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『クローズ隣人愛批判』(ルカ福音書10:25〜37)

2019.08.19(20:50) 393

『クローズ隣人愛批判』
(2019/8/18)
ルカによる福音書 10:25~37

良きサマリア人のたとえのテーマ
 良きサマリア人のたとえ、誰も知っているたとえです。律法の専門家がイエスに永遠の命を受け継ぐにはどうしたら?と聴き、イエスは神への愛と隣人への愛を説きました。しかし、その専門家はイエスの答えに納得がいかなかったのか、イエスを試そうとしていたのか、ぼろをださせようとしたのか、さらに質問をして、その答えとして、イエスは強盗に襲われたユダヤ人とそこを通りかかった、祭司、レビ人、そしてサマリア人が登場するたとえ話を語り、最後にこのように言います。ルカ福音書10章36節。
「10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 大きく分けて、三種類ぐらいの捉え方ができるのではないか、と思います。一つは、優れた隣人愛の課題として捉えることです。要するに、どのような存在であっても、愛すべきなのだ、と。その延長として、その愛の実現として、たとえ憎み合った民族であるサマリア人であっても、自分のように愛すべきなのだ、心を配るべきなのだ、という捉え方です。
 そして、二つ目は、神さまへの愛と人への愛は対立することがあるという問いと言えるでしょう。祭司とレビ人、どちらも神殿祭儀に関わる人々です。このたとえを聞いていたユダヤ人は、さもありなん、と受け取ったことでしょう。祭司にしても、レビ人にしても、律法の遵守者であり、倫理的にもすぐれた人であります。しかし、いくら人助けであっても、異邦人に触れるとなると、話が違う、と。異邦人に触れることは、律法的に汚れてしまうことなので、祭司やレビ人は神殿祭儀に関わることが出来ない。だから、助けることはないだろう。イエスの例えを聴きながら、どちらも通り過ぎた、という場面を聴きながら、「ほら、やっぱり」と誰もが感じたでしょう。いわば、神への愛が人を大切にすること、いわば隣人愛と対立することがある、という結論です。
 そして、三つ目は、民族への批判、同族愛への批判と捉える捉え方でしょう。このサマリア人は、敵対者であるユダヤ人を助けました。そして、さらに宿の主人に、2日分の日当に当たると考えられる2デナリオンをもお金を預け、さらにさらに、余計にお金がかかったら責任を持つとまで言っている。この喩えを聞いた律法の専門家、また一般的なユダヤ人は、どう感じるでしょうか。それは、見下しているサマリア人がユダヤ人にそんなことをするはずがない、という思いではないか、と思います。
 そして、このようにも感じるのでは無いでしょうか。自分がサマリア人の立場だったら、傷ついたサマリア人を助けるだろうか?そして、もう一つ、自分が傷ついたユダヤ人だとしたら、サマリア人の行いをどう受け止めるだろうか、と。

クローズ隣人愛批判
 イエスは、なぜこのような喩えを語ったか、この律法の専門家に対して、また一般のユダヤ人に対して、閉じられた形での隣人愛の無意味さを伝えようとしていたのではないでしょうか。イエスは、隣人愛に関してもこのようなことを述べている箇所があります。マタイ福音書5章46節47節。(P.8)
「5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。/ 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
 「異邦人でさえ、同じことをしている」。この思いをイエス自身、強く持っていたと想像しています。ユダヤ人がユダヤ人同士で、愛を持って接したとして、思いやりをもって接したとしても、当たり前のことではないだろうか。おそらくイエスが青年期までを過ごした、ガリラヤ地方には、ユダヤ人だけではなく、異邦人と呼ばれる様々な民族の人々、そしてサマリア人も交易路があった関係で、日常的に触れ合っていたのではないか、と思うのです。また、隣人愛の元になっている旧約聖書のテキストに触れてみます。レビ記19章18節です。(P.192)
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 意味が分かりにくいので、岩波訳の翻訳を紹介します。
「あなたは決して、あなた自身の民の子らに復讐しようとしたり、怨恨を抱いてはならない。〔むしろ〕あなたは、あなたの隣人に対し、あなた自身と同じようなものとして友愛をもって接しなさい。わたしはヤハウェである。」
 旧約聖書、律法において語られている隣人愛とは、同じ民族、同じ血族の人々が過酷な環境の半遊牧民生活の中において、互いの民族を守るため、誰が味方で誰が敵かということから、自らの民族が絶滅しないため、死に絶えないための知恵として、「目には目を、歯には歯を」というオリエント的な倫理観、法的な規範に基づいたものと考えられます。そして、もう一つ、一民族一信教的な世界観、民族宗教が乱立する社会における倫理観と言えるでしょう。そして、閉じられた形での隣人愛、同族愛、民族愛ならば、どの民族であっても実践していた。イエスはそうした現実から、そうした隣人愛の実践を他の民族に誇ることが出来るか、主なる神の教えとして、受け入れるべきだろうか、という問いを持っていたのではないでしょうか。

隣人になったと思うか
 イエスさまは、良きサマリア人の例えの最後にこの律法学者に向かって、このような問いを投げかけています。ルカによる福音書10章36節。(P.127)
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えています。この答えには複雑な感情が伴ったのでは無いでしょうか。
 律法の専門家にとっての「隣人」とは、ユダヤ人であり、律法に従って正しく生きている人であって、あなたもそうした人の仲間になりなさい、そして仲間同士で助け合って生きて行きなさい、と言ったような言葉を期待していたはずです。
 しかし、イエスさまは、その問いに対して、例えで返した。ある意味、問いに対して、問いで答えました。そして、さらに、「わたしの隣人は誰なのか」という問いであったのに、「あなたは誰の隣人になるのか」と微妙に論点をずらしているのです。わかりやすく整理するならば、イエスさまが言いたかったことはこういうことではないか、と思います。
 あなたにとっての隣人が誰かということは問題ではない、多くの人がこの世には生きているが、あなたが誰にとって隣人と思われるのか、あなたが誰の隣人になるのか、それこそが問題だ、と。そして、そういったあり方は、民族や家族、そして国境や思想も超える可能性も持っているかもしれません。

現代におけるクローズ隣人愛
 今現在、日本は隣国韓国、北朝鮮や中国との関係が難しい状況になっています。日本人と韓国人、朝鮮人の関係、日本と中国の関係、とてもユダヤ人とサマリア人の関係と似通っているように感じます。互いに地域的には近接しているのに、また歴史的にも支配した、支配されていたという歴史的事実があるのに忘却してしまっていたり、支配していた過去を正当化したりするような言説、民族的な差別を正当化するような言説を繰り返したりする。
 しかし個人として、一対一の隣人として、出会ってみたら、たやすくそうした誤解や偏見を乗り越えられたりすることがあります。イエスが促した姿勢は、このような隣人との出会いではないでしょうか。平和の問題を考えるとき、国籍や民族性を超えて、1人の人として、1人の人と出会うことこそ大切なのではないでしょうか。そうした時、自らが持つ民族性や宗教性自体が、その隣人との関係を邪魔してしまうこともあるかもしれません。
 よきサマリア人の例えは、そのようについつい閉じてしまいがちになる、私たちがもつ「隣人愛」を常に広げる役割をもっているのではないでしょうか。イエスは、問います。その問いは、「あなたは、誰の隣人なのか」ではありません。あなたは「誰が隣人になったのか」という問いです。新しい人との出会いは、時に厳しさや辛さを伴うモノですがそのことを恐れずに、開かれた隣人愛、オープンな隣人愛に生きることを、イエスは求めているのではないでしょうか。

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「日本人の心を踏みにじる」というところが理解できない

2019.08.03(05:09) 392

「日本人の心を踏みにじる」というところが理解できない。

日本人にも、いろいろな経験、考え方があるのに、
感情について、ひとくくりにくくられること自体、本来ありえない。

最近、増えている保守政治家の行動パターンは、
東北アジア隣国との関係の中で、
過去の歴史問題について日本の責任を問うような事例について、
強い姿勢または否定的姿勢を取ることで、
強い政治家としてのイメージを喧伝させようとしているのであろう。

それは、アメリカファーストを標榜するアメリカのトランプ大統領や、
EUからの独立を謳うイギリスのジョンソン首相、
日本の安倍さんにも重なる姿勢であろう。

そして、内政や国際政治についても、
なにかしらの落ち度があったとき、
自らの支持層が喜ぶため、言い方を変えれば、
自らの落ち度を隠すため、また自分自身をだますために、
間違ったナショナリズムだが、ナショナリズムをくすぐるような
態度を表明する。

なぜなら、そうした言説、行動は、
マスコミも報道せざるを得ず、
彼らとしては、宣伝費も、政治的労力も負わずに、
たやすく自らの支持層のなっとくを得られるからだろう。

そして、本当に向き合うべき政治的課題は
常にないがしろにされてしまう。

こうしたサイクルに陥っている国、政治状況が
如何に多いだろうか。マッチポンプである。

民主主義国家における政治家の役割は、
国民の税金の再分配、調整役に徹するべきであろう。

ま、個人の妄想にすぎない歴史的妄言、
芸術の意味、歴史の意味を理解しない態度表明は、
ご自宅か、場末の立ち飲み屋ででも
やって頂きたい、というのが、一番の感想です。

もし隣り合わせたら、ちょっと話でもしてみましょう。
美味いたこ焼きでも、一緒に食べたら、話ができるかな。
いや、やっぱり、手羽先か、大アサリですかねぇ。

そんな状況で「日本人の心を踏みにじる」ってことについて、
聞いてみよか???

なかなか、難しいかもしれませんが。


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『カラスのことを考えてみなさい』(ルカ12:22〜27)

2019.06.06(20:34) 391

『カラスのことを考えてみなさい』
ルカによる福音書 12章 22~27節

人の歩み
 今日の箇所「思い悩むな」ともうしましても、そんなわけにはいかない、というのが、誰もが持つ率直な感想ではないでしょうか。たとえば、わたしたちは物心がついてから、様々な選択が求められて、それぞれの道を歩んできました。そういった視点で申しますと、誰でも道の選択をする上では、「思い悩んだ」瞬間もあったはずです。また、たとえすべての道が準備されていたとしても、その道に従うのかどうか、ということで「思い悩む」。そして、人としての歩みの中で、家族の中では、誰かの息子として娘として、兄弟として、また夫婦の間柄であったら、夫として妻として、そして父として母として、様々な形で思い悩むものであります。また、個人として家族としての悩みだけではなく、私たちは人間関係の中でも、悩むものです。誰もが多かれ少なかれ、人間関係の中で、思い悩んでいる。しかし、だからといって人は一人では生きることができない。そうした当たり前のことをジレンマと言うのであれば、人はそこから逃れることはできません。
 
契約の主
 わたしは以前より、主なる神の働き、イエスさまの活動は大きく三つの分けられるのではないか、と考えています。それは、「契約」「和解」「創造」という三つの働きであります。そして、それぞれ「契約の主」「和解の主」そして「創造の主」として、イエスさまがこの世において、行われた様々な業を、わけて考えられることが出来るのではないか。そして更に、それぞれにおいて、良い面と悪い面があり、良い面が他の働きの悪い面を補っている、というように考えていま。
 「律法」とは契約に徴に、モーセを通してイスラエルの民に与えられたものであります。そしてイスラエルの民、ユダヤ人たちは、契約をした人ですから当然守らなければならないものです。しかし、意地悪くいうと契約していない人が守っても意味がないものです。そういった意味で言えば、「契約の主」の要素である律法と旧約聖書に約束されたメシア、救い主という要素は、ユダヤ人それも律法を守ることが出来る人、ユダヤ人以外の人々、律法を守ることが出来ない人たちには関係がない、という話になってしまいます。

和解の主
 しかし、ご存じの通りイエスの活動はそうした「契約の主」としての働きに限りませんでした。「和解の主」である神としての働き、活動を進めました。和解の主というのは、いわゆる神学の世界では、人と神の和解を指すことが多いのですが、人と人の和解ということで考えてみたい、と思います。人と人の和解は、イエスの様々な教えの中において語られています。放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)、見失った羊のたとえ(マタイ18:12-14)など、様々な形で語られていることは、人と人の関係の回復の大切さではないでしょうか。本来は、捨てられても良いような存在であっても、大切にしなければならない、そしてその回復、和解が適ったときには、それを心の底から喜ぶべきなのだ、ということです。そして、人とは、そういった神の愛に対して、放蕩息子のたとえにおける兄にように、「えこひいきだ」とか「不当だ」と起こってしまう存在です。
 また、いわゆる様々な癒しの記事においても、同じだと思うのです。病やケガによって、一般社会や家族から卑下され、追い出されてしまった人々。また、律法も守れない人々も「罪人」とされていました。しかし、イエスはそうした「罪人」とされてしまった人々を訪ね求めて、神さまに立ち帰ることを促し、癒しを行いました。ここで重要なのは、ただ病気などを治した、治療したというのではなく、そうした人々を家族や地域共同体へと戻ることを促した、ということです。人と人の和解をもたらし、あらゆる人々に神の救いをもたらそうとしたということです。これが「和解の主」としての働きです。

創造の主として
 そして最後、創造の主です。今日お読みしました聖書の箇所、ルカによる福音書12章22節から24節をお読みします。
「12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」
聖書の最初に納められている創世記1章の創造物語には、神さまが一週間でこの世を創造した物語、創り出した物語が記されております。その中で人間は、天と地、地上と海、様々な動植物が想像されるその最後、6日目(7日目はお休み)に創造された、と記されてあります。
 人は神の似姿として、今どきの言葉で言えば、人は神のコピーとして創造されました。この創造物語は、旧約聖書に記されたユダヤの民の創造物語でありますが、同時代の他の宗教の神話、創造物語と比べて、一つの大きな特徴があります。それは、あらゆる人が、すべて神の似姿として、ある意味神の子として描かれていることです。創世記におけるアダムとイブは最初の人間として描かれておりますが、そこから生まれた人はみな神によって創られた、という考え方、信仰が根底にあると言えます。

創造の主が来られる
 創造の主とは、創世記1章に記されておりますような形で、この世界が創造された、ということを信じるかどうか、ということではありません。わたしたち1人1人が確かに神自身によって創造された、ということを信じる、ということです。私たちは確かに肉体的には2人の両親の存在によって誕生した、といえるでしょう。しかし、その深いところで、人の力では分からない所で、主なる神が働いてわたしたちを生み出して下さった、ということを信じることであります。
 そして、こうした「創造の主」の働きに対して、重要だと思うことは、私たち1人1人が無条件に神さまに愛されている、と確信をもって信じるということです。たとえば、この信仰が強いのは、たった1人の立ち場になってしまったとしても、たった一人の迫害の状況、たとえば虐められるような状況におかれてしまったとしても、わたしは神さまに愛されているのだ、ということを根拠に、その歩みを始められるという強さがあるのではないでしょうか。
 そして、そんな思いを持つ孤独な人々、神との関係、他者との関係が壊れてしまった人々。そうした人々のところをイエスは訪ねて、「カラスのことを考えてみなさい」とイエスは呼びかけたのではないでしょうか。黒い羽根に覆われ、さらに植物であっても、肉であっても、食するカラスは、律法的には、とても汚れた鳥として考えられていました。そして、そのカラスであっても、主なる神は養って下さっており、カラスも思い悩むことは無い。
 ましてやあなたがた皆、すべての人が神に創造された「神の子」なのだ、大切にされないはずがない、何を思い悩む必要があろうか。どんなに何もできなくても、友人の一人さえいず、優しい言葉さえも受け入れられなかったとしても、神さまは愛して下さっているのだ。イエスが多くの人々に語った言葉を胸にまた歩み出したいと思います。

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(2019年6月5日/熱田まつりの花火)


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『あの旅路を再び』(マルコ福音書16:1〜8)

2019.04.28(19:29) 390

『あの旅路を再び』
(2019/4/21)
マルコによる福音書 16章 1~8節

イースター(復活祭)とは?
 今日は、イースターです。イースターとは日本語では、復活祭とも言い、イエス・キリストが十字架刑によって亡くなり、その三日後に、復活した、甦られたことを記念することであります。なぜ、イースターが重要なのか?もっとも解りやすい説明として、一般的な教会では大まかに、このような説明がなされるのではないかなあ、と思います。
「イエスは十字架上の死を遂げることで、私たちの罪を贖ってくれた、リセットしてくれたのです。そして、イエスが復活したことは、イエスが本当に神様だったこと、神の子であったことの証明です。」といった感じではないか、と思います。一般的に宗教とか奇跡というものが、人知が及ばない力の働きや知恵が働く場、時という徴があるものです。そして、そうした働きの根源として神という存在を信じるのが、信仰を持つ、ということであり、信者の姿勢である、と。しかし、これは正しいようで、少し実際のキリスト教会、キリスト教徒にとってはズレがあるのではないか、と思います。どうでしょうか?イースターによってイエスは復活しました。そしてマタイ福音書、また使徒言行録のみの記事でありますが、イエスはその後、天に昇った、と記されています。ということは、天に去って行って、この世にはおられないでしょうか。
 かというと、違いますよね。祈りでは、主が共に、イエスが共に、といったことが祈られますので、天に去ったわけですが、離れたわけではない。また天に去ったとしても、共にいるといった両義的な状況と言えます。イースターとはどのような時でしょうか。確かにイエスさまが復活されたことは、イエスさまが単なる人ではなく、神の子であること、父なる神に対する、子なる神の証明であります。が、同時に、イエスが共にいること、イエスが人ではない存在として、一人一人と共にいることが始まったとき、キリスト教としての時間の始まり、教会としての時間のはじまりと言えるかもしれません。

イエスを裏切った弟子たち
 イエスには、12人の男性の弟子たちがいました。そして、それ以外の弟子たち、そして女性たちの弟子たちもいた、というように考えられております。しかし、イエスが十字架刑にかけられる前の晩、12弟子とイエスは、ある宿で過越の食事をし、その食卓は結果的にイエスと弟子たちの最後の晩餐となりました。これは木曜日の夜か金曜日の夜にあたりますが、その食事の後、イエスと弟子たちはゲッセマネの園へ移動します。イエスは、1人祈っていますが、弟子たちは眠りこけてしまいます。そうした状況の中で、イスカリオテのユダに伴われてきた兵士や群衆によってイエスは逮捕され、弟子たちは1人残らず、逃げてしまいます。
 この間、ペトロはイエスに対して決して裏切ることはない、と誓います。しかし、イエスが予告したとおり、そのニワトリが朝になって二度鳴く前に、三度もイエスのことを知らない、とのべてしまいます。そして、他の弟子たちもイエスの逮捕の場面でその場から逃げて行ってしまいました。その後、イエスはユダヤ人の裁判、そしてローマ帝国の裁判にかけられ、十字架刑で処刑されてしまいます。そして、イエスの処刑の理由というか罪状は、ユダヤ人にとっては「神の子」と言いふらしたということで、神を冒涜した罪ということになりでしょうか。そしてローマ帝国にとっては、国家反乱罪といったことになると思います。
 当然、イエスがそのような罪で十字架刑にかかったとなると弟子たちも捕まってしまう可能性があった。ですから、福音書によりますと、弟子たちはエルサレムの町を離れたり、どこかに隠れたり、また生まれ故郷であったガリラヤへと帰って行っていたのではないか、と想像できます。そんな弟子たちの目の前に復活したイエスが現れたのです。

赦しとしての復活
 ルカ福音書24章13節から35節には、このような記述があります。ある弟子たちは、自分の故郷へ帰る途中でした。その途中の道でイエスに出会ったのに、その人がイエスだとは気づかなかった。しかし、ある宿に入って、食事の席において、その人がパンを裂いたときにイエスだと気がついた、とあります。(ルカ24:13-35)
 マタイ福音書28章8節から10節によれば、このような記述があります。そして、今日お読みしまし墓へ行った女性たちの前にも現れ、「おはよう」と挨拶をしたイエス。女性たちは驚きひれ伏してその足にしがみついた、とあります
 また、ヨハネ福音書20章19節から29節によれば、このような記述があります。弟子たちがどこかの家に隠れていたところ、鍵もキチッとかけられていた部屋の中に突然現れた。また、その場にたまたまいなかったトマスという弟子たちは、その人をあのイエスだとは信じられずに、釘によって十字架に貼り付けにされた時の手の傷、槍に刺されたわき腹の傷に障らなければ信じない、とものべています。
 そして、ガリラヤ湖に帰って行った後に、イエスが現れたという記事もあります。ヨハネ21章によれば、網を打って漁をしていた弟子たちは、岸を歩いていたイエスに気がついて、喜びのあまりに湖に飛び込んで近寄った、という記事。
これまで触れてきた記事における弟子たち、感情の動きはあまり記されてはいません。しかし、どちらかといえば喜んでいるように捉えることが出来ます。しかし、恐れた、という記事もあります。それは復活伝承とも言えないかも知れませんが、マルコ福音書6章45節から52節には、舟を出して漁をしていた弟子たちでしたが、そこへ湖の上を歩くイエスが現れ「幽霊だ」と恐れたという記事があります。

不可解な終わり方
 今日の箇所マルコによる福音書16章1〜8節は、マルコ福音書の最後の箇所であります。しかし、そのあまりに唐突な終わり方なので、後代の人々が2つの末尾を追加しています。これには、本来は違和感のない末尾があるはずなのに、失われてしまった、という考え方があったから書き加えられたのです。しかし、最近では、もともとこの終わり方だったのではないか、ということで読まれることが多くなってきました。ということは、あえてこのような違和感のある終わり方でマルコ福音書の著者は筆、ペンをおいたのではないか、そこにはどのような狙い、理由があったのでしょうか。
 いろいろな想像をすることが出来ます。復活したイエスに出会った弟子たち。それぞれにイエスとの再会を思い起こしたでしょう。ペトロさんはこうだったかもしれない。「わたしはエルサレムで出会い、こんな声を掛けてくれた、こんな顔をしていた、こんな服を着ていた。わたしには赦しの言葉を述べてくれた」。アンデレさんは、こうだったかもしれない。「わたしはガリラヤで出会った。やさしく声をかけてくれた」他にも、いろいろな記憶があったでしょう。そして、もう一つ大きな問題がありました。今日の最後の箇所、マルコ福音書16章8節にはこのように記されています。
「16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 女性たちは、「震え上がり、正気を失っていた」とあります。何故でしょうか?それは、言葉に出来ないほどの恐怖を覚えたからではないでしょうか。先ほど、触れましたように、弟子たちはイエスを見捨てて逃げて行きました。よく裏切り者の代名詞としてイスカリオテのユダがいます。しかし、考えてみれば、ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネ、すべての弟子たち12人、そしてお墓に来た女性の弟子たちもイエスを見捨てて逃げてしまったわけです。この女性たちだけではなく、十二弟子たち、その他の男の弟子たちも同じだったのではないでしょうか。

復活に記すということ
 改めて考えてみたいとおもいます。なぜ、この福音書を記した人は、中途半端に「恐ろしかったからである」という一文のよって自分の救い主である主イエス・キリストの物語を締めくくったのでしょうか。それは人間にはイエスさまの復活を書きあらわすことが出来ない、という思いに立ったのではないでしょうか。これだけの著作です。何日もかかって書いたものと思います。机にペンとインクと紙をおいて、書き進めていったでしょう。夜になったら休んで、机に向かう。ご飯を食べて休んで、机に向かう。そんな作業を何日も続けたのかもしれません。筆を進めながらも、机を離れていながらも、イエスの話について聞いたことを整理しながら、書き進めたのではないか、と想像しています。
 そして、とうとう最後の場面、イエスの復活の場面にやってきました。キリスト教において最も重要な場面です。そして、また様々な人たちから復活したイエスとの出会いを聞いては、記そうとしていたかもしれません。しかし、いよいよと思い、書き始めようと思いました。しかし、書けなかった。何度も書こうと思った。何か記そうとしても、イエスの復活というできごとを書き記したとしても、自らの思いとはずれるばかりだった。そして、あんな結末になってしまった。また、もしかしたら、病気になってしまったとか、個人的な理由によって、書き進めることが出来なくなってしまったかもしれません。それは復活という出来事は、あまりに大きすぎたから起こったこととも言えるかもしれません。

あの旅路を再び
 弟子たちにとって、イエスの復活とは、イエスさまが神の子である証明という意味よりも、弟子たちにとって復活とは、イエスによるとてつもない深い赦しの体験であったという意味の方が大きかったのではないでしょうか。最後に、16章7節をもう一度、お読みします。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」」
 「ガリラヤへ行かれる」そして「そこでお目にかかれる」とあります。この言葉に従い、弟子たちはガリラヤへ戻ったのかどうか、わかりません。歴史的に言えば、使徒たちはエルサレムにおいて、最初の教会としての歩みを始めております。ということは、この言葉は、ただ単に地域としてのガリラヤに戻るという意味として受け取らなかったということでしょう。
 ガリラヤへ行く、というイエスの言葉、イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへの歩み、旅路を、次は弟子たちの一人一人が導き手として歩みなさい、ということではないでしょうか。イエスと弟子たちの歩み、様々な人々との出会い、癒やし、食卓、奇跡があり、弟子たちにしても、周囲にいた人々にしても、主なる神への信仰を深めたこともあったでしょうが、神への信頼を失うような辛いこともあったでしょう。
 様々なことがあっても、1つの共同体として、歩むこと、歩み続けること、「ガリラヤへ行ったイエスの背中は、そのような歩みを弟子たちに促したのではないでしょうか。そして、そうした弟子たちの歩み一つ一つが現在にも続く教会へと繋がっているのではないでしょうか。今日は、イースターです。イエスの復活は、イエスと弟子たちの再会であり、教会の歩みの始まりでありました。そのことを胸に、また新しい一週間、また新しい歩みを、新しい旅路を歩み出したい、と思います。

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『放り出された石の上に』(ルカ福音書20:9ー19)

2019.04.16(20:24) 389

『放り出された石の上に』
(2019/4/7)
ルカによる福音書 20:9〜19

仕事の中で感じること
 障がい者福祉の仕事をしていますが、その日々の中で、本当に様々な障がいのあり方があり、彼ら、彼女らを理解するには、それなりの知識や根気というものが必要かな、と言うことが出来ますが、もう一つ大事なことは、その人と共にいる、ということ、この人も自分の隣人なんだ、という思いであります。そして、もう一つ、考えさせられることは自分の生活というものが、以下にスムーズであるか、ということであります。
 自分たちの生活が以下に順調に進んでいて、障がいを持ったメンバーと共に生きる、ということは、否定的な言葉を使えば、とても「めんどくさい」こと、とても「じれったい」もので、自分自身がそのことにイライラしてしまうことがあります。しかし、そうした日々の中において、キリスト教風な言葉を使えば、人と「共に生きる」こと、人の「隣人になる」ことを、課題として与えられているように思います。,
 いかに自分1人の生活が、スムーズで簡単なことなのか。高齢者への介護でも同じですが、介護や介助の世界では、3大要素として、食事、トイレ、入浴が挙げられます。自分1人で済ませれば、それぞれ10分とか15分で済むことであっても、その2倍もしくは4倍もの時間がかかったりする。また、人間関係のめんどくささもある。人の多くの悩みは、人間関係だ、ということもできますが、まずメンバーとの人間関係があります。そして、それが一対一だったり、1日中、最高で連続24時間ということもあります。肉体的にも、なかなか辛いものがありますが、精神的に重くなってしまうこともあります。

分かち合い
 そういったことの対処というわけではないですが、たんぽぽでは、「わかちあい」という時間を持つようにしています。2人とかそれ以上の人で、皆で自分の悩みとか一日を振り返って、苦しかったこととか悲しかったこと、などを語り合う時間を持つことになっています。わたしたちの会社たんぽぽでも、会議の最初などに持つようにしています。だいたい、沈黙に始まって、沈黙に終わるのですが、団体によっては、キリスト教の祈りを文字通りする団体もありますが、たんぽぽでは時に何も定めていません。仏教徒や無宗教の人もいます。ですから、沈黙にはじまって沈黙に終わるというパターンになっています。
 「分かち合い」という時間、ただ単にお互いの日常の思いを言い合うというだけではなく、ただ単に報告というだけではなく、自分の気持ちを語る、ということを大事にしています。そうすると、どういうことが起こるか、と言えば、職員同士関係が悪かったこと、なんであんなことを?」と言ったことがあったとします。しかし実は、知らなかったけど、体のどこかが痛くて、とか、調子が悪くて、おろそかになってしまったことがある、とか、冷たい態度を取ってしまった、とか。また、そのように互いに、自らの痛みや悩みを聴き合うことによって癒やされ、また新しい力を得ていくことが出来ることもあります。「あー、自分だけではなかったんだ」「あー、そんな痛みを持っていたんだ」、と。「分かち合い」を契機にして、新しい人間関係を築くことになる、和解に至るとか、そんな場になっていくのです。ちょっと深い形で人を見つめることで、敵対関係ではなく、味方になっていく。そして、それでもダメであったら、さらに深くということかもしれません。
 この「分かち合い」、もともとは、ラルシュというフランスから始まった知的障がいや精神障がい者の方々と共に生きるコミュニティーから始まっています。障がいの影響か、コミュニケーションを取るのが、難しい人であっても、時間をかけて、じっくり耳を傾けること、目や表情、また体の他の部分で言葉、意志を読み取ろうとする。いわゆる健常者であっても、そうした時間によってだからこそ、伝えることができること、受け取ることができることがあるということでしょう。

「神の僕」と「神の息子」
 今日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書20章9節から19節、「『ぶどう園と農夫』のたとえ」という小見出しがついている箇所です。ぶどう園の管理を主人が農夫たちに任せていた。そして、収穫期になったので、収穫物を得ようとして、ぶどう園の主人は、何度も僕を使わしたけれども、農夫たちは、その僕たちを、袋だたきにしたり、追いかえし、また放り出してしまったりした、と。
 そして最後には、主人の息子を送ったけれども、放り出して殺してしまった、と。一般的なたとえの読み解き方とすれば、ぶどう園のこの世のことであり、主人とは神さま、そして僕たちというのは神の使いや預言者たち、農夫たちは神さまに従わない人間たち、そして、主人の息子とはイエスさまのことであり、イエスの受難物語、十字架への道、ユダヤ人の支配者であった大祭司やローマ帝国、イエスを死刑にしろと叫んだユダヤ人たちが農夫である、と捉えるのが一般的な読み方ではないでしょうか。しかし本当に、そのような捉え方、読み方だけで良いのだろうか、という思いを最近、持つようになりました。

農夫は私たちかもしれない、という思い
 イエスは、こんな言葉を語っています。ルカ福音書25章45節。
「『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」(マタイ25:45/〔見失った羊のたとえ〕)
 また、「見失った羊のたとえ」においても、少数の者、望まれないような存在への思いやりを進めている、と言えるでしょう。「子供」にしても、「小さい者」にしても、いわゆる一人前には至らない存在ということができます。この世においても、それは代わらないでしょう。最近、よく感じることがあります。それは、ずいぶんと競争が重んじられる社会になってしまっているという思いです。
 ずいぶんとスピードや効率が求められてします。わたしは、名古屋市に住んでいますが、新幹線になって仕事へ行くことがあります。なかなか便利だなあ、と思う反面、こんなに忙しくしなくて良いか、っと思うことがあります。例えば、新幹線車内で、Wifiっていうインターネットの電波があるかどうか、コンセントがあるかどうか、で一喜一憂しました。また更に、リニアモーターカーもできる。とっても便利だ!っと。しかし、そんなに仕事しないと行けないか、と思い直したことがありました。それは、日曜日の朝一の新幹線、自由席で、ガーッと寝てるんですけど、新幹線の切符を手に握ってるんですよね。そして、それを当たり前のように、車掌さんが検札していきました。自分もどうだろうか、ずいぶんと余裕の無い生活しているなあ、っと思い直して、今は新幹線の中では、ぼーっとしたり、本を読んだり、仕事をしないようにしています。また、そういえば、「忙しい」という漢字は、心を亡くす、と書くよなぁっとか。
 そうした早さばかりを追い求める価値観の中で、障がいを持つ人たちの存在をどのように捉えるだろうか、ということ。自分の思いとを重ね合わせることで、自分もこの農夫たちのように、「小さくされた者」「弱き存在」を、邪魔だと思っていないだろうか。そして、さらに言えば、そうした障がい者の弱さとは、人であれば誰もが持つ「弱さ」のはずです。そうした弱さを否定すること、神の使いを否定することは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。

「神の子」と共に生きるために
 障がい者と共に生きること、聖書的には、「小さい者」「小さくされた者」でしょうか。そのような人々と共に生きてみる、生活してみると、自分自身の中にある強さに対する求めや弱さや小ささに対する恐れみたいなものが顔を出すように思うのです。しかし、考えてみますと、そうした「小さき者」や「子どもたち」を大切にできないことは、自分自身を大切にしていないことの徴、証拠かもしれない、と思うようになりました。
 例えば、私たちは誰でも年を取ります。いつか、ほとんどの人が、誰かの介護を受けることになるでしょう。そうなったとき、高齢者のペースに合わせてくれない介助者に当たったらどうでしょうか?けっこう辛いと思います。何かするにしても、現役時代と同じように評価されてしまう。そんな場、時があったとしたら、苦痛でしか無いでしょう。そうした意味でいえば、効率やスピードばかり求めるあり方は、人という存在、人の本質に関わる弱さを否定することにつながっているのではないでしょうか。
 農夫は、なぜ主人の僕そして息子を殺してしまったのでしょうか。それは、漠然とした不安感からでは無いか、と思います。そして自らを自らで支配しようとした、支配できると思ってしまった。自ら、ぶどう園を管理しているうちに、自分のものになったような錯覚に陥った。そして、ぶどう園をただ単純に奪われると感じてしまった。主人である存在に信頼を寄せることが出来なかった。そして、さらに神の僕という隣人も信頼できなくなってしまっていた。このたとえは、人が持つ漠然とした不安感が神への信頼を失わせてしまうこと。そして、そうした不安感が、さらには神の僕に限らない隣人、そして守られるべき、「小さき者」「子どもたち」をも殺してしまうかもしれない、さらには自分自身をも殺してしまうかもしれない人のありようを示しているのではないでしょうか。

放り出された石の上に
 今日の箇所ルカ福音書20章17節18節をお読みします。
「「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」」
 この石とは、イエス・キリストのことを指しています。イエスは、十字架への道を歩み、十字架上の死を遂げました。イエスの死は、人としての死であり、人としての弱さや痛みの象徴とも言えるでしょう。その人としての弱さや痛みの上に教会、キリスト教は立っている、と言えるのではないでしょうか。そして、そうした人の弱さに目を向けないことは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。
 主イエスは、私たちの罪のために十字架上の死を遂げました。人の罪とは何か、神に委ねると言うことを忘れて、神の使いを殺してしまうような弱さではないでしょうか。ぶどう園の農夫たちは、主なる神の支配に信頼を寄せることができず、神の僕、神の子をないがしろにしてしまいました。受難節というこの時期、イエスが弱さをもつ人として十字架屁の道を歩んだことに思いを寄せると同時に、自らの弱さに今一度、心を向けることが求められているのではないでしょうか。新しい一週間、イエスという犠牲の上に、十字架という象徴の上に、キリスト教が立っていることを覚えて、歩んでいきましょう。

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