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『招いていた客と招くべき客』(ルカ14:15〜24)

2020.09.13(21:21) 408

『招いていた客と招くべき客』
(2020/9/13)
ルカによる福音書 14章15~24節

神の国=宴会
 イエスさまは数多くの喩え話を語っておられますが、その中でももっとも多いテーマが「神の国」に関するものです。神の国は、ギリシャ語の直訳では、「神の支配」となりますが、神が支配する場所とは、どのような場所であるのか、神の意志に基づいた社会、世界とはどのような世界であるのか、といったことでしょう。そして、「神の国」のたとえは、かなりの確率で宴会の席の話として語られます。今日の物語では、多くの人が、その席に招かれているのですが、もともと招かれていた人々は様々な事情のために来られず、広場で時間をつぶしていた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(14:21)が招かれている。本来、招かれような人が神の国には招かれている、というお話です。広場で人が呼ばれる形の物語として、広く知られている喩えとして、ぶどう園の農夫のたとえがあります。マタイによる福音書20章1〜16節の物語です。
 ぶどう園の主人が、朝9時に広場に労働者を連れに行って働かせた、次に12時ぐらい、午後3時ぐらいそして5時頃にも広場に働き人を呼びに行って、働かせた、と。そして仕事が6時になって仕事が終わったので、賃金を渡したのですが、朝から働いた人も夕方から、たった1時間働いた人もまったく同じ賃金だった、と。今日の喩え話との共通点として、ごくごくシンプルに、単純化して言えば、世の中において、必要とされていない人々こそを大切にされるのが、神さまですよ、といったメッセージである、と言えます。そして、マタイにおいてはどのような人も神にとっては、同じ価値を持つ人です、ということです。
 時と場合による場合なのですが、この2つのあり方は、まったく違うようですが、1つの共通点があります。どちらも、人から見たときには、不公平、もしくは理屈にあわない、ということです。しかし、イエスは、それが神の国であり、神の支配であり、神さまの愛ですよ、という。イエスさまは、日常の中で、様々な形でそれらを喩えとして、自らの行動として、行ってきました。そして、そうしたイエスに魅力を感じた人が、彼の後を従って行き、イエスの教えに耳を傾けたり、弟子となったりしたのでしょう。そして、イエスはエルサレムへ昇っていき、神殿で問題を起こしたことによって、捕らえられ、処刑されてしまいます。

福音書記者が描いたイエス
 ところで、私たちは、イエス様のことを、聖書を通し、また、特にその中の福音書を通して知ります。また絵本や誰かの話を通して、このようなメッセージ(説教)を通して知ります。しかし直接にイエスの言葉を聞いた人々、イエスの姿を見た人々、そしてイエスの弟子だった人々は、そうしたことは必要なかった、と言えるでしょう。彼らにとって、イエスはどのような姿であったか、どのような人であったか、ということについて、あまり説明は必要なかったかもしれません。しかし、直接にイエスを知らない人々、直接の弟子ではない弟子たち、またキリスト教徒となった人々は違います。イエスの言葉にしても、姿にしても、聞いたことも見たこともない。
 では、イエスさまのことをどのようにして伝えるのか、といったことが問題となって、福音書が記されるようになったわけです。 どうでしょうか?イエスの姿を思い浮かべてください。それは姿、見た目、容姿のことでもあるでしょう。また、仕草や言葉や訛りもあったかもしれません。そして、極端に言ってしまえば、キリスト者1人1人によって、また牧師によっても異なり、キリスト者一人一人でも違うでしょう。神学者によっても、不思議なほどに異なります。とても、感情的に激しいイエス、まるで禅僧侶のようなイエス、反骨精神にあふれたイエス、涙もろいイエス、奇跡を起こすイエス、力強いイエス、山下清のようなイエスさま、さまざまなイエス様が描かれます。そしてどれもが正解と言えるでしょう。何かを説明するため、「〜のような」といった作業にも近いかもしれません。誰が説明したとしても、誰が肖像画を描いたとしても、まったく同じ物がないのと同じでしょう。そういった意味で言えば、誰もが違うイエスさまを心の中に持っているということです。しかし、これは絶対当たっていると思うのですが、絶対に「良い声」をしていただろうなーっとことです。

新しい律法と悔い改め 〜マタイ的理解とルカ的理解〜
 福音書を記した人々も同じだったと思うのです。例えば、さきほど紹介しましたマタイによる福音書を記した人、もしくは人々。イエスはどのような存在であったか、と聞かれたとしたら、律法の教師、一人のラビとして、全く新しい「律法」の教師としてイエスという存在を捉えていたでしょう。律法というキーワードでイエスを理解しようとした、説明しようとしたわけです。
 また、ルカ福音書にも、「悔い改め」というキーワードがあります。ルカ福音書5章32節。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」律法に従えているかどうか、でもなく、社会的な地位の善し悪しとかでもなく、神の前に従順であるか、神の前に対して謙遜であるか、ということ言えます。「悔い改め」とは、ギリシャ語を直訳的に訳しますと、「立ち返る」という言葉になります。つまり「悔い改め」とは、「神に立ち返る」ということです。

招かれていた客と招くべき客
 今日のテキストの話に入ります。イエスさまは、この話をファリサイ派の人々に向かって語っています。ファリサイ派の人々は、当時にユダヤ人たちの間では、知識人、裕福な階層で、社会的地位が高い人がその多数を占めていました。ですから、宴会の席では上座の方に座る。そして同じ食卓を囲むことに関しても、自分の親族や地位の高い人々、お金持ちと食事をすること、席を囲むことを選ぶでしょう。また、もう一つポイントがあります。最初に招かれていた人々が、すでに約束していた、ということです。突然、誘われていたわけではないのに、最初に声を掛けられた3名の人はことわっている、ということです。
 そして、その3名が断った理由は、それぞれ「畑を買ったから見に行かないといけない」「牛を買ったので、それを調べに行かなければならない」「結婚したばかりだからいけない」という理由でした。これらの理由には、共通点があります。それというのは、理想的なユダヤ人であれば、これらの態度は、とても理想的なあり方だ、ということです。前の二つ、畑を買った、牛を買った、ということは生活の中での当たり前の態度です。そして、三番目の『妻を迎えたばかり』という理由に関しては、律法にも記されるほどのことであります(Dt24:5)。しかし、イエスはこのたとえにおいて、そうしたユダヤ人として理想的なあり方を否定しているのです。

誰が招かれているのか 〜イエスの視座〜
 イエスという存在、イエスの教えを、理解する上でキーワードがある、という話をしました。マタイにとっての「律法」、ルカにとっての「悔い改め」そして、私たち自身もそうしたキーワード、フィルター、否定的に言ってしまえば色眼鏡でイエスを見ているかもしれません。ある種、自分なりの公平性、自分が持つルールで、イエスの言葉、行い、たとえを理解している、と言えます。そして自分なりに、「招くべき客」を選別してしまっている。そして常に、そのような自らのフィルターを意識することが大事かな、と思います。そして、イエスの教えや歩みに近づこうとし続けることこそ「イエスと共に歩む」ということではないでしょうか。
 実際のイエスは、誰が救われた、誰は救わない、などと言って回っただけでは無かったでしょう。誰か特定の人としか、食事を取らなかったということもなかったでしょう。そして誰であっても、対等な食事の相手であった。このことの方がすごいことかもしれません。おそらく神の前においては、誰も同じ価値ある存在だと考えていたのではないか、と私は感じています。そして、どのような人も等しく、神さまに愛される存在として、歩んで欲しい、と願っていたのではないでしょうか。そして、その先にある神の国を共に目ざして欲しい、と願っていたのではないでしょうか。


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「平和へのイエス的第一歩」(ルカ福音書12:49〜53)

2020.08.17(12:30) 407

「平和へのイエス的第一歩」
(2020/8/16)
ルカによる福音書 12章 49~53節

無言館について
 以前に、出身神学校の研修会で、長野県上田市にあります無言館という美術館に行ったことがありました。その美術館には、戦没した画学生たちの作品が展示してある美術館でした。コンクリート打ちっ放しの建物で、上から見ると、十字架の形なのでもまるで教会のようにも見えたりする建物ですが、その中には、戦没した画学生たちの絵が飾られ、遺品や、また小さなプレートには、出身地や、どこの学校であったか、そしてどこで亡くなったかが記されていました。また、無言館のことについて記されている本を買って来たので、読んで、いろいろなことに気づかされました。また、当たり前のことなのですが、「彼らは、平和祈念や戦争反対のために絵を描いていたわけではない」のです。戦場へと向かう5分前まで絵筆を握っていた人もいたそうです。そうした一つ一つのエピソードから一枚の絵でありながらも、何か人の生涯の結晶のような印象を持ちましたし、無言になってしまう重さを感じたのでしょう。
 そして、この間の日曜日、NHK教育で日曜美術館という番組で、「無言館」が取り上げられました。再放送は、今晩の午後8時から。また、9月6日まで、三重県四日市の四日市市立博物館でも展示されるそうです。私は、この美術館に、たしか2回は訪ねていますが、そのたびにいろいろなことを感じて、帰ってきています。今回、その番組を見て、改めて感じたことは、館の名前としても、「戦没画学生慰霊美術館」とありますように、たしかに、戦没者を慰霊するために美術館なのですが、それだけではない、ということです。ただ単に戦争犠牲者の作品が飾られているというだけではない、ということ。戦争が無かったら、戦争で亡くなっていなかったら、一人一人に、未来があり、可能性があった。それがうばわれてしまう、ということ。本来あるべき未来、本来あったであろう可能性が奪われてしまうということ、そしてそれはそれぞれの民族や国家の歴史をも変えてしまうことであろうということを感じました。今回放送された番組で語られていた無言館館長であられる窪島誠一郎さんの言葉が、とても印象に残っております。
「戦争ということを伝えると(同時に何を伝えているのか)、あの戦争の時代の中に今の彼らとまったく変わらない青春があったわけです。じゃあ、この画学生たちは本来、ただ単に戦争犠牲者という館に押し込めておいて、この絵描きたちそのものを、しっかりと遇されていると言えるのか、という疑問があったんです。彼らが一番、喜ぶのは、やっぱり自分が何を描こうとしていたのか、そしてその究極の時間、後一週間しか生きていられないとか、すぐに戦争(戦場)に行かなければならないというときに、絵を描くということに持っている幸福、これを伝えるとしたら、これは戦争を伝えるということにあまりこだわってはいけない。今、生きているサッカーやったり、野球やったりして、燃えている彼、彼女たちにこそ、見てもらうべきではないか、と。簡単に言えば、君の命は何のためにあるの?だって、明日も生きたい、絵を描きたい、と言っていながら、生きられなかった人たちの分も、君もオレも生きているんだ。その時間をどう使えば良いか、それがすべてではないか、と。」


視点を持つ、ということの落とし穴
 今日の箇所の冒頭、ルカ福音書12章49節において、イエスはこのように述べておられます。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
 ルカ福音書3章16節17節には、バプテスマのヨハネの言葉として、火について言葉を記されています。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
 このバプテスマのヨハネの言葉からしますと、火というのは、終末(世の終わり)の1つのイメージで、裁きについての記述とうえます。誰もが救いに至るわけではなく、裁かれてしまう民がいる、ということ。そして、自らの受難、十字架上の死を暗示させるような言葉をのべて、イエスに従うことの厳しさを述べます。

一括りにされる民と分断される民
 平和に関する言葉が出てきます。12章51節。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
 そして、その具体的なあり方として続く言葉があります。12章52節53節。
「12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる」
 戦時中、隣組といった制度がありました。また、お互いの行動を監視し合う関係がありました。現在、コロナ禍の中において、自衛警察といった言い方がされていますが、実家に帰った人を中傷するビラが入れられたりする。誰も、真実に眼をつぶり、誰もが右にならい嘘に従って、間違った道を歩み続け、アジア諸国に対する償い切れない加害、また日本国内においても多くの犠牲者を生み出してしまいました。
 なぜ、そのような間違った道を歩み続けてしまったか。日本においては、天皇を中心とした家族制国家といった幻想にだまされてしまった。誰もが、人質のような状態にされてしまっていたからと言えるのではないでしょうか。ユダヤ人社会においても、同じような状況があったのではないでしょう。当時の神殿の祭司たちや律法学者たちによって語られる律法によって、価値観ががんじがらめにされていました。罪と律法(括弧付きですが)という価値観にがんじがらめで、家族関係でさえもそうした価値観によって計られていたのでしょう。父として、子として、母として、娘として、しゅうとめとして、嫁として、あるべき姿。そして、それぞれの関係の中において、なすべき態度があり、そうした枠付けが、親戚、村社会、地域社会、ユダヤ人社会全体に広がって、誰も彼もが、がんじがらめだったのではないでしょうか。

分裂によってもたらされる平和
 イエスは、「平和ではなく、分裂をもたらすためにやってきた」と述べています。ここで述べられている「平和」とは、人々が持つ痛みや罪を「象牙の塔」の中に塗り込まれて、隠されてしまったことを指し示しているのではないでしょうか。イエスは、そうした象牙の塔、がんじがらめの人間社会から一人一人を解放することをさして「分裂」だと語ったのではないでしょうか。最初に、無言館のことに触れました。誰もが、戦没者であり、画学生であり、犠牲者であります。しかし、そうした言葉に括られてしまうことによって、見落としてしまうことがあるのではないか、と感じています。誰もが1人の人である、ということ、誰もが一人の個人である、ということです。
 しかし、戦争であれば、犠牲者ということで、律法、罪の論理の中では、罪人ということで、括られてしまう。しかし、誰もが一人の個人であります。誰かの父であるとか、子であるとか、母であるとか、娘であるとか、しゅうとめであるとか、嫁であるとか、そういった枠、社会的役割では括ることができない痛み、苦しみがあったのではないでしょうか。そして同時に、夢があり、希望もあったのではないでしょうか。今日の説教題は、「平和へのイエス的第一歩」としました。平和への至る道、また人を救いへともたらす道は、本当に様々でしょう。国家と国家、民族と民族、地域と地域といった大きな枠からめざす平和もあるかもしれません。しかし、イエスが目指した平和は、まず一人一人の自由、一人一人の救いから、平和を実現させようとしたのではないでしょうか。平和を考えるこの時期、大きな枠ではなく、一人一人が平和に至ることに思いを寄せて歩みたいです。


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『道を示すのはイエスのみ』(ヨハネ福音書6:14〜21)

2020.07.26(20:34) 406

『道を示すのはイエスのみ』
(2020/7/26)
ヨハネによる福音書 6:14~21

ヨハネ福音書を生まれた状況
 今日の聖書箇所が納められているヨハネ福音書は、非常にきびしい迫害状況の中で生まれた、と考えられております。ヨハネ福音書は、紀元後90年頃、イエスが天に昇ってから60年ぐらい経った時に成立した、と考えられています。さらに、教会から離れていった人や自然と亡くなる人もいる中で、より神との繋がり、イエスとの繋がりを求めて記された福音書ではないか、と考えることができます。
 ヨハネ福音書に唯一納められているテキストとして、イエスが弟子たちの足を洗う場面があります。受難週の木曜日、洗足礼拝の元になっている記事ですが、その箇所13章においては、第一の弟子であるペトロは、奴隷のすることである洗足を師であるイエスに行ってもらうなど出来ないと「「わたしの足など、決して洗わないでください」」(13:8)といっています。が、イエスはそんな言葉に対して、こう応えています。「「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」」(13:8)。ペトロはその言葉に慌てて、「足だけでは無く、手も頭も」(13:9)、と応え、イエスに足を洗ってもらっています。
 そして同時に、いわゆる最後の晩餐の記事は無く、この記事が最後の晩餐の記事に当たるのですが、体を洗うということは、死後の弔いにも通じる行為であり、どのような状況であっても、また死に至るとしても、イエスと共にあることへの希望がこの箇所にも込められている、と言えるかもしれません。

舟―オイコメネ
 ご存じかと思いますが、今日のお話に登場する船は、キリスト教において、一つの象徴として用いられます。船は船なのですが、船は「教会」のことを指すシンボルとして用いられています。2011年3月11日に起こりました東日本大震災から、来年の3月で丸10年となります。わたしは当時、神奈川県に居住していました。感じたことのないような大きな揺れを感じましたし、その後に起こった津波の映像に少なからず動揺させられました。海沿いの町であったためか、海沿いから離れようと渋滞が起こりました。またそれに続く原子力発電所の事故や計画停電において、私たちが少なからず、今までとは違う日常を送り、また生命について、自然について、考えを改めるような機会になったのではないか、と思います。
 あの出来事は、わたしたちの生活が、地に足を付けた物ではなく、舟のような不安定なものかも知れない、という思いを誰に対しても抱かせました。そして、住む場所、生活全体、エネルギーや食べ物に至るまで、捉えなおすことを考えさせる出来事でした。まさに教会だけではなく、わたしたちの生活そのものも舟のような不安定なものである、ということをおもわされる出来事でした。そして、今またコロナウイルスという存在によって、今までの生活が破壊され、今は移行期かもしれませんが、その後の生活がまったく見えないといっても、良い状態かもしれません。
 福音書の中で、舟(オイコメネ)はキリスト教の歴史の中では、教会を表すシンボル(表象)として、知られています。教会がどのような嵐の中にあったとしても、キリストがいれば恐れることは無い。また、逆説的に言って、たとえ教会であったとしても、ギリシャ語のエクレシア(神の群れ、教会)という看板が立てかけられていたとしても、その場にイエス・キリストがいなければ、その中に主なる神がいなければ、その教会は荒嵐に飲み込まれて、沈んでしまう、ということを示している、といえるかもしれません。

嵐の中において
 福音書の中において、弟子たちが舟に乗るときは、ほとんどの場合、嵐に巻き込まれます。また地形的な特性として、ガリラヤ湖は夜になると嵐のような風が吹くという特徴があるそうです。しかし暗くなってしまってから弟子たちはイエスがいないのに、カファルナウムに戻ろうとして舟を出します。そして、「二十五ないし三十スタディオン」、だいたい、5キロメートルぐらいにあたります。沖へと漕ぎ出してから、湖が荒れ出します。
 そこでイエスが湖上を歩いて近づいてきて、舟にイエスが乗り込むと「間もなく、舟は目指す地に着いた」ということです。さらっとした文章ですが、ある意味、とても不思議です。ガリラヤ湖の大きさは、縦(南北)に20km、横(東西)に12kmとすると、5kmから漕ぎ出したところで、すぐに着くとは考えにくい。
 とすると、この表現には、ある種のイエス像、信仰のあり方が現れている、と言えるでしょう。例えば、マルコではイエスは舟の横を通り過ぎます(Mk6:45-51)。イエスが歩もうとしている場所を目ざすべきといったメッセージがある、と言えるでしょう。また、マタイでは嵐を叱りつけて収めたり(Mt8:28-34)、舟に近づいて弟子たちを歩かせようとしたりするイエスがいます(Mt14:22-33)。イエスの自然現象への優位性と弟子たちが特別な存在であることとその不完全性を示すものといえるでしょう。そして嵐という存在は、教会のみではなく、人に対しても攻撃を加えるもの、なんらかの脅威を与えるものとして捉えることができます。

優生思想と排他性
 物理的な天災や人災、また様々な政治思想や価値観、民族観、人生観も時に私たちの存在を揺るがすことがあります。障がい者に対する差別的な発言、また高齢者に対する発言、民族差別的な発言、いずれも全体主義的な国家主義や民族主義の分泌物として出てくると言えるかもしれません。先日も、とある政治家の「命の選別」発言があり、さらにALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性の命が奪われる事件がありました。SNS(Twitter)でその女性が「死にたい」とつぶやいたことから、仙台と東京に居住する医師免許をもった男性によって、100万円以上の謝礼によって実行されるといった事件でした。
 実行者のうちの一人は、優生思想を持っていた、ということですが、この考え方も考えてみたら、一つの障がいと言えるかもしれません。「世の中の役が立つかどうか」という尺度を、角度をかえて考えてみたらどうなるでしょうか。よりよく「お金を稼ぐ」ための物を作り出す人というのは効率良く環境を破壊している人かもしれません。また「環境のこと」を第一に考えたとすれば、あらゆる人間はその活動を完全にストップする必要にさらされてしまうかもしれません。そして、様々な危機といわれるときや変化が求められる時、そうした差別の根はジワリと顔を出すように感じます。そして、自分自身の中にそうした間違った思いがないとも言えません。

道を示すのはイエスのみ
 今日の箇所、最初の部分、中途半端なところから選ばせていただきました。ヨハネ福音書6章14節15節。
「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」
 ここで、イエスは特定の人、集団の預言者、王となることを拒否しています。たしかに主イエス、神の子であるイエス・キリストが特定の民、民族の神であるということは、とても受け入れられないことで、正しいことと言えます。しかし、一方であの人たちの神さまではなく、自分たちの神さまです。というのも正しくないでしょう。ヨハネ福音書を生み出した人々としては、自分たちの神さまです、といった気持ちだったのではないかな、と思います。
 しかし、それでは、その特定の人々が、神さまを決めてしまうことにはならないでしょうか。それは間違っているでしょう。そうではなく、イエスさま、そして神さまは、誰のものでもない、ということ。キリスト者が、歩むべき道を指し示すのはイエスのみ、ということです。舟の上であれば、行き先を決めるのはイエスのみということです。そして、それは、「イエスは我らの主(あるじ)なり」というシンプルな信仰告白、十戒の第三戒、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」の教えにも繋がる姿勢なのではないでしょうか。


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『世界の中心はここ』(ヨハネ福音書4:5〜26)

2020.06.28(15:24) 405

『世界の中心はここ』
(2020/6/28)
ヨハネによる福音書 4:5~26

ユダヤ人とサマリア人(異なる存在との出会い)
 今日与えられたヨハネ福音書4章には、イエスさまとサマリアのある女性の出会いが記されております。イエスと弟子たちは、エルサレムからガリラヤ地方に向かうため、サマリアを通りました。そして、シカルという町の井戸のそばにイエスが座っていたときサマリアの女性がそこに水をくみに来ました。
 イエスはその女性に「水を飲ませてください」(4:7)と頼みました。そして、その女性は声をかけられたことに驚いていますが、イエスとの応答を通して、イエスに対して、「預言者ではないか」と告白するに至っています。そして、20節から26節においては、ユダヤ人はエルサレムにある神殿において主なる神に祈り、そしてサマリア人は過去に神殿が建てられていたゲリジム山において祈ることを常にとしていた。そして、そうした状態がイエスの存在によって、歴史が切り替わることによって、違う場所で祈るようになる、と説明するわけです。
この「違う場所」とは基本的には、それぞれの地にあるキリスト教会のことを指しています。そして言うなれば、どこにも中心、総本山などがない、ということを指し示しており、ローマのバチカンにありますサンピエトロ大聖堂もこの教会の会堂も同じ価値を持っている、という理解もできます。

気づきによって
 子どもが幼稚園児だった頃、私が牧師を務めていた教会の子どもの礼拝にも出ていて、通っていた幼稚園もキリスト教系だったので礼拝に出る機会を持っていました。家でも聖書の絵本やお話を聞くのですが、ある時、創世記22章に納められていますアブラハムがイサクを捧げるという物語を教会で聞いたあとのことです。こんなことを言い出しました。
「おれ、神様きらい。」「なんで?」「だって、子供を殺して捧げろ、っていうのでしょ」「怖いから、嫌い」…。
 たしかにおかしな話なのです。わたしなどは、子どもの頃から、この逸話に対して、違和感を持ったことはありませんでした。アブラハムは正しい人で、強い信仰を持っているんだな、すごいなあ、としか理解していませんでした。そういった意味で言いますと、子どもの頃からアブラハムの立場で、絵本を読み、お話を聞いていたわけです。しかし、子どもの立場、イサクの立場にたってみたらどうでしょうか。
 しかし、まったく違う捉え方もあります。『ラビによる聖書解釈』といった本があり、その解釈に驚かされました。ユダヤ教のラビ(教師)である著者は、アブラハムがイサクを殺そうとしたことは間違った行為だったのではないか、神さまが求めていた答えではなかったのではないか、と記していたのです。要点だけを申しますと、あの逸話の最初にある「神はアブラハムを試された」という言葉ですが、この言葉によって始まるお話は、あくまで「試み」であって、その結果に正解が記されているわけではない、ということです。そして、本当の正解は、神さまにイサクを捧げるのではなくて、「わたしはそんなことはできない」というべきではなかったか、ということでした。神さまへの愛と自分の子どもへの愛を比べることはできない。そして同時に、神さまへの愛と隣人への愛は比べることはできない。そして、「いくら信仰によるものであっても人がしてはいけない境界線、限界が記されている」というのです。そして、『ラビによる聖書解釈』には、そのような解釈に続けて、このように記されていました。
「実際、この解釈では、神はまさに最後の瞬間まで、アブラハムが拒否するのではないのかと期待して待っていたことになります。しかし、それが起こらず…神は彼をとめさせるために天使を送らなければならなくなりました。この解釈において、神は確かにアブラハムをテストしました。しかし、神は次のことを知ってショックを受けたのです。人間は、ある行為がどこか神に仕えるものであると確信するならば、愛する子どもをさえ殺すというようなところまでも突き進む決意をするということです。」

サマリヤ人とユダヤ人の関係
 信仰を持つということ、また何かに思いを持つということ、大切な存在を作るということが、他者への排除、また差別にはつながってしまう、ということは宗教ならずとも起こりうることです。例えば、民族主義、日本においても、日本における中心は、どこでしょうか?と言えば、東京でしょう。しかし、京都と答える人もいるかもしれない。
 また世界地図、私たちが慣れ親しんでいる世界地図は、これです(日本中心)。しかし西洋世界においては、これでしょう(ヨーロッパ中心)。日本は「極東」という呼ばれ方をすることがありますが、この地図でなければ、その意味はわかりません。また、日本中心ですと、ヨーロッパとアメリカは遠いように感じてしまいますが、それは大きな勘違いでしょう。また以前、富山県に行ったときに、面白い日本地図に出会いました。富山中心で、北が上でもありません。日本そして、朝鮮半島、中国の中心に富山があるように感じます。また、私は以前、オートバイで富山県から新潟まで走ったことがありますが、とても不思議な感覚がありました。私は、ずっと太平洋側それも東海道(1号線)の近くに住んでいるので、山は北、海は南、というのが、当たり前だったのが、それが逆になってしまうと、とても不思議な感覚に陥ります。しかし、これも逆の感覚の人もいるでしょう。
 また、これは沖縄中心の地図です。沖縄に米軍基地が集中している状態。沖縄に基地が集中するのは、戦略防衛上、大切な場所だから、という言い方をします。しかし同時に、1872年の琉球処分によって、沖縄が明治政府によって日本に併合される以前は、周辺諸国と広く貿易をしていた貿易立国であったことが知られています。対立の象徴とも言える軍事基地と平和的な貿易立国という過去、これもまったく逆の姿勢と言えるでしょう。

中心の論理
 今日の聖書箇所の話題に戻しますが、ユダヤ教にとっては、中心と言えば、神殿があるエルサレムでありました。しかしサマリア人は、首都サマリアに神殿を建てて、神を礼拝していました。ユダヤ人にとって、サマリア人の神殿は不当なものであり、異端といったものでした。しかしサマリア人にとっても、同じでサマリアの神殿こそ、ホンモノの神殿であり、エルサレムの神殿は間違った神殿でありました。そうした状況の中において、
 わたしたちは誰もが固有の人生を歩んでいます。そして自分のことさえもわからないときがあります。ましては自分ではない他者、隣人のことを正確に知ることなどできるわけがありません。そして、ユダヤ人にとってのサマリア人のように、サマリア人にとってのユダヤ人のように、まるっきり敵対関係の人もいるでしょう。そして自分ではない他者によって、自分自身をみるかもしれません。まったく逆の立ち場であったらどうだろうか、差別の意識などは、こうした視点から気づくこともあるかもしれません。

世界の中心はここ
 今日の箇所で、イエスが、このサマリアの女性にこう述べています。ヨハネ福音書4章21節。
「4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」
 今日の説教題は、「世界の中心はここ」という題にしました。込めた思いは、ただ礼拝する場所がどこであるべきか?ということではなく、あらゆる場所、あらゆる民族、あらゆる一人一人が、神さまにとって、大事な存在である、ということです。たとえば現在、コロナウイルスが世界を覆っていますが、ただ自分の居住地、国家だけの状況が落ち着いたからといって、不安はなかなか消えません。常に二次三次感染の恐怖に陥らない可能性がゼロではないからです。そのように、他者の危機は、自らの危機、同時に他者の幸福は自らの幸福、神さまはそのような視点をもって、私たちを見守っているのではないでしょうか。そして、世界の中心はどこ?という問いは成り立たず、人が生活する場、人が生きてる場すべてが、神さまによって祝されている場所ではないでしょうか。

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『約束におけるシンパシーとエンパシー』(申命記6:4〜15)

2020.06.14(21:18) 404

『約束におけるシンパシーとエンパシー』
(2020/6/14)
申命記 6章 4~15節

シンパシーとエンパシー
 今日の説教題に2つの言葉を引用しました。シンパシーとエンパシーです。最近、知った作家さんで、ブレイディみかこという方がおられます。日本で生まれ育ったのですが、イギリスに渡り、新聞や雑誌の連載をしており、最近、昨年『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という著作が、本屋大賞2019の「ノンフィクション本大賞」という賞を取って、話題になり、ちょくちょくテレビなどでもの著者の姿を見るようになりました。その著作には、イギリス人の夫との間に生まれた男の子の中学時代のお話なのですが、イギリスの貧しい地域において、雑多な民族性や経済的格差の中において生まれたエピソードが記されており、興味深く読んでおります。その中にこんなエピソードがありましたので、紹介します。

『「試験って、どんな問題が出るの?」
と息子に聞いてみると、彼は答えた。
「めっちゃ簡単。期末試験の最初の問題が『エンパシーとは何か』だった。で、次が『子どもの権利を三つ挙げよ』っていうやつ。全部そんな感じで楽勝だったから、余裕で満点とれたもん」
得意そうに言っている息子の脇で、配偶者が言った。
「ええっ。いきなり『エンパシーとは何か』とか言われても俺はわからねえぞ。それ、めっちゃディープっていうか、難しくね?で、お前、何て答えを書いたんだ?」
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathyは、「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。   
/つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。』

(参考ページ→https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/

人と人を繋げるシンパシーとエンパシー
 アメリカで、白人警官による黒人男性の殺人事件から、アメリカ全土において、大きなうねりとなって、革新運動が拡がっています。そして、それがヨーロッパへも飛び火して、過去において、奴隷制度を率いた歴史上の人物の銅像を倒すような活動へと拡がっています。SNSのfacebookでやたらとつぶやいている先輩牧師が、このことに触れて、以下のように記しておられました。
「アメリカの指導的黒人神学者の一人であるジェームズ・コーンは、次のように言っている。『白人たちが自らの白人性を憎みはじめ、自らの存在の奥底から「どうすれば私たちは黒人になることができるのか」と問わない限り、アメリカには平和はないだろう』と(D・ゼレ『神を考える 現代神学入門』149ページ)。
 白人の立場において、「自らの白人性を憎む」とはどういうことか?わたしにとっては、ただの文章ですが、様々な差別問題、社会問題に向き合うときにおいて、深く突き刺さった言葉でありました。日本においても、様々な差別問題、韓国や中国との関係、また部落差別などの問題がありますが、自らの日本人性を憎む、という辛い作業まで深めているだろうか、という新しい視点を与えられました。アメリカにおいても、テレビを見ていますと、黒人のみならず、否を唱える活動が白人や他のルーツを持つであろう人々にまで拡がっていますが、そうした不当性に対する怒りを共有しているからでしょう。
 先ほど、『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』において、シンパシーとエンパシーの違いについて、触れました。どちらにも、「共感」という意味があります。が、単純に分けてみますと、シンパシーは「感情や行為や理解」であり、エンパシーはそうした「能力」、そして、シンパシーが「同情とか共感」だが、エンパシーには、つまり、相手の立場に立って考えること、相手の立場に立って想像すること、「自分で誰かの靴を履いてみること」だと言えるわけです。
 様々な差別に出会うときに、ただ可哀想というだけでは、やはり第三者の立場で物を言っている、ということを思わされます。本当に不当な状況の人の立場に立って、怒りを持っているのか、悲しんでいるのか、その人の靴を履いて考え、受け止めているのか、そんなことを考えさせられました。そして、もう一つはその経験が、出来事が、また繰り返されるとしたら、どうだろうか?当然、自分自身が不当な扱いを受けたら、叫びを上げる、ということもあります。しかしそれだけではないのですよね。しかし同時に、次の世代を、自分の友人たちを、自分の子どもたちを、自分の孫たちを、未来の世代の誰であっても、そんな目に合わせたくない、そんな状況に陥らせたくない、という思いだからこそ、つながれるのではないか。今、様々な動きが世界に拡がる力になっているのは、シンパシー(同情)ではなく、エンパシー(自分ではない誰かの靴を履く想像力)ではないでしょうか。

十戒と律法の受け取り方
 今日のテキストの話に戻ります。私たちが、よく知っている十戒は、「〜してはならない」と、日本語においては、否定の命令形、禁止命令の形で知られています。そして、律法に記されている多くの規定も、ほとんどが、その形で記されています。それが最近、現代の聖書学、キリスト教学の世界で言われていることは、実は、そうした受け取り方、理解が間違っているのではないか、という考え方が拡がっています。
 それは、「あなたは〜ことがあってはならない」または「あなたは〜するはずがない」という未来への希望、期待を含めた意味であり、あくまで単なるルールとして、多くの禁止命令をしたわけではなく、イスラエル民族、イスラエルの民、主なる神を信じる者、群れに対して、わたしがこれほどに愛し、守っているのだから、あなたも、他者に対して、隣人に対して、「殺したり、盗んだり、盗みを働いたり」といったことはできないはずだ、という期待が込められている、という理解です。
 エジプトからカナンの地までの距離は、おおよそ400Km、いくら遠いといっても歩き続けて40年間もかかるわけではありません。これには、イスラエルの民が神を裏切ったことが原因となり40年という長さになりました。エジプトを出たとき「大人だった人はカナンの地に入ることが出来ない」ということから、1世代が変わる年数として、40年間を荒れ野で過ごし、まったく新しい世代になったとき、イスラエルの民はカナンの地に入ることが出来ました。そして、その期間は、ただ罰としてあっただけではなく、40年間、主なる神も民を守り続けた期間であったとも言えます。まるで、子どもを育てるように、40年間も共に民と歩み続けるほど、神は民を愛し続けたのです。

約束におけるシンパシーとエンパシー
 申命記の最後の箇所は、モーセがイスラエルの12部族へそれぞれに祝福の言葉を述べ、ヨシュアを後継者として指名します。そしてモーセは、自分が40年以上の間、導いたイスラエルの民が入っていく約束の地、カナンの地を見渡すピスガの山頂にて見渡して、その生涯を終えます。そして、ヨシュアとリーダーとして、イスラエルの民は希望に胸にカナンの地へと入っていきます。
 十戒、律法とは、そんな神と民の出エジプトという出来事、荒野での40年間の経験を経て、ついにたどり着いた約束の地において、守られるべき教えとして語られています。どうでしょうか?神の立場に立ってみたら、わたしはこれほどまでに、愛し、守り続け、ついに約束の地に入ったのだから、これらの教えを「守らないはずはないだろう」といった思いであったのではないでしょうか。そして、更に今の世代ではなく、未来の世代のために、「わたしを裏切るはずがないだろう」といった思いだったと考えられないでしょうか。
 主なる神は、イスラエルの民に対して、シンパシーを持ったのでしょうか。それとも、エンパシーでしょうか。またキリスト者に対しては、どうでしょうか。同情、シンパシーではなく、「自分ではない誰か、イスラエルの民の靴を履こう」という気持ち、エンパシーだったのではないでしょうか。


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