『弟子たちの自分ルールとイエスルール」(ルカ福音書9:46〜50)

2019.01.24(15:31) 385

『弟子たちの自分ルールとイエスルール』
(2019/1/20)
ルカによる福音書  9:46~50

弟子たち(私たち)の受け取り方
 この箇所はマタイにもマルコにも並行箇所が存在しており、それぞれのとらえ方の違いを確認することから、読み解いていきたいと思います。まず最初に記されたと考えられるマルコについて触れてみます。マルコ福音書9章35節から37節。(P.80)
「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」」
 マルコにおいては、弟子という視点というよりも、キリスト者としてのあるべき姿を語っていると言えます。そしてそれに対して、マタイにおいても、ルカにおいても、教会という視点が加わっている、と推測することができます。マタイにおける箇所について考えてみたい、と思います。マタイ福音書18章1~5節です。お読みします。
『18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』(P.34)
 3節の『はっきり言っておく。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、天の国には入ることはできない。」』となっています。今日の箇所にあたる、もともとのマルコではイエスを受け入れることは、「子供を受け入れること」だ、というたとえになっているのに、マタイでは「子供のようになること」と課題とされ、それが成し遂げられたら「天の国に入ることができる」と、その課題が「天の国」に入る条件として、受け取っています。
 そして今日の箇所ルカ福音書をお読みします。9章48節をお読みします。
『9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」』(P.124)
 この後半の箇所『あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』とルカでは「偉い人」は誰かに焦点が当たっており、逆にマルコにありました35節の「仕える者になれ」という言葉は削られてしまっております。ですから、ルカではイエスの言葉は、「価値の逆転」を述べたモノとして捉えられている、と言えます。ルカにおいては、律法に対して、キリスト者としての倫理を述べようとしている意志が見られます。律法において「子ども」は、価値のない存在です。しかし、そのような子どもこそ受け入れるべきである、と。そして、ルカは異邦人への教会の広がりを重んじていました。ルカの教会は、子どもという存在に、律法的に見れば、汚れた存在とされる、異邦人を重ねたのではないでしょうか。

マタイの視点、マルコの視点
 マタイの視点は、あくまで教会の一人一人が「天の国」、「神の国」に入るためにどうしたらよいのか、という視点に意志が行っております。これはイエスを旧約聖書、律法の完成者、律法の最高の教師として見るマタイらしい解釈と言えるでしょう。イエスが与えて下さった律法の実現を重んじるマタイの立場としては、「子どものようになる」などとは、本来あまり好ましいことではないでしょう。しかし、それをあえてしろと言うのには、何か理由と目的がある、「子どものようになる」という行為も実践すべき教えの一つであり、これも神の国に入るのにふさわしい者となるためだということなのでしょう。
 そしてマルコとしては、子どもの関する比喩をキリスト者としてあるべき姿として受け取ったのでしょう。それが最もシンプルな形であります。律法的には、劣った存在である「子ども」。ただ、こういうことも言えます。神の前には、誰でも「子ども」のような存在である、という視点。ここから生まれてくる視点は、どのような上下関係もキリスト教共同体、イエスの弟子集団は取らない、ということも言えるのでは無いでしょうか。そして、それはマルコ福音書に現れている弟子批判にも繋がります。一番の弟子とされていたペトロでさえ、イエスを裏切り続けていた。また誰もがイエスの前には、神の前には、不完全である、という姿勢にも重なります。

子どもでありなさい、という教え
 子どもとはどのような存在でしょうか。当時のユダヤ人社会において、子どもとは価値のない存在であり12歳の成人の儀式をすぎなければ、一人前とは認められませんでした。また女性は12歳になっても低い存在として捉えられておりました。(「女子ども」という言葉)そうした者を受け入れろ、と言うわけです。そして、一般的に、この言葉には、イエスの慈愛、そして神の慈愛が込められた箇所として捉えることが多いでしょう。しかし、イエスの弟子たち、そして一般のユダヤ人たちは、どちらかといえば、このイエスの言葉を律法の問題として聞いたのではないでしょうか。
 弟子たちにしても、一般のユダヤ人にしても、イエスのことを、新しい律法の捉え方を語る教師、ラビと考えていたでしょう。とすると、やはり子どもの言及は、律法という価値観に基づいて聞いたはずです。それに対して、弱い子どもを守る存在として、また人を神の前における「子ども」という視点もキリスト教的な捉え方と言えるでしょう。

逆らわない者は味方?
 そして、今日の箇所には、もう一つのテーマがあります。ルカ福音書9章49節50節。
「そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」」
 キリスト教伝統の中に、洗礼というものがあります。多くのキリスト教会において行われています。そして、洗礼を授けるのは、教職(司祭、牧師)でなければならないとされています。そして、その教職になるためには、現在では、教職養成課程や試験制度などがあり、それぞれの教派、教団に認められて、教職となるわけです。日本基督教団ですと、神学校などを卒業した後、まずは、試験を受けて「補教師」というものになり、それから2年半以上の経験を経て、「正教師」というものになります。いろいろな教派的伝統のいろんな要素を組み合わせて、このようなシステムになっています。
 49節の言葉、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言っています。要するに、別の教会の宣教とか伝道に対する批判と捉えることができるでしょう。
 しかし、イエスはそうした視点にあり方について、否をいっているといえます。
「イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
 イエスは教会的な視点などなかったでしょう。また教会は、その歴史の中で、分裂や争いを繰り返してきました。多くの場合、教会同士が争うときは、より自分の方が正しい、という尺度が出てきてしまいます。

自分ルールとしないために
 今日の説教題は、「弟子たちの自分ルールとイエスルール」としました。「自分ルール」というのは、自分勝手な自分たちだけに都合の良いルールという意味です。そうしたあり方が教会のあり方としてふさわしいのだろうか、ということを教会の組織のあり方として考えてしまうことがあります。それに対するイエスの言葉というのは、とても刺激的であり、とても難しいハードルであると感じます。教会はその歴史の中において、集団としての秩序を守るために、否定的な意味だけではなく、知恵を駆使してきました。イエスの言葉は、そうした教会のあり方は、常に変化する可能性があるものとである、不完全なものである、という意識を持つことを促すのでは無いでしょうか。例えば、女性の教職制、実は2000年の歴史の中においては、未だ始まったばかりのことと言えます。ゲイやレズビアンなどのセクシャルマイノリティの存在、捉え方についても、未だに混乱した状態です。
 イエスが言っている「子供(の1人)を受け入れるように」というのは、どのようにくだらないと思うようなことであっても、自分自身の有り様を見つめ直して、新しい一歩を踏み出そうということではないでしょうか。そのための一つの指針、目印として、様々なルールが、教会、キリスト者、クリスチャン、自分の自分ルールになっていないか、と見つめ直すことが大事なのではないでしょうか。
 キリスト教そして教会は、聖書の言葉によって形づけられています。そして、聖書の言葉によって、また新しく変えられていくのではないか、と感じています。今という時代の中において、私たちの置かれている状況の中で、どのような教会のあり方、信仰のあり方を目指していくのか、改めて考えていく必要があるのかもしれません。イエスが伝えて下さった福音を自分ルールにしないように、常に「神の子」であることを忘れずに歩んでいきましょう。

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『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイ福音書 1:18~25)

2018.12.26(16:22) 384

『ヨセフにとってのクリスマス』(マタイによる福音書 1:18~25)

正しい人ヨセフ
 今日は、ヨセフの視点に立ってイエスの誕生、父ヨセフにとっての子であるイエスについて考えてみたい、と思います。今日の箇所で、このヨセフ、マリアが結婚前であったのにも関わらず、イエスを身ごもっていたことを知り、19節において「正しい人」であったので、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう」としたと記されております。
 このヨセフの「正しさ」、実は様々な捉え方が出来ると思います。どうでしょうか、一般的にも、多くの人の価値観においても、「離縁」しようとしたのは、ヨセフと婚約していたマリアが結婚前であったのに、妊娠したというのは他の男性と望ましくない関係があった証拠だ、と。だから、離縁しよう、と。そんな女性とは結婚できない。そんな「正しさ」をヨセフは持っていた、と。そのような説明がしやすいものです。

律法的に正しいヨセフ
 しかし、そうではなく、そうした正しさを曲げて、当時の律法の解釈によれば、婚約中、結婚前に妊娠していたことが明らかになったら、マリアは死刑になってしまうことになっていました。そこでヨセフは、そうしたことをさけるために、ヨセフは結婚しないことにしたのだ、という捉え方です。婚約を破棄するというのは、当時で言えば、離婚するに等しいことです。さらに結婚前なのに、子どもがいたとなれば、たしかに、マリアは様々な非難を受けるかもしれません。しかし、結婚前に離婚してしまえば、死刑になることからは免れる。そして、子どもも母親を失うことは無い、と。そんな理由からヨセフは、マリアと離縁、別れようとした、というお話です。なるほど、ヨセフという人、実はとっても思いやりに富んだ人だったのだなあ、と思わせる説明でした。ま、こんな複雑な解釈もありますが、自分の子どもではない子どもを育てるのは、「正しい」とは言えないけれども、命を助けることを「正しい」こととして、結婚したという捉え方も出来るでしょう。

家父長制における長男
 ヨセフが持っていた「正しさ」とはどういったことでしょうか。「正しさ」とは、何なのか、現代においては、様々な「正しさ」の対立によって、世界における国と国、また人と人とが、ぶつかり合ったり、いがみ合ったりしているように思います。
 聖書においても、この「正しさ」は大きなテーマとなります。律法において正しいのか、人を守ることの正しさなのか。例えば、今日の箇所の直前、マタイ福音書、新約聖書の冒頭、アブラハムからイエスに至る系図が記されています。どのような意図、意味があるのでしょうか。ぱっと読んでみると、イエスがアブラハム直系、ダビデ直系の、ユダヤ人としては、とっても「正しい」家系、日本風に言えば、家柄の持ち主だということを伝えたいように感じます。
 しかし、よく読んでみると、違う意図があるようにも感じます。この系図、ほぼ男性しか記されていない系図に、5名の女性について、記されている点です。1章3節に登場しますタマル。彼女は、創世記〔Gen28:26〕に登場し「子ども」に恵まれず、夫とも死に別れた為、売春婦に化けて、自分の義理の父であるユダをだまして、関係を持ち、子供を持った女性であります。そして5節に登場するラハブ〔Jos2c〕も売春婦であり、さらに付け加えますとユダヤ人ではない「外国人」であります。そしてルツは有名ですが、彼女も外国人であり、さらに違う神様を信じる異教徒であります。そしてウリヤの妻も外国人であり、〔2Sm11:1-12:25〕ダビデが自分の部下の妻を横取りして自分の妻とした、という話に基づいております。世界中にはいろいろな形の系図があります。多くが男性中心でしょう。そして女性の名前が書いてあったり書いてないものもあります。ですが、望まれる立場の女性の名を記すことがあっても、わざわざ望まれないような女性のことを記すでしょうか。これらの女性の背景には、ユダヤ人としては相応しくない、あまり公にしたくないような事柄があります。

なぜ5名の女性について記されたのか?
 なぜ、この5名の女性について、記されているのでしょうか。それは、神の愛は、律法や人の思い通りには現れない、人の側の「正しさ」という枠にとらわれない、ということが示そうとしているのではないか、と感じています。そして、聖書全般にも現れていると言えます。
 たとえば、不思議なことですが、律法に寄れば、家の権利、家父長制においては、長男が家を継ぐべきと書いています。でも、実は、しかし、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフという父祖たち、族長時代と呼ばれる時代の人々は誰もが、兄がいる弟であって、律法を破っているのです。律法においては、家の権利は、家の長の権利は、長男が継ぐべき、となっておりますが、この4人とも、長男とは言えず、長男が引き継ぐべきという律法、教えを守った者はいないのです。
 そういった意味では、聖書というものには、律法や神の教えといった正しさがある一方で、「人間の現実は、なかなかそのようにはいかないよね。でも、神様はそんな人間も愛してくださるんだよ」っというメッセージが込められているのです。

「正しさ」が求められる世の中
 「正しさ」とは何でしょうか?私の日常生活においても、問題となります。子どもたちに対して、良いことをしたら褒めて、悪いことをしたら怒る、という毎日を続けています。しかし、どうでしょうか?「正しい」行いをすれば褒めて、またご褒美でもあげて、悪いことをしたら、怒る。何も挙げない。そればっかりではないですが、そういうことが続いたら、どうなんだろう?って考えることがあります。良い子だったら得をして、悪いことをしたら、罰せられる。そういうことを続けていたら、子どもはどのように育っていくだろうか?良い子として育っていくだろうか。そうではないかもしれない。親の目ばかり気にする子として、見えるところ、得をするところでは「良い子」「正しい子」であるかもしれません。また、その子たちが他の人に接するときには、どうなるだろうか?やさしくできるだろうか?隣人に対して、正しい事ばかりでは無い。間違ったことをする人もいる。社会的に弱い人、正しくありたいと思っているのに、それが出来ない人、人たちに対して、どのような態度を取るだろうか。
 例えば、あのアドルフ・ヒトラーは、父親から体罰を伴った厳しいしつけを受けていた、ということが知られています。ヒトラー世代のドイツでは、特別なことではなく、広く行われていた教育法で合ったそうなのですが、悪いクセに対して首や腕を固定して姿勢を正したり、何か悪いことをした場合には、きびしく罰するといった教育法(?)だったそうです。しかし、ヒトラーが学んだのは、正しいクセや姿勢や行いではなく、自分をムチ打つ父親の姿そのものだったのでしょう。こうしたことを「闇教育」という言い方をします。そして、その当時のドイツでは、そうした教育法が、主流だった、流行っていたそうなので、名も無きヒトラーたちが数多くいたと考えられます。私もどうだろうか、と考えてしまうことがあります。そうした教育の果て、闇教育の果てには、どのような運命が待っているだろうか。他者に対して、隣人に対して、いわゆる「優しさ」というものを持つことができないのではないだろうか。子どもの成長、人間の成長というのは、複雑なものですから、そうも単純なものではないですが…。
 こんな風に考えてみますと、「正しさ」というのは、重要なことではありますが、それをどのように伝えるのか、どのような「器」で伝えるのか、ということの方が大きな影響を与えるように思います。体罰の課題、大相撲の世界を揺るがしていますが、あそこにも正しさをどのような方法で伝えるか、という方法のみが伝わっていた、と受けとることも出来ます。

「正しさ」の人ヨセフ
 聖書の話に戻ります。イエスの父ヨセフは、彼自身の「正しさ」によって、マリアと離縁しようとしました。この「正しさ」は、律法を守るためではなく、マリアの命を守るためでした。そして、ユダヤ人として理想的ではない系図もそのように言えるかもしれません。人間の現実、律法やいわゆる世の中の正しさだけで、生きているわけではない人という存在の現実を受け止めている。そうした不完全な存在である人間を守ろうという意志がヨセフにあった、そして主なる神にもあったと言えるのではないでしょうか。
 最後にしますが、クリスマスにおいて、ヨセフはなかなか前面に出てくることはありません。しかし、ヨセフがもっていた正しさは、イエスの中に脈々と流れていたのでは無いでしょうか。現代日本において、力をもたない幼子が当たり前の愛情を注がれずに育たざるを得ない状況があります。イエスは、この世に何の力もない赤ん坊として誕生しました。クリスマスは、そのことを祝いますが、何も力のない赤ん坊は、何の力もありますが、その笑顔によって、多くの人々を笑顔にし、そして幸せを感じさせてくれます。誰もが赤ん坊として、この世に生を受けました。しかし、いつの間にか、力や知識やその他の要素によって、また自らの「正しさ」によって人を比べてしまうようになってしまう。
 クリスマスという出来事は、誰でも赤ん坊のように、神の前には何の力もない存在であるけれども、愛されるべき存在なのだ、ということを思い起こす日ではないでしょうか。1年で一番寒い時期、弱ってしまう時ですが、神様が私たち一人一人を愛してくださっているということを胸に、また歩み出したい、と思います。

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『レット・イット・ビー』(ルカ福音書1:26〜38)

2018.12.16(14:45) 383

『レット・イット・ビー』
(2018/12/16)
ルカによる福音書 1:26~38

キリスト教の中におけるマリア
 来週はクリスマス、アドヴェントの時期、私たちはイエス・キリストが誕生したことを記念して礼拝に集っています。今日お読みしましたルカ福音書1章26節から38節は、イエスの誕生をマリアに宣告される箇所、受胎告知と呼ばれている箇所です。いわゆる処女の状態で、聖霊によって身ごもったとされる箇所です。ところで、マリアという人は、どのような人であったのでしょうか。カトリック教会においては、聖母(聖なる母)マリアとして、崇拝の対象、祈りの対象とされています。そして、受胎告知、処女懐胎なども、崇拝の根拠となっています。また、キリスト教が様々な地域に広がっていく過程において、各地における母神(母なる神)崇拝と交わって、広まっていってということが言えます。また実際に当時のユダヤ人の女性が結婚する年齢というのは、13歳から16歳ぐらいと言われていましたから、イメージするよりもずいぶんと若かったのでは、と考えられます。
 しかし、実際のマリアという存在は、どのような人であったのかについては、あまり考えられていないように思います。まず聖書から、時系列的にさかのぼる形で、マリアに近づいてみたい、と思います。マリアが聖書において、最後に登場するのは、使徒言行録における記述になります。使徒言行録1章4節。(P.214)
「1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
 マリアは、最初の教会とも言えるエルサレムの教会につどっていました。またイエスの十字架刑の時に立ち会った場面に登場します。聖書の記述としては、マルコ福音書に「ヨセの母マリア」(Mk15:40)と記されているのが、イエスの母マリアではないか、と考えられています。

わたしは主のはしためです
 今日の箇所においてマリアの前に、天使ガブリエルが現れ、この世の救い主となる子どもが生まれるので、その子をイエスと名付けなさい、と命じます。それに対して、マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えます。主なる神が使わした天使のいうことに対して、そのままに受け入れるということ、とても大きな決断が必要なことと言えますが、どうでしょうか?それを積極的なこととして捉えることも出来ますし、しかし自分とは違う存在に、それがたとえ神であろうとも、運命を委ねるというのは、消極的な姿勢として捉えることも出来ます。いったい、どう考えれば良いのでしょうか?
 マリアは、イエスを産んだときには、「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉に現れているような受け身的な女性として、また母としてのあり方を歩んだのでしょうか。イエスの父であるヨセフはイエスが一人前になる前、旅にでる前には亡くなっていたと考えられますが、一家の大黒柱である夫を亡くした母親として一人、頼りない状況があったからこそ、家を出て行ったしまったイエスを連れ戻そうとしたのでしょうか。そのときには、とても受け身的では子どもを育てられなかったという考えることも出来ます。また、その最後には、イエスの死を看取り、最初の教会の始まりに集ったマリアです。今日の箇所の直後に記されている「マリアの賛歌」には、とても力強い母、女性に姿があります。いったい本当のマリアとは、どのような人だったのでしょうか?

Let it be
 イギリス出身の世界で最も知られたロックバンドであるビートルズ。そのビートルズの名曲「Let it Be」の歌詞の冒頭には、マリアが登場します。
「When I find myself in times of trouble. Mother Mary comes to me, Speaking words of wisdom, "Let it be."」
日本語訳しますと「苦しみ悩んでいる時には、聖母マリアが現れて、貴い言葉をかけてくださる。 “すべて なすがままに” 」〔アルバム『LET IT BE』歌詞カードより〕です。
 この「なすがままに」と訳されている「Let it Be」と、聖母マリアの組み合わせには、先ほどお読みしましたルカによる福音書1章38節の言葉「お言葉どおり、この身に成りますように。」が背景にあると考えられます。38節において「この身に成りますように」と訳されている言葉、幾つかの英語聖書(RSV、NKJV)では「Let it be」という翻訳が用いられています。そして、「Let it be」という言葉を、どのように訳すべきか、ということが議論にもなります。この曲「Let it be」を作詞作曲したポール・マッカトニー自身は、このマリアは、ビートルズの解散を考えて思い悩んでいた時期に、既に亡くなっていた母メアリーが夢に現れたことがきっかけでマリアという言葉を含めた、とコメントしています。
 ビートルズという世界一のグループを続けるべきか、解散するべきか、また自分の進むべき道に関して、思い悩んでいた時期の話です。ポールは、すでに亡くなっていた母メアリーが幻として現れた、と言ってはいます。が、聖書のテキストからヒントを得たのではないか、とも考えられます。それほどまでに追い詰められていた、ということ、また聖書のテキストから、歌詞のヒントを得たのというのも、照れくさく実母のこととしてコメントしたのではないか、とも考えられます。
 「Let it be」という言葉。積極的なある決断、「自分の思いのままに」、前向きに歩み出して「後は野となれ山となれ」といった思いがあったのか。また逆に受け身的に、「運命を受け入れよう」とか、消極的に「なるようになれば良い」とか、その運命に身を委ねる思いであったのか、どちらの理解も出来ます。また、こうも考えることは出来ないでしょうか、その思いが同居している、という捉え方です。私は、「Let it be」のメロディーと歌詞には、積極的であるとか消極的であるとかいう二者択一を超えて、与えられる自らの運命に身を委ねて積極的に歩もうという思いがあると感じます。(ビートルズとしては、同時期に、『Come together』『Get Back』『The Long and Winding Road』という曲もあり、それぞれ思いがゆれていたのが、分かります)

「御心のままに」
 今日の聖書の箇所、マリアの賛歌に込められた祈りと指針の力強さ、と1章38節の「お言葉どおり、この身に成りますように」は相反しない、矛盾しないのではないでしょうか。キリスト教において、このマリアの言葉「はしため」に過ぎない自分を神が選んで下さった、神の御心のままに「この身になりますように」という祈り、受け身的な姿勢、また「控えめ」を美徳とする女性の理想的姿として捉えられてきたように思います。
 しかし、そういった捉え方ではない受け止め方があります。それは、天使ガブリエルの前に対し、自らの運命に対して「御心のままに」と答えた姿、そして「マリアの賛歌」に示されているような信仰的な積極的な姿が共存するあり方です。2つの要素は、矛盾するように感じます。しかし、神の前に対する信仰としては矛盾しないと言えるのではないでしょうか。また、キリスト教信仰の深いところには、神に身を委ねるあり方と自らの積極性が共存する人間の姿があるのではないでしょうか。
 クリスマスは、イエスの物語の最初の出来事です。母マリアは、イエスの誕生時に起こった出来事に基づいて、様々な形で神格化されています。しかし、そうした一つ一つの姿も非常に人間的な要素である、といえるのではないでしょうか。イエスは、この世に何の力もない赤ん坊として誕生しました。クリスマスは、そのことを祝いますが、何も力のない赤ん坊は、何の力もありますが、その笑顔によって、多くの人々を笑顔にし、そして幸せを感じさせてくれます。誰もが赤ん坊として、この世に生を受けました。しかし、いつの間にか、力や知識やその他の要素によって、人を比べてしまうようになってしまっています。クリスマスという出来事は、人は赤ん坊のように、神の前には何の力もないけれども、誰かを笑顔にすることが出来る、ということを思い起こす日ではないか、と感じています。「御心のままに」とガブリエルに答え、自らの運命を神に委ね、積極的に歩み出したマリアの信仰を胸に新しい一週間を歩み出したい、と思います。


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『信仰を持つことと行うこと』(ルカによる福音書9:37〜43a)

2018.11.18(16:12) 382

『信仰を持つことと行うこと』
(2018/11/18)
ルカによる福音書 9章 37~43a節

奇蹟物語の核について
 今日の奇蹟物語、癒された人は、イエスのもとにやってきた父親の息子であります。そして、病としての症状は、39節に記されています。
「9:39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。」
 そして最初、イエスの弟子たちに頼んだのですが、できなかった(9:40)。であるから、その師であるイエスのもとにやってきて、癒してくれるよう頼んだ。そして、イエスが語ります。9章41節。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」と。
 そして、イエスがその子どもを連れてくるように述べ、連れてきた子どもを癒す、という流れになっています。

福音書を解釈すること
 今日のテキストは、ルカ福音書9章37節から43節前半です。そして、この箇所には、マタイとマルコそれぞれに平行箇所が存在し、大まかな流れについては重なっています。それは、もともとのマルコの記事を、マタイとルカの記者が、自らの福音書を記す作業の中で、マルコのテキストを見ながら、足りないと思った内容を書き加え、また、必要ないと思った箇所を削りながら、書き写したので、物事の順番というのは、なかなか変わりません。
 しかし、書き加えたり、削ったりした箇所はわかりません。そして、それらの違いを比べてみますと、各福音書が、この奇蹟物語をどのように受け取ったのか、ということを知ることができます。そして、その受け取り方というのは、同時に、福音書の読み手に対して、物語をこのように受け取って欲しい、という思いにも重なります。

マルコにおける強調点
 マルコ福音書における平行箇所、マルコ福音書9章14節から29節を開いてみましょう。(P.78)まず、ルカに比べて、ずいぶん長いことに、まず気がつくでしょう。2倍以上はあります。そしてルカに見られなかった二つの要素に注目したいと思います。一つは、マルコ9章14節。
「9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。」
 ここで議論をしていることは何でしょうか?律法学者も当時は、医者のような役割を持つ人々です。そして、イエスの弟子たちも律法学者たちも、この息子を癒すことができなかったのでしょう。そして、なぜ癒すことができないのか?と議論していた、と。
 そして、もう一カ所、最後の箇所、9章28節29節です。(P.79)
「9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」

マルコにおけるポイント
 マルコにおける、この最後の記述、「祈りによらなければ」この種の癒しの奇蹟を行うことはできない、とは、どのような思いが込められているでしょうか。ここで言われている「祈り」とはどんな祈りなのか、ということです。様々なとらえ方ができます。しかし、そのとらえ方の材料、要素を、今日のお話とするのであれば、奇跡行為、幼い子どものいやしのためとは言え、弟子たちにしろ、律法学者そして父親も含めて、自分の信仰の力によって何かをなそうとする姿勢は間違っている、ということではないでしょうか。
 マルコ福音書において、常にテーマとしていることに、弟子批判、使徒批判があります。使徒であろうと、どのような偉い人(?)であろうと神の前には同じ人間、ということ、カリスマ主義、つまり権威主義があります。弟子たちにしても、律法学者にしても、何らかの立ち場や権威によって、主なる神の力、癒しを実現することはできない、と言ったことを示そうとしているのではないでしょうか。その上で「祈り」は何を表しているか。神の前に、従順であること、謙遜であることを示そうとしているのではないでしょうか。

マタイによるポイント
 またマタイ福音書について考えてみたいと思います。マルコと同じように、マタイにおいて特徴的な点を挙げてみたいと思います。マタイ福音書17章14節から20節です。(P.33)マタイにおいて特徴的な記述は、一番最後の箇所、17章19節と20節です。
「17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」」
 マタイにおいて、信仰には、濃い薄いがあるもの、また信仰の大小があるものです。そして弟子たちが人を癒やすことができないのは、信仰が薄いからだ、と。マタイにおいて、イエスは最高のラビ、最高の教師です。そして弟子たちは、教師と同じようになるべく、教師を超えるべく、研鑽を積む存在、学ぶべき存在です。信仰を、そうした積み重ねの中において、より厚くなるもの、より濃くなるものという理解をしているのでしょう。
 「信仰によって山が動く」ように「祈りによって人が癒やされる」ということは実際にはなかなか起こることではありません。また、これは面白い例なのですが、マルコの祈りの言葉の部分に、紀元3世紀のある写本で、「断食」という言葉が付加されているってことがありました。
 「祈りと断食によらなければ…」というかたちにされているものもあるのです。どうしても「祈り」だけでは、「病い」を癒やすことが出来ない、という状況がある中で書き加えられたのでしょう。

ルカによるポイント
 そして最後のルカ福音書に戻りたいと思います。ルカ福音書9章41節をお読みします。
「9:41 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」」
 この箇所は、三つの福音書すべてに、ある要素です。「いつまでわたしはあなたがたと共にいて」というのは、イエスの受難と復活を思わせる記述であります。そして、「我慢しなければならないのか」とありますが、不完全な弟子たちを指しての言葉であります。また、信仰について、「ない」という言い方をしております。イエスにとっては、信仰は「あるなし」なのか、ということもできるでしょう。
 昔の本ですが、丸山真男さんという東大教授だった方の作品で、『日本の思想』という新書があります。その中に、評論で「『である』ことと、『する』こと」という作品があります。日本の近代化について、論じている書籍で、論ずることが難しいものですが、私なりに表現してみますと、江戸時代からの明治、大正、昭和に至る中で、時代の移り変わりの中で、日本人は自らの捉え方を変える必要が出てきた、といった内容と言えます。江戸時代において、封建社会ですから、武士の子は武士の子、農民の子は農民の子、そして商人の子は商人の子として自分について考えることなどなかった。
 しかし、明治大正昭和と時代が変わっていく中で、自らは誰であるのか、何になるのか、ということを考える必要が出てきた。また、昭和になると完全に自由になったかと言えば、自由には義務が生まれてくる、ただ生まれた時から日本人というだけではなく、日本人としての義務、なすべきことが出てきた。
 そうした中で、「『である』ことと『する』こと」というのは、江戸時代においては、日本人で「ある」ことを考えずにすんだ。そのままで日本人だから、しかし開国し、近代化を果たすと、日本人として「すること」、近代人として「しなければならないこと」が求められるようになった、と言えるのでしょう。
そして現代においても違う形で、新しい「日本人である」こと、日本人ならば「する」べきことが求められる時代になってきた、と言えるのでは無いでしょうか。

信仰を持つこと、行うこと
 最期に、ルカにおける信仰について触れて終わりたいと思います。ルカにおける信仰とは、基本的に、何かをすること、何かを明らかに宣言すること、と言えます。なぜならば、マタイにしても、ルカにしても、イエスを信じる、キリスト者になる、というのは、あくまでユダヤ教という基礎、ユダヤ人という基礎から改革という性質を持っていると言えます。しかし、ルカにおいては、そうした背景はなし。異邦人対象に書かれていると言えるのです。ルカにおいて重んじられるキーワードに「悔い改め」がありますが、あくまでユダヤ教の悔い改めではなく、自分中心のあり方から神中心のあり方に変わることであったと言えます。また、そうした意味において、例えば、「善きサマリア人」のたとえや「ザーカイ」の逸話も捉えられるのです。
 今日の最後の箇所、9章43節をお読みします。
「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」
 今日の奇跡をルカ福音書は、どのように捉えられるか、と言えば、神の力の徴としての側面が強いと言えます。マタイにしても、マルコにしても、奇跡物語について、あるべき信仰者の姿のテキスト、手本としての読まれることが求められているのに対して、ルカにまったくそうした視点はないと言えます。ルカは、イエスの奇跡を神の恵みの実現として、神の偉大さの実現として、読み手に対して、信じるか否か、悔い改めるか否かという問いを投げかけています。そして、神に立ち返るという意味での「悔い改め」を宣言すること、何かを明らかにすることを理想的な信仰者、キリスト者と捉えています。そして、さらに弟子たちのように、善きサマリア人のように、マリアとマルタのように、信仰を心の問題にせずに、信仰に基づいて、具体的に何かを「する」こと、何かを「行う」こと、他者に明らかにすることを求めているのではないでしょうか。


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周縁自体


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『風立ちぬ、いざ生きめやも』(マルコ福音書6:45〜50)

2018.10.25(09:33) 381

『風立ちぬ、いざ生きめやも』
マルコ福音書6:45〜50

なぜイエスは通り過ぎたのか
 マルコによる福音書6章45節から50節において、イエスさまに促されてか、弟子たちはイエスさまを残して、ガリラヤ湖という湖に船を出しました。ガリラヤ湖はパレスチナ地域の北部にある湖で周囲50Kmほどの湖です。その周りにはイエスの出身地であるナザレや弟子たちが育った町がありました。弟子たちは、その湖に船を出したのですが、そのまま夜になりました。その時不思議なことが起こりました。今日の箇所、マルコによる福音書6章48節から49節をお読みします。
「6:48-49 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」
 読んでみて、当たり前のことですが、不思議なことがあります。それはイエスが湖の上、水の上を歩いた、ということです。そして、もう一つ不思議な出来事があります。それは、イエスがその弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」ということです。弟子たちが湖の上で「漕ぎ悩んで」います。イエスさまには12人の弟子たちがおり、弟子たちの中には魚を捕る漁師が4人もいたはずです。船を操作することに関しては、誰にも負けるはずがない仕事です。しかし、その彼らが、船で漕ぎ悩んでいた。よっぽどの状態であったと言えるでしょう。で、イエスさまが「湖の上を歩いて」弟子たちの所へやってきた、弟子たちは「幽霊だ」といって驚いています。そりゃあ、驚くでしょう。しかし同時に、イエスさまはその奇跡的な力で自分たちを助けてくれる、と思ったでしょう。が、イエスさまは通り過ぎて、行ってしまったというのです。なぜでしょうか?とても不思議なことと言えるのではないでしょうか。また、イエスはどこに行こうと思っていたのでしょうか。

復活伝承として
 またもう一つ不思議なことがあります。それは、弟子たちが「幽霊だ」と叫んで、イエスを恐れている点です。変な言い方ですが、イエスが死んでいない、とすれば、またイエスが生きていた、とすれば非常に不可解な言動です。ギリシャ語のニュアンスから「幻だ」という解釈もありますが、もう一つの解釈を紹介したい、と思います。それは、この物語、逸話自体、イエスの十字架刑の後に起こったイエスの復活の記事、復活伝承ではないか、という解釈であります。
 福音書の物語は、様々な口伝伝承が組み合わされて出来た物語であります。そして、そうした口伝伝承はバラバラでしたから、順序もなかった。そして本来、この物語が、もしも、福音書の十字架刑の後の伝承が今の形になって、ここに収められていると考えてみると、弟子たちが「幽霊だ」という叫び、そしてイエスが弟子たちの舟を通り過ぎようとした、という不可思議な点も納得がいくのです。
 マルコによる福音書の最後の箇所、16章7節にはこのような言葉が記されております。
「16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」(P.97)
 「先にガリラヤへの行かれる」という言葉にしたがってガリラヤへ行った弟子たちとイエスの出会いの記事、として、この出来事、逸話を捉えることはできないでしょうか。

風立ちぬ−堀辰雄の場合−
 今日の説教題、「風立ちぬ、いざ生きめやも」としました。昭和初期に活躍した堀辰雄の小説、「風立ちぬ」から、引用しました。堀辰雄には、結核を患った恋人がいました。結核とは今の時代ではなくなる人はいません。しかし、昭和初期においては、治療することが難しい病でした。その恋人と、サナトリウムという空気の綺麗な山の中にある病院と過ごした日々を描いた作品です。
 その最初にこの詩が、記されていました。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。もともとはフランス語の詩を訳した言葉です。わかりにくい言葉で、誤訳では無いか、という話もあります。が、おそらく堀辰雄さんとしては、「風が吹いた。さあ、生きようではないか」とか「風がふく。生きることに挑戦しなければならない」といった意味を込めたのではないか、と思われます。もともと、現実生活の中で、堀自らも肺を病んでおり、恋人と同じサナトリウム(病院)へ入院して、回復を願っていました。しかし、恋人は亡くなってしまい、自らは生き残った。そこから生きる、という歩みを、再び歩み出そうとするとき、自らの体験を小説に徴ながら、辛い日々ではあったけれども、今一度振り返るためにこの小説を記したのではないか。また、改めて「風立ちぬ、生きめやも」、「風が吹いた、生きていこうじゃないか!」と自らを奮い立たせて、新たな歩みを始めようとしたのではないか、と感じております。

風立ちぬ−堀越二郎の場合−
 また、「風立ちぬ」という題名、つい5年前、スタジオジブリの宮崎駿さん監督のアニメーション映画作品として描かれました。その作品の中での主人公は、堀辰雄さんともう一人、堀越二郎さんという人の人生が組み合わせられた形で描かれていました。堀越二郎さんという人は、旧日本軍の戦闘機だったゼロ戦の設計者でした。ちなみに、ゼロ戦は、愛知県の名古屋市の港区で設計されました。
 そしてゼロ戦の設計者を描くということで、戦争を賛美するのか、ということで、アジア諸国から批判がありました。そんなこともあって、私は、ジブリ映画が大好きだったこともあり、機械モノが好きだったこともあり、いろいろ調べてみました。すると、ゼロ戦について、堀越二郎さんがどのように考えていたのかがわかるようになってきました。
 ゼロ戦、正式には、零式艦上戦闘機と言います。零というのは、数字のゼロのことで、完成した年を示しています。1940年に使われ出したことから1940年のゼロを取って、「零式…」、ゼロ戦となったわけです。1940年の開発当時は、圧倒的な性能を誇っていました。日中戦争においては、その航続距離の高さから重慶の爆撃にも参加し、また運動能力の高さから、ほとんど打ち落とされなかったそうです。しかし、1945年の敗戦に至るまで、アメリカ軍の戦争機は、どんどん性能を上げていくのに、くらべてちょっとした改造を加えていくだけで、あまり発展せず、戦争末期には、時代遅れの機体であったと言うことができます。また開戦当初は、ベテランパイロットがたくさんいましたので、当然、ゼロ戦も強かった。しかし戦争が進んでいく中で、アメリカ軍や他の国の戦闘機の性能がどんどん上がっていく中で、ベテランパイロットが命を落としていく。またゼロ戦も敵国から研究されてしまう。そして防御が弱いという特徴が明らかにされる。戦闘機は燃料タンクとパイロットが弱点で、普通は分厚い鉄板で守られるわけです。しかしゼロ戦は、そうした防御を減らすことで、機体を軽くして、性能を上げていたから、それをすると弱くなってしまう。
 そして、どんどん外国に性能は抜かされていき、ベテランパイロットも少なくなっていく。経験の浅いパイロットしかいなくなってしまう。そして航空機、戦闘機同士の空中戦で、旧日本軍は勝てなくなってきた。そんな状況の中で、いわゆる特攻攻撃、特攻隊という発想が出て来る。ベテランパイロットたちが減っている状況です。ですから、特攻隊の隊員という人は、だいたい若い人たち、更にパイロットとしての経験も少ない人たち。訓練期間も普通は、1年ぐらいだったのが、戦争末期には半年になり、初陣(初めての戦闘)が、特効という場合もある。
 そんな状況を、堀越二郎さんは、とても苦しい思いをもってみていたそうです。ゼロ戦の改造はするけれども、海軍も余裕が無くなってきているという状況。自らが設計した機体で多くの若者が命を落としていく状況に対して、とても悔しい思い、苦しい思いをもっていたそうです。しかし、戦時中ですから、そうしたことを発言することは、即、非国民として糾弾される可能性もあり、できなかった、と。

誰もが状況を抱えている
 アニメーション映画の題材となった堀辰雄さんと堀越二郎さんの歩みについて触れさせて頂きました。ゼロ戦の設計者である、堀越二郎さんをモデルに映画を作ることについて、批判もあることは予想もできたでしょう。しかし宮崎駿さんは題材にすることにしました。そこで何を描きたかったのか。私はこんな想像をしています。
 映画の宣伝用のキャッチコピーは、「生きねば」とされています。また現在、『君たちはどう生きるか』の映画化に着手されています。おそらく、宮崎駿さんとしては、今という変化の大きな時代の中において、様々な状況の中で生きなければならない人という存在に対して、映画の観客に対して、「生きる」とはどういうことか、あらためて考えて欲しい。自分の意志で生きるということはどういうことか、ということを考えて欲しいと思っているのではないか、と思うのです。私たち、生きる場所ぐらいは選ぶことはできます。しかし、生きる時代や状況を選ぶことは、現実的に言えば、なかなか難しいと言わざるを得ません。(戦争、夢、時代、病気、恋人を失うということ)

教会の歩みとして
 今日のテキストのお話に戻ります。イエスさまが十字架刑にかかり復活した後、弟子たちがどのような歩みを果たしたのか、細かな歴史的な事実として知ることは出来ません。しかしエルサレムにおいて教会としての歩みが始まったことは使徒言行録から知ることができます。今日のこの箇所が、イエスの十字架刑とエルサレムにおける活動の間にあったとしたら、どんな話だっただろうか、と想像して、この箇所を味わってみたいと思います。
 イエスの十字架刑の後、墓にイエスを納めた弟子たちは、イエスに「ガリラヤで会える」という言葉を頼りにして、ペトロを中心として、ガリラヤ湖湖畔の町、ベトサイダに帰ってきました。しかし、イエスに会うことはできません。時間は経っていきます。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟はもともと漁師さらに網元だったので、家には舟もあったので、漁に出るようになりました。弟子たちは、イエスさまのことが心残りといえば、心残りでした。この世の救い主だと思っていたのに、なぜイエスさまは逮捕されて、十字架刑で死ななければならなかったのか?自分たちが信じたイエスさまは何者だったのだろうか。
 でも更に、不思議なことは、イエスさまの遺体を納めたはずの墓は空だった、遺体はどこに行ったのだろう。さらにあの墓には見たことも若者がいて、マグダラのマリアと何人かが出会った。そしてその若者が言った言葉。「『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」あの言葉の意味は、どういう意味だろう。なにか起こるのだろう。そんな思いを持ちながら、舟に乗って、漁をしていた。ある日一晩中、漁をしていたけれども、何も取れない。明け方になってきた。しかし強い風が吹いて、港へは、なかなか戻ることが出来ない。どうしよう。帰ることが出来ない。と、思っていると、水の上のはずなのに、誰かが近づいている。誰が?いや、何故?…なんと、イエスさまが、歩いて近づいてくる。こちらへやってくる。誰かが叫び声を上げた。死んだはずなのに、なぜ?幽霊か?いったい何が起こったのだ?どうしたんだ?そして、どこへ歩もうとされているのだ…。

なぜイエスは弟子たちの前を通り過ぎたのか
 舟は教会のシンボル、象徴であります。弟子たちはガリラヤへ帰ってから、いわゆる一般的な漁師の生活に戻ろうとしていたのでしょう。しかし、嵐に遭い、動けなくなっているところへ、十字架刑で亡くなったはずにイエスが現れ、自分たちの所でもなく、自分たちが進もうとしている所でもなく、通り過ぎて遠ざかっていこうとしています。
 イエスは、どこに向かって歩もうとしていたのでしょうか。それは、弟子たちが歩むべき道であったのではないでしょうか。嵐の中での出来事、弟子たちにとって、「風」であり、イエスの歩みは、新しい道を「生きるのだ」という呼びかけ、メッセージだったのではないでしょうか。
 新しい状況の中で、自分たちが歩もうとする道に思い悩むこともあるでしょう。そんな時、イエスさまは私たちの前に新しい道を示してくださるのではないでしょうか。弟子たちにとって、イエスの復活とはそんな意味もあったのではないでしょうか。


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