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『内面における黄金律』(ルカ福音書 6:37~42)

2017.03.20(14:30) 340

『内面における黄金律』
(2017/3/19)
ルカによる福音書 6章37~42節

イエスの黄金律の特徴
 今日の説教題、「黄金律」という言葉が含まれています。そして、キリスト教的には、イエスが語ったルカによる福音書6章31節の言葉、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」が黄金律として知られている言葉であります。しかし、ただ単に黄金律といっても、イエスの言葉だけのことではない捉え方もあります。古くは紀元前20世紀のエジプトにも見いだされ、他の宗教や文化、またイエス以前のユダヤ人、聖書の中にも、黄金律は存在していました。いくつか紹介します。(Wikipediaより)
 続編(第二正典)に含まれているトビト書4:15にはこのような言葉があります。
「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」
 また、ユダヤ教のラビの言葉にも現れます。ファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉。
「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」
 そして、他の宗教や文化でもあります。ヒンドゥー教の教え。(『マハーバーラタ』)
「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」
 イスラム(教)におけるムハンマドの言葉。(「ムハンマド遺言」)
「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」
 さらに孔子の論語にも存在します。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」
 イエスの言葉を含めて、これらすべて、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれている教え、指針です。インターネット上の辞書、Wikipediaには、このように記されています。
「(おうごんりつ、英: Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。現代の欧米において「黄金律」という時、一般にイエス・キリストの「為せ」という能動的なルールを指す。」
 後半に記されていることですが、イエスの言葉以外の他の黄金律は、「〜するな」という形、否定的な形になっています。そしてイエスの言葉のみが、能動的な形(なせ)という形になっています。しかし、この違いは小さなものではなく、とても大きなことではないでしょうか。

黄金律の捉え方
 「自分がしてもらいたくないことは、他者にもするな」という否定形における黄金律。たしかに、そのこと自体は、とても納得できることであります。良いことと悪いこと、いわゆる倫理観というものは、様々な文化や風土などに影響に受けます。しかし、人と人の間のことですから、「自分がしてもらいたくないこと」を基本とすれば、事細かな法律なども必要なく、ある程度の考え方や文化の違いなどがあっても、共有できるルールとなるということがあります。そして、そのルールを破ってしまった罰として、有名なハンムラビ法典にもある「目には目を、歯には歯を」があって、その精神として、人に何らかの危害を加えたら、加害者にその危害と同等の罰を与えることができるというもの、黄金律に基づいた考え方ということが出来るのではないでしょうか。
 しかし、イエスの言葉でもある、「自分にしてもらいたいことを、人にもしなさい」という肯定形における黄金律というのは、そんなに単純な話にはならないのではないでしょうか。イエスの語った黄金律は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」(ルカ6:31)です。「人にしてもらいたいこと」とは、自分の価値観です。そして、一つの問いが出て来るわけです。ただ単に、自分の価値観だけで人にしてもらいたいことをやっていて、人に喜ばれるだろうか、ということです。自分の価値観でしてもらいたいことが、本当に自分ではない人、隣人にとってもしてもらいたいことなのだろうか、という問題です。「余計なお世話」とか「人に関わりたくない」とか感じる人がいるだろう。と、考えてしまうと、こうしたことをした方が良いだろうなあ、と思っても、迷惑がられたら、嫌がられたら、どうしよう、という気持ちから体が動かない、ということもあるでしょう。そんな風に考えてみますと、否定形の黄金律と肯定形の黄金律における違いは、小さくない、ということが見えてきます。

神の倫理と愛敵の教え
 そんな特徴を持つイエスが語った「肯定形の黄金律」。その言葉が持つ課題の大きさからなのか、イエスを信仰する人々、弟子たち、孫弟子たちなどの様々な伝承課程を経て、様々な捉え方がされてきたことが、マタイとルカの記述から知ることが出来ます。マタイ福音書7章9節から12節。(P.11)
「7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
 マタイにおいて、イエスの黄金律は、神の教える倫理として、キリスト者が実現すべき倫理として、捉えられています。更に、そのことは、黄金律の直後に「律法と預言者である」という言葉があること、これは旧約聖書全体のことを指す言葉であり、黄金律ひとつで(旧約)聖書全体に値する価値があるといっているのです。
 そして、ルカ福音書においては違う捉え方がされています。ルカ福音書6章27節から31節(P.113)
「6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
 ルカにおいては、愛敵の教えの実現として捉えられています。マタイが聖書全体をさすような重さとは少し違いますが、愛敵の教え自体、かなり広く理解できる教えですので、とても重んじられていると言えます。

黄金律をなす主体として
 前置きとして、長々とイエスが語った黄金律とその捉え方について触れてきました。今日の箇所は、イエスの黄金律が含まれていたルカにおける「愛敵の教え」に続く箇所であります。ルカ福音書6章37節をお読みします。
「「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
 続く38節にも赦しに関する勧めがあり、それらは自分が神から赦されるためである、38節後半にある「自分の量る秤で量り返されるから」という理由が説明されています。
 ルカにおいて、人を赦すことは神から自らの罪を赦してもらうためであります。そして、マタイにおいては微妙に違うのですが、神が人の罪を赦してくれる方がからこそ、あなたも人を赦しなさい、という勧めになっています。そして、これらのことは、イエスが語ったメッセージ、神の国(支配)は始まっている、神はどのような人であっても愛を注いでくださる、人は誰でも神から赦されるというメッセージに重なります。

外側における黄金律の課題
 しかし、まだここに至っても、先ほども触れました難しい問題があります。それは「自分がしてもらいたいということは、本当に他の人もしてもらいたいだろうか」という問題です。現代社会においては、知らない人同士が具体的な人間的な触れ合いをするということは難しい社会です。私などの経験では電車に乗っている時、駅のホームにいる時など、人助けのために声をかけることもあります。が、だいたい断られたり、煙たがられたりする経験ばかりです。そういう社会になっているからでしょう。また、そのようなまったくの他人との関係でなくとも、身近な存在だからこそ、そうした働きかけが難しい関係があることもあります。親族や友人たちでも一度、関係が壊れてしまったり、切れてしまったりした関係の中においては、そうした働きかけは大きな困難を覚えることではないでしょうか。

内側における黄金律
 今日の箇所の後半部分をお読みします。ルカ6章41-42節。
「6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 人のことを評価するとき、良いか悪いかなど判断する時、まず自分はどうなんだ?ということを考えなさい、という勧めです。そして、たしかに、「人にしてもらいたい」と思われることを人にするには、そんな自分の姿、自分の有り様をまず考えなければならないのではないか、と考えさせられます。キリスト教文化圏では、富裕な人々が自らの財産、様々な慈善事業に用いる、ということが当たり前のように行われます。それらの行動も、現代社会における黄金律の実践として捉えられるでしょう。

イエスのもつ平等主義の根拠
 イエスは、なぜこのような教えを述べたのでしょうか?推察できるのは、徹底的な平等主義に立っているということではないか、と考えています。人としての彼の歩みを考えれば、こういうことでしょう。ユダヤ人として生まれ、ユダヤ的な教えに基づいて育ったイエスです。ですが、成長する過程の中で、ローマ人やサマリア人とも触れ合ったこともあったでしょう。そうしたとき、「否定形の黄金律」では、何か上手くいかないことがあったのではないでしょうか。また、キリストとして、律法の解釈者として考えれば、神への愛と隣人への愛を説きました。隣人への愛の究極の姿とは、利己的、自己中心的な愛の形ではなく、他者中心的な愛の形こそが、本当の意味での愛と言えるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは、私たちに「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい。」と勧めました。しかし、他者への働きかけを勧めたはずのこの言葉は、まず自分たちへの問いかけとなるのではないでしょうか。また合わせて、その隣人との関係はどのような関係なのか、その隣人をどのように捉えているのか、受け取っているのか、ということが、問いとして浮かび上がってくるのではないでしょうか。

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『共感共苦共同体』(ローマ12:9-21)

2017.03.16(21:42) 339

『共感共苦共同体』
(2017/3/12)
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

哀しみの記憶
 2011年3月11日に起こった東日本大震災から、昨日で、ちょうど6年の時が過ぎました。時の流れの中において、徐々に悲しみの記憶が薄れていくということ、また過ちの過去というものが薄れていくことが感じます。しかし、身近な人、家族を亡くした人などにとっては、なかなかその記憶が薄れる、ということはないでしょう。またその中で、震災遺構についてどうするのか、という課題があります。津波によって陸に打ち上げられた船や避難ビルといった震災遺構を、残すべきか、それとも消し去るべきだろうか。このような言葉を聞きます。「家族の死を思い出すので、無くして欲しい」。
また、こんな言葉もあります。「風化してしまうので、残して欲しい」。当然の言葉です。そこで考えてみたいのです。医療と言っていいのか、技術と言っていいのか、人間の記憶が、瞬時に消せるような医療行為や技術が開発されたらどうでしょうか。

理想的な支援とは?
 私は、6年前の2011年3月11日に起こった東日本大震災の後、大きな顔は出来ませんが、2度、被災地を訪ねました。一度目は震災から2ヶ月後の5月、まだ地震や津波の被害の傷跡が生々しく残っていたときでした。そして2度目は、それから半年ぐらい経った時期、釜石市と仙台市で支援のためのボランティア活動に関わってきました。そのときのボランティアリーダーや被災者の人々たちと話をしながら、感じたことがあります。それは、本当に辛い状況にあるときこそ、なかなかボランティアの団体や人に「手伝って欲しい」「助けて」と言えないのだ、ということでした。
 釜石市でのボランティア活動をしていたとき、津波の被害に遭った喫茶店の清掃を行ったことがありました。震災から半年が立っていましたが、まったくの手つかずの状態です。津波は2階の天上の高さまで来たそうです。家財道具全てがゴミと化してしまったものを、すべてを出さなければならない。2階の押し入れの中の衣装ケースには海水が残っていました。そうしたものをまる1日かけて、すべてのゴミを排出しました。また、こんなことがありました。最初、ボランティアとして働く前に、ボランティアコーディネーターより、なるべく遺族に家族の話は聞くべきではない、触れるべきではない、と。しかし、一緒に行ったあるボランティアの方が、喫茶店のマスターのパートナーの遺品をもらう、ということがありました。しかし、どうしても、ということで、コーディネーターと相談して受け取ることにしました。それから連絡先を交換して、その後も続く関係となりました。そんなときに判断する尺度となったのが、その時だけではなく、その後も繋がりを持つ、ということでした。(いろいろな考え方があると思いますが)

パウロの活動の三つの柱
 今日のテキストは、パウロの書簡を選びました。その中でも、わたしが特に心惹かれる言葉は、12章15節です。
「12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」。
 パウロの活動は、三つの内容を持っていたということが出来ます。そして、それら三つは、この言葉の実現として捉えることが出来るのではないか、と感じています。一つ目は、主イエスを「救い主」として、「キリスト」を神の子と信ずる人々を広げること、つまり「宣教」「伝道」と言われる働き、その徴として、その実現の場として教会を建てることです。
 そして二つ目が、牧会と言われる行為、一つ一つの教会の中にある人々の悩みや課題に答えること、また様々な意見の違いや争いを正しい方向へ導いていくこと、そうしたこと心を砕いていました。そうした事柄に対する具体的なアドバイス、助言が私たちが知る聖書に収められている彼が記した手紙であります。
 そして最後、三つ目は、数多くの教会の間をつなげる活動であり、それは貧しい教会のために献金を集める活動であり、現代において当てはめれば、様々な献金活動、経済的な支援活動がそれに当てはまるでしょう。パウロは、具体的には、エルサレムにある教会を支えようとして多くの教会で献金を集める活動をしていました。エルサレムにある教会は、イエスの直接の弟子、ペトロなどの使徒がいた教会です。しかし、ユダヤ人社会の中における活動はとても厳しく、貧しい状況にあり、支援を必要としていました。
 そして、その支援の活動は、エルサレムを中心とした、1対1の関係だけを築くだけではありませんでした。横のつながり、様々な人の往来をさせること、弟子たちを派遣したりもしていますが、それらもそうした活動に一つでありますが、多くの都市に別々の存在していた教会を「一つの教会」にしていくこと、教会が、一つの「キリストの身体」であることを証していくための活動であったと言えます。

パウロの思い
 パウロは、コリント教会に送ったコリントの信徒の手紙Ⅰにおいても、同じような言葉を記しています。Ⅰコリント書12章26節。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
 第一コリント書は、パウロが教会の中に様々な違い(階級や宗教的信仰心)によって、分裂状態であったコリント教会の人々が和解へ向かうために記したものです。そして、この箇所自体は、教会とは、キリストの身体である、ということ。
そして、そこに集う人々は、いわば一つ一つの身体の部分である、ということをのべます。そして、その流れの中で、よく知られている愛に関する言葉は記されているのです。第一コリント13章13節。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 現在では、結婚式などで用いられる箇所であり、愛といえば、夫婦や恋人の間のこととして捉えられがちですが、実はパウロ自身は、教会の中における信徒同士、キリスト者同士の関係の中で、この言葉を記しているというのは興味深いことです。

共感共苦共同体
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という言葉。これにはキリスト教会の中における教会と教会、また人と人の理想的な有り様が示されています。しかし、原点には、パウロが行った宣教、伝道の力、思いがあったと捉えることが出来るのです。この世に生きる人は、誰でも不安や心配があります。教会自身がそういう人の不安や心配に寄りそっているだろうか、ある種の答えを持っているだろうか、ということが宣教、そして伝道の指針であり、それを実現していくことが、宣教であり、伝道ではないでしょうか。
 そして、教会の理想的なあり方とは、外側に対して、共感共苦がなされているだろうか。内側においても、共感共苦が実行されているだろうか、ということが、教会の活動の一つの尺度になると言えるのではないしょうか。教会という場所は、キリスト教に基づいて立てられた場所であります。誰もがそれぞれのキリスト教信仰、またキリスト教、教会に対する思い、期待に基づいて人々は集っています。しかし、信仰心は現れ方が異なるように、1人1人、違いがあり、時に同じキリスト者であっても、クリスチャンであっても、同じ教会の仲間であっても、敵対してしまったり、憎み合ってしまったりすることがあります。
 憎み合う関係とは、敵対する関係というのは、どんな関係か、と言えば、パウロの言葉の逆になってしまうことです。その敵対者の「喜び」を憎み、その敵対者の「悲しみ」を喜ぶ関係のことではないでしょうか。また、「共感共苦」という言葉は、ただ人の思いに寄り添うだけでなく、共に苦しむ、という内容を含んでいます。喜んでいるときや楽しいときには、仲の良い友だちでも、苦しくなったときに、離れていってしまう友だちは本当の友人とは言えないでしょう。

最後に
 今日から教会暦でいえば、受難節に入りました。キリスト教信仰において、重要なイエスが受難の道を歩み、十字架刑によって命を落としたことに思いを寄せる期間です。イエスは、私たちの罪のため、罪を贖うため、私たちが負わなければならない罰を代わって、負って下さりました。
 子どもへのメッセージで、ロボットの話をしました。家族を失った哀しみにくれているロボットは、失った家族の記憶を消去、消すことを断りました。東日本大震災から6年、人類の技術が進んだからといって、誰も自らの家族が失われた記憶を消すことを選ぶでしょうか。そんなことはないでしょう。自らの哀しみを消すということは、自分自身を否定するということにもつながります。
 また、わたしたちは主なる神に対して、イエスさまに対して、震災の被害を被った時、家族を失った時など、どのように祈るでしょうか?消してください、とは祈らないでしょう。「癒やされるように」という祈りは、同時に、その人の隣人となって「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」ことではないでしょうか。その隣人の喜びを喜び、その隣人の悲しみを悲しむこと、そうした積み重ねの場が教会である、また教会の役割ではないでしょうか?
 そして、イエス自身もそのような人であったからこそ、私たちの罪を負って十字架への道を歩んだのではないでしょうか。受難節のこの日々、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」宣教者であったパウロ、「喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ」神であった主イエス・キリストの十字架への歩みに思いを寄せて、歩みたい、と思います。

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『キリストはどのような存在なのか』(マルコ福音書8:27~33)

2017.02.19(21:38) 338

『キリストはどのような存在なのか』
(2017/2/19)
マルコによる福音書 8章27~33節

救い主とは何者か
 ここ何年か、追いかけている学者さんで、安冨歩(あゆみ)という方がおられます。最初に私が手に取った著書は『ハラスメントは連鎖する』というものでした。彼は東大の教授で、元々は経済学の専門家で、『満州国の経済』というテーマで経済学の関係の賞を取って、様々な著書を記すようになりました。ですが最近は、女性装をしている東大教授ということで注目され、テレビにも出るようになりました。それからも、ハラスメントの問題や、教育関係にも繋がるような著作を興味深く読んでいます。
 その安冨さんが行ったある講演の中で、アメリカの最も有名な歌手であるといえるマイケル・ジャクソンの話をしてくださいました。安冨さんは『マイケル・ジャクソンの思想』という本を記されたのですが、帯には、こんなコピー(言葉)が記してあります。
 「キング・オブ・ポップ”が名曲に託した魂のメッセージを東大教授が読み解く! MJは救世主である」
そして、さらに裏側には、このように書かれています。
「私は、彼が20世紀最大のエンターテイナー、芸術家、慈善活動家であるばかりではなく、最大の思想家の一人であるという結論に到達した。彼の作品は、その思想を厳密に表現するために、完璧に構成されている」
と。
 その中で、救世主とはどのような存在か、という話があったのですが、だいたいの内容は、このようなものでした。救世主とは、その人1人のことでは、その人の言葉や奇跡や誰かとのコミュニケーションだけでなく、その様々な要素が繋がっていくこと、繰り返していくこと、といったものでした。イエスの活動も、ただ単に1人の活動で終わらずに、彼が去った後も、使徒たち、その弟子たち、その後のキリスト者たちによってつなげられたからこそ、イエスは救世主として2000年近くの未来を生きる私たちも彼を知ることが出来、救世主として関わっているわけです。そうした存在は、宗教家であったり、政治家であったり、最近だったら、ミュージシャンでもあるわけです。たしかに世の中の動きの中で、救世主という存在も変わっていくかもしれません。

子どもの教育 —MJとヒトラー
 マイケル・ジャクソンが、救世主として、常に「子ども(の魂)を守れ」というメッセージを発信していたか、ということ触れられました。マイケル・ジャクソンは、グラミー賞の授賞式のとき、スピーチにおいて感謝や自らの楽曲のことではなく、ただ「子どもから子ども時代が奪われていることが問題のすべての原因」といったことを触れたそうです。子ども時代をどう生きるか、ということ、安冨さんのは他の著作で、ヒトラーの子ども時代の事を紹介していました。第二次大戦前の1910年代から30年代のドイツでは、子どもの教育に体罰がとても有効であると考えられていたそうです。そして、ヒトラーは子ども時代、何か悪いことや父親の意に沿わないことを言ったり、行ったりしたら、何度もおしりを鞭で打たれる、という罰をひたすら受け続けたそうです。
 そして、父親は鞭を打たれる数を一緒に数えさせたそうです。そして、いつか痛みも覚えずに、高らかに数を数えられるようになり、ナチスの指導者になってからも、そのことを自らの強さを示すエピソードとして紹介していたらしいのです。しかし、夜になると、父親が出てくる悪夢をみて非常におびえていたということもあった、と。

イエスという救い主
 イエスがその公生涯において、宣べ伝えたのは、「神の国(神の支配)が近づいている」ということ、そして、「人は誰でも神の救いを得ることが出来る(神に大切にされている・愛されている)」といったことです。しかしキリスト教においては、どちらかといえば、イエスがどのようなメッセージを宣べ伝えたか、ということよりは、イエスがどのような存在であるのか、キリスト(救い主)であるのかないのか、神の子であるのかないのか、そして、イエスの十字架刑によって、人の罪が贖われた、赦されたという点の方が強調されています。
 それをマイケル・ジャクソンで喩えれば、彼の歌や言葉、行動にではなく、彼の死に方に注目点が置かれている、ということと同じではないか、というように考えてしまいます。なぜ、こんなことが起こってしまっているのか、と言えば、キリスト教会が長い歴史の中で、こだわってきたこと、神の存在が真理であるかどうか、イエスが神の子、キリストであるということへのこだわりが生み出してしまった弊害とも言えるでしょう。
 長い間、正統と異端論争をしているうちに、信じる内容ではなく、信じ方を論じしているうちに、イエスが宣べ伝えたメッセージにあまり注目されなくなってしまった。イエスはどのような存在であるのか、そしてどのような存在として信じるべきなのか、ということの方がまるで大きな問題であるかのように勘違いしてしまった、と言えるのです。

メシア—ペトロの思い—
 今日の箇所は、前半と後半にわけることが出来ます。前半の27節から30節は、ペトロの信仰告白とイエスの応答、そして後半の31節から33節はイエスの受難予告であります。後半の部分にあたる受難予告から触れてみたいと思います。31節をお読みします。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
 この部分は、イエスの十字架刑による死について予告しています。そして、それはイエスの予告であるということは、主なる神の計画であり、改めることは出来ないということです。しかし、一番弟子のペトロが続く箇所で、そういった発言をいさめようとし、それに対して、イエスは厳しく叱って言います。33節をお読みします。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 かなり強い調子での言葉であり、怒りの表現であります。そして「神のことを思わず、人間のことを思っている」というイエスの指摘。
 不思議と先ほどの議論、イエスが宣べ伝えた内容ではなく、イエスがどのような存在であるのか、に注目が集まっていったというところで重ならないでしょうか。ペトロも、イエスの教えや行動によって従ってきたはずなのに、いつの間にか、イエスがエルサレムにおいて新しい王として君臨することを期待するようになってしまっていた、ということです。ペトロはイエスが「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され」て、「殺され」ること。とても受け入れられなかった。「長老、祭司長、律法学者たち」というのは、ユダヤ人たちの最高法院を構成する人々です。そういった人々に排斥される、ということ。イエスがユダヤ人に救いをもたらす存在として、期待していたペトロには受け入れられる発言ではなかったでしょう。

メシアかキリストか
8章29節をお読みします。
「そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」」
ペトロの答えは「メシア」です、となっておりますが、実は、ギリシャ語においては「メシア」と訳されている部分、実はギリシャ語では「キリスト」となっています。
 ユダヤ人の考え方によりますと「メシア」とは「油注がれた者」であり、ユダヤ人を救いにもたらす存在としてとらえられております。そしてそのイメージは旧約聖書中随一のヒーローであるのがダビデであり、イエスが「ダビデの子であるのか」という問いは「あなたはメシアなのですか」という問いと同じなのです。ギリシャ語では、「キリスト」と記されていながら、ここで「メシア」と訳されているのは、ペトロを代表とする弟子たちの思いに合わせての翻訳であり、弟子たちの思いを組んでの翻訳であります。弟子たちは、この時点ではイエスに対して、ダビデの子としての「メシア」、「世」を救う者のイメージとして「メシア」としか求めていなかったからです。そして、言うなれば、この「メシア」とは人の側が求める救い主、神の子という存在であるといえます。

キリスト(救い主)とは?
 最初にマイケル・ジャクソンの話をしましたが、活動の後半、子どもを虐待したのではないか、ということで、ずいぶんとバッシングを受けていました。しかし、その背景には、彼の財産を狙った犠牲者とされた子どもの親がマイケルから多額の賠償金を狙ったものでした。また、その捜査のために、様々なひどい扱いを受けて、ずいぶん心を痛めたそうです。そうした心の痛みやビデオの撮影中に大きなやけどを受けたこと、また尋常性白斑(じんじょうせいはくはん)という病気を患っており、肌が斑になってしまうこと、やけどを隠すため、化粧をしていましたが、様々な憶測を生むこととなりました。
 そうして世間の目は彼の心を傷つけ、その結果として、死に至ることになったとも言えるのですが、その死後も彼のアルバムやDVDは売れ続けていて、今後も売れ続けるでしょう。そうしたことは一種のメシア現象(キリスト現象・宗教)とも言え、イエスの現象も2000年も続くキリスト現象と言えます。わたしたちはイエスがこの後、どのような道を歩み、十字架にかかったかを知っています。イエスを救い主、キリストとして信じるのは、彼の地上での言葉や行いと同時に、その死を至る道を知っているからです。そして、イエスの死をキリスト教神学的な理解で受け止めています。
 しかし、そのような弟子たちは知りません。弟子たちはイエスが十字架上の死を遂げた後、イエスの死の意味を探し求めました。旧約聖書のイザヤ書やマラキ書、詩編そうした書物の言葉からイエスの死を理解しました。そして、弟子たちは現在に続くキリスト教の基盤となりました。しかし、その前の段階にあった弟子たちの思いにこそ、キリスト教の真実の姿があるのではないでしょうか。
 弟子たちにとっては、イエスが神の子であるとか、メシアであるとかの前に、彼と過ごした時間に、ただならぬ希望を見出したのではないか、と思うのです。そして、イエスを中心とした場、時間が拡がれば良い、拡がって欲しい、そうした時を受け継ぐ人になりたい、という思い。キリスト教の始まり、そしてキリスト思想、イエスをキリストとした流れの源流に弟子たちのそのような思いがあったことに心を寄せたい、と思います。

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『隣人愛のジレンマ』 ルカ福音書10:25~29

2017.02.12(17:37) 337

『隣人愛のジレンマ』
(2017/2/12)
ルカによる福音書 10章25~29節

愛には3種類ある
 キリスト教における愛の説明をするときにこのような言い方を耳にされたことがあるのではないでしょうか?新約聖書が書かれているギリシャ語において「愛」は三種類あります「エロス」と「フィレオー」と「アガペー」です。そして、「フィレオー」は一般的な人間の愛、「アガペー」が神の愛である、という説明です。ちなみに、「エロス」という単語は新約聖書には登場しません。このことについて興味深い指摘を聞いたことがあります。釜ヶ崎において活動されております本田哲郎神父の話を聞いた時でした。本田さんは釜が先において長年、野宿者の課題に関わってこられた方ですが、同時に聖書の翻訳にも関わっておられる学者さんでもあります。
 本田神父はキリスト教における愛について、このように説明されました。「愛には三種類があり、エロスが性愛、フィレオーが友愛、アガペーが神の愛、という説明がされていますが、その分け方は間違っている」と。そしてさらにこの様に説明してくれました。
「そうではなく、「エロス」は「家族の愛」(秩序)、「フィレオー」は「友人同士の愛」(友情)、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」をしめしている」といった説明でした。
 その説明を聞いて、わたしはとても安心しました。なぜなら、イエスは「敵を愛せ」と言っていたけれども、それでは「敵」も家族のように愛せ、ということか、と受け取っていましたし、とても、それは出来ない、と考えていたからです。やっぱり自分を攻撃してくるような人のことを家族や恋人たちのように愛せと言われたら、不可能です。しかし、「大切にしろ」ということ、その人の意見や立場を「大切に、重んじろ」ぐらいだったら、出来るかなあ、と感じたからです。

良きサマリア人のたとえのテーマ
 今日の箇所、良きサマリア人のたとえに入る前の箇所に当たります。もう一度、その箇所をお読みしたい、と思います。ルカ福音書10章25節から29節。
「10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。」
 その答えとして、サマリア人の例えをイエスさまはこの律法の専門家に話します。結論的に言って、何を伝えたかったのでしょうか。この問題は、とても複雑なのですが、私なりには、二つの捉え方があると思っています。一つ目は、神さまへの愛と隣人愛は対立することがあるということ。そして、もう一つは、隣人とは誰か?ということです。

やさしさなどいらない
 なぜ、神さまへの愛と隣人愛が対立するのでしょうか。この例えにおいて、そのことを登場人物によって示そうとしています。追いはぎ(強盗)に襲われた1人のユダヤ人が、エリコからエルサレムへの道の途中で倒れています。そして、祭司、レビ人が通っていきましたが、その人を無視していきました。そして、この道は、エルサレムからエリコへの道です。祭司とレビ人が通るというのは、エルサレム神殿での祭儀(自らの仕事)のために移動しているわけで、祭司もレビ人もエルサレムから「下ってきている」ので、祭儀の仕事が終わった後であります。
 そしてケガをしている人を見つけた祭司とレビ人も、その人を無視してエリコへ帰ってしまう。聞き手である律法学者、ユダヤ人たちは、いろいろと想像を膨らませながら、この例えを聞いたでしょう。祭司やレビ人がけが人などを助けるはずがない。なぜなら、血に触れることは汚れを持つ可能性もある。また、もしかして、その人が亡くなっていたとしたら、もっと大きな汚れになる。しかし、エルサレムからの帰りだから、もしかしたら助けるかも、と。
 しかし、彼らは通り過ぎてしまいます。聞き手の人はどのように感じるでしょうか。その思いは、神さまへの信仰、神さまへの愛によるものでしょうか。クスッと笑ってしまっていたかもしれません。傷ついた人を助けることはあたり前のことです。しかし、神さまへの信仰が、人を助けることを躊躇させてしまう。みんな、そうだよねえ、と考えたでしょう。
 そして、サマリア人が通りかかります。どうでしょうか?イエスの例えを聞く人は、通り過ぎるだろう、と考えると思います。ユダヤ人たちは、サマリア人を汚れた存在として、敵対視していましたし、サマリア人の側もユダヤ人のことを敵対視していました。だから、サマリア人がユダヤ人のことを助けるはずがない、と。そして、もう一つの思いを聞き手の律法学者は持ったと思うのです。「通り過ぎてしまえ」と、さらに、もっと強く「頼むから通り過ぎてくれ」だったかもしれません。

隣人になったと思うか
 イエスさまは、良きサマリア人の例えの最後にこの律法学者に向かって、このような問いを投げかけています。ルカによる福音書10章36節。(P.127)
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えています。しかし、イエスのこの問いと例えは、最初の律法の専門家の10章29節の質問である、「では、わたしの隣人とはだれですか」に、正確には答えていない、と言えるのです。
 おそらく律法の専門家は、「隣人」とは、ユダヤ人であり、律法に従って正しく生きている人であって、あなたもそうした人の仲間になりなさい、そして仲間同士で助け合って生きて行きなさい、と言ったような言葉を期待していたはずです。
 しかし、イエスさまは、その問いに対して、例えで返した。問いに対して、問いで答えたわけです。そして、さらに、「わたしの隣人は誰なのか」という問いであったのに、「あなたは誰の隣人になるのか」と微妙に論点をずらしているのです。わかりやすく整理するならば、イエスさまが言いたかったことはこういうことではないか、と思います。
 あなたにとっての隣人が誰かということは問題ではない、多くの人がこの世には生きているが、あなたが誰によって隣人と選ばれるかどうか、あなたが誰の隣人になるのか、それこそが問題だ、と言うことを述べているのではないでしょうか。

隣人愛のジレンマ
 最初に、本田神父による「愛」の分け方の話をしました。「エロス」とは「家族の愛」(秩序)、「フィレオー」は「友人同士の愛」(友情)、「アガペー」は「人を一人の人として大切にすること」をしめしている」といった説明でした。イエスの例えを聞いた律法の専門家にとっての愛とは、家族の愛であるエロス、友人同士の愛であるフィレオーしか頭になかったのではないでしょうか。神さまへの愛を謳っていながら、アガペーという神さまの愛の姿を忘れてしまっている。なぜ、こうしたことが起こるのか、と言えば、この人が考えている愛の形というものが、自らを愛する者のみへ向けられていた、自らと同じような立場や考え方の人たちへの愛、家族愛や友人愛に限られていたということではないでしょうか。
 イエスさまは、そうした愛の姿を厳しく批判していました。ルカによる福音書6章32節から35節。(P.113)
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」
 善きサマリア人のたとえは、カトリック教会とプロテスタント教会においては、その強調点が大きく異なるということが言われています。カトリック教会においては、隣人愛の勧め、善行(人助け)は、あらゆる障壁(人種、国家、立ち場などなど)を超えて行われるべきである、という教えとして受け取ることが多いと言います。そして、プロテスタント教会においては、「キリスト教的律法主義」への批判として、また「隣人とは誰か?」という問いとしての強調点が多いと言われます。たしかにその通りです。
 イエスがこの例えを語ったのは、2000年前の律法の専門家そしてパレスチナ地域に住むユダヤ人たちでした。しかし、この問いは、私たちにも投げかけられているのではないでしょうか。「あなたの隣人は誰ですか?」という問い、そして「あなたは誰の隣人になるのですか?」という問いです。私たちはこのイエスの問いに、どう答えることができるでしょうか。とても、単純な、シンプルな問いであります。しかし、世の中のあらゆる問題に通じる課題があるのではないでしょうか。

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   白糸の滝(虹付き)

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  朝霧高原からの富士山
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周縁自体(なんたろ日記)


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『脱自己中心的律法主義』(マルコ福音書7:14-23)

2017.01.29(15:42) 336

『脱自己中心的律法主義』
(2017/1/29)
マルコによる福音書 7章 14~23節

初めに
 子どもたちと「わたしが絶対に勝つジャンケン」をしました。律法にしても、他のどのような法律にしても、ジャンケンでも、自分なりのルールや捉え方を加えると、「なんでもあり」になりますよね。でも、実際に、私たちは、キリスト教徒としても、世の中の法律とは言わずに、良識や常識にしても、自分なりの解釈なり捉え方を加えて、生きています。それはとても、あたり前のことなんです。
 例えば、「父母を大切にしなさい」という教え(戒め)は、十戒にも含められている、大切な教えです。福音書で、ファリサイ派の人々は責められています。しかし日常的に触れ合うことが出来ないような距離があるとき、どのようにして、父母を大切にすれば良いのか、実践すれば良いのか、と。神殿や聖所において、その思いを表そうとするという行為、攻められるでしょうか。
 キリスト教会においても、献金というものは、ただ教会の維持、信仰生活の維持に使われるだけではなく、隣人愛や社会正義の実践に使用されることがあります(無い教会もあるでしょうが…)。そうしたあり方も否定されるということでしょうか。そういったあり方を受け入れるのであれば、あらゆる福祉や社会正義は体を動かして、その場に行って、実践しなければ、神さまは喜ばれない、ということになるのでしょうか。そうではないでしょう。そうした意味で言えば、私たちのある種の「神の勧め」「神の戒め」の変換、変更を行っていることになるのではないでしょうか。そうすると、ファリサイ派や律法学者たちを批判する資格があるだろうか、ということにもなります。

口伝律法と神の意志
 ファリサイ派の人々は、こう考えていました。ユダヤの歴史を振り返ってみたとき、間違いばかり犯してきた。だから、こんなにもユダヤの民は苦しんできた、様々な帝国、民族に支配されてきた、そして今はローマ帝国に支配されている。その状況を変えたい、そのためには、今まで以上に律法を守らなければならない、実践しなければならない。そのためになすべきこととして、主なる神の教えである「律法」をよりよく実践するためには、どのような生活をなすべきか、どのようなことに気をつけて、毎日を過ごせば良いのだろうか。このような思いを持った人々でありました。
 想像してみてください。いろいろと難しい問題があります。聖書に書かれている事柄、今の時代を生きる私たちにとっては、同じように遠い昔の話であります。しかし、イエスの時代とモーセの時代、シナイ山にて、石版に十戒が記された時代、律法(トーラー)が表された時代から、1000年以上は経っています。どうでしょうか?そのような時代の隔たりの中で、当然に同じ律法、戒めとしても細かくは変わっていくのではないでしょうか。そうした状況の変化に基づいて、過去に対する反省に基づいて、口伝律法は深められてきた、と言えます。

律法の解釈という作業
 また、律法を守るという行為は、何のためになされるのか、ということも、課題になるでしょう。半年ぐらい前に、NHKスペシャルで、『天使か悪魔か羽生善治(はぶよしはる) 人工知能を探る』という番組がやっていました。最近の人工知能の進化と課題についてまとめられていました。その中で、インターネットの検索エンジンで知られているGoogleが開発した「アルファ碁」という囲碁のソフトに触れていました。チェスや将棋はすでにプロに対して、コンピューターが勝利しています。が、囲碁だけは、まだまだ年月がかかるのでは、と考えられていました。が最近、ついに囲碁の世界チャンピオンも、パソコン、人工知能に負けてしまうということがありました。
 また、イギリスにあります「人類未来研究所」というところがあり、その所長が、人類滅亡の12のリスクとして、気候変動や核戦争と共に、新たな危険として「人工知能」を上げていました。その所長が、そのことに触れて、インタビューでこう答えていました。
「人工知能の本当の恐ろしさは、人間を敵視することではなく、人間に関心がないことです。」
 最近は、自動車の運転が自動になる、コンピューター制御になるということが実証実験段階になりニュースにもなっています。しかしそのコンピューターが、人の生命の選択に立たされた時、生命の数なのか、歩行者か運転者なのか、どのような判断をするのか、ということも問題になるかもしれません。

あくまで律法の議論として読んでみる
 今日の箇所でイエスは、手を洗わなければ律法的に汚れてしまうというファリサイ派の人々に対し、7章14節15節において、このような言葉を語ります。
「…「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」」
 『ユダヤ教の福音書』という本を読んでいたとき、この箇所が用例として出てきました。そして、この箇所について、このような記述がありました。「この箇所は、解釈上、一冊の本が出来るほど難しい」と。そして興味深く読んだのは、現代のユダヤ教のラビが「イエスは、あくまで律法の議論として、ファリサイ派の人々と相対して可能性が高い」という解釈をしているという記述です。
 そして、このような解説がされていました。このイエスの言葉を聞いた時、いわゆるキリスト教徒でもユダヤ教徒でもない、一般の人々は、人の中から出て来るもの、とは、いわゆる排泄物を指す、と受け取るでしょう。そしてキリスト教徒は、7章21節からの部分にかいてあるように、「悪い感情」「悪徳」が人を汚すのだ、と捉えるだろう、と。しかしユダヤ教徒は違う、と。あくまで食べ物の議論として受け取る、と。食べられるものと食べられないものに関して、きちんとまもっていれば、手を洗うかどうかなど関係ない、という理解です。そして、イエスもそのように考えていた可能性が非常に高いということでした。
 ユダヤ人たちは、律法を破らないために、その教えに、更に大きな枠、塀で守るということを行っていました。入ってはいけない場所があるとすれば、大きめに柵を作るといったような感覚です。例えば、律法にはむち打ちの刑において、40回以上、人を打ってはいけない、という教えがあります。(申命記25:2-3)しかし、もしかして鞭がしなったり、跳ね返ったりして、もう一度あたる可能性もあったので、ユダヤ人たちは、鞭打ちを39回で終えていたそうです。

自己中心的律法主義
 ファリサイ派の人々は、手を洗うことと同様に、食器を洗うことなども重んじていました。なぜ、そのようなことを重んじたか。それは、間違って律法で汚れた物質を口にしないためでありました。7章の4節などに記されているように、チリやゴミや異邦人の触れたものを間違って口にしないため、「律法の垣根」を築くため、と言えるでしょう。そして、もう一つ理由があると言えないでしょうか。それは自分たちはそのような律法の解釈、自分たちが考えた律法を守る行動を実行しやすい立場にいたからです。例えば、羊飼い、漁師、大工、どうでしょうか?食事を取るとき、わざわざ手を洗うだろうか、食器を流水で洗うことが出来るだろうか。
 ようするに、ファリサイ派の人々は、自分たちが守りやすいルールを作って、自分たちを正しい者として捉えようとしていたわけです。そして同時に、それを実行できない人を「不義とする」「悪とする」わけです。イエスは、こうした有り様を批判していたのではないでしょうか。パウロが語ったことの一つに「信仰義認」があります。神は律法によって人を義とするのではなく、神への信仰によって義とする、という言葉です。ファリサイ派の人々の姿勢を、この言葉にかけて言うのであれば、「自己義認」であり、「自己中心的律法主義」であるといえないでしょうか。

自己中心的律法主義
 ファリサイ派の人々の律法理解を、「自己中心的律法主義」であるという指摘をしました。しかし私たちにも、そんな落とし穴があるように思います。自分は、「自己中心ではないよ〜」という人がいたとします。「他者中心である」と言っても、自分の思いによっての実行であれば、単なる押しつけであり、自己中心的です。
 また、自分や他者だけでなく、集団中心の可能性もあります。家族、教会、キリスト教中心と言ったとき、それは本当の意味で律法を守ること、神の意志を守ることになるだろうか。イエスは、どうであったでしょうか。おそらくイエスはあくまで「神中心的な律法主義」でなければならない、という思いを持っていたのではないか、と思います。イエスは自然に対しても、人に対しても、神の被造物として重んじていました。

イエスの視点(神中心的律法主義)
 イエスのこうした姿勢は、神中心的律法主義ということが出来ると、私は考えています。私たちはパウロの言葉などから、律法は否定されるべきもの、福音の前には必要のないもの、という理解をしてしまうことがあります。しかし、神が望む捉え方、神が望む実行の仕方を求めていくことは出来るのではないでしょうか。誰もが、神に義とされること、またより自分を良く評価されることを求めています。イエスの姿勢は、あくまで神中心な義のあり方、神中心の律法主義に基づいて相対したのではないでしょうか。
 神の導きを求める人、イエスの導きを求める人は、自らが正しいかどうか、また自らが神に近いかどうか、ということを自分の尺度、自分の思いで計ります。まさに自分でしか考えることしか出来ないわけです。考えてみますと、どのような人であっても、イエスの前においては、神の前においては、1人の人にしかすぎません。本当の正しさは、主なる神のみにこそ、またイエス・キリストにこそ委ねられている。そんな思いをもって、あらゆる人と向き合い、また神とも向き合っていくべきではないでしょうか。

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